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>こんにちは。
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>士燮についてです。ちくまの訳本の6巻に士燮伝がありますので、ここから配下と思われる人物をピックアップしてみました。少な〜
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>士燮は漢に仕え昇進して交阯太守となりましたが、後に、弟の士壱を合浦太守に、士[黄有]を九真太守に、士武を南海太守に任じるよう願い出て認められた、とあります。この部分について考えると、士燮と3人の弟を含めた4人兄弟は、漢朝の役人という位置付けの上では同等の立場にあると思います。しかし、兄弟の序列という点と、弟たちに太守の任に就かせてやったという点から、これら3人の弟は、士燮の配下とみることができると思います。
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>やがて士燮は、交州刺史の後任問題で漢朝から南海・蒼梧・鬱林・合浦・交阯・九真・日南の七郡の監督を任されました。この時点で士燮は実施的に交州一体を支配する頂点に達したと思います。士燮は表向きは後漢王朝の臣でありますが、群雄割拠の世にあって、一地方の独立勢力と考えるならば、これら七郡の太守以下は皆、士燮の配下と見てもよいと思います。
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>では、人名を挙げるとするならば誰がいるか?残念ながら、本伝に出てくるのは、後漢の都に貢納品をもって遣わせた小役人の張旻くらいです。
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>210年には孫権勢力に入り、一配下としてその勢力を保っていたようですが、この辺は調べてないので分かりません。また、本伝以外にも士燮について言及する部分がありますので、他に配下の人物が出てくるかもしれません。(見つけた方お願いします)
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>たいしたこと書けませんで、すみません。
有り難うございます。
非常に参考になりました。
私が知っているのは・・・
桓姓の三人と甘姓が一人だけだったので・・・
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