憧れのもとに   二三
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<<二二



   呂子衡と孫策は舒の西の端にある城門に立っていた。
   二人ともそれぞれ馬を従えている。
   黄巾賊の軍を昨日、撃退したばかりなので、まだ死臭と建物の焼けた臭いが残っている、と子衡は感じている。しかし、あとしばらく経てば、この城邑から立ち去るので、彼にとって苦にはならないでいた。むしろ、この臭いが懐かしくなるんだろうか、と思うほどだった。
   それに、復興に努める人々の元気な声が子衡にとって心地よいものであった。ちょうど、彼にとって昨日の興奮と歓喜を思い起こしてくれるものがあったからだ。
   しかし、ふと子衡は我に返る。もしかすると、策にとっては単なる臭さと、うるささだけなのかもしれない、と。思えば、今朝、官舎から策と共にここへ来るまで、策は人々から歓声で応じられていた。会う人が健康そうな男子であれば、策の顔を見て、「あー、あのときの小男(おとこのこ)じゃないか」というような言葉をかけてきていた。それは策が実際に舒の城に入って活躍した裏付けに他ならない、と子衡は痛感していた。まさに、子衡が頭ごなしに疑ってかかっていたことだけに、彼は自らの考えが浅はかであったことに少し恥じていた。
「まだ、信じられないが、本当のようだな」
   呂子衡は思わずそのときに感じたことを策に向けて声に出していた。
「これだけ俺の顔をしっているやつがいたら、子衡でも信じたんだ」
   策は喜々として答えた。昨日の泥や塵はまったくなく、本来の端麗な顔を見せている。
   子衡は目の前の策から、その大胆さのわけを探ろうとしていた。だけど、彼の目に映るのは策の無邪気な笑顔しか見えないでいる。
「それか、もう一人の周郎のおかげで孫朗もこの城邑で有名になっているかもな」
   子衡は策が悔しがると目論んで、わざとからかい半分で言った。
   策は両腕を前に組み、首を傾げる。
「うーん、そうかもな。周郎はあのとき、俺よりみんなの心をつかんでいたみたいだし」
   策は照れた笑いをともなって話した。子衡の目論見がはずれたことになる。策はさらに話す。
「そういや、周郎のやつ、遅いな」
   策は城の中に視線を移した。つられて子衡もそちらを見る。
「彼はどうやら、家の者に今回のことは秘密にしたいみたいだから、ここまで来るのだけでも大変なんだろう……もしかして、来られないのかもな」
   子衡は策に向き直り言い放った。策にとってつらい現実になるかもしれないことを覚悟して、彼は口にしている。厳しい現実は周瑜と孫策が最後に会う機会すら取り上げるかもしれないことを、彼は危惧している。
   子衡でさえ、策の父親、孫文台に別れの言葉を言う機会はあったし、それに策の叔父の孫幼台との面識もできた。策にそれぐらいの機会があっても良かろうと強く思っている。
「いや、周郎は来る。なんてたって、俺が家からの出方を教えてやったからな」
   策の顔は真面目なものからいたずらっぽいものに変わっていった。くくくっと笑っている。
   子衡がなぜ策が可笑しそうにしているのか、訊こうとした矢先、城の中の方から今までとは違った声を耳にする。喧噪というよりは、何かに喜ぶ声だ。再び子衡はそちらに目を向ける。
   そうすると、策が子どもらしい無邪気な笑い声をあげる。
「ほら、俺の言ったとおり、周郎、来ただろ?」
   子衡がちらりと見た先に、策の満面の笑顔があった。
   子衡はようやく気付く、策が城邑を歩くだけで、歓声が上がったんだから、当然、周瑜がこちらへ来てもそうなるんだろうと。
   通りの先に人が寄り集まり、やがて、その中から、一人の小男がでてくる。子衡の中で希望が確信へと変わる、あれは周瑜だ。

   やがて、顔が見える距離になり、そして話せる距離となる。
「待たせてごめんなさい。家からはすぐ出られたんですけど……歩くたびに人が集まってきたもので」
   瑜は申し訳なさそうに話し出した。こちらへの気配りがにじみでている。
「あー、知っている。今朝、孫郎と一緒にここまで来たから、わかる。この城邑の男子(おとこ)は君の名前を知らないが、君の顔を知っているし、お礼の一つでも言いたいと思っているだろうね」
   子衡の言葉と声の暖かみは瑜を安心させるのに充分だった。瑜は笑みをかえしている。
   それ以上に、子衡は安心していたのかもしれない。少なくともこの若い二人に別れの時だけは与えられそうだからだ。
「でもさ、俺も自分の名は特に言っていないから、なんていうか、昨日の俺のしたことなんて、すぐ忘れられるんだろうな、ここの人からは」
   策はあっけらかんと言った。策に自分を卑下した様子がないだけに、その言葉の意図が子衡にとってよくわからないでいる。
   瑜は重々しくうなずく。
「うん、そうかもな。それよりここの城邑が助かったってことが重要だし…」
   瑜は策の言葉に同調した。自分の手柄が忘れられることが苦にならないのだろうか、と子衡は瑜のことを不思議に思っていた。
   策はにこりとする。
「俺は今から寿春に帰る。そして、ここには俺の名なんて残らない。だけど、今にこの城邑には俺の名が聞けるようになる。寿春から俺の良い噂がそのうちここまで届くからな」
   策は言い終えると、屈託のない笑い声をあげた。
「君ならそうなるかもな。その日を楽しみにしておくよ」
   瑜も笑い声をあげていた。
   別れのときというのに、策が笑い、それにつられて瑜も笑う、その姿を見て、子衡は、うらやましい気持ちを持つようになっている。何に対してうらやましがっているのか、彼はおのれの内を探ってみる。
   どうやら、策の無邪気で揺るぎない自信と自負に対してうらやましがっている、と子衡は気付く。策は、子衡に足りないものをあふれんばかりに持ち、周りの者をも安心させている。

   もしかして、この子衡はこの十一歳の子どもに憧れを抱いているのかもしれない。



   もう笑い声もつき、笑顔だけ残す周瑜は、いよいよ別れのときだとさとる。
   瑜は孫策と別れることは哀しいが、それと同じぐらいに日常へと戻ることも哀しんでいた。活躍した瑜をみた者など、彼のまわりにいないことなんて、わかりきったことだった。周の家の者は瑜以外、誰も舒の城邑のために一兵卒として働いてなんていないからだ。
   だから、策と別れたらそれっきりいつもの日々に戻ってしまうことを瑜は確信している。
   昨日はそんなことちっとも思わなかったけど、昨日、策と共に気ままに動き回っていたのを夢のようなことだったと瑜は感じている。
「もう、そろそろ発たないと……」
   瑜は自分の気持ちにけじめをつけるために言葉を発した。だけど、それとは裏腹に言葉を最後まで綴れずにいる。
   策はまっすぐにまなこを向ける。
「あー、そうだな、あまり遅いと困るからな」
   策は意外と素っ気なく答えた。
   それは瑜が期待した言葉の内のどれにも当てはまらない。だから彼は戸惑い、次の言葉を出せないでいる。

   多分、僕は誰にも縛られずふるまう喜びを知ってしまったんだ。だから、このまま、家に帰るのを僕はこわがっている。

   瑜は自らの内からわいてくる思いを疎ましく感じている。そう思うことが、聞き分けのない子だということだし、まったく逆に、今までそんな思いを抱かなかったのを悔しく感じている。
   瑜は周りの人にも自分の心にも決着をつけるやり方を知っている。だけど、それが本当にうまくいくのか自信がない。だから、怖くて踏み出せない。だけど、踏み出すしかない。
「孫郎、さっき、君の噂がいつかこの城邑にも届くって言ったよね?」
   瑜ははきはきと問うた。
「あー、言った、言った。ちゃんと覚えとけよ」
   策は笑いながら答えた。
「でも、その噂、いつわりかもしれないね」
   瑜はいたずらっぽく笑った。
「そうだな……本当はかなり秀でた人物なのに、噂は全然、大したことなかったりするんだろうな」
   策は瑜の笑いを吹き飛ばすように大声で笑った。
「ふふふ、よくいうよ、孫郎らしいな……まぁ、どんな噂にしろ、そんな噂がもしここまで来るようなことがあるんだったら、僕がちゃんと本当のところ、確かめに行くよ」
   瑜の顔は朗らかなものから決然としたものに変わった。
   策は心底、楽しそうな表情をする。
「ははは、ここからだと、俺の住む寿春は遠いぞ。それにそのときは家だけじゃない、この城からも出ないといけないな」
   策は瑜の中に芽生えた何かを感じ取っているようだった。
「なあに、今度はこそこそと外に出ていかない。出たいと思ったときに堂々と出ていく。それに今の君が寿春からここまで来たんだから、僕が行けないっていう道理はない」
   瑜は一言一言に自らの決意を込めていた。


   二人は寒風にびくともすることなく、立っていた。