馬上の少年   〇一
172/11
<<目次


   馬の上にのる少年。歳は十六。
   その少年は荒涼とした大地を駆け抜けていた。
   大地に吹くのは絶えることのない北風。
   声出さぬ草木でさえ寒かろう北風の中、少年と馬は駆けていく。
   少年は自身が発する熱でとにかく暑さを感じていた。そのため、かえって北風を心地よく感じていた。

   少年の名前は孫文台。孫家の次男坊である。そして、文台はその馬を光(こう)と呼んでいた。
   文台の心は光とともに風の中。彼は一ヶ月に数回訪れるこの至福の時をあじわっている。机にかじりついての日々の雑多など、どこかに置いてきたかのように。
   北風のうまれるところ、はるか北方の地に文台は想いをはせる。そこはどこまでも大地が続いていて、光とどこまででも自由に走っていけるのだろう、と。
   思えば、北方の地とは違い、ここの大地は大小さまざまな川でわけられている。だから、橋や渡し場をとおる道を進むしかなく、道をはずれて走ろうものなら、川や茂みでできた迷路におちいってしまう──文台はそんな大地に自身の今の境遇を重ね合わせ、皮肉めいたものをかすかに感じていた。
   文台が気がつくと、ある川沿いの道を駆けていた。川の多いこの地では主な移動は馬ではなく舟となる。そんな土地柄だから、彼は自分以外で馬に乗れる人にほとんど会ったことがない。彼が幼きころの孫家には、荷物を運ぶ水牛のほかに馬が飼われていた。彼が大きくなってからわかったのだが、そのときの馬は賈人(しょうばいにん)の父が賈人仲間から見栄をはって乗馬用に買ってしまったものであった。普段の父は倹約にうるさい商人の鑑のような人なので、そういった突飛な浪費に彼は腹を立てるどころか微笑ましくさえ感じていた。そんな幼少のころを思い出し、彼は光の背上で笑みをうかべる。
   そして文台の頭には県吏(やくにん)になったころのことがよぎる。彼は伝馬の任につくことを条件にすんなりと県吏になれたのだ。彼の家に馬があったとはいっても、遊びで乗るぐらいで、実際に駆けたことはなかったのだが、馬を乗りこなす奇妙な自信をもっていた。
   そのときに県吏の先輩から引き渡されたのが光である。だから、伝馬の初仕事から光は文台の相棒であった。そのころはまだ「光」とは名付けていなかった。彼の乗馬技術が未熟だったからなのか光になつかれてなかったからのか、はじめのうち、彼は思い通りに進めず光によく振り落とされていた。幸い、伝馬の仕事は一ヶ月に数回程度しかなかったので、彼は暇をみつけて光を相手に乗馬の練習をしていた。
   数ヶ月にもわたる練習の日々。そんなある日、いつもにもまして光の動きは激しかった。だが、文台には何十日も乗馬の練習をしてきた自負があり、簡単には降りようとはしなかった。まさに意地と意地の張り合い。ところが、光が突発的に前足を高くあげると、文台はあっけなく振り落とされ、左後方へと放り出された。彼の記憶はそこでとぎれる。
「あのとき、俺はとっさに顎をひいたので頭を強く打たず助かったんだ」
   思い出に感極まり、文台は思わず声をだしていた。おそらく、あのとき、顎をひいて背中をまるめたので後頭部を地面に強打せず、無事でいたのだと。さらに彼は思いをめぐらす。その時、気を失ってから最初に見たものは、光の口であった。それまで彼が落馬したときはいつも、光はそんな彼を見向きもせず自由気ままに走り去っていた。ところがその時ばかりは落馬した彼を気遣ってかそばに寄ってきていたのだ。その時、彼はなぜか自分の体が無事なのも確かめず、すぐに光にとびのった。そうすると不思議なことに光は彼の指示に従順だった。そう、その瞬間、光は彼を主人と認めたのだ。
「あのときの空は雲一つなくさわやかに光り輝いていた……」
   遠くを見るような目をした文台はまた声に出す。
「それで俺は『今日からおまえの名前は光だ』って言ったんだよな」
   文台は光の鬣(たてがみ)をなでながら、やさしく語りかける。その日を境に、彼は立派に光を乗りこなすようになっていた。そのころから苦痛だった伝馬の仕事が楽しみへとかわっていた。それは彼が伝馬以外の仕事のほとんどが机に向かっての仕事や県府(やくしょ)の雑用であったことに嫌気がさしていたからである。彼には細々とした仕事より大地を駆ける仕事の方が性にあっていた。そのためか、故郷から遠く離れた北方の地で一生、伝馬の仕事をするのも悪くないと彼は近頃、思うようになっていた。
   とりとめのない文台の思考は急に中断される。それは彼の目に故郷、富春の城(まち)が映ったからである。