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丹陽兵は強い? 清岡美津夫 03/2/8(土) 14:20 [未読]

Re:丹陽兵は強い? むじん 03/2/26(水) 1:50 [未読]
「丹陽精兵」と「丹楊鋭卒」 清岡美津夫 03/2/27(木) 10:15 [未読]
Re:「丹陽精兵」と「丹楊鋭卒」 むじん 03/3/3(月) 0:20 [未読]
一般メディアでは? 清岡美津夫 03/3/3(月) 12:48 [未読]
Re:一般メディアでは? 白崎ゆきと 04/2/28(土) 21:40 お久です[未読]
Re:一般メディアでは? 清岡美津夫 04/3/1(月) 17:22 ハロ〜☆[未読]
Re:一般メディアでは? 白崎ゆきと 04/3/6(土) 22:02 [未読]
Re:一般メディアでは? 清岡美津夫 04/3/13(土) 12:49 [未読]
Re:「丹陽精兵」と「丹楊鋭卒」 むじん 03/3/26(水) 23:53 [未読]
彼精兵之地 清岡美津夫 03/3/28(金) 8:33 [未読]
Re:彼精兵之地 むじん 04/2/25(水) 7:11 [未読]
Re:彼精兵之地 清岡美津夫 04/2/25(水) 19:41 [未読]
Re:彼精兵之地 むじん 04/2/26(木) 18:02 [未読]
Re:彼精兵之地 清岡美津夫 04/3/1(月) 17:02 [未読]

Re:丹陽兵は強い?
 むじん E-MAILWEB  - 03/2/26(水) 1:50 -

引用なし
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   丹楊兵が強いと聞いたのは拙サイトを開いてからずっと経ってからなんですが、むじんも気になって以前中央研究院で検索したことがあります。『孫皓伝』に太守沈エイが郡兵を率いて敵陣を破ったとの記述、『後漢書板楯蛮夷伝』に前車騎将軍馮コンが南征したとき「丹楊精兵の鋭を受くと雖も」という
記述がありました。こういう記録に尾鰭が付いていったんじゃないでしょうか。

「丹陽精兵」と「丹楊鋭卒」
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 03/2/27(木) 10:15 -

引用なし
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   ▼むじんさん:
>丹楊兵が強いと聞いたのは拙サイトを開いてからずっと経ってからなんですが、むじんも気になって以前中央研究院で検索したことがあります。『孫皓伝』に太守沈エイが郡兵を率いて敵陣を破ったとの記述、『後漢書板楯蛮夷伝』に前車騎将軍馮コンが南征したとき「丹楊精兵の鋭を受くと雖も」という
>記述がありました。こういう記録に尾鰭が付いていったんじゃないでしょうか。

情報ソース、教えていただき、ありがとうございます。
孫皓時期になると、全然、知らないので、助かりました。
なるほど、青巾兵ですか。(メモメモ)
「丹陽精兵」と「丹楊鋭卒」ですね。
ソースが百年またがると、歴史の面白さを感じますねー♪

「丹陽と兵卒」というテーマで、後漢末〜晋初を時代ごとに追った文を書くのも面白いかもしれませんね。

Re:「丹陽精兵」と「丹楊鋭卒」
 むじん E-MAILWEB  - 03/3/3(月) 0:20 -

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   なんとなく、あちこちで話題になってる小説家さんか、ゲーム攻略本あたりで広まった認識じゃないかな〜と思えてきます。少なくとも『後漢書』『三国志』では、それらしい記述は以上2点しかないわけですから、そこから今ほど「丹楊兵強し」という認識が広がったとは思えないんですね。ほかの時代の史書やら正史でない史書に載ってるのかも知れませんが、そうでなければ、こういうのはなんだか落ち着かないです。

一般メディアでは?
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 03/3/3(月) 12:48 -

引用なし
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   私の場合、「丹楊兵強し」はネットでしかみかけたことないです。
そうですねー、ネットで広まるには従来のメディアの影響があるってのは、言われてみれば想像しやすいです。

> なんとなく、あちこちで話題になってる小説家さんか、ゲーム攻略本あたりで広まった認識じゃないかな〜と思えてきます。

というわけで、これらの認識元の断片でも知りたいですー。
そこから垣間見えるファン心理にも興味あり♪

Re:「丹陽精兵」と「丹楊鋭卒」
 むじん E-MAILWEB  - 03/3/26(水) 23:53 -

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   拙サイトのため孫策伝集解の筆写中にもう一点みつけました。
「討逆伝」注に引く「江表伝」に、袁術は孫堅の部曲を孫策に返そうとせず、「丹陽郡は精兵を出す土地柄だから、そこで募兵するとよかろう」と告げたそうです。

ただ、孫堅の部曲は孫賁に受け継がれたはずで、その孫賁は丹陽郡の都尉なのですから、自分の従兄から奪い取れと言っているようにも受け取れます。

彼精兵之地
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 03/3/28(金) 8:33 -

引用なし
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   おぉっ、意外なところに記述がありますね!
盲点でした。
もしかすると、当時の常識すぎて史書には載ってないとか。
なにげない風習が書かれないように。

>ただ、孫堅の部曲は孫賁に受け継がれたはずで、その孫賁は丹陽郡の都尉なのですから、自分の従兄から奪い取れと言っているようにも受け取れます。

↑ははは、そういう隠れた意味があったら面白いですね。
時代が少しさかのぼれば何ともないことなんでしょうけど(そこらへんの土地で募兵したのは曹操さんとかいろいろいたような…うろ覚え)、そのときの緊迫した状況だったら、袁術さん配下の者が孫賁さんの勢力下で募兵するなんて問題ある行動かもしれませんからね。

私の印象では孫賁さんは敗戦下の混乱しかねない、孫堅の部曲を何とか安全なところへ連れ帰ったという印象があります。

Re:彼精兵之地
 むじん E-MAILWEB  - 04/2/25(水) 7:11 -

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   さらに発見しました。

光和二年、巴郡板楯蛮が叛乱を起こしたので、霊帝は軍勢を大動員して討伐しようとしましたが、このとき益州計曹掾(漢中上計)の程包が「板楯蛮は義民であり、彼らがいなければ蜀の民は襟を左前にしていたでしょう。馮コンの武陵南征では丹楊の精兵の力もありましたが、板楯蛮の協力があればこそ成功したのです。云々」と上申しています。

『華陽国志』巴志や『後漢書』南蛮伝に見えます。『後漢書』馮コン伝には触れられていないようです。

Re:彼精兵之地
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 04/2/25(水) 19:41 -

引用なし
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   ▼むじんさん:
>さらに発見しました。
>
>光和二年、巴郡板楯蛮が叛乱を起こしたので、霊帝は軍勢を大動員して討伐しようとしましたが、このとき益州計曹掾(漢中上計)の程包が「板楯蛮は義民であり、彼らがいなければ蜀の民は襟を左前にしていたでしょう。馮コンの武陵南征では丹楊の精兵の力もありましたが、板楯蛮の協力があればこそ成功したのです。云々」と上申しています。
>
>『華陽国志』巴志や『後漢書』南蛮伝に見えます。『後漢書』馮コン伝には触れられていないようです。

おぉ、お知らせ、ありがとうございます。
ふふふ、そちらのサイトで『華陽国志』巴志を取り扱っている関係で発見したとお見受けしました〜
(『後漢書』南蛮伝の方は[#137]で書かれているのと同じでしょうか)
しかし、『華陽国志』に丹陽兵のことが載っているだなんて意外ですね

Re:彼精兵之地
 むじん E-MAILWEB  - 04/2/26(木) 18:02 -

引用なし
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   >ふふふ、そちらのサイトで『華陽国志』巴志を取り扱っている関係で発見したとお見受けしました〜
それが…なんと実はちと違う…(^^;
『華陽国志』テキスト清書のとき見ているはずなんですが、そのときは全く気付かず、あとで『後漢書』南蛮伝をぱらぱらとめくっていたとき、あー板楯蛮の白虎退治は『華陽国志』で見たなぁ…などと思いつつ熟読しているうちに、ようやく見付けたのでした。

>(『後漢書』南蛮伝の方は[#137]で書かれているのと同じでしょうか)
あうー!もう[#137]忘れてました!(^^;
それにしても馮コンが丹楊兵を連れて行ったという情報はどこから入ったんでしょうかね。

いまは張宗や度尚の伝などを読んでおります。

Re:一般メディアでは?
お久です  白崎ゆきと E-MAIL  - 04/2/28(土) 21:40 -

引用なし
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   丹楊兵が精兵だったという記述ですが、
三国時代の軍制研究で知られる石井仁先生の『曹操 魏の武帝』にも見られますよ。

> 曹操は酸棗の諸将をみかぎり、腹心の夏侯惇とともに揚州におもむく。
> 当地の「丹陽兵」は勇猛果敢なことで知られていた。
> 当時、揚州の江東は漢民族のフロンティア。
> だいたい、こういう地域の兵士は強い。
> 地元出身の群雄、陶謙も多くの丹陽兵をしたがえていた。
>             (石井仁『曹操 魏の武帝』P80より)

残念ながら、出典などについては記載されていませんね。

Re:彼精兵之地
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 04/3/1(月) 17:02 -

引用なし
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   ▼むじんさん:
>それが…なんと実はちと違う…(^^;
>『華陽国志』テキスト清書のとき見ているはずなんですが、そのときは全く気付かず、あとで『後漢書』南蛮伝をぱらぱらとめくっていたとき、あー板楯蛮の白虎退治は『華陽国志』で見たなぁ…などと思いつつ熟読しているうちに、ようやく見付けたのでした。

ふふふ、訳にも歴史あり、って感じですね。
少なくとも私としては、気付いて良かったですよ♪、丹楊兵のことを知り得て(なんて現金な!・笑)


>あうー!もう[#137]忘れてました!(^^;
>それにしても馮コンが丹楊兵を連れて行ったという情報はどこから入ったんでしょうかね。

そうですねー。なんだか現代の我々には唐突に出てきたような観がありますね。
でも、私には程包がさも既成事実のように語っているように見えるので、丹陽精兵って、なんだかそのまま信じちゃいそうです(笑)

>いまは張宗や度尚の伝などを読んでおります。

えー、また訳を発表するようであれば、拝見させて頂きます♪

Re:一般メディアでは?
ハロ〜☆  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 04/3/1(月) 17:22 -

引用なし
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   どうも、教えていただき、ありがとうございます。
私は石井仁先生のことや著作のことを知らないのですが、そういうふうにさらりと丹陽兵のことがでてくるのですね。
なるほど、丹陽兵が強い理由付けは「漢民族のフロンティア」に居るからというわけなのですね。


それより「陶謙も多くの丹陽兵をしたがえていた」という部分が気になりました。
あまり、私は陶謙について詳しくないんですが(出身地が丹楊というぐらいしか)、史書に募兵したとか記述、ありましたっけ……

Re:一般メディアでは?
 白崎ゆきと E-MAIL  - 04/3/6(土) 22:02 -

引用なし
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   石井先生は三国時代の軍制研究の第一人者です。
三国時代の軍制について知りたければ、まず先生の論文を探すのが鉄則なんじゃないでしょうか。

ちなみに孫呉の場合、『中国中世史研究 続編』に収められている『孫呉軍制の再検討』がいい手がかりになりますよ。

> それより「陶謙も多くの丹陽兵をしたがえていた」という部分が気になりました。
> あまり、私は陶謙について詳しくないんですが(出身地が丹楊というぐらいしか)、史書に募兵したとか記述、ありましたっけ……

たしか、陶謙は地元の丹陽で募兵して……とか思ったのですが、調べてみたらそれはサク融の話でした。
丹陽出身の粗暴な人物ということで、どうもこの2人は混同してしまいます。

それはさておき、根拠になっているのは先主伝にある「謙以丹楊兵四千益先主」という記述じゃないかと思います。
劉備に四千も分け与えることができたのならば、総数はもっと多かったでしょうからね。

丹陽兵がどのような人びとによって構成されていたかを言及した資料を見たことはありませんが、自分はその大半が山越だったのではないかと考えています。
丹陽兵として他と区別されていることや、曹操や何進が丹陽で兵を得ようとしていることなどがその理由です。
とはいえ、この考え方は川勝先生の江南論を拝借したものに過ぎませんから、いろんな意味で大きな声では言えないのですけれどね。

Re:一般メディアでは?
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 04/3/13(土) 12:49 -

引用なし
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   ▼白崎ゆきとさん:
>石井先生は三国時代の軍制研究の第一人者です。
>三国時代の軍制について知りたければ、まず先生の論文を探すのが鉄則なんじゃないでしょうか。
>
>ちなみに孫呉の場合、『中国中世史研究 続編』に収められている『孫呉軍制の再検討』がいい手がかりになりますよ。

どうも教えていただき、ありがとうございます。
三国時代の軍制については興味ある方は多そうですね。
そういう方にはこの先生の著作を教えて差し上げれば良さそうです。

>> それより「陶謙も多くの丹陽兵をしたがえていた」という部分が気になりました。
>> あまり、私は陶謙について詳しくないんですが(出身地が丹楊というぐらいしか)、史書に募兵したとか記述、ありましたっけ……

>たしか、陶謙は地元の丹陽で募兵して……とか思ったのですが、調べてみたらそれはサク融の話でした。
>丹陽出身の粗暴な人物ということで、どうもこの2人は混同してしまいます。

じゃ、ほとんど史書に登場しないゼイ(くさかんむりに内)氏も粗暴なのかなぁ、なんて一瞬、思ってしまいました(汗)
じゃなくて、陶謙とサク融の共通点ですね、粗暴な人物つながりって。
私の中ではサク融さんはまず仏教関連で思い出します。言われてみれば粗暴つながりです。

>それはさておき、根拠になっているのは先主伝にある「謙以丹楊兵四千益先主」という記述じゃないかと思います。
>劉備に四千も分け与えることができたのならば、総数はもっと多かったでしょうからね。

おー、ありました、ありました。教えていただきありがとうございます。
てっきり後漢書か三国志の陶謙伝にあるかと思いました。
確かに分け与えるぐらいだから、その母集団は多そうですね。
史書に載っていない部分で、ひそかに募兵してたんでしょうかね。

>丹陽兵がどのような人びとによって構成されていたかを言及した資料を見たことはありませんが、自分はその大半が山越だったのではないかと考えています。
>丹陽兵として他と区別されていることや、曹操や何進が丹陽で兵を得ようとしていることなどがその理由です。
>とはいえ、この考え方は川勝先生の江南論を拝借したものに過ぎませんから、いろんな意味で大きな声では言えないのですけれどね。

丹陽兵の強さの秘密にそんな説があるのですね。
もしそれが史書を書いた当初の読み手にとって常識だったらわざわざそういうことを書きそうにないですからね。書き手にとっては「『丹陽兵』って書けばわかるだろう」ってつもりで「丹陽兵」って書いたかもしれませんね。

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