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検索結果

次のキーワードについて検索: 検索文字列 ''. 検索結果 31 - 60 / 76 件 (0.0076 秒). 検索条件の修正

31. 跪坐と垂足坐
仁雛さんから教えていただいた「漢代物質文化資料図説」を買ってきた。  林巳奈夫/著「漢代の文物」のときと同様、サイト「日本の古本屋」で検索し、古本屋で直接、買ってきた。 ・日本の古本屋 http://www.kosho.or.jp/ ・瓢箪山書房 http://www5.ocn.ne.jp/~hyoutan/  それから「漢代物質文化資料図説」の基礎データ。 ・「漢代物質文化資料図説」(中国歴史博物館叢書第二号、平装定价) 著者:孫機 出版発行:文物出版社 出版年月:1991年9月第一版 ISBN 7-5010-0372-6/K・143 価格:25.00元 ※中国の本なので実際は簡体字表記  ちなみに精装定价(ISBN 7-5010-0373-4/K・144)は方は35.00元。どちらにしてもそのまま日本円にすると格安なんだけど、やっぱり日本で買うと、すごく高くなるなぁ。まぁ「漢代の文物」より一桁安くかったので普通に買ったんだけど、もし私が中国へよく行く人だったら現地で買ってたかな。一桁安くなるし。  それで「漢代の文物」のときのように目次をあげたりして本全体の紹介をすればいいんだけど、その前に私にとって衝撃画像(?)を見てしまったのでその紹介をとりあえず。 ・三国志ニュースの記事「牀や榻のことばかり」 http://cte.main.jp/newsch/article.php/286  上記記事に関連する。そこでは この当時の中国人は腰をかけて座ることあったのかな? と思うぐらい画像石の類でもそういう光景は(私の狭い視野の中では)あまりみかけない。画像石や俑をみてみると、馬車でも乗っている人も馬を操っている人も律儀に正座しているし(汗)。※がんばって腰をかけている画像をさがしてみると、艇(?)にのっているところ、釣りをしているところ、機織り器をつかっているところ、そして強いていうなら馬にまたがっているところなどが見つかった。探せばもっとあるかも。 なんて書いていたけど、「漢代物質文化資料図説」の「55 家具II [木平]、榻、床、席、鎮、凭几、衣杆」のところ、221ページの圖版55にある55-13の挿図にばっちり腰をかけて足を垂らし座っている画像があった。その人は刀を持っているけど、状況はよくわからない。「中国古代の暮らしと夢」の俑の個人蔵と違って、ちゃんと巻末に出所が明記されている。 55-13 踞坐凭几者、画像石、江蘇銅山耿集、東漢、≪徐州漢画像石≫圖202 ※例によって元は簡体字だけど適当に繁体字に変えている。  それであわててその図を説明している本文を読む。223ページのところ。中国語だからうまく読めないんだけど、下のようになる。一つの段落をまるまる引用。  漢代通行跪坐、箕踞和垂足坐往往引起人[イ門]的反感。江蘇銅山耿集発現的一塊画像石、刻出一執刀人垂足坐于凭几之上(55-13)。這是一種無礼的姿勢、在当時很不多見。 ※例によって元は簡体字だけど適当に繁体字に変えている。 <清岡のテキトー訳>  漢代では跪いて座る(跪坐)ことが通用していて、箕踞(両足を投げ出して座ること)することと垂足(足をたれること)して座ることは人々の反感を引き起こす。江蘇銅山耿集で見いだせる一つの画像石で、一人の刀を持つ人が凭几の上に足を垂らして座っている(垂足坐)ところが刻みだされている(55-13)。この人は一種無礼な姿勢であり、当時においてほとんど見ることはない。  この部分の一つ前の段落では「几」(または凭几。日本語で言うところの脇息)の説明がある。坐っている(日本語で言うところの正座している)んで、足がしびれたりするんで、几に肘を乗せるんだとか(足への体重の負担を軽くするため?)、二段階に高度調整が出来る几もあるとか、そんな説明。それを受けての前記引用文。つまり(55-13)の画像石は几の上に足を垂らして座っている画像だ。この文だとわかりにくいんで、右上に跪いて座る(跪坐)ところと足を垂らして座っている(垂足坐)ところの絵を描いてあげておく。右上の絵の垂足坐は膝をそろえて座っていて身体のラインもはっきり描いているけど、これはわかりやすくしているだけで、実際には(55-13)の画像石の垂足坐は股を開き気味に右足を右膝より前におき、左足を左膝より後に置き、座っている。  しかし、行儀が悪いとはいえ、腰をかけて座るところは画像石に刻まれるぐらいだからないことはないんだね。とはいっても依然、腰をかけて座る目的のための座具はこの時代(もちろん三国時代も含む)の中国には作られてなさそうだ。 ※追記 メモ:踞牀

32. 閏1月28日は司馬師の命日
今朝、「司馬師 命日」という検索ワードが来たんで、下記記事の二匹目のドジョウ……いや複数匹のドジョウを狙って、さらっと調べてみる。 ・8月5日は司馬懿の命日 (※付8月9日の司馬昭) http://cte.main.jp/newsch/article.php/148 ・4月25日は夏侯惇の命日 http://cte.main.jp/newsch/article.php/326 ※追記 3月13日は張純の忌日 ※追記 歌手名「司馬師」 司馬懿の命日のコメント覧を見て貰うとわかるんだけど、私には司馬師と司馬昭を間違えた前科があるんで是非とも書こうと思った。 晋書景帝紀によると、 (正元二年)閏月疾篤、使文帝總統諸軍。辛亥、崩于許昌、時年四十八。 とのことで、中央研究院兩千年中西暦轉換によると、司馬師は紀元255年閏1月28日に48歳で崩御したそうな。 …と、別に今日明日が何かの日ってわけじゃなかったんだね。 それより閏月だとファンの方は企画が立てづらいだろうに。 (※この年は 正月→閏月→二月 という流れ) ちなみに紀元255年閏1月28日をそのまま新暦にすると紀元255年3月23日とのこと。何かするならこの日を使うとかね。 しかし、なぜに検索で「命日」という言葉を使いたがるんだろう(それをいうなら「忌日」)。「命日」は当時の言葉ではないので単純に考えて検索では引っかかりにくいように思えるけど、言葉的に綺麗だからかな。 まぁ、それを「命日」という言葉を使いたがることを知っているからこうしてタイトルを「閏1月28日は司馬師の命日」としているんだけどね(笑) ちなみに三国志スケジュール試用版の方では「亡くなった日」という表記にしている。 <10月16日追記> そういやアーケードゲームの『三国志大戦2』の影響で(魏後伝、蜀後伝、呉後伝などの群雄伝の影響?)、司馬師、司馬昭にも人気が出ているとのこと。あまりよく分からないんだけど、それは本人たちの人気じゃなくてゲームで使うカードに描かれた絵が作り出すイメージやセリフに依るところが大きいと思えるんだけど、どうなんだろう。 (さらに趣向を限定すると、(大戦で)昭師が流行りらしい・笑)

33. メモ:日有食之
 うちの地域では11:05に最大日食になるんだけど、あいにくの曇り空だった。だけど、その数分前に雲の切れ目から、辛うじて三日月状の太陽(変な表現だが)を拝むことができた。  そういや、後漢末から三国時代あたりで日食といえば、三公クラスの人が免官になるイメージが私にはあるんだけど、何に基づいたイメージかあいまいだったので、この際だから検索かけてみる。  『後漢書』本紀で「日有食之」と検索してみて、ちゃんと引用元を書かず、以下、列挙してみる。 秋七月甲戌朔 、日有食之 。壬午、太尉朱寵・司徒朱倀罷 。 庚子、太常劉光為太尉、録尚書事;光祿勳許敬為司徒。 戊戌晦、日有食之。十一月、太尉劉寵免、太僕郭禧為太尉。 三月丙寅晦、日有食之。夏四月、太尉郭禧罷、太中大夫聞人襲為太尉。 三月辛酉朔、日有食之。太尉聞人襲免、太僕李咸為太尉。 冬十月癸丑朔、日有食之。太尉劉寬免。 丙子晦、日有食之。十一月、太尉陳球免。 九月庚寅朔、日有食之。太尉劉寬免、衛尉許戫為太尉。 夏四月丙午朔、日有食之。太尉馬日磾免、幽州牧劉虞為太尉。  これらを見た第一印象では、そういえば月と太陽の位置関係上、旧暦の晦(月末)や朔(月初)に日食が起こるのは道理だ、と妙に感心していた。  それで本題についてだけど、私のイメージの元は、昔、劉寬について検索しては読んでいたことがあったんだと思い出す。これらの記述を見ると、日食があれば主に「太尉」が免官になっているね。  それでここが「三国志ニュース」ということで、『三国志』ではどうかというと、『三国志』魏書文帝紀の黄初二年六月(紀元221年6月29日、新暦で8月5日)の条に以下の記述がある。 戊辰晦、日有食之、有司奏免太尉、詔曰:「災異之作、以譴元首、而歸過股肱、豈禹・湯罪己之義乎?其令百官各虔厥職、後有天地之眚、勿復劾三公。」  面倒だから(今のところ)訳さないが、太尉を免じるよう上奏があったものの、曹丕が詔で、以後、天地の過ちがあっても、三公を弾劾することを禁じているね。  ここらへんつついてみると、ちゃんと説明した論文はありそうだ。 ※参照記事 皆既日食観測ツアーin赤壁(2009年7月20日発4日間) ※リンク追記 ・Twitter / @f_nisihara: 日食のせいでクビになった人 in 『後漢書』 - メ ... http://twitter.com/f_nisihara/status/204187038130507778

34. メモ:漢中興士人皆冠葛巾
 私の記憶で、袁紹か袁術かを例にして当時の身分の高い人でも物資の乏しさ故に冠を被れないってのがあったんだけど、何で見かけたのか、すぐに思い出す。下記。  沈従文/編著、古田真一/訳『中国古代の服飾研究』(京都書院1995年)※原書1980年 ・三国志ファンのためのサポート掲示板 http://cte.main.jp/ ・やっぱり「中国古代の服飾研究」 (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」投稿) http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=64  この『中国古代の服飾研究』だけど、そういえば豊富な挿図に目が行き、ある程度、通して読んでなかったなと思い、この期に図書館から借り興味のあるところを一通り読んでみる。 ※関連記事 前漢に鐙はあった?! ※追記 ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)  典拠があまり明示されていなかったり、語句が主に現在のもので当時の呼ばれ方が判りにくかったりするものの、あれこれ新たに発見することも多かった。綬を納めるためのものが「虎頭[般/革]嚢」と呼ばれ、その画像もあったりと(※ここでいう画像は畫像磚石・俑などの出土物の写真やスケッチのことね)。あと出土した武冠の漆紗部分の写真とか。進賢冠の梁は鉄製だとか(※出典不明。探せばありそう) ※関連記事 メモ:武冠のあみあみ  それで読んでいくと記憶にある箇所を見つける。それを下記に引用。 P144 「このような状態であったので、将軍の身分であった者、例えば袁紹や崔鈞でさえも、ただ頭巾で頭を包むことができただけで、冠を戴くことは難しかったわけであり、ましてや他は推して知るべしであろう。」  「このような状態」というのは天下の荒廃ぶりを示した文であるが、特に典拠が書かれていない。しかし、冠ってそんな物資が要るかな? 進賢冠の梁ぐらいのような。 ※関連記事 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」  ちなみに崔鈞といえば、下記のように袁紹と共に山東で反董卓のため兵を起こした人なので、上記のこともこれぐらいの時期の出来事を指しているのかな? ・『後漢書』崔[馬因]列傳 鈞少交結英豪、有名稱、為西河太守。獻帝初、鈞與袁紹倶起兵山東、董卓以是收烈付[眉β]獄、錮之、[金良]鐺鐵鎖。  それで「崔鈞」をキーワードに典拠を探してみるとあっさり見つかる。『三国志』魏書武帝紀の注に引く『傅子』だ。似たような記述は『晋書』や『宋書』にも見られる。 ・三国志』魏書武帝紀の注に引く『傅子』 漢末王公、多委王服、以幅巾為雅、是以袁紹・崔鈞之徒、雖為將帥、皆著[糸兼]巾。魏太祖以天下凶荒、資財乏匱、擬古皮弁、裁[糸兼]帛以為[巾合]、合于簡易隨時之義、以色別其貴賤、于今施行、可謂軍容、非國容也。 <清岡による訳> 漢末の王公は王服を多くまねて、幅巾をもって雅として、これにより袁紹・崔鈞の徒は將帥だといえども、皆、[糸兼]巾をつけた。魏太祖は天下の凶荒をもって、資財が乏しく尽き、古の皮弁をまね、[糸兼]帛(白いかとりぎぬ)を裁つことで[巾合]にし、簡易に随時の義において合わせ、色をもってその貴賎を分かち、今において施行し、軍容(軍の儀容)というべきで、国容(国の儀節)ではない。  後半部分の魏太祖(曹操)はまさしく『中国古代の服飾研究』の言うとおりなんだけど、個人的には、前半部分だけだと、特に袁紹や崔鈞が資財に乏しいだけで[糸兼]巾を着けていたわけじゃなく、「冠を戴くことは難しかった」と言い切れないような気がする。  『三国志集解』によると、上記「非國容也」の後に次のように書かれている。 博物志漢中興士人皆冠葛巾建安中魏武造白[巾合]於是遂廢惟二學書生猶 著也中華古今注軍[巾(匚+夾)]魏武所制以軍中服之輕便又作五色[巾(匚+夾)]以表方面也 <清岡による訳>※うまく訳せてない。 博物志に言う。 漢の中興の士人は皆、葛巾を冠し、建安中、魏武は白[巾合]を造り、このため、遂に(葛巾を)廃し、ただ二学書生は(葛巾を)著した。(※追記。二学は太学と国子学) 中華古今注に言う。 軍[巾(匚+夾)]は魏武の制するところであり、これにより軍中でこれを軽便(手軽)に服し、また五色の[巾(匚+夾)]を作ることにより方面を表した。  これと合わせて考えると、袁紹や崔鈞の時期というより、建安中あたりから冠を戴くことは難しかったのかな? とは言っても袁紹や崔鈞の時期と建安中は重なる部分はあるだろうけど。  あと「葛巾」と言えば諸葛亮を連想することをメモとして残しておこう。 ・諸葛亮の羽扇について。 (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」投稿) http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1452

35. メモ:成人、元服、加冠
 今日が「成人の日」なんだけど、三国時代辺りではどの日なのか参考になるのが、『続漢書』志四礼儀志上の 正月甲子若丙子為吉日、可加元服、儀從冠禮。 と言う記述だ。つまり一月の甲子の日もしくは丙子の日に元服し(成人し)、冠礼の儀を行うため、毎年、同じ一月だが同じ日にはならない。

36. 三国創作のための『夏小正』メモ
 経書である戴聖/編『礼記』には孔子と弟子の問答など抽象的な話以外にも冠義(元服)や昏義(婚礼)で具体的に何を行うかの話も記載されている。『礼記』の成立が漢代であるため、それを受け継ぐ後漢や三国のことが書かれてあると考えても差し支えがないと個人的には思っている。そこで、そういった制度や慣習に関する具体的な記述をピックアップし、後でそれを頼りに読み直すことができるメモか何かを残しておけば、小説なり漫画なり三国志関連の創作をするのに役立つんじゃないかと思うようになる。  実際、『礼記』を見てみると、清岡にとって馴染みない言葉が並んでいて理解が進まないため、通釈と語釈の入った書籍、明治書院の新釈漢文大系シリーズの『礼記』(竹内照夫/著)を図書館から借りてくることに。いざ図書館の本棚に立つと、戴徳/撰『大戴礼記』(栗原圭介/著)も気になり借りていく。  まず『大戴礼記』を見ていくと「夏小正 第四十七」というところに目が行く。「夏小正は、夏の時に作られ農耕を主とした暦である。」(79ページより)ということで、それぞれの月の具体的な自然のことが記されている。『大戴礼記』と『夏小正』との関係にあれこれ蘊蓄がありそうだけど、ここでは特に取りあげない(詳しくはこの本で)。  そういうわけで、夏小正に一通り目を通し(傳はほぼ省く)、解らないところがあれば通釈と語釈に当たり括弧付けで記述したメモを下記に置いておく。このメモの使用方法として(と私しか使わないか)、例えば、七月の背景描写をしようとすれば、寒蝉(ひぐらし)が鳴く描写を入れたり、逆に背景描写のように従に使うのではなく、五月の話が欲しければ、梅を煮て梅干しを作ることを主にした創作に使うのもいいかもしれない。 大戴礼記 夏小正 第四十七 夏小正 正月 蟄を啓(ひら)く(隠れ住んでいた虫どもが冬眠を終え動き出す) 鴈(かり)北に郷(むかう)ふ(雁が北に向かい移動) 雉(山雉)震[口句](く)す(けたたましく鳴く) 魚陟(のぼ)りて冰(こおり)を負う(背負う) 農厥(のうそ)の耒(すき)を緯(い)す(農耕に用いる耒をたばねる) 初歳に耒を祭り、始めて暢(ちょう)を用いる [口+有](いう、にわ、苑を垣で囲んだ所)に韭(にら)を見る有り 時に俊風(大風、南風)有り 寒日凍塗(どろどろの道)を[シ條](あら)ふ(冬の日に氷りついた路を水で洗い流す) 田鼠(もぐらもち、土竜)出づ(田鼠が地上に出て活動を始める。猫は田鼠捕らえては食う) 農均田に率(したが)ふ(農耕に従っている人々は田をくさぎることに従っている) 獺(かわうそ)魚を獻ず(献じて祭りをする) 鷹則ち鳩と為る(鷹は変じて鳩となる) 農雪澤に及ぶ(農夫は春の雪解けを待って、農耕に着手する) 初めに公田に服す(初めに公田の農耕に服する) 藝(うん、香草)を采る(これを寝廟に供えて先祖を祀る) 鞠([口蜀]という名の星)則ち見ゆ 初昏(夕暮れ時)に參中す(参という西方に輝く白虎に宿る星が中する) 斗柄(北斗七星の杓形の柄にあたる部分)縣かりて下に在り(北方の上空) 梅杏[木也]桃([木也]・桃は山桃の類)則ち華さく(華は木に花咲くをいう)。 縞(きぬ)に[糸是](あかぎぬ)あり 鶏桴(孚卵)粥(しゃく、養)す(鶏が卵を養う) 二月 往きて黍(もちきび)を[耒憂](いう)す([耒憂]を用いて土ならしし種子をまく)。襌(単衣)なり 初めて俊羔厥の母の粥を助く(俊羔(大きな羊の子)はその母羊を助け養う) 多くの女士を綏(やす)んず(仲春の吉辰(吉日)、嫁娶や加冠の儀礼には心の安まる思いでいる) 丁亥、萬用ひて學に入る(学(大学)の初めの教学は丁亥の日) 鮪(巨大なまぐろ)を祭る 菫(すみれではなく、あおい)を栄えしめ、繁(しろよもぎ)を采る。 昆(衆)として小蟲(小さな虫が集まって動く)。[虫(氏/一)](ありの卵。食用)を抵(お)す 來降して燕乃ち睇す(降りてきた燕を流し目で見る。同じ屋根の下) [魚單](うなぎの一種)を剥ぐ(→鼓を作る) 鳴く倉庚(こうらいうぐいす)有り 榮芸(正月の采芸が花咲く) 時有[禾弟]を見て始めて収める(成長した[禾弟]を採取) 三月 参則ち伏す((三月)には参宿という星が隠れて見えない) 桑を攝る(桑の葉をもぎ取る、蚕を飼うのがにわかに忙しくなる様子) 委たる楊(やなぎ)あり(委委…のびのびと葉が茂って下に垂れているさま) [羊韋](羊がむれあつまる、羊は暖かくなると群集まる)たる羊あり [(士/冖/虫)殳](けら、すくもむし)は則ち鳴く 冰を頒かつ(氷を氷室より取り出す。凌人職が氷を分けて大夫に授ける) ...

37. メモ:五行相生説
 中国古代の政権を五つの属性に当てはめ、どう交替していくかを表現する五行説のことは以前から知っていて、五行説にも五行相剋説と五行相生説があり(ここらへんは普通の漢和辞典に載っていた)、後漢~三国の頃は後者、五行相生説を取っていて、前漢あたりは五行相剋説ということも何となくは知っていたんだけど、特に何かを読み進めていくうちに困ることは無かったんで、まとめずに居た。  そんなときに「三国志ファンのためのサポート掲示板」でツリーが立つ。 ・三国志ファンのためのサポート掲示板 http://cte.main.jp/ ・五徳説-それぞれの王朝は何徳? http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1635  掲示板なもんだから、初めはみんなでいろんな情報や意見を出し合って居るんだけど、特に下記の書き込みがまとまっていて読んでいても面白い。あと出典が詳しければ完璧。 ・皆様、ありがとうございます♪感謝感謝! http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=1666  つまり 五行相剋説:土→木→金→火→水 ※火に水は勝つ、といった流れ 五行相生説:木→火→土→金→水 ※木から火が生まれ、といった流れ ・色と方位の対応 木:青、東 火:赤、南 土:黄、央 金:白、西 水:黒、北 ※詳しくは知らないが、ちょうど四神(四霊、四獣)が対応している。  青龍:東、朱雀:南、白虎:西、玄武:北 玄は黒。  この後、東大の東洋文化研究所のデータベースをウェブ上で見かけ、その中で後漢の蔡[巛/邑](サイヨウ)の著作を集めた『漢蔡中郎集六卷』収録の『獨斷』(独断)が見ることができ、そこでこの時代は五行相生説として認識されていたんだな、と確認がとれる。 ・東京大學東洋文化研究所漢籍善本全文影像資料庫 http://cte.main.jp/newsch/article.php/253 以下に該当部分を引用。合成文字ばかりでわかりにくい引用になってしまうけど。 易曰帝出乎震震者木也言[ウ/必]犧氏始以木徳王天下 也木生火故[ウ/必]犧氏没神農氏以火徳繼之火生土故 神農氏没黄帝以土徳繼之土生金故黄帝没少昊氏 以金徳繼之金生水故少昊氏没[山/而 頁][王頁]氏以水徳繼之 水生木故[山/而 頁][王頁]氏没帝[學-子/告]氏以木徳繼之木生火故帝 [學-子/告]氏没帝尭氏以火徳繼之火生土故帝舜氏以土徳 繼之土生金故夏禹氏以金徳繼之金生水故殷湯氏 以木徳繼之水生木故周武以木徳繼之木生火故高 祖以火徳繼之  途中は白文ながらすごくわかりやすい漢文なんだけど、いきなり出だしがわかりにくい。  易に「帝出乎震」という言葉がある、というのはわかるんだけど。  ネットで検索し何気なく見ていたらすぐわかる。  つまり震は辰に通じていて東を意味するんだね。易にいう、帝は東から出る。東というのは木だ、てな感じだね。それで当時でも畫像石等で半身蛇に描かれる伝説上の伏羲([ウ/必]犧)を引っぱり出してきたり、夏以前が変に多かったりするんだ。とりあえず以下にまとめる。といっても「三国志ファンのためのサポート掲示板」に書かれていたまとめと同じだけど [ウ/必]犧氏:木徳 神農氏:火徳 黄帝:土徳 少昊氏:金徳 [山/而 頁][王頁]氏:水徳 帝[學-子/告]氏:木徳 帝尭氏:火徳 帝舜氏:土徳 夏禹氏:金徳 殷湯氏:水徳 ...

38. メモ:[唐]許嵩撰『建康實録』
 電子文献としては持っているんだけど、句読点のない白文なものだから読みづらい。  そんな折り、知り合いが中華書局のを購入したという。何かっていうと[唐]許嵩 撰『建康實録』(張忱石 點校)。神保町の株式会社 燎原(つまり燎原書店)から学会価格4000円だそうな(※今、下記サイトを見ると、定価4851円だね)。 ・RYOGEN CO.,LTD. http://www.ryogen.jp/  説明が面倒なので、その書籍の冒頭にある「點校説明」の冒頭から以下、引用する。 建康實録二十卷、唐許嵩撰。這是一部記述呉、東晉、宋、齊、梁、陳六朝事的史籍、因六朝皆建都建康(呉名建鄴、晉愍帝改名建康)、故以為名。  ということで、唐代に成立した三国呉を含めた六朝の史籍。「建康」とは三国呉でいう「建業」のこと。「実録」とあるけど全然それっぽくない。むしろ地方志。

39. 三国統一(280年3月15日)
 『三国志』巻四十八呉書三嗣主伝(孫皓伝)では下記のような記述がある。 ・『三国志』巻四十八呉書三嗣主伝  (天紀四年三月)壬申、王濬最先到、於是受皓之降、解縛焚櫬、延請相見。 <清岡訳>  天紀四年(紀元280年)三月壬申、王濬は最も先に到り、これに於いて孫皓の降伏を受け、わかち縛り櫬(ひつぎ)を焼き(降伏の礼)、連なって対面するのを請うた。 とのことで、呉の皇帝の孫皓は晋に降伏したのは紀元280年3月で、日付は「壬申」になる。これは十干十二支と呼ばれる一周六十日の表記で、中央研究院兩千年中西暦轉換を見ると、紀元280年3月に「壬申」はない。  そこで晋側の記述、『晋書』巻三武帝紀を見てみると、 ・『晋書』巻三武帝紀  (太康元年)三月壬寅、王濬以舟師至于建鄴之石頭、孫皓大懼、面縛輿櫬、降于軍門。 <清岡訳>  太康元年(紀元280年)三月壬寅(15日)、王濬は舟師で建鄴の石頭に至り、孫皓は大いに大いに懼れ、面縛し(後ろ手に縛り)、櫬(ひつぎ)を車に乗せ(降伏の礼)、軍門に降った。 となっており、さらに「三月壬寅」に次のように注が入る。  三月壬寅至石頭「壬寅」、各本皆作「壬申」。按:三月戊子朔、無壬申。校文云、王濬傳載濬入石頭後上書有「以十五日至秣陵」語、十五日為壬寅、則「申」當為「寅」字之誤。今據改。 <清岡訳>  三月壬寅、石頭に至る「壬寅」は、各本は皆、「壬申」に作る。按じるに、三月戊子が朔(一日)であり、壬申は無い。校文に言う、王濬伝は王濬が石頭に入った後に上書に「十五日を以て秣陵に至る」の語が有り、十五日は壬寅とすれば、則ち「申」は「寅」字の誤りとすべきである。

40. リンク:国学導航 四部索引
※関連記事 第33回 秋の古本まつり(京都古書研究会)  上記関連記事にあるように「第33回 秋の古本まつり」に行っていて、仏教関連に力を入れている古書店が結構、あった。そこで何となく下記の関連記事で触れた『高僧伝』があったら良いな、とぼんやり思いつつ本棚を眺めていた。 ※関連記事 高僧伝(一)(2009年8月18日)  三密堂書店のところで鎌田茂雄/著『中国仏教史』 (岩波全書 310)が2000円で売られていて、中身をちょっと読んだけど、『後漢書』やら『三国志』やら史書の記述に基づいている感じだったから(当たり前だけど世の中にはこれができてないのもあるので)、買おうか迷っていた。  よくよく考えてみると、例え『高僧伝』があっても、三国時代前後の記述ぐらいしか読まないだろうから、猫に小判だろうし、何か買うのを思いとどまる。  と言うのも、あるアイディアを思い付いており、ノートPCを起動し、ローカルに保存した『太平御覧』で「高僧傳」と検索し、そこに出てくる文を検索語句にして、ネットで検索する。それは下記の関連記事にある方法の応用だ。 ※関連記事 リンク:中国盲人数字図書館 電子図書  そうすると、下記のように、サイト「国学導航」が出てくる。 ・国学导航-中国国学经典在线阅读-免费的手机国学网 http://www.guoxue123.com/  とりあえず[梁]慧皎撰『高僧伝』巻一をざっと読むと、康僧會のところで孫権が出てきてたり関連性がありそうだ。

41. 4月4日は孫策の命日
・8月5日は司馬懿の命日 http://cte.main.jp/newsch/article.php/148 上の続き、かな? 三国志呉書孫破虜討逆伝の注に引く志林をみると、 喜推考桓王之薨、建安五年四月四日。 となっていて、どうやら西暦200年4月4日に孫策(字、伯符)は亡くなったそうな。 以下の「三国志ファンのためのサポート掲示板」のツリー参照のこと。 http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=505 ※追記 4月24日は劉備の命日 ※追記 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日

42. 6月27日は賈詡の忌日
『三国志』魏書文帝紀によると (黄初四年六月)甲申、太尉賈詡薨。 <清岡による訳> (黄初四年六月)甲申(紀元223年6月27日)、太尉の賈詡は薨去した。 とのことなので、6月27日は賈詡の忌日。黄初四年六月甲申の年月日は例によって中央研究院兩千年中西暦轉換に依拠している。 ※関連記事 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日

43. 4月11日は霊帝崩御の日
『後漢書』孝靈帝紀によると、 (中平六年夏四月)丙辰、帝崩于南宮嘉徳殿、年三十四。 <清岡による訳>紀元189年4月11日、帝は南宮嘉徳殿において、年三十四で崩御した。 とあり、同様に 『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)によると、 (中平六年四月)丙辰、帝崩於嘉徳殿。 <清岡による訳>紀元189年4月11日、帝は嘉徳殿において崩御した。 とのこと。ここでいう帝とは後漢の霊帝(劉宏)のこと。丙辰の年月日は例によって中央研究院兩千年中西暦轉換を頼りにしている。 無上将軍を自称してから半年ほどしか経っていないうちの崩御となった。 この後、京師(みやこ)は権力争いや董卓による秉政によりいろんな意味でボロボロになっていく。 ※関連記事  10月16日は霊帝が無上将軍を自称した日  3月13日は張純の忌日  4月13日は劉弁即位の日  4月25日は蹇碩の忌日 ※追記 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日 ※追記 メモ:『古代中国と皇帝祭祀』(汲古選書26) ※追記 8月25日は何進の忌日

44. 呉景の父
メモ。 近頃、買った三国志集解を何気なくみていいると、呉書五 三國志五十 妃嬪傳第五の冒頭のところで <本文> 孫破虜呉夫人呉主權母也。本呉人徙錢唐 <注釈> 呉錢唐均 見孫堅傳 とあり、これは普通に、前者が三国志呉書妃嬪伝の本文で「孫破虜(破虜将軍の孫堅)の呉夫人は呉主の権(孫権)の母だ。元々、呉人(呉郡呉県の人)で銭唐(会稽郡の銭唐)にうつった」とあり、後者(小さい文字で表記)が三国志集解特有の注釈であり「呉の銭唐は孫堅伝(三国志呉書孫破虜討逆伝)で均しく見られる」とある。  さらに次のように続く。 <本文> 早失父母與 弟景居 <注釈> 趙一清曰寰宇記卷九十一云姑蘇山西北十二里胥口東岸有漢奉軍 都尉衡州刺史呉[火軍]墓(弼按寰宇記衡作衝漢時無衡州亦無衝州二 者均誤)[火軍]字光脩 丹陽太守呉景父也  前者は同じく三国志呉書妃嬪伝の本文。「(呉夫人は)早くに父母を失い、弟の景(呉景)と住んでいた」となるんだけど、気になったのは小さい文字で書かれている注釈部分。以下に訳してみると、  趙一清(清の人)はいう。寰宇記(太平寰宇記?)巻九十一によると姑蘇山の西北十二里にある胥口の東岸に漢の奉軍都尉衡州刺史の呉[火軍]の墓がある(盧弼は寰宇記を調べ「衡」を「衝」と作るが、漢代に衡州も衝州もなく両者はともに誤りだ)。[火軍]の字は光脩で、丹陽太守の呉景の父だ。 となり、個人的に記録に残っていないと思いこんでいたのが、あっさりと呉景の父親の名や字や就いてた官職があきらかになる。呉景の父親ということは異父姉弟じゃないかぎり、呉夫人の父ってことになり、ひいいては孫策&孫権の母方のお祖父ちゃんってことになる。

45. 1月18日は姜維、鍾会の忌日
※関連記事 12月24日は呂布、陳宮、高順の忌日 上記関連記事の続き。 ※関連記事 サイト「同人用語の基礎知識」で三国志関連 上記関連記事でも追記したように、下記サイトの下記ページを見ると、姜維(字伯約)の生没年で「202年~264年3月3日」としている。 ・同人用語の基礎知識 http://www.paradisearmy.com/doujin/ ・打ち間違い消し忘れ/ 同人用語の基礎知識 http://www.paradisearmy.com/doujin/pasok_umkw.htm これの確認を取ろうと率直に『三国志』巻四十四蜀書姜維伝を見ると、 (景耀六年、紀元263年以降の記述)魏將士憤怒、殺會及維、維妻子皆伏誅。 <訳>魏の将士は憤怒し、鍾會(鍾会)及び姜維を殺し、姜維の妻子は皆、誅に伏した。 となり、特に没年月日の記述はない。一方、生年に目を向けると同伝で、 (建興六年、紀元228年の記述)亮辟維為倉曹掾、加奉義將軍、封當陽亭侯、時年二十七。 <訳>諸葛亮は姜維を召し倉曹掾にし、奉義將軍を加え、當陽亭侯に封じ、時に年二十七だった。 とあるので、当時は年号と同じく数え年だから、生年は紀元202年となる。 ここで共に殺された鍾會に着目し、『三国志』巻二十八魏書鍾会伝を見ると、 (景元五年、紀元264年一月の記述)十八日日中、烈軍兵與烈兒雷鼓出門、諸軍兵不期皆鼓譟出、曾無督促之者、而爭先赴城。(中略)姜維率會左右戰、手殺五六人、衆既格斬維、爭赴殺會。會時年四十、將士死者數百人。 <訳>景元五年一月十八日の日中に、烈しい軍兵と烈しい児は鼓を叩き門を出て、諸軍兵は皆、騒ぎ出る時を定めず、すなわち督促の者が無く、先を争い城に赴いた。(中略)姜維は鍾會の左右を率い戦い、自ら五、六人を殺し、衆は皆戦い姜維を斬り、争って鍾會を殺しに赴いた。鍾會は時に年四十で、将士の死者は数百人だった。 とあり、姜維字伯約の没年月日(忌日)は紀元264年1月18日で、享年63歳(数え年)だと判る。生年は前述の通り紀元202年なので、今年は生誕1810年だね。 一方、鍾會字士季の没年月日(忌日)は同じく紀元264年1月18日で、享年40歳(数え年)であるため、生年は紀元225年と判る。

46. メモ:『後漢書』傅燮伝
※関連記事  『後漢書』朱儁伝の冒頭  メモ:東漢人多為舉主行喪制服  上記記事にもあるように、たまに手元の『後漢書集解』を読むわけだけど、今さらながら『後漢書集解』傅燮伝冒頭の集解部分が気に掛かる。 ・『後漢書』傅燮伝 ※本文 傅燮字南容北地靈州人也 <清岡による訳> 傅燮は南容と字し、北地郡の霊州県の人だ。 ※「靈州人也」にかかる李賢注及び集解部分 靈州縣也[集解]惠棟曰此傳 全採燮孫元所撰傅子也 <清岡による訳> 霊州は県だ。[集解]恵棟が言う。この伝は全て傅燮の孫の元が撰した傅子を採用した。 ※清の康煕帝の諱を避けて「傅元」になっているが、「傅玄」のこと。

47. 牀や榻のことばかり
 今、お芝居の「長江の流れは緩やかに見えて」の会場に向かっているところなんだけど、こういうときにしか読書する機会がないんで、これ見よがしに、まだ読み切っていない林巳奈夫/著「漢代の文物」を読んでいる。  ここで恥を忍んでいきなり自己暴露なんだけど、大昔、私は「椅子・鐙チェッカー」でして、三国志を題材にした漫画で、三国志の時代になかった椅子や鐙(あぶみ)が出てきただけで、その漫画を読む気をなくしてしまっていた。もっとも鐙に関しては「中国古代の服飾研究」だと前漢のころにはすでにあったとされているんだけどね。それに同じ三国志を題材とした創作物でも「新刊全相平話三国志」(通称、三国志平話)の挿絵や「三国演義」葉逢春本(1548年刊行)の挿絵なんかに椅子が描かれているぐらい根深いし、漫画の本質にあまり関係なさそうだ。  鐙はなくても技術さえあれば馬に乗れるんだけど、椅子がなければ、何に坐っていたんだ、あるいは地べたに座り込んでいたのか? って話になる。そういうときはいつも「牀とか榻とか呼ばれる台座みたいなところに正座していた」と私は答えている。そう椅子に腰掛けるんじゃなくて膝を最後まで曲げて腰をおろしていた。この当時の中国人は腰をかけて座ることあったのかな? と思うぐらい画像石の類でもそういう光景は(私の狭い視野の中では)あまりみかけない。画像石や俑をみてみると、馬車でも乗っている人も馬を操っている人も律儀に正座しているし(汗)。※がんばって腰をかけている画像をさがしてみると、艇(?)にのっているところ、釣りをしているところ、機織り器をつかっているところ、そして強いていうなら馬にまたがっているところなどが見つかった。探せばもっとあるかも。  とか何とか書いているが、私の知識はとても浅くてそうやって牀と榻のことをあげたあと、自虐的に「といってもいまだに牀と榻の違いを私は知らないんですけどね」と書くのが常だった。  で、ここでようやく冒頭の「漢代の文物」の話にもどるわけで、読みすすめていると、「五 什器」の章で「釋名」釋牀帳(漢の劉熙の撰)から引用しまとめてばっちりそれらの違いが書かれていた。というわけで以下に引用(一部、表示できないので[]で合成文字にしている)。「漢代の文物」の200ページ。  大きくて高いのが牀、細長くて低いのが榻、一人用の小さいのが獨坐、足がなく板状のものが[木平]だといふのである。 引用終わり。牀や榻だけではなく、その他も座具についても挿図付きで紹介されている。わかりよい。さらに文献や具体的な出土品から牀や榻の大きさについても考察がある。  具体的な大きさの例として榻、長さ87.5cm、幅72cm、高さ19cm、石榻(『初学記』に引かれている『通俗文』の「牀三尺五曰榻、板獨坐曰[木平]、八尺曰牀」から牀?)、長さ159cm、幅100cm、高さ18cmがでていた。 ※追記 メモ:踞牀

48. リュウビ十五歳
 自サイトで小説を書くためのメモ書きみたいな「孫氏からみた三国志」というコンテンツをつくっていて、そこに劉備(字、玄徳)のことを書くことになった。そのコンテンツで書く書かないは別として、劉備についてあれこれ調べていた。  そこで気になったのが三国志蜀書先主伝の記述。 年十五、母使行學、與同宗劉徳然・遼西公孫[王賛]倶事故九江太守同郡盧植。徳然父元起常資給先主、與徳然等。 というところの、(劉備が)15歳のとき、劉備の母は(劉備を)同じ一族の劉徳然と遼西出身の公孫[王賛]とともに遊学させ、元、九江太守の同郡([シ豕]郡)出身の盧植につかえさせた。徳然の父、元起はいつも先主(劉備)と徳然たちへ資金援助していた。というところが気になった。  そういえばこのとき盧植(字、子幹)は何をしていたんだっけ? 黄巾の乱で中郎将になるのは後年のことだし。  まず年代だけど、幸運なことに劉備の没年と亡くなった歳がわかるので、そこから劉備が15歳のとき、何年だったがわかる。同じく三国志蜀書先主伝によると、 (章武三年)夏四月癸巳、先主[歹且]于永安宮、時年六十三。 というふうに章武三年(西暦223年)の夏四月癸巳(四月に癸巳の日はないので命日は3月5日?、これに続く文の諸葛亮の上言によると命日は4月24日)に先主(劉備)は永安宮において63歳のとき亡くなった、とあるので、そこから逆算し、当時は数え年なので、劉備は西暦161年生まれということになる。  それで劉備が15歳のときは熹平四年(西暦175年)だ。  一方、盧植はというと、後漢書盧植伝によると、 建寧中、徴為博士、乃始起焉。熹平四年、九江蠻反、四府選植才兼文武、拜九江太守、蠻寇賓服。以疾去官。作尚書章句・三禮解詁。時始立太學石經、以正五經文字 というふうに、建寧年間(西暦168年-172年)、(盧植は)博士になり、そこから起き始めた(それまで無官)。熹平四年(西暦175年)に九江郡の蠻(蛮)が反乱し、四府は文武を兼ねた才能のある盧植を選び、九江太守にし、蠻は屈服した。病気のため官を去った。尚書章句と三禮解詁(三禮は儀礼、周礼、礼記のこと)を作った。当時、初めて太學石經が立ち、それにより五經(易・書・詩・礼・春秋)の文字を正した、となっている。  先の三国志蜀書先主伝をみると、「故九江太守同郡盧植」(元、九江太守の同郡出身の盧植)となっているので、九江太守をやめた後、盧植の元へいったと単純に思っても良いけど、経験上、官職の記述はあまりあてにならないと思うので、もうちょっと調べる。  後漢紀によると 熹平四年 春三月、五經文字刻石立于太學之前。  後漢書本紀によると (熹平)四年春三月、詔諸儒正五經文字、刻石立于太學門外。 というふうに共に熹平四年春三月に後漢書盧植伝に記載のある太學石經が立ったことになっており、史書の記述を見比べてみると、九江郡の蠻の乱は熹平四年の上四半期のうちにおさまったんだろう(残念ながら他のところから乱に関する記述を見つけだせなかった)。  ということは劉備たちは官職についていないときの盧植の元へ行っていたのかな(病をわずらっていないときと思うが・汗)。劉備たちが習ったことは当時、盧植が執筆した尚書章句と三禮解詁の内容を色濃く影響をうけたものだったんだろうか、とあれこれ想像してしまう。 ・「リュウビ二十七歳」に続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/278

49. リュウビ二十七歳
 前回からの続き。 ・前回「リュウビ十五歳」 http://cte.main.jp/newsch/article.php/276  劉備について前々から疑問に思っていたのは、いつ初陣かということ。これが歴史じゃなくて三国演義だと「第一回:宴桃園豪傑三結義、斬黄巾英雄首立功」にあるようにおそらく中平元年(西暦184年)に、鄒靖に率いられ、黄巾賊の將、程遠志の軍と戦ったのが初めて、とすぐでてくるんだけど、歴史だと意外と難しい。  まず劉備のことでスタンダードで最も重要な三国志蜀書先主伝をあたる。 <本文> 靈帝末、黄巾起、州郡各舉義兵、先主率其屬從校尉鄒靖討黄巾賊有功、除安喜尉。 <清岡のテキトー訳> 靈帝の時代の末、黄巾が起こり、州郡おのおのは義兵をあげ、先主(劉備)はその屬従である校尉の鄒靖に従い、黄巾賊を討ち戦功があり、安喜尉(安喜県の尉)になった。  黄巾の乱がおこったのは光和七年(西暦184年)であり、一年ぐらいでリーダーの張角がいる冀州の本隊は壊滅しているが、その後、乱は消滅したというより各地に分散している。そのため、黄巾討伐といっても光和七年(西暦184年)とは限らない。 参照1 http://cte.main.jp/sunshi/w/w040112.html 参照2 http://cte.main.jp/sunshi/w/w040924.html  ここで参照になるのが裴松之の注。典略から引いている。その内容を次にあげる。 <本文> 典略曰:平原劉子平知備有武勇、時張純反叛、青州被詔、遣從事將兵討純、過平原、子平薦備於從事、遂與相隨、遇賊於野、備中創陽死、賊去後、故人以車載之、得免。後以軍功、為中山安喜尉。 <清岡のテキトー訳> 典略にいう。平原の劉子平は劉備に武勇があることを知っていて、当時、張純が反乱をおこし、青州は詔(皇帝の命令)を受け、兵を率いた從事に張純を討伐させた。平原を通過中に子平は劉備を従事にすすめ、(劉備は)付き従うことになり、平野で賊にまみえることになった。劉備は傷を受け死んだふりをし、賊が去った後、旧知の人が車に劉備を載せ、事なきをえた。後に軍功により、中山の安喜尉(安喜県の尉)になった。  典略にある「後以軍功、為中山安喜尉。」という文をそのまま受けると、順序としては「劉備と劉子平の張純討伐」(典略)→「劉備と鄒靖の黄巾討伐」(三国志)→「劉備が黄巾討伐の戦功で安喜尉になる」(三国志)というふうになる。  劉子平も鄒靖も他の史書では見あたらないが、張純だけは他の史書で見られ、年代もある程度、特定できる。というわけで張純の記述。ここは後漢書本紀から四カ所、抜粋する。 <本文> (中平四年六月~九月)漁陽人張純與同郡張舉舉兵叛、攻殺右北平太守劉政・遼東太守楊終・護烏桓校尉公[其/糸]稠等。舉(兵)自稱天子、寇幽・冀二州。 (中平五年)九月、南單于叛、與白波賊寇河東。遣中郎將孟益率騎都尉公孫[王賛]討漁陽賊張純等。 (中平五年十一月~十二月)公孫[王賛]與張純戰於石門、大破之。 (中平六年)三月、幽州牧劉虞購斬漁陽賊張純。 <清岡のテキトー訳> (中平四年(西暦187年)六月~九月の記述)漁陽郡の張純と同郡の張舉は兵をあげ反乱し、右北平太守の劉政、遼東太守の楊終、護烏桓校尉の公[其/糸]稠たちを攻め、殺した。張舉が天子を自称し、幽州、冀州の二州に侵略した。 (中平五年(西暦188年))九月、南單于が反乱し、白波賊が河東へ侵略した。中郎将の孟益に騎都尉の公孫[王賛]を率いて、漁陽賊張純たちを討伐させた。 (中平五年十一月or十二月)公孫[王賛]と張純が石門で戦い、(公孫[王賛]が張純を)大破した。 (中平六年(西暦189年))三月、幽州牧の劉虞が漁陽賊の張純を購斬した(賞金をかけて斬った)。  こういう感じで、張純の乱は西暦187年の半ばから始まって、西暦189年の3月に彼が斬られるまでの期間に起こっている。さらに後漢書公孫[王賛]伝をみると、 <本文> 會烏桓反畔、與賊張純等攻撃薊中、[王賛]率所領追討純等有功、遷騎都尉。張純復與畔胡丘力居等寇漁陽・河間・勃海、入平原、多所殺略。[王賛]追撃戰於屬國石門、虜遂大敗。 <清岡のテキトー訳> たまたま烏桓と賊の張純たちが反乱し、(幽州広陽郡)薊県の中へ攻撃し、公孫[王賛]は受け持ちのところで張純たちを追討し戦功があり、騎都尉になった。張純はふたたび背き、胡(えびす)の丘力居(烏桓族の大人)たちが漁陽・河間・勃海に侵略し、平原に入り、多く殺人・略奪した。公孫[王賛]は追撃し属国(遼東属国?)の石門で戦い、敵はついに大敗した。 と、なっておりさらに後漢書劉虞伝だと <本文> (中平)四年、純等遂與烏桓大人共連盟、攻薊下、燔燒城郭、虜略百姓、殺護烏桓校尉箕稠・右北平太守劉政・遼東太守陽終等、衆至十餘萬、屯肥如。舉稱「天子」、純稱「彌天將軍安定王」、移書州郡、云舉當代漢、告天子避位、敕公卿奉迎。純又使烏桓峭王等歩騎五萬、入青冀二州、攻破清河・平原、殺害吏民。朝廷以虞威信素著、恩積北方、明年、復拜幽州牧。 <清岡のテキトー訳> (中平)四年(西暦187年)、ついに張純たちと烏桓大人は連盟し、薊県のもとを攻め、城郭を焼き、百姓から略奪し、護烏桓校尉の箕稠(後漢書本紀の公[其/糸]稠と同一人物?)、右北平太守の劉政、遼東太守の陽終(後漢書本紀の楊終と同一人物?)たちを殺し、その衆は十万あまりにもなり、肥如に駐屯した。張舉は「天子」を自称し、張純は「弥天将軍安定王」を自称し、州や郡に張舉が漢の代わりに当たると述べる文書を移送し、天子に位を退くことを告げ、公卿に迎えるように勅命を下した。張純はまた、烏桓の峭王たちを歩兵騎兵五万を青州・冀州の二州に行かせ、清河や平原を攻め破り、官吏や民を殺害した。朝廷は劉虞に威信を示させ、北方に恩恵をつらねさせるため、明年、劉虞を幽州牧に復職させた(劉虞はそれ以前に幽州刺史だったことがある)。 となっている(あと三国志公孫[王賛]伝、後漢紀、後漢書南匈奴列伝、後漢書烏桓鮮卑列伝、三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝に張純の乱がでるがここでは略)。  後漢書本紀とあわせると、張純との戦いは大きく三つに分けてまとめてみる。  まず一つ目、中平四年六月~九月の張純による薊県(幽州広陽郡)攻め。このとき護烏桓校尉、右北平太守、遼東太守が殺される。肥如(幽州遼西郡)に駐屯。また戦功により公孫[王賛]は騎都尉になる。  それから一つ目と二つ目の間、張舉が天子を自称した。  二つ目は漁陽(幽州)、河間(冀州)、勃海(冀州)、清河(冀州)、平原(青州)、清河(冀州)に侵攻。  三つ目は中平五年九月から現れる官軍の反撃戦。劉虞が幽州牧になったり、公孫[王賛]による石門での大破もここ。  どの期間あたりに劉備が参戦しているかを考えてみる。少し張純のことから離れ、三国志蜀書先主伝やその注に立ち戻ってみる。「劉備と劉子平の張純討伐」の後の「劉備と鄒靖の黄巾討伐」は果たしてどの黄巾の乱にあたるんだろう?と思って、後漢書本紀から張純討伐の後の黄巾関連を五つほどピックアップしてみる。 <本文> (中平五年三月)黄巾餘賊郭太等起於西河白波谷、寇太原・河東 (中平五年)夏四月、汝南葛陂黄巾攻沒郡縣。 (中平五年六月)益州黄巾馬相攻殺刺史[希β]儉、自稱天子、又寇巴郡、殺郡守趙部、益州從事賈龍撃相、斬之。 ...

50. 8月25日は何進の忌日
毎年、この時期は忙しいので、書けず終いだったけど、今回は十日前ほどに予め書いて、エディタに保管していた。(※追記。2013年10月26日に「中央研究院 兩千年中西曆轉換」で確認して「26日」から「25日」に訂正) 何かというと今日8月25日は何進字遂高の忌日、あるいは薨去した日。勿論、例の如く旧暦ね。 ・『後漢書』孝靈帝紀 八月戊辰、中常侍張讓・段珪等殺大將軍何進、於是虎賁中郎將袁術燒東西宮、攻諸宦者。 ・ 『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五) 戊辰、大將軍何進白太后、將決其事、謀欲盡誅諸常侍、選三署郎補其處。中常侍張讓・段珪相謂曰:「大將軍常稱疾、不臨喪葬、今忽入省、此意何為?竇氏意復起邪?」使侍者聽之、〔具〕(冥)聞進言。出坐省戸下、讓謂進曰:「天下憤憤、亦非獨我曹也。又先帝嘗與太后不快、幾至成敗、我曹泣涕救解、各出家財且千萬、共為禮、和悅上意、但欲託門戸於卿耳。今卿云何欲滅我曹種族、不亦太甚乎!卿言省内濁穢、公卿已下忠清、為誰乎?」於是尚方監渠穆拔劍斬進。珪・讓偽詔以故太尉樊陵為司隸校尉、故司空許相為河南尹。尚書得詔疑焉、請大將軍出議之。中黄門以進首與尚書曰:「何進謀反、以伏誅。」 つまり光熹元年八月戊辰(紀元189年8月25日)に中常侍の張讓と段珪の命令により尚方監の渠穆が何進を殺害する。 この二、三日後に張讓らも亡くなって董卓が入京するって流れ。 ※関連記事 4月11日は霊帝崩御の日 ※追記 メモ:「前漢後期における中朝と尚書」 ※追記 8月27日は何苗の忌日

51. 4月25日は蹇碩の忌日
『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)によると、 (中平六年四月)庚午、上軍校尉蹇碩下獄誅、兵皆屬進。 <清岡による訳>紀元189年4月25日、上軍校尉の蹇碩は獄に下り誅殺され、兵は皆、何進に属した。 とのことで4月25日は蹇碩の忌日。庚午の年月日は例によって中央研究院兩千年中西暦轉換を頼りにしている。 宦官の蹇碩と言えば霊帝の寵臣で、西園八校尉のリーダーたる上軍校尉になっている。 しかし、蹇碩はその権力を支えていた霊帝の死後、もう一方の権力者である大将軍の何進により死に追い込まれる。 霊帝が亡くなってから14日後のことだった。 ちなみに31年後の4月25日に夏侯惇が薨去している。 ※関連記事  10月16日は霊帝が無上将軍を自称した日  4月11日は霊帝崩御の日  4月25日は夏侯惇の命日 ※追記 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日

52. 3月13日は張純の忌日
 過去の記事で「x月x日は○○の命日」なんて銘打って書いていたけど、「命日」は仏教用語だろうから当然、三国時代では使われていないと自己ツッコミをしつつ今回から「忌日」と銘打つ(前回、自己ツッコミ済だけどね)。 ※関連記事  閏1月28日は司馬師の命日  4月25日は夏侯惇の命日  8月5日は司馬懿の命日  10月16日は霊帝が無上将軍を自称した日  4月11日は霊帝崩御の日  それで今回、取り上げるのは張純。同姓同名が居ると思うけど、漁陽郡漁陽県出身で中山相だった張純のこと。中平四年に叛乱を起こした人物だ。  そのことは『後漢書』孝靈帝紀に載っている。 <本文> (中平四年六月) 漁陽人張純與同郡張舉舉兵叛、攻殺右北平太守劉政・遼東太守楊終・護烏桓校尉公[其/糸]稠等。舉(兵)自稱天子、寇幽・冀二州。 <清岡の頼りない訳> (紀元187年6月)漁陽人の張純と同郡の張挙は兵叛を挙げ、右北平太守の劉政、遼東太守の楊終、護烏桓校尉の公[其/糸]稠らを攻め殺した。張挙は天子を自称し、幽・冀二州に進寇した。  この張純は三国志ファンに馴染みのない人物かもしれないが、劉備の初戦に関わる人物として、下記に引用する『三国志』蜀書先主伝の注に引く『典略』に出てくる <本文> 典略曰:平原劉子平知備有武勇、時張純反叛、青州被詔、遣從事將兵討純、過平原、子平薦備於從事、遂與相隨、遇賊於野、備中創陽死、賊去後、故人以車載之、得免。後以軍功、為中山安喜尉。 <清岡の頼りない訳> 典略に言う。平原の劉子平は劉備に武勇があることを知っていて、当時、張純が反乱をおこし、青州は詔(皇帝の命令)を受け、兵を率いた從事に張純を討伐させた。平原を通過中に子平は劉備を従事にすすめ、(劉備は)付き従うことになり、平野で賊にまみえることになった。劉備は傷を受け死んだふりをし、賊が去った後、旧知の人が車に劉備を載せ、事なきをえた。後に軍功により、中山の安喜尉(安喜県の尉)になった。 ※関連記事  リュウビ二十七歳  それでようやく本題だけど、下記のように『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)だとこの張純は三月己丑(3月13日)に殺されたとのこと。ただ三月己丑が張純の殺されたところまでかかるかどうかわからないけど。三月己丑の日付の同定は例によって「中央研究院兩千年中西暦轉換」を使っている。 <本文> (中平六年) 三月己丑、光祿劉虞為司馬領幽州牧、撃張純。虞使公孫[王賛]撃純、大戰破之。純客王政斬純首降。封虞為襄賁侯、[王賛]為都亭侯、並鎮北邊 <清岡の頼りない訳> (紀元189年) 3月13日、光祿の劉虞は司馬になり幽州牧を領し、張純を撃った。劉虞は公孫[王賛]に張純を撃たせ、大いに戦いこれを破った。張純の客の王政は張純の首を斬り、下った。劉虞は襄賁侯、公孫[王賛]は都亭侯に封じられ、並んで北辺を鎮めた。 ・「中央研究院兩千年中西暦轉換」関連のサポ板での書き込み http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=1825

53. 梁はいくつ?
趣味で三国志小説を書いていると当時の様子が気になる。 「中国古代の生活史」、「中国古代の服飾研究」など、三国志の時代の画像を元に当時の生活風景や衣装を解説している本はいろいろあって、どれも参考になるけど、一つ物足りないことがある。 それはそれらの本で書かれている内容と史書とで用語が往々にして違うため、なかなか対応付けして読めないと言うことだ。 その点、時代は少しずれて漢代になるけど、「漢帝国と辺境社会」は木簡に書かれた原文も豊富に載せられていて、史書との対応付けがしやすい。 そのため、どんなものかだいたいわかっているんだけど、当時、なんて呼ばれていたか、似たようなものだけど微妙に呼び方に違いがあるのか、など、わからないことがしばしば。 未だに「牀」と「榻」の区別、つかないし。 そういった中で気になったのが「中国古代の服飾研究」。当時の官吏の冠として紹介されていたのがその本での呼び名でいうところの「梁冠」。 史書で何て言うんだろう、と思っていたものの、あまりしゃっきり調べられず、頭の中がもやもやしたままで月日を費やした。 そんなときに見かけたのがサイト「青木朋HP++青青」の日記と掲示板。 http://aoki.moo.jp/ ここのサイトはサイトのタイトルと同名のweb三国志系コミックをメインに発表しているところ(このサイト自身は下記リンク参照) http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=777 漫画の資料集めがきっかけなのか、サイト管理人の青木朋さんは服飾など当時の風俗に興味がある方のようで、しばしコンテンツ、日記や掲示板にもその様子が見られる。 そんなサイトの日記や掲示板で紹介されていた「漢~晋の冠について図付き解説ページ」。 どうやら、サイト「松濤堂酒店87號(ショウトウドウシュテンパシチハオ)」の管理人の嘉風松雲さんが青木朋さんに向けてつくったページとのこと。 ・松濤堂酒店87號 http://www.h7.dion.ne.jp/~storm_e/index.html ※2005年7月10日現在サイト縮小中とのこと。 横から覗くのはちょいと後ろめたい気持ちもありながら(汗)、まぁ、ネットに公開されているのだから、ちょいとそのページを覗いてみる。 中国古代の冠のことがドカドカっと載せているじゃないですか! とりあえず後からじっくりサイト全体をみようと思い、嬉々としてブックマークをつけてみる。 件のページで初めに目を引いたのが「進賢冠」のところ。 これって冒頭に書いた「梁冠」。しかも謎の金属のフレームのことが書かれている。 フレームの名は「梁」。なるほど、それで「梁冠」っていうんだ。 そしてこの「梁」は「一梁、二梁」というように梁の数には意味があるらしい。多い方が位が高いそうなのだ。 と感心しつつ、続漢書の輿服志を調べてみると、 「中二千石以下至博士兩梁、自博士以下至小史私學弟子、皆一梁」 と、ばっちり梁の数が書いている! あぁ、今まで気付かなかっただなんて……しかも過去に高官でもないのに二梁で描いている人物のイラストがある(汗)…… ちなみにここのサイトの掲示板によると「梁冠」とは明代での呼び名とのこと。 ※2005年7月10日現在、掲示板へのリンクはない。 なるほどー。やはり、「梁冠」は当時の呼び方ではなかったんだ。 <2006年2月4日一部修正>

54. 10月16日は霊帝が無上将軍を自称した日
後漢書卷八 孝靈帝紀第八によると (中平五年冬十月)甲子、帝自稱「無上將軍」、燿兵於平樂觀。 (西暦188年10月16日に帝自ら「無上将軍」を称し、平楽観において兵を輝かせた。) とのことで中央研究院兩千年中西暦轉換で西暦(といっても日付は旧暦のまま)に変換すると、後漢の霊帝(劉宏、33歳)は西暦188年10月16日に「無上将軍」を自称したとのこと。今年で1819周年、来年に1820年という節目を迎える……と言っても来年、何かあるというわけではなさそうだが。 ちなみに霊帝は翌年の4月丙辰(11日)に34歳で亡くなったんだけど、その間に「無上将軍」として何かしたというわけではなさそうだけど。 同時期に設立された西園八校尉には一応、動きがある。同年十一月に八校尉の一人、下軍校尉の鮑鴻は葛陂賊討伐にあたる。ところがそこで横領したせいか(後漢紀より)、翌年の三月、獄に入り死んでいる。 <関連>閏1月28日は司馬師の命日 http://cte.main.jp/newsch/article.php/514  4月11日は霊帝崩御の日

55. 太平御覽の部の一覧
 ほとんど自分向けのメモ書きなんだけど(汗)  「太平御覽」という書物がある。清の紀鈞の「四庫全書總目」によると、子部に分類され、宋の李昉たちによる敕撰で一千巻。太平興國二年(西暦977年)に詔を受け、八年で完成したとのこと。旧名は「太平編類」。中身は世の中のいろんなことがまず大項目(○○部)それから小項目に分かれていて、その項目に関していろんな書物から引用されている。引用されている書物は一千六百九十種とのこと。例えば、「卷六十九」の「地部三十四」の「洲」の「呉録地理志」からは、「呉富春縣有沙漲、武烈為郡吏、赴府、郷人餞之、會於沙上、父老曰:『此沙狹而長、君後當為長沙太守。』後果然、因名孫洲。」となり、呉の富春県に沙漲(砂浜のわき起こり?)があって、武烈(孫堅のこと)が郡吏(郡の役人)になり、府(役所)にむかうとき、郷人(村人)たちがたまたま沙の上でこれをおくり(送別会をし)、父老(村の老人たち)は「ここの沙狹(砂の狭いところ)を長くすれば、あなたは後に長沙太守になるだろう」といって、その後、そうなり、そのため孫洲と名付けた、と引用されている。こういう感じで三国志に関係することも多数あるのだ。 ※追記 リンク:中国盲人数字図書館 電子図書  それでさすがに一巻一巻、どんな項目があるか書くのは一千巻もあるし長すぎるんで、どの巻からどんな部が始まるか、以下に列挙する。つまり「太平御覽」で何か調べるのに便利かと思って、自分向けにつくったメモ書きなのだ(笑)。 卷一 天部 卷十六 時序部 卷三十六 地部 卷七十六 皇王部 卷一百一十七 偏霸部 卷一百三十五 皇親部 卷一百五十五 州郡部 卷一百七十三 居處部 卷二百三 職官部 卷二百七十 兵部 卷三百六十 人事部 卷五百一 逸民部 卷五百一十一 宗親 卷五百二十二 禮儀部 卷五百六十三 樂部 卷五百八十五 文部 卷六百七 學部 卷六百二十 治道部 卷六百三十五 刑法部 卷六百五十三 釋部 卷六百五十九 道部 卷六百八十 儀式部 卷六百八十四 服章部 卷六百九十九 服用部 卷七百二十 方術部 卷七百三十八 疾病部 卷七百四十四 工藝部 卷七百五十六 器物部 卷七百六十六 雜物部 卷七百六十八 舟部 卷七百七十二 車部 卷七百七十七 奉使部 卷七百八十 四夷部 卷八百二 珍寶部 卷八百一十四 布帛部 卷八百二十一 資産部 卷八百三十七 百谷部 卷八百四十三 飲食部 卷八百六十八 火部 卷八百七十二 休征部 卷八百七十四 咎徴部 卷八百八十一 神鬼部 ...

56. 三国志の基本史料
三国時代のことが書かれている文献と言えば、歴史書としての正史「三國志」があるが、これに次ぐ史料として「長沙呉簡」と呼ばれる木簡がある。 「長沙呉簡」は、1996年に湖南省長沙市の古井戸から出土したもので、呉の嘉禾年間(232~237)の記録が木簡、木版、竹簡に記録されている。その数はおよそ10万点。 今後の整理により、身分制、地方行政、戸籍、賦税、物流などが明らかになるという。

57. リュービ十五歳ダッシュ
 ほとんどメモ書きだけど。  下記の記事関連。 ・リュウビ十五歳 http://cte.main.jp/newsch/article.php/276  劉備(字、玄徳)が一体全体、何を目指して遊学してたか、想像してみる。盧植(字、子幹)に師事していたのは良いとして、このことがこれ以降のことにつながっていない。  同じ盧植門下の公孫瓚(字、伯珪)は盧植の元で学ぶ前に一度、郡の門下書佐になっている(三国志魏書公孫瓚伝)といえども、盧植の元を離れた後、ちゃんと上計吏へ就職している(後漢書公孫瓚伝)。  以前書いた記事(下記リンク先)に従うなら劉備は27歳頃まで職らしい職についていないので、遊学の目的がわからない。 ・リュウビ二十七歳 http://cte.main.jp/newsch/article.php/278 ・孫氏からみた三国志39(別サイト) http://cte.main.jp/sunshi/w/w060412.html  27歳頃に従軍したことが盧植から軍事について教えてもらったとか就職を斡旋して貰ったとか盧植が関係するとは想像しにくいしね。  それで遊学中の人、つまり当時の学生がどうだったか、たまたま見かけたのであげてみる。見かけた文献(というかネット上にあった電子文献。恥ずかしながらちゃんとした底本で確認していない)は唐の杜佑撰「通典」。その選舉典 通典卷第十三 選舉一のところ。 桓帝建和初、詔:「諸學生年十六以上、比郡國明經、試、次第上名。高第十五人・ 上第十六人為中郎、中第十七人為太子舍人、下第十七人為王家郎。」 <以下、あやしい訳> 桓帝の建和年間(西暦147~149年)の初め、詔で告げる。「学生たち十六歳以上で、郡国の明経科から選び試験し、上から順に名をあげる。高の及第者十五人、上の及第者十六人を中郎にし、中の及第者十七人を太子舍人にし、下の及第者十七人を王家郎にする」  そうか試験をやって成績に応じて、中郎(宮中の郎?)が31名、太子舍人(皇太子付きの宮中の官?)が17名、王家郎(皇帝ではなく王の郎?)が17名にするってことなのか。劉備はこういうことを目指していたのかな、と想像する。さらに通典の記述は以下のように続く。 永壽二年甲午、詔復課試諸生、補郎・舍人。其後復制:「學生滿二歳、試通二經者、補文學掌故;其不能通二經者、須後試復隨輩試、試通二經者、亦得為文學掌故。其已為文學掌故者、滿二歳、試能通三經者、擢其高第、為太子舍人;其不得第者、後試復隨輩試、第復高者、亦得為太子舍人。已為太子舍人、滿二歳、試能通四經者、擢其高第、為郎中;其不得第者、後試復隨輩試、第復高者、亦得為郎中。已為郎中、滿二歳、試能通五經者、擢其高第、補吏、隨才而用;其不得第者、後試復隨輩試、第復高、亦得補吏。」 <以下、あやしい訳> 永壽二年(西暦156年)の甲午の日、ふたたび諸生(学生)を課試し、郎・舍人としてたすよう詔で告げる。その後、再び制定する。「学生が二年間を満たすと、二経(易、書、詩、礼、春秋の五経のうち二つ?)に通じるか者か試験し、文学掌故の定員として足す。その二経に通じない者すべては後に再び共同で二経に通じるか者か試験し、また文学掌故になることができる。そのすでに文学掌故とした者が二年経つと、三経に通じる者か試験し、その高い及第者を引き抜き、太子舍人とする。それ以外の者は後にふたたび共同試験し、高い者をふたたび及第とし、また太子舍人となることができる。すでに太子舍人になり二年経つと四経に通じる者か試験し、その高い及第者を引き抜き、郎中とする。それ以外の者は後にふたたび共同試験し、高い者をふたたび及第とし、また郎中となることができる。すでに郎中になり二年経つと五経に通じる者か試験し、その高い及第者を引き抜き、吏(役人)として足し、才能に応じ用いる。それ以外の者は後にふたたび共同試験し、高い者をふたたび及第とし、また吏となることができる。」  ということでつまり試験に受かり続けると、学生2年→文学掌故2年→太子舍人2年→郎中2年→吏という流れ。最短で8年で吏になれるってことだろうか。この例に近いのが、王郎(字、景興)の「以通經、拜郎中、除菑丘長。」(経に通じていたことで、郎中に拝命され、菑丘長に任官される。三国志魏書王郎伝)。 もちろん、茂才や孝廉にあげらえると、一気に吏(県令とか)や郎中になったりできるんだろう(後漢書臧洪伝の注によると「漢法、孝廉試經者拜為郎。」とのこと)。  ちなみに誰かに師事し、その後、孝廉にあげられる流れの人は、傅燮(字、南容)の「少師事太尉劉寬。再舉孝廉。」(後漢書傅燮伝)、周防(字、偉公)の「師事徐州刺史蓋豫、受古文尚書。經明、舉孝廉、拜郎中。」(後漢書儒林列傳)、潁容(字、子嚴)の「博學多通、善春秋左氏、師事太尉楊賜。郡舉孝廉、」、王郎(字、景興)の「師太尉楊賜、賜薨、棄官行服。舉孝廉、辟公府、不應。」(三国志魏書王郎伝)などがあげられる。コネクションとまでは言わないものの孝廉に挙げられるにはその人に関する情報がある程度、伝わらないといけないかな、と。  劉備がこういうことを目指していたかどうかなんてわからないことだけど、想像するとあれこれ創作の種になりそうで楽しい。というか書いているうちに、「行學」している人=「學生」 ってわけじゃないような気がしてきたが。  ちなみに十六歳未満では、童子郎という官職がある。司馬朗(字、伯達)の「十二、試經為童子郎」(三国志魏書司馬朗伝)、「洪年十五、以父功拜童子郎、知名太學」(後漢書臧洪伝)などがあげられる。通典にも「年始十二、各能通經、雄並奏拜童子郎」とある(前後をちゃんと読んでいないので何かって私にはわからないけど)

58. 4月13日は劉弁即位の日
二日前に「4月11日は霊帝崩御の日」なんてことを書いたけど、皇帝が崩御すると、次の皇帝が即位するということで、『後漢書』孝靈帝紀によると、 (中平六年夏四月)戊午、皇子辯即皇帝位、年十七。 <清岡による訳>紀元189年4月13日、皇子の弁は年十七で皇帝位についた。 とあり、同様に 『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)によると、 (中平六年四月)戊午、皇子辯即帝位、太后臨朝、大赦天下。 <清岡による訳>紀元189年4月13日、皇子の弁は帝位につき、太后は朝に臨み、天下に大赦した。 とのこと。といっても当時の状況を象徴するかのように、紀元189年9月1日に董卓により廃帝され弘農王にされ、紀元190年1月12日(『後漢紀』より)に劉弁は年十八の若さで董卓により殺されてしまう。 ※関連記事  4月11日は霊帝崩御の日  3月13日は張純の忌日

59. 劉備 幼名
某サイトのアクセス解析を見ていたら、昨日の夜9時半からやたらといろんなホストから「劉備 幼名」ってキーワードで検索がかかるんだけど、何かテレビかなんかであったんでしょうか。 その息子の幼名は有名だけど、劉備はとんときいたことないなぁ

60. 8月28日は張讓・段珪の忌日
※関連記事 8月27日は何苗の忌日 上記関連記事の続き。 8月28日は張讓・段珪の忌日、あるいは卒去した日。勿論、例の如く旧暦(※追記。2013年10月26日に「中央研究院 兩千年中西曆轉換」で確認して「29日」から「28日」に訂正)。 下記に引用するように『後漢書』列伝六十八宦者列伝で十二人の中常侍(宦者の官職)に挙げられた内の二人だ(光和七年、紀元184年の記述)。ちなみに史上、「十常侍」はここの張鈞(『後漢紀』では「張均」)に関する記述でしか見られないが、白話小説『三国演義』に採用されたため、実際の官職「中常侍」より有名になっている。 ・『後漢書』列伝六十八宦者列伝 是時讓・忠及夏惲・郭勝・孫璋・畢嵐・栗嵩・段珪・高望・張恭・韓悝・宋典十二人、皆為中常侍、封侯貴寵、父兄子弟布列州郡、所在貪殘、為人蠹害。黃巾既作、盜賊糜沸、郎中中山張鈞上書曰:「竊惟張角所以能興兵作亂、萬人所以樂附之者、其源皆由十常侍多放父兄・子弟・婚親・賓客典據州郡、辜榷財利、侵掠百姓、百姓之冤無所告訴、故謀議不軌、聚為盜賊。宜斬十常侍、縣頭南郊、以謝百姓、又遣使者布告天下、可不須師旅、而大寇自消。」 そんな張讓と段珪は下記に引用するように、少帝と陳留王を連れ去り雒陽城を北へ出て、河水まで出たものの追い詰められ、紀元189年8月28日(光熹元年八月辛未)に河水で投身し亡くなる。この後、董卓が少帝と陳留王を護衛し雒陽城に帰って専政に向かうといった流れ。 ・『後漢書』紀八孝靈帝紀 (光熹元年八月)辛未、司隸校尉袁紹勒兵收偽司隸校尉樊陵・河南尹許相及諸閹人、無少長皆斬之。讓・珪等復劫少帝・陳留王走小平津。尚書盧植追讓・珪等、斬數人、其餘投河而死。 ※追記 12月24日は呂布、陳宮、高順の忌日