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1. 古典籍総合データベース(早稲田大学図書館)
※関連記事 メモ:「洛陽八関とその内包空間」  上記記事を書くにあたり、そう言えばネットで楊守敬『水経注図』を見ることができることを思い出す。確か、サイト「三国志討論会」のチャットログで知ったんだ。 ・三国志討論会 http://san-gokushi.com/debate/  それでどこで見れるかというと、下記の早稲田大学図書館の「古典籍総合データベース」。 ・古典籍総合データベース http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/ ※新規関連記事 画筌 巻之四 漢人物(1721年)

2. 三国創作のための拝メモ
 以前、『中国社会風俗史』という本を買って一通り読んでいたけど、あまり図で説明するといった本ではなかったことや私の能力の限界もあってか、あまり理解できなかった箇所が少なからずあった。 ・中国社会風俗史 http://cte.main.jp/newsch/article.php/548  それらの中の一つに「第二十六章 敬礼」がある。近頃、『礼記』に目を通すようになってこの章に書かれてある「拝」(旧字は「拜」)について多少なりとも馴染んできたためもう一度、目を通す。その際のメモ。尤もまだ『礼記』に目を通してないし、その上、また新たな視点で拝を見るようになるかもしれないんで、続きのメモができる可能性は大いにある。  まず三国創作と拝がどう関わるか、おさらいがてら説明。  ここで言う「拝」とは言ってみればお辞儀のような動作のことで(他にも拝には拝受するなど受けるという意味もあるが)、具体的には右上の画像において真ん中の人が行っている動作のこと(恐らく座っている状態からではなく、立っている状態からこのポーズになりまた立つといった動作)。  回りくどいがこの画像の説明。これは石刻拓本からAdobe Illustrator CSを使ってスケッチしたもの。拓本資料は京都大学人文科学研究所所蔵の「呉家荘 双闕楼閣、拝礼畫像」(後漢、嘉祥縣畫像石、管理番号B01-22)だ。もっとスケッチしやすい鮮明な石刻拓本はあったが、たまたまスケッチしづらい画像石を選んでしまう(鮮明な画像石はどれかは後述) ・石刻拓本資料(京都大学人文科学研究所所蔵) http://cte.main.jp/newsch/article.php/215  現代日本人から見ればあたかも土下座しているように見えるけど、当時においては日常的な動作。  時代が少し遡るが漢代に成立した『礼記』曲禮下には 大夫士相見.雖貴賤不敵.主人敬客.則先拜客.客敬主人.則先拜主人 大夫・士が互いに見えたら、地位の高い低いが同等でないといっても、主人が客を敬えば、則ちまず客を拝し、客が主人を慕えば、則ち主人を拝する。 と書かれている等、少なくとも士大夫層には日常的な動作だということがわかる。  『三国志』でも、ぱっと思い付くのが『三国志』呉書張昭伝や同周瑜伝に見られる 「升堂拜母」(堂に昇り、母を拝する)という記述。つまり、ここでの「拜母」は公の場だけではなく家庭でもという意味合いで、相手の母に拝する程、公私とも親しい仲ということなのかな。堂に関しては下記記事参照。こちらの記述も家庭でも、ってあたりを強調しているんだろうね(と、ここらへんこだわると「拝」から話が外れそうなのでこのへんまで)。 ・三国創作のための『儀礼』メモ http://cte.main.jp/newsch/article.php/721  また特殊なことではないので、拝だけでは『三国志』のような史書に記載されづらく、何かしらの+αがあれば載っていたりする。例えば、以前、紹介した『三国志』蜀書龐統伝の注に引く襄陽記の記述(他にもあるがちゃんと目を通していない・汗)。 ・「牀」 三国志の筑摩訳本を読む http://cte.main.jp/newsch/article.php/221  それで話を戻し、『中国社会風俗史』のこと。この訳本は社会風俗について中国古代から記述されてあって、それぞれの根拠となる出典が明記されている。今回、拝に関して改めて目を通すことになり、それぞれの出典を当たってみる。  まず拝について。上の画像にある動作以外の拝もあるそうな。つまり拝には状況に応じて動作が違ってくるという言ってみればグレードのようなものがあるとのこと。それは時代が遡るが『周礼』春官宗伯に書かれてある。 辨九拜.一曰稽首.二曰頓首.三曰空首.四曰振動.五曰吉拜.六曰凶拜.七曰奇拜.八曰褒拜.九曰肅拜.  まず一番目と二番目の稽首、頓首について。これらはお馴染みのやつで『礼記』の訳註(明治書院の新釈漢文大系シリーズ)を見ると、稽首は人に対する最敬礼で、ひざまずき、頭を垂れて地(もしくはゆか)に接する礼で、頓首は、頭を下げ地に接するとすぐに頭を上げるものとのこと(『周礼』春官太祝の項の注に拠るものとのこと)。  『中国社会風俗史』では『春秋左伝』哀公十七年の記述を元に、稽首を説明している。 公會齊侯盟于蒙.孟武伯相.齊侯稽首.公拜.齊人怒.武伯曰.非天子.寡君無所稽首. 公は齊侯と会い、蒙において盟を結び、孟武伯は見ていた。齊侯は稽首し、公は拜し、齊人は怒った。武伯は言う。天子でなければ我が君は稽首するところではありません。  稽首と拝に違いがあって、稽首は天子に対して行うことがわかる。ちなみに春秋のころの天子とは王で、後漢のころの天子は皇帝のこと(後者は下記参照。『独断』の記述より)。 ・Re:三国志の皇帝の呼び名について http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2775  また稽首と頓首は皇帝への上書の文面にも形式として出てくるとのこと(こちらも『独断』の記述より)。敬意を表してのことだろうね。 ・上表・上疏・上奏の違い http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2906  話が少し脱線するが、そう言えば形式として「拝」も文面として出てくるね。例えば下記記事のように「謁」や「刺」に「再拝」(二回、拝する)と書かれている。再拝が日常のどういうシチュエーションでなされるか、今後、『礼記』や『儀礼』を当たらないとね。 ・三国時代あたりの名刺(謁、刺) http://cte.main.jp/newsch/article.php/566  続けて、三番目の空首。『中国社会風俗史』によると空首は画像を交え前述した一般的な拝に相当するそうな(根拠がよくわからんが)  そこの出典として上がっているのが『荀子』大略篇第二十七の記述。 平衡曰拜,下衡曰稽首,至地曰稽顙。 平衡が拝と言い、下衡が稽首と言い、地に至るのが稽顙と言う。  とのことで、平衡とは『中国社会風俗史』によると頭と腰が平らになることで、下衡は腰より頭が下がる場合とのこと。その記述に準じて上の画像の真ん中の人が拝するということにしている。  また拝のポーズは『礼記』内則によると、 凡男拜.尚左手. およそ男が拝するのは左手を尚(うえ)にする。 凡女拜.尚右手. およそ女が拝するのは右手を尚(うえ)にする。 ...

3. メモ:踞牀
※随分前に書きかけで放置していたのをちょっとつけ足してアップしました。放置するとそのまま日の目をみない恐れがありましたので。  2006年11月10日に発売した文庫の「十八史略 2 権力の構図」を読んでいると、自分が肝心なエピソードを忘れていたことに気付く。ちょうど漢朝のできる前のところ。劉邦関連のエピソードのところだ。 ・史記卷八 高祖本紀第八 [麗β]食其(謂)〔為〕監門、曰:「諸將過此者多、吾視沛公大人長者。」乃求見説沛公。沛公方踞牀、使兩女子洗足。[麗β]生不拜、長揖、曰:「足下必欲誅無道秦、不宜踞見長者。」於是沛公起、攝衣謝之、延上坐。食其説沛公襲陳留、得秦積粟。 ※史記[麗β]食其伝では「沛公方倨牀」となっている  訳は略すんだけど、このエピソードは[麗β]食其が沛公(漢の高祖、劉邦)に面会した際、沛公が牀の縁に踞し足を二人の女子に洗わせていたというもの。 <2007年11月16日追記>  「不拜、長揖」については下記記事参照 ・三国創作のための拝メモ http://cte.main.jp/newsch/article.php/736 <追記終了>  このエピソードのことをすっかり忘れていたんだけど、ここで私が注目したのは「沛公方踞牀」のところ。字通CD-ROM版で調べると「踞」とは腰をかけてすわる意味らしい。ちょうど右の図のようになるかな。  つまり沛公は牀に腰掛けていたとのこと。「牀」に関してはここ三国志ニュースで過去、何度か取り上げているので、そちらの記事(下記の三つ)を参照のこと。 ・「牀」 三国志の筑摩訳本を読む http://cte.main.jp/newsch/article.php/221 ・牀や榻のことばかり http://cte.main.jp/newsch/article.php/286 ・跪坐と垂足坐 http://cte.main.jp/newsch/article.php/344  三つ目の記事で書いていた「垂足坐」は当時の言葉でいうと「踞」となるんだね(「漢代物質文化資料図説」とエピソードを合わせると沛公の無礼さがどれぐらいかを伺い知ることができる)。  この「踞」は前々から私が知りたかった言葉だ。言葉をしっておくと電子テキスト内を検索するときに便利なものとなる。例えば椅子なんてない当時、実際、一般的には「踞」なんて座り方がどういったシチュエーションで行われていたか調べることができる。  今、さらっと三国志およびその注から「踞」で検索をかける ・三國志卷十六 魏書十六 任蘇杜鄭倉傳第十六 帝大怒、踞胡牀拔刀、悉收督吏、將斬之。 こちらは「牀」ではなく「胡牀」(胡床)。踞すことができる椅子に近い座具だったのかな。 ※参照 http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=532 ・三國志卷五 魏書五 后妃傳第五の注に引く魏略 後太祖就見之、夫人方織、外人傳云「公至」、夫人踞機如故。 機織り器にも踞す。ここらへん画像石などに描かれている様と一致する。  あと「箕踞」という座り方。「箕」単体だとちりとりの意味で、総じて図のような座り方となる(例によって字通CD-ROM版を引いている)。エピソードの例としては下記のとおり。先主(劉備)の前でも箕踞している簡雍の様子が有名かな。 ・三國志卷三十八 蜀書八 許麋孫簡伊秦傳第八 在先主坐席、猶箕踞傾倚、威儀不肅、自縱適 <1月19日追記>  『中国社会風俗史』東洋文庫151を読んでいると、腰掛けて座るのは「據」ともいるらしい。用例は『世説新語』に多いとのこと。  確かに検索かけてみると『世説新語』にやたら「據胡牀」って言葉がひっかかる。 <10月13日追記> 『礼記』曲礼上第一に「坐毋箕」とある

4. 捜神記の日本語訳
 「捜神記」は、晋書干宝伝によると三国時代の後の晋の時代の干宝(字、令升)が編纂した三十巻の書物で、三国志の裴松之注でたびたび引用される。不思議な話をあつめている。  この「捜神記」は漢文であれば、以下のサイトで見ることができる。 ・Project Gutenberg http://www.promo.net/pg/index.html ここの「Project Gutenberg」→「Search」→「Chinese」→「Sou Shen Ji」 http://www.gutenberg.org/browse/authors/b#a2398 ※要Big5(繁体字)フォント  また出版では捜神記は本文・書き下し文・通釈・語釈の体裁で出版されている。 ・先坊幸子・森野繁夫/編「干寶『捜神記』」(白帝社、ISBN4-89174-693-9) ※追記 「捜神記」で検索される訳  それでネットでは訳はないかというと、全訳でないながらも老舗中の老舗にあった。青空文庫だ。読むのに対価のいらないインターネット図書館だ。 ・青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/ ・岡本 綺堂/著「中国怪奇小説集 03 捜神記(六朝)」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card1298.html  ちなみにこれを知ったのが、下記のサイトの記事。 ・Die Dunkle Seite http://motch.cside.com/dds/ ・記事「ぶきっちょ元海」 http://motch.cside.com/dds/diary/051113.htm  岡本 綺堂って人は明治から昭和初期の人なんだね。そんな時期に捜神記が訳されているとは驚き。それで実際、岡本 綺堂/著「中国怪奇小説集 03 捜神記(六朝)」と捜神記の原文を比べて読んでみる。まず目に付いたのは順番が上のサイトにある原文とちがうこと、それに岡本 綺堂/著の方は前書きとわかりやすく各話にサブタイトルがついていること。ちょっと読んだ感じだと、案外、忠実に訳される。  それでどんな話が載っているのか原文とどう違うか把握するために、順にサブタイトルごとに「時期や場所」 「登場人物」 「掲載巻数」の順で下にまとめてみる(項目に該当するのが見あたらない場合は「△」にしてる)。  そのまとめを見てみると、三国志関連の時代や有名人(朱桓、麋竺、孫[糸林])が結構、出ている。あと日本にもある羽衣伝説の元ネタかな、と思われるのもある。 ・首の飛ぶ女  秦時→呉時 朱桓 搜神記卷十二 ・※[けものへん+矍]猿  蜀中西南高山之上 蜀の西南地方の楊姓 搜神記卷十二 ・琵琶鬼  呉赤烏三年 楊度 搜神記卷十六 ・兎怪  魏黄初中 △ 搜神記卷十七 ・宿命  △ 陳仲挙 搜神記卷十九 ・亀の眼  古巣&秦 △&△ 搜神記卷二十&搜神記卷十三 ・眉間尺  楚 干将莫邪 搜神記卷十一 ・宋家の母 ...

5. 三国創作のための『儀礼』メモ
 以前、三国創作における冠などかぶりものに関して「最低限、進賢冠と武冠が描かれていればリアリティが増すのかなぁ」と強引な説を書いてみた(下記リンク先)。 ・メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」 http://cte.main.jp/newsch/article.php/641  それで今度は建物について強引なことを書く。最低限、「堂」が描かれていたらリアリティが出るのかなあ、と思っている。  「堂」とは建物の部分の名称で、地面より高い位置にある台で、その三方が「室」など他の建物の部位に繋がっているのに対し、その南面には壁がなく開けている(逆に「北堂」は北側が開けている)。南側から堂の上にアクセスするには南面の東と西にある階段を使う。つまり階段を使って地面から堂の上へ昇る。また「殿」は『説文』に「堂の高大なる者なり」とあり基本的に堂と同じ構造なんだろう。堂の子孫だろうなと思えるものが今でも神社仏閣(それに舞台も?)に見られる。  こういった堂は後漢時代あたりの明器によく見られる題材となっている。 ※参照(と言ってもほとんど関連性はないが) ・中国古代の暮らしと夢 http://cte.main.jp/newsch/article.php/317  それで何で「堂」かというと、多くの日常的な活動の舞台となっているからだ。  少々、遠回りになるが、以下、ここに至るまでの説明。  当時の社会風俗を知ろうと思えば、墓から出土された明器や畫像石・畫像磚に描かれたものを参照・適合にしながら、文献を読み解いていけば良いんだろう。こっちは三国志ファンなもんだから、当時の文献で真っ先に思い付くのが『三国志』や『漢書』『後漢書』などの史書になっちゃうんだけど、それはあくまでも歴史のトピックスが書かれていて日常的なことが書かれることは希になる。強いて言えば『後漢書』の志の部分かな、禮儀志や輿服志があるし。そこで史書以外で社会風俗がよく書かれている当時の文献は何かと行き着いたのがいわゆる三礼。三礼とは経典の『周礼』『儀礼』『礼記』のことで、『三国志』中にも数例その単語が見られ、有名どころでは『後漢書』盧植伝で「作尚書章句・三禮解詁。」とあり盧植が三礼の解詁を作ったことが書かれている(『字通』CD-ROM版によると「解詁」→「訓詁」で「字義の古今を解く。」とのこと)。このうち、ごく簡単に書くと(※というか私の理解が乏しいので簡単にしか書けない)、『周礼』は制度について書かれてあり、『儀礼』は礼に関する行動が細かく書かれてあり、『礼記』は『周礼』と『儀礼』との両方の性格を併せ持っているとのこと(自転車で喩えるとロードレーサーとMTBとの両方の性格を持つクロスバイクといったところか。悪く言えばどっちつかずとも言うが)。  三礼のうち、当時の社会風俗を具体的に浮き彫りにしているのは『儀礼』だろう。もっとも経典なので教科書的で礼として理想化されてそうだが、それを差し引いてもよく当時の様子をよく残していると思っている。そういう考えで『儀礼』の訳註を探し大手書店に行ったものの見つからない。書店の検索端末で「儀礼」と検索すると、普通名詞の「儀礼」を持つタイトルが並んだため、『儀礼』が見つかりにくい。ようやく『儀礼』が見つかったものの在庫無し。仕方ないので、『礼記』の訳註(明治書院の新釈漢文大系シリーズ、原文、書き下し、通釈、語釈)に目を通すと、冠婚葬祭の個々の人の行動は元より、宴会や食事の様子まで書かれていて、これでも目的の多くは達せられると思い、暇があれば目を通していた。そこには具体的に細かく書かれているんだけど、冒頭で書いた堂をはじめ、稽首、答拜、揖やら簟やら馴染みのない単語が出てくる。もちろんこれらは語釈に解説があるもののどうもイメージとしては想像しにくい。これを三国志ファンにもわかりやすく喩えると『三国志』蜀書[广龍]統伝の注に引く『襄陽記』に「孔明毎至其家、獨拜牀下、徳公初不令止」とあっても孔明がしていた「獨拜」がどんなものか「牀下」がどんなところなのかそれぞれの単語を知った上でさらに全体像を掴むことに似ている。 <参照>「牀」 三国志の筑摩訳本を読む http://cte.main.jp/newsch/article.php/221  まぁ『三国志』自体もそうだけど、「どうせだったら『ヴィジュアル礼記』なんかあったら便利だなあ」と思っていた。  そんなおり、図書館で見かけたのが池田末利/訳註『儀礼』(東海大学古典叢書)。『礼記』より『儀礼』の訳註を探していたことをすっかり忘れていたんだけど、試しに全四巻のうち一巻、つまり『儀礼I』を借りることにする。箱入りのハードカバーで同じ箱には『儀礼I 別冊図』として訳註とは別の冊子があり、そこには折り込みで45枚の図がある。どんな図かというと建物の平面図(ほとんど堂が描かれてある)があり、それぞれには『儀礼』の本文に対応した人物の配置や人物の行動が描き込まれている。それが右上の写真(少々分かりにくいが、図があってそこに文字があれこれ書き込まれているという雰囲気だけでも)。立体ではないにせよ、まさしくヴィジュアルなのだ。  それで『儀礼I』の冒頭にある「自序」を読むと、こういった「空間的に再構成」することは『儀礼』を理解するために必要と考えられているようで、その例として「台湾の孔徳成氏等の儀礼グループでは十六ミリの映画を使用していると聞く」(※本来は旧字体で書かれているが表示の都合上、書き替える、以下、同じ)やら「さらに、焦循は十七篇のうち喪服・士喪・既夕・士虞礼を除く十三編については「習礼格(※「すごろく」とルビ)」を作って習うことを述べている。則ち、朝廟や庠に門・階・堂などを記入した紙の奕秤(※二字合わせて「ばん」とルビ)を作って、それぞれ人物・器物、それに揖・拝などの行動を示す棋(※「こま」とルビ)を木か石で種別に作り(後略)」やらが出ている。部外者だから無責任にここらへんはお人形ごっこを連想し、笑ってしまうんだけど。器物図は聶崇義/撰『新定三禮圖』に拠っているとのことなので、『中国社会風俗史』同様、畫像磚石・俑などの出土史料に基づいている訳ではないので注意が必要かな。  さて『儀礼』に目を通し新たな発見が楽しみだ(その前に『礼記』に目を通し終えたいところだけど・汗)  こういうふうに堂は当時の日常生活で重要な場所なんだけど、三国創作において堂を描いたのは良いが、堂上で「踞する」描写をしてしまってはリアリティが台無しになってしまうのでそこらへんは注意が必要となる。 ・メモ:踞牀 http://cte.main.jp/newsch/article.php/485 <2008年7月14日追記> ・池田末利/訳註『儀礼』(東海大学古典叢書) 巻の内訳 儀禮I  士冠禮 士昏禮 士相見禮 郷飲酒禮 郷射禮 儀禮II  燕禮 大射儀 聘禮 公食大夫禮 覲禮 儀禮III  喪服 儀禮IV  士喪禮 既夕禮 士虞禮 <追記終了> ※関連記事 佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年) ※追記 メモ:東漢人多為舉主行喪制服

6. メモ:虎牢関って
 手元のサイトのアクセスログを見ると、ちょくちょく検索されるワードに「虎牢関 場所」というものがある。それほど、虎牢関の場所を知りたがっている三国志ファンが居るのだろうな、と実感していた。というわけで迷える三国志ファンのために少しでもお役に立てれば良いなとおもいつつ、「虎牢関」について私が知っていることをメモしておこう。  白話小説である『三国演義』には「第五回:發矯詔諸鎮應曹公、破關兵三英戰呂布」に董卓の軍勢と袁紹の軍勢が戦う場として「汜水関」や「虎牢関」が出てくる。『三国演義』において、前者では関羽が華雄を一刀のもとに斬り捨てたシーンで有名な場所で、後者は劉備・関羽・張飛が呂布と戦ったシーンで有名な場所。そのため三国志ファンの間では特に「虎牢関」が良く知られている (↑一応、記事の前提条件を読者に確かめてもらう文)  「虎牢」という地名自体はすでに『史記』や『漢書』にも見られ(例えば『史記』三代世表、『漢書』五行志)、さらに『史記』の注に 正義括地志云:「洛州氾水縣古(之)〔東〕[(埒虎)の土を抜いた字]國、亦鄭之制邑、又名虎牢、漢之成皋。」 <清岡による頼りない訳> 正義括地志に言う。「洛州の氾水県は古の東[(埒虎)の土を抜いた字]国であり、また鄭の制邑であり、またの名を虎牢であり、漢の成皋だ」 とあり、「虎牢」は漢代では「成皋」と呼ばれている。  それで本題の『三国志』では「成皋」という地名は出てきており、『三国志』魏書武帝紀ではズバリ、董卓の勢力との戦いのところで出ている。長いが以下に標点がついた文を引用し、頼りない訳をつけておく。あと解りやすいように譚其驤(主編)『中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期』(中國地圖出版社出版)を元とした関連地図をこの記事につけておく。「成皋」という地名に注目。 初平元年春正月、後將軍袁術・冀州牧韓馥・豫州刺史孔[イ由]・[六/兄]州刺史劉岱・河内太守王匡・勃海太守袁紹・陳留太守張[しんにょうに貌]・東郡太守橋瑁・山陽太守袁遺・濟北相鮑信同時倶起兵、衆各數萬、推紹為盟主。太祖行奮武將軍。 二月、卓聞兵起、乃徙天子都長安。卓留屯洛陽、遂焚宮室。是時紹屯河内、[しんにょうに貌]・岱・瑁・遺屯酸棗、術屯南陽、[イ由]屯潁川、馥在[業β]。卓兵彊、紹等莫敢先進。太祖曰:「舉義兵以誅暴亂、大衆已合、諸君何疑?向使董卓聞山東兵起、倚王室之重、據二周之險、東向以臨天下;雖以無道行之、猶足為患。今焚燒宮室、劫遷天子、海内震動、不知所歸、此天亡之時也。一戰而天下定矣、不可失也。」遂引兵西、將據成皋。[しんにょうに貌]遣將衛茲分兵隨太祖。到[(螢)の虫が水]陽[シ卞]水、遇卓將徐榮、與戰不利、士卒死傷甚多。太祖為流矢所中、所乘馬被創、從弟洪以馬與太祖、得夜遁去。榮見太祖所將兵少、力戰盡日、謂酸棗未易攻也、亦引兵還。 太祖到酸棗、諸軍兵十餘萬、日置酒高會、不圖進取。太祖責讓之、因為謀曰:「諸君聽吾計、使勃海引河内之衆臨孟津、酸棗諸將守成皋、據敖倉、塞[(車環)の王ぬき]轅・太谷、全制其險;使袁將軍率南陽之軍軍丹・析、入武關、以震三輔:皆高壘深壁、勿與戰、益為疑兵、示天下形勢、以順誅逆、可立定也。今兵以義動、持疑而不進、失天下之望、竊為諸君恥之!」[しんにょうに貌]等不能用。 <清岡による頼りない訳> 初平元年(紀元190年)の春正月に後将軍の袁術、冀州牧の韓馥、豫州刺史の孔[イ由]、[六/兄]州刺史の劉岱、河内太守の王匡、勃海太守の袁紹、陳留太守の張[しんにょうに貌]、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、濟北相の鮑信が同時に共に兵を起こし、衆はそれぞれ数万であり、袁紹を盟主に推した。太祖(曹操)は奮武将軍を兼行した。 二月、董卓は(山東で)兵が起こったと聞き、すなわち天子の都を長安に遷した。董卓は洛陽に留まり駐屯し、ついに宮室を焼いた。この時、袁紹は河内に駐屯し、張[しんにょうに貌]、劉岱、橋瑁、袁遺は酸棗に駐屯し、袁術は南陽に駐屯し、孔[イ由]は潁川に駐屯し、韓馥は[業β]に在った。董卓の兵は強く、袁紹らは敢えて先に進もうとはしなかった。太祖(曹操)は言う。「義兵を挙げ暴乱を誅しようと、大衆は既に集合し、諸君は何を疑いましょうか? 仮に董卓が山東の兵起を聞いているのであれば、王室の重に依り、二周の険(要害)に拠り、東へ向かい天下を望むでしょう。道が無くこれを行うといえども、なお満ちて患いとなります。今、宮室を焼き、天子を脅し遷し、海内(天下)は震え動き、帰す所を知らず、この天の亡ぶ時です。一戦で天下が定まり、失敗することはできません」 遂に(曹操は)兵を西へ引き、まさに成皋をよりどころとしようとした。張[しんにょうに貌]は将の衛茲を遣り、兵を分け太祖(曹操)に随行させた。[(螢)の虫が水]陽の[シ卞]水に至り、董卓の将、徐栄に遭遇し、戦い利を失い、士卒の死傷がはなはだ多かった。太祖(曹操)は流れる矢により当たるところとなり、馬に乗るところで傷を被り、従弟の曹洪は馬をもって太祖と共に、夜に逃れ去ることができた。徐栄は太祖が率いる兵が少ないところを見て、一日中、力戦し、酸棗は未だ攻めやすくないと思い、また兵を引き帰った。 太祖(曹操)は酸棗に至り、諸軍の兵十万余りで、日々、酒を置き盛宴を張り、積極的な行動を図らないでいた。太祖(曹操)はこれを責め、謀ることに因りて言う。 「諸君は吾の計を承け、勃海(袁紹)には河内の衆を率い孟津に臨んでいただきき、酸棗の諸将には成皋を守っていただき、敖倉に拠り、[(車環)の王ぬき]轅(関)、太谷(関)を塞ぎ、それら険(要害)すべてを制していただきます。袁将軍(袁術)には南陽の軍を率い丹(水)、析に陣取り、武関に入ることで、三輔を驚かせていただきます。皆、土塁で深い壁で、戦うことなく、疑兵を増やし、天下に形勢を示し、順をもって反逆者を誅殺し、定めを起こしてください。今、義の動きによる兵は、疑いを持ち進まず、天下の望みを失い、密かに諸君のためにこれを恥じています!」 張[しんにょうに貌]らは用いることができなかった。 ※[(車環)の王ぬき]轅と太谷を「関」としている理由は後述。  ここで注目ししばし覚えてほしいことは「成皋」という地名が出てくるものの実際に戦いはない。また「[(車環)の王ぬき]轅(関)」、「太谷(関)」、「武関」と「関」が出てくるもののこの時期、実際、山東勢と董卓による戦いが行われなかったことだ。  『三国志』において「虎牢」という言葉はなく(但し、『三国志』魏書文帝紀の注に引く『魏書』の詩に「虎牢」という言葉が載っている)、反董卓時期に「関」での戦いも載っていないので、従って  『三国志』に「虎牢関」は載っていない ということになる(「汜水関」も載っていない)。 ※「関」が何かは下記のURL先参照。 ・関所の役割(「三国志ファンのためのサポート掲示板」、通称、サポ板内ツリー) http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2880  もっと掘り下げると当時、「成皋」辺りに「関」があったのかどうかということになる。「[(車環)の王ぬき]轅(関)」、「太谷(関)」、「武関」は洛陽から見てそれぞれ南東、南東、南西にあり、東にある「成皋」からほど遠い位置にある。この時期あたりで、この三つの関以外に出てくる関は『三国志』魏書武帝紀において董卓秉政時期に曹操が洛陽から密かに東へ帰る下りで出てくる。 太祖乃變易姓名、間行東歸。出關、過中牟、為亭長所疑 <清岡による頼りない訳> 太祖(曹操)はすなわち姓名を変え、密かに東へ帰った。関を出て、中牟を過ぎ、亭長に疑われるところとなる。  また、この部分の直前の注に引かれる『魏書』には 從數騎過故人成皋呂伯奢。 <清岡による頼りない訳> 数騎を従え、昔馴染みの成皋出身の呂伯奢のところを訪れた。 とある。但し「成皋呂伯奢」が成皋出身の呂伯奢という意味で現住所かどうかわからないが。 <関連記事>2006年7月29日大学院特別講演会「曹操殺呂伯奢」雑感 http://cte.main.jp/newsch/article.php/388  それでこの関は何かというと、『三国志』からは見出せず、対象となる時代が近い『後漢書』から見出せる。  『後漢書』皇甫嵩伝で黄巾から洛陽を守る準備をするという下りで、 詔敕州郡修理攻守、簡練器械、自函谷・大谷・廣城・伊闕・[(車環)の王ぬき]轅・旋門・孟津・小平津諸關、並置都尉。 ※大谷・[(車環)の王ぬき]轅在洛陽東南、旋門在汜水之西。 <清岡による頼りない訳> 詔敕により州郡に攻守の修理をさせ、函谷、大谷、廣城、伊闕、[(車環)の王ぬき]轅、旋門、孟津、小平津の諸関より器械を選び出し、並びに都尉を置く ※注。大谷・[(車環)の王ぬき]轅は洛陽の東南に在り、旋門は汜水の西に在る。 というのあり(これを見ると前述の「孟津」も関のことかも)、さらに『続漢書』郡国志によると 成[四/幸](皋)有旃然水。有瓶丘聚。有漫水。有汜水。 ということで、成皋に汜水がある。  まとめると曹操は東へ帰るときに通った関は「成皋」近くにある「旋門関」の可能性が高い。  話を戻し、対象となる時代を順に『三国志』から正史類を見ていくと、『宋書』小帝紀で ...

7. 三国志 地図
 個人サイトを運営していると、ネット上のどういった経路で自サイトのページへアクセスされるか気になるもので、そういったことを調べるのにアクセス解析という手法がある。  アクセス解析のやり方とかそういった話はここでは割愛して、アクセス解析によっていろんな情報が得られるんだけど、その中で、自サイトのページにアクセスする前に居たページの情報、つまり「リンク元のURL」(HTTP_REFERER)が含まれている。  ※アクセス解析によって得られる情報は下記のリンク先参照。 http://www.mse.co.jp/ip_domain/domain_text.html#brows  (余談だけど、今日からホスト名「YahooBB…」が「softbank…」に変わったんだね)  googleやyahooなどの大手検索サイトの検索結果ページのURLにはどういった言葉で検索したかといった情報が含まれている。そのため、大手検索サイトからの「リンク元のURL」をアクセス解析によって見ることで、どんな言葉で検索され自サイトのページに来たかわかるようになっている。  それを眺めていると世間で三国志関連のどんなことに興味を持たれているか、その一端を知ることができる。  例えば、ちょっと前までだったら「バショクショック」だったり「川原 三国志」だったりした。 ・「バショクショック」で辿りつけるところ http://cte.main.jp/newsch/article.php/188 ・「川原 三国志」で辿りつけるところ http://cte.main.jp/newsch/article.php/220  あと、三国志と実は関係のなかった方の「二宮事件」とか、それとごく最近ではやたら「捜神記」(あるいは「復活」「干宝」「漢文」「訳」)が引っかかる。何か、模試の問題にでも使われたんだろうか?? ・「二宮事件」で辿りつけるところ http://cte.main.jp/newsch/article.php/184 ・「捜神記」で辿りつけるところ http://cte.main.jp/newsch/article.php/225  と前置きで思わず脱線してしまったんだけど、そんな検索ワードの中でそれほど多くないんだけど、常にある一定の数があるのが「三国志 地図」という検索ワードだ。  三国志ファンの中で当時の地名の入った地図をほしがっている人が結構、いるんだろうな、と想像できてしまう。  ネットで「三国志 地図」ときいて連想できるのは「むじん書院」。ただ期間限定なんだけど。三国志関連の地図を載せているだけじゃなく、Windowsでの地図の作り方まで書かれてある。 http://www.project-imagine.org/mujins/  あと三国志ファンだったら、書籍の付録としてついている地図を使うというようなことをしているのかな。筑摩書房の世界古典文学全集の「三国志」訳本(ハードカバー)の付録の地図とか。  それと三国志ファンの中でも知識系ファンで定番になっているのが譚其驤「中国歴史地図集」第三冊 三国・西晋時期(それか第二冊 秦・西漢・東漢時期)。 http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=420  郡境や県城に到るまで事細かに書かれているものの、文字が日本人には馴染みがうすい簡体字で書かれているということ、中国の書籍なので入手が難しいということ、なかなか欲しい時代のものがばら売りしていないということなどの短所があり、大まかに位置関係を知りたいという人にはあまりお勧めできない。  気軽に三国志の地名の大まかな位置関係を知りたい場合は、下記のリンク先で販売している「三国志地図」両面下敷きがおすすめ。 ・三国志グッズ総合オンラインショップ「英傑群像」 http://www.chugen.net/  オモテが州郡地図、ウラが主要戦争地図になっているとのこと。詳しくは下記のリンク先参照のこと。 http://sangokushi.chugen.net/?eid=396270 http://sangokushi.chugen.net/?eid=401183  元が下敷きなので、三国志ファンの集いやアミューズメントパーク、それに学校にも持っていける感じ。また三国志関連の本を読むときに見比べたり、ファン同士で話すときなど便利っぽい。

8. 前漢に鐙はあった?!
ほかの三国志ファンには大したことないかもしれないけど、私にとって重大なこと。 趣味で小説を書くにあたり、資料としてちょくちょく「中国古代の服飾研究(増補版)」という本を図書館から借りている。 http://cte.main.jp/sunshi/w/w021124.html ↑その本。増補版の原本は1992年に書かれ1994年に訳されたそうな。 それで資料としてなので未だに一通り読むなんてことはしていない。 それで何気なく、136ページから140ページまでの「漢の刻画に見られる数種の騎士」という項目をみていた。 136ページから139ページまでは前漢の騎馬画像(壁画とか)が掲載されていて、あぁ、これが胡族の服装か、これが騎士の服装かなんて見てたんだけど、最後のページにでてきたのが「石寨山出土の銅製騎馬像」の写真とそれを解説する文章。石寨山とは雲南省晋寧県にあるとのこと。 まぁ、それは気にならなかったんだけど、問題はその文の方。 騎馬画像には詳しく書かれていないが、このころ(文の流れ的に前漢?)にすでに鐙(あぶみ)があったとすることが書かれていて、その証拠として同じページの「石寨山出土の銅製騎馬像」の写真があげられている。 その写真を見ると鐙と思われるものが確かに写っている。サイドビューだから左右二本ついているかどうか不明だけど。 また、本文にも書かれていたことなんだけど、青銅像と違って画像の方はいっさい鐙が描かれていない。 単に描画技術や技法上の省略なのか、それほど鐙が普及してなかったのかよくわからない。 それまで私の中の定説は、例えば「中国古代の生活史」の99ページに書かれているように 「鐙は中国では四世紀のおわりごろが早い例で、乗る時のために鞍の片側だけにつけられている。」 といったもので、まさか前漢にすでに発明されていたなんてにわかに信じがたい。 (ちなみに「中国古代の生活史」の100ページに載っている後2世紀の銅製騎馬像には鐙がない) http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=75 ↑「中国古代の生活史」 実際はどうだったんだろ? ほかに何か資料がないかなぁ。 ちなみに銅製騎馬像と同じ雲南省晋寧県石寨山出土の青銅器「狩猟場面貯貝器」が中国国宝展(国立国際美術館、2005年1月18日~3月27日)に出展されていたんだけど、その一部が騎馬像だったが、鐙はなかった。 <2008年1月4日追記> 近頃、思っているんだけど、石寨山出土って滇族の文化だよね。 <2008年6月24日追記> 下記のリンク先(始皇帝暗殺(その2)の方)によると、石寨山出土の騎馬像は片側の鐙だそうな。 ・睡人亭 http://www.shuiren.org/ ・始皇帝暗殺(その2) http://www.shuiren.org/chuugoku/koramu/ko981011.htm#sono2 ※追記 メモ:漢中興士人皆冠葛巾 ※追記 『中国古代の生活史』復刊(2009年12月15日) ※追記 リンク:模範解答でいいのか(ニュースな史点2012/4/30の記事) ※追記 ノート1:三国志学会 第五回大会

9. 曹全を追え
<2008年1月5日追記> 最近、「曹全碑」でこの古い記事が検索されることが多いんで、情報を付け足しておくけど、釈文はサイトの「文物圖象研究資料庫 全文檢索」に載って居るんでそこで探してね <関連>文物圖象研究資料庫 全文檢索 http://cte.main.jp/newsch/article.php/413 ※追記 道教の美術 TAOISM ART(2009年9月15日-10月25日) <追記終了> ・「中国 美の十字路展 ~大唐文明への道~」 http://cte.main.jp/newsch/article.php/197  「中国 美の十字路展」へ行ったとき、数ある展示品の中で特に気になったのがあった。それは「曹全碑拓本」。「中平二年十月丙辰」(西暦185年10月21日)に造られた碑文、その写しだ。隷書で書かれていて、三国志の一人物伝のように名と字と出身地から始まり、その人の業績が書かれている。張角の名も文中に見られる。  「曹全碑拓本」の横に下のような解説文が入っていた。 ---------------------------------------------------------------- 曹全は敦煌の人。西域の武官であった時、疏勒(カシュガル)王の謀反を討伐し功績をあげたが、弟の死に遭い官を捨てた。後に酒泉の祿福長に任じられた時、[合β]陽の県令に選ばれて漢末に起こった太平道の張角率いる黄巾の乱を収拾し、民治に尽力した。これを称え在命中にこの石碑が建てられた。 ----------------------------------------------------------------  実際、拓本を読んでみると、曹全が酒泉の祿福長のときに張角に関することがおこったようで、酒泉郡も黄巾の影響があったのかな、とあれこれ疑問に思っていた。  展覧会を一通り見回ってからまた拓本を読んでいた。見慣れない隷書のせいか、ところどころどういった字かわからない箇所がでてくる。わからないなりにあれこれメモっていたんだけど、帰りのバスの時間が迫っていたんで、諦めてその場を後にする。  家に帰ってから、メモをたよりにネットで検索をかけてみる。  そうすると「曹全碑拓本」の写真がみつかる。 ・漢字情報研究センター(京都大學 人文科學研究所附屬) http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/ ここの「データベース」→「京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料」 ※追記 東アジア人文情報学研究センター(2009年4月)  ここの「文字拓本」のところを探れば「曹全碑拓本」以外にもあれこれでてくる。「京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料」のページからリンクが張られているページでDjVuプラグインをダウンロードすれば(無料)、拡大画像が見れるのだ。  また、「畫像石」のところも史料価値が高い。いろんな画像石や画像磚から当時の服飾や風俗をかいま見ることができるのだ。  しかし、実際、「曹全碑拓本」の拡大写真を見ても清岡のよくわからない文字はよくわからない(汗)  そこでわかる文字をたよりにネットで検索してみると、「曹全碑拓本」を活字にしてくれているページを発見する。 ・琴詩書画巣 http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/ ここの「詩 書」→「漢碑 原文」  なるほどなるほど、こういうことが書かれていたのか。ここであれこれ思ったことを箇条書きに。 ・後漢書傅燮伝の傅燮の上疏にある「今張角起於趙・魏、黄巾亂於六州。」の六州と「曹全碑拓本」にみえる幽冀[六/兄]豫荊楊の六州と数が一致する。中平二年十月の時点では後漢書皇甫嵩伝にみえる八州という認知ではない(?) ・「曹全碑拓本」では六州の乱をあげておきながら、関係のない地域、[合β]陽の県令(司隷左馮翊)となって、乱をおさめている。なぜだろう。郭家たちは実は張角の一味? それとも張角の乱に便乗した? ・黄巾の乱が平定されたとして光和七年十二月己巳(29日)に「中平」と改元したんだけど、史書では中平元年に黄巾の乱がおこったとされることはざら。 http://cte.main.jp/sunshi/w/w040127.html  だけど「曹全碑拓本」では文の流れからちゃんと(光和)七年の出来事としている。 ・張角は当時、「[言夭]賊」という位置づけ。 ・碑陽(碑の表側)では姓+名表記と姓+字表記。だけど碑陰(碑の裏側)では姓+名+字表記ばかり。字に書く表記(変な言い方だけど)では姓+名+字表記はありってことかな。逆に碑陽で「是以郷人為之諺曰重親致歡曹景完」となっているように話す方の表記は姓+字表記(ここでは「曹景完」)なのかな、と前々から思っていたことを確認した。 ・碑陰では役職+姓名字+数字が列記されているけど、最後の数字は何? 張遷碑の碑陰では「銭五百」とかなっているのでこの碑をたてるにあったって寄贈金? ・碑陽にある「學者李儒」や碑陰にある「傳士李儒文優」は後漢書皇后紀に出てくる「郎中令李儒」や三国演義 第三回:議温明董卓叱丁原、餽金珠李肅説呂布に出てくる「(董)卓婿謀士李儒」と同姓同名だから、三国志ファンの話題や創作のネタになるなぁ、とおもって、試しに「李儒文優」と検索したら、すでにネット上で話題になっていた。  まだじっくり読んでないので意外な発見があれこれあるかも。  ちなみに書体に関しては下記のリンク先参照 http://cte.main.jp/newsch/article.php/181

10. リンク:曹操高陵在河南得到考古確認(2009年12月27日)
・枕流亭ブログ http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/ ・曹操の墓キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!  (※上記ブログ記事) http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20091227/p1 <追記>曹操の墓キタ━つづき  (※上記ブログ記事) http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20091228/p1 <追記>曹操の墓キタ━まだつづくんじゃよ  (※上記ブログ記事) http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20091230/p1 <追記>「曹操の墓」に陪葬されたふたりの女性について  (※上記ブログ記事) http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100101/p2 <追記>安陽の「曹操の墓」が冉閔の墓だという説について  (※上記ブログ記事) http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100120/p1 <追記>曹操の墓の石碑に「トイレ」  (※上記ブログ記事) http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100125/p1 <追記>曹操の墓から出土した石碑が偽作との説  (※上記ブログ記事) http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100825/p1  上記ブログ記事で知る。  魏武王高陵(つまり曹操の陵墓)が発見されたという報道が2009年12月27日にあったとのこと。例えば(というより写真入りでの情報源の一つは)下記の「河南文物网」のページとか。 ・河南文物网 http://www.haww.gov.cn/ ・曹操高陵在河南得到考古确认  (※上記サイト記事) http://www.haww.gov.cn/html/20091227/153670.html  ここまで明白だと素人考えながら返って疑ってしまう。まずそれだけ銘(石牌)が出ているのに年月日の書かれたものがないこと(加えて、それだけに根拠を集約させていること)、画像石に描かれたモチーフが、後漢の典型すぎて既視感があること。続報が出ないままってことにならなければ良いけど。  ちなみに史書上では次の記述ね。 ・『三国志』巻一魏書武帝紀建安二十五年春正月条 庚子、王崩于洛陽、年六十六。遺令曰:「天下尚未安定、未得遵古也。葬畢、皆除服。其將兵屯戍者、皆不得離屯部。有司各率乃職。斂以時服、無藏金玉珍寶。」諡曰武王。二月丁卯、葬高陵。 ※追記<訳>庚子(紀元220年1月23日)、王は洛陽で崩御し、年六十六だった。遺令に言う。「天下はなお未だ安定せず、未だ古にしたがい得ない。葬が終われば、皆、服喪を止めろ。その将兵屯戍者は皆、屯部を離れるな。有司は各々、汝の職を修めろ。季節の衣服を(柩に)収め、金玉珍宝を(陵墓)に収めるな」 諡(おくりな)は武王と言う。二月丁卯(紀元220年2月20日)、高陵に葬る。(※清岡コメント。今さらだけど、『禮記』王制に「天子七日而殯.七月而葬.諸侯五日而殯.五月而葬. 大夫士庶人三日而殯.三月而葬」とあって、天子であれば七ヶ月後、諸侯で五ヶ月後、大夫、士、庶人でも三ヶ月後に葬るんだけど、戦時とあってか一ヶ月未満と早いね)  ちなみに下記関連記事にあるように1977年3月に陳思王墓(曹植墓)と遺骨が発見されているので、曹操のものと期待されている亡骸とDNA照合できないかな、とひそかに期待している。 ※関連記事 メモ:『魏晋南北朝壁画墓の世界』  それと伝世文献史料では、下記の『資治通鑑』の胡三省注にあるように、今回の記事にある河南省安陽県と違って、河北の鄴城の西に曹操高陵があることになっている。「西門豹祠」がどこにあるかがネックだそうな。 (※訂正。違ってない。Googleマップで確認すると今回の安陽縣安豐郷西高穴村は鄴城の西、さらには西門豹祠の西の位置にある) ・『資治通鑑』巻第六十九魏紀一黄初元年二月条(胡三省注) 丁卯、葬武王于高陵。(高陵、在鄴城西。操遺令曰:汝等時時登銅雀臺、望吾西陵墓田。魏紀載操令曰:規西門豹祠西原上為陵。) ※追記<訳>丁卯(紀元220年2月20日)、高陵において武王を葬った。(高陵は鄴城の西にある。曹操の遺令に言う。「汝らはおりおりに銅雀台に登り、吾の西陵墓の連なりを望め」 魏紀に載る曹操の令に言う。「西門豹祠の西の原の上を則り陵となせ」) <追記> それで中国情報局(サーチナ)で早速、日本語記事が出ているね。さすが仕事が早い。下記サイトで「曹操」で検索すれば、「三国時代「曹操の墓」発見か、カギとなる石牌を確認―河南省」という「2009/12/27(日) 19:23」付けの記事が出てくる。 ・アジアへの扉、サーチナ。 http://searchina.ne.jp/

11. 三国志とは
 「三国志」って何? と思って検索された人も多いと思うけど、そんな初心者・入門者に「三国志」を簡単にわかりやすい説明。 『三国志』とは歴史書のこと。魏、蜀漢、呉の三つの国の記録。正史類の一つ。 中国の三国時代あたり(2世紀の後半から3世紀の中盤あたり)のことが人物別に書かれている歴史書。 陳寿(西暦233年~297年)という人が編纂した。 間違ったことや紛らわしいことを省くとたったこれだけのこと。 ※ちなみにこの記事では『三国志』に書かれたこと、つまり『三国志』の内容については触れない ただ後の時代の人がその歴史書の中身やその時代以降の言い伝えにドラマ性を見いだしたのか、唐の時代あたりから、講釈やお芝居など物語の題材に使われるようになった。 もちろん講釈やお芝居などだから正確な歴史的事実より面白くなければならないので、いろんなフィクションが入り込んだ。 そんな三国志や三国時代の話を元にした物語をまとめあげ、さらにあれこれ創作を入れ、時系列順に一つの物語にしたのが『三国演義』(『三国志通俗演義』)という書籍。14世紀の羅貫中という人が編纂したといわれている。 この本は版を重ねるごとに細かい部分で内容が変わっていくことになる。そして翻訳され外国へも伝わることになる。 日本では『三国演義』を湖南文山が翻訳(翻案?)した『通俗三国志』が1689年から1692年に刊行され、好評を博し版を重ね、絵入りのものが刊行されることもあった。 その後、日本で今で言う小説の形にしたのが、吉川英治がそれまでの三国志関連の物語を元にし1939年から1943年まで執筆した『三国志』であろう。 ※この小説と前記の歴史書は同名だけど似て非なるもの。以下の「三国志」と名の付く作品も同様。 その後、多くの人が三国志関連の物語を題材に小説を書いている。代表的なものでは、 ・柴田錬三郎/著『三国志 英雄ここにあり』(1966年~1968年)、 ・陳舜臣/著『秘本三国志』(1974年)、 ・北方謙三/著『三国志』(1996年)、 ・宮城谷昌光/著『三国志』(2001年~) また、三国志関連の物語は書き物や小説の類にとどまらず他のメディアにも広がる。 ・主に吉川英治/著『三国志』を元にし、横山光輝が漫画の『三国志』を1972年から1987年まで連載した(※発売日からだと1971年から)。 ・1982年にはテレビ番組で人形によるドラマ『人形劇三国志』(NHK制作)が放送された。 ・1985年には光栄(現、コーエー)からコンピューターゲーム『三國志』(シミュレーション)が発売されその後、続編が発売され、テレビゲームにも移植された。 ・王欣太が漫画の『蒼天航路』(途中まで原作・李学仁)を1994年から2005年まで連載した。 ・本場中国では1994年に中国中央電視台製作のテレビドラマ『三国演義』が放送された。 ・1999年には『三国演義』を元に舞台化された市川猿之助スーパー歌舞伎『新・三国志』が上演された。 ・2000年にはコーエーからテレビゲーム『真・三國無双』(アクション)が発売され、その後、続編が発売された。 ・2005年にはSEGAからアーケードゲーム『三国志大戦』(リアルタイムカードアクション)が稼働開始した。 ・2007年にはバンダイから『三国演義』と『BB戦士』(SDガンダム)を融合させた玩具(プラモデル、フィギュア)『BB戦士 三国伝 風雲豪傑編』シリーズが販売開始された。 このように三国志関連の物語はいろんな時代でいろんなメディアでいろんな作品として存在している。 そのため、一言、三国志ファンといっても、あるファンは『三国志』や関連の史書を読んで史実を見据える歴史ファンであるし、またあるファンは『三国演義』等を読み楽しむ古典文学ファンだし、また一方では大元に『三国志』を題材とした小説を好む読書ファンだし、他にも漫画ファン、ゲームファン、グッズやカードのコレクターなど、いろんなファンを想定できる。 『三国志』に書かれた歴史はすでに3世紀には終わっているものの、今でも多くの人々に語られ愛され、ニュースとして取り上げることができるのは、こういった三国志関連の物語が今も多くの人々の間で生きているからなのかもしれない。 もしあなたが初心者・入門者で、フィクション混じりでも三国志関連の物語を大まかに一通り楽しみたい場合は次にあげる作品をおすすめする。同じ三国志を題材にしている作品といっても受け手に合う合わないがあるので、購入の前にまず借りるなりして試すのが良いだろう。 ○小説 ・吉川英治/著『三国志』 ・陳舜臣/著『秘本三国志』 ・北方謙三/著『三国志』 ○漫画 ・横山光輝/著『三国志』 ・王欣太/著『蒼天航路』 ○映像作品 ・『人形劇三国志』(NHK) ・『三国演義』(中国中央電視台) ○ゲームソフト ・コンピューターゲーム『三國志曹操伝』(シミュレーションRPG、コーエー制作) ・テレビゲーム『真・三國無双』(アクション、コーエー制作)、1,2,3,4,5のどれか一つ ※ノンフィクションとしては、少し初心者・入門者向けから外れるが次の本がおすすめ ・高島俊男/著『三国志 きらめく群像』 というわけで当ブログ「三国志ニュース」では今も生きる三国志関連のニュースをお伝えしている。 ...

12. メモ:武冠のあみあみ
 ここ三国志ニュースでは複数人でブログ記事を書き込めるようになっていて、一人一人がそれぞれプロフィールを書き込むことができる。プロフィールにはいろんな項目があるんだけど、その中に画像を入れるところがある。ここに顔写真とか個性的な絵とかを入れるってこと。  以前まで上の二つの画像のうち左の方をつかっていた。これは2005年1月に大阪であった中国国宝展に展示されていた「透彫香炉」(前5-前3世紀)の透かし彫りパターンの一つを抜き出してスケッチしたもの。元が青銅なのでこんな色にしてみた。 ・中国国宝展(他サイトのレポート) http://cte.main.jp/sunshi/w/w050923.html  ごく一部ですごく好評だったこの画像もそろそろ飽きてきたんで、変更となる。それが下の方の画像。Adobe Illustrator CSで描いている。  この元ネタは林巳奈夫/著『漢代の文物』に載っている、「人文研寫眞」から引く陶俑のスケッチ。つまりスケッチのスケッチってところだろうか。但し、「漢代の文物」は同じスケッチが二カ所、載っていて両者とも白黒だが、片方の[巾責]の部分(私のスケッチでいうところの赤い部分)はグレーで着色が施されている。そのグレーは印刷がもともと白黒だからなんだけど、カラー印刷だとそこは赤色になるんだろう。  実際、私は似たような陶俑を何体も、京都でやっていた特別展「陶器が語る来世の理想郷 中国古代の暮らしと夢─建築・人・動物」で2006年4月に見ている。 ・中国古代の暮らしと夢 http://cte.main.jp/newsch/article.php/317  赤い[巾責]は漢代の武吏の標準的なかぶりものであることが沈従文ら/著「中国古代の服飾研究 増補版」で指摘されており、以前、別のサイトの掲示板に書き込んだ。 http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=72  プロフィールの画像の[巾責]は良いとして、その上にのっているあみあみ。一体これはどんな材質でできているの? とか疑問がわいてくる。まず基本となる続漢書の輿服志をあたる。  続漢書の輿服志に書かれてある、 武冠、一曰武弁大冠、諸武官冠之。侍中・中常侍加黄金[王當]、附蝉為文、貂尾為飾、謂之「趙惠文冠」。 <テキトー訳> 武冠は一に武弁大冠と言われ、諸々の武官がこれを冠する。侍中と中常侍は(これに)黄金の[王當](みみだま)を加え、蝉をつけて文様とし、貂尾を飾りとし、これは「趙惠文冠」といわれる。  さらに晋書の輿服志をあたると 武冠、一名武弁、一名大冠、一名繁冠、一名建冠、一名籠冠、即古之惠文冠。 <テキトー訳> 武冠は一に武弁と名付け、一に大冠と名付け、一に繁冠と名付け、一に建冠に名付け、一に籠冠に名付け、古の惠文冠に近い。 とあり、「籠冠」ってあたりが[巾責]の上に乗っている冠の「あみあみ」な形状をよく表している。と、「籠冠」のくだりは「漢代の文物」の受け売り(笑) しかし『漢代の文物』では特にこの籠部分が何で出来ているとかは書かれていない。  確か、漢代の進賢冠の実物は出土していないんだけど、『漢代の文物』にもスケッチが載っているように武冠(※追記。正確には武冠の籠部分)は武威磨嘴子や馬王堆漢墓から出土している。そのため、材質等は調べればわかる話だ。 ※冠関連の関連リンク ・一梁?メモ http://cte.main.jp/newsch/article.php/365 ・メモ:三才圖會と三禮圖 http://cte.main.jp/newsch/article.php/480 ※追記 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」 ※追記 メモ:三国創作のための扶助会  そこでとりあえず手元の本をあたってみることにする。それは『漢代物質文化資料図説』という本。 ・孫機/著「漢代物質文化資料図説」 http://cte.main.jp/newsch/article.php/351  この書籍の233ページからはじまる「58 服飾II 武士的弁、冠与頭飾」にバッチリのってそうだ。しかし、この書籍の本文は私が理解できない中国語でしかも慣れない簡体字のため、内容を理解するのが困難であり無理を押すと間違った解釈をしてしまう怖れがあった。  でも一体、武冠のあみあみ部分は何でできているんだろう、という好奇心には勝てず中国語の文法を少しも知らず無理して訳してしまう(汗) (※これは大げさな表現ではなく、実際に昨日、私が簡体字の「頭」と「興」の区別がつかない程、中国語を理解していなかったので)  まずは本文の引用から。簡体字では表示できないことが多いので、その都度、EmEditorのプラグインを使って繁体字へ変換しており、それでも表示できないものは[]付きの合成文字で代用しているという何とも中途半端な字体になってしまっている。  将弁和平上[巾責]組合在一起、与進賢冠和介[巾責]組合在一起的情況相似、所以它又得名為“武弁大冠”或“武冠”。雖然從根本上説、它并不是冠、但在流行過程中、它却被加以種種冠類的称謂。≪晋書・輿服志≫説:“武冠一名武弁、一名大冠、一名繁冠、一名建冠、即古之惠文冠。或曰趙惠文王所造、因以為名。亦云、惠者[虫惠]也、其冠文輕細如蝉翼、故名惠文。”其實惠文冠与趙惠文王并無関係、将惠文解釋為[虫惠](蝉)文、亦嫌遷闊。按≪礼記・喪服≫鄭注:“凡布細而疏者謂之[糸惠]。”武弁正是用細疏的[糸惠]布制作的。也有時在制弁的織物上[シ余]漆、馬王堆3号西漢墓与武威磨嘴子62号新莽墓均曾出漆[糸麗]紗弁(58-3・4);前者放置在一個漆[匚+算](86-4)、後者還戴在男尸頭上。磨嘴子弁周圍裹細竹筋、頂部用竹圈架支[才掌]、内襯赤[巾責]、清楚地反映出武弁的實際状況。這些弁的[糸麗]紗均孔眼分明。不僅實物如此、画像石中的武弁、也常特地刻画出網紋来、表示原物的質地是細疏的織物。但当弁[シ余]漆以後、変得堅硬起来、成為一頂籠状的甲殼、即所謂籠冠。籠冠偶見有直接戴在頭上的(58-11)、多数是将它嵌在[巾責]上。  先秦時的書弁是浅紅色的、直到漢代、紅色仍是武士冠服的主要色調。這時在武弁之下用紅[巾責]。上述武威磨嘴子62号墓中襯[執/土]武弁的[巾責]就是紅色的。望都1号漢墓壁画之“門下游徼”所戴的武弁下也透出紅[巾責]。這和≪東観漢記≫所称:“詔賜段[匕/火頁]赤[巾責]大冠一具”(≪御覧≫卷六八七引)正相合。由于漢代的軍官和士兵穿[糸是](黄赤色)衣或[糸熏](暗赤色)衣、戴赤[巾責]、所以紅色成了代表軍人的顔色。≪漢書・尹賞伝≫説:“探赤丸、斫武吏;探黒丸、斫文吏。”≪論衡・商虫篇≫説:“虫食谷……夫頭赤則謂武吏、頭黒則謂文吏所致也。”也正是基于此種原因。 ※ここの(58-3・4)などの()付きの数字は『漢代物質文化資料図説』の挿図に対応している。(58-3・4)がそれぞれ武威磨嘴子62号新莽墓と馬王堆3号西漢墓の漆[糸麗]紗弁のスケッチで、(58-11)が漆[匚+算]という箱のスケッチ、(58-11)が籠冠を直接頭に載せている画像。また、上記の文中に「晋書・輿服志」からの引用部分があるが、「一名籠冠」という記述が抜けている。  それでこれを訳そうと、以前、買った中日辞書を探したんだけど、見つからない(誰かに貸した?)。そのため、以前、掲示板で教えて貰ったオンライン日⇔中辞書「北辞郎」を使うことになる。 ・「北辞郎」に三国志の単語を入れてみる(三国志ファンのためのサポート掲示板の書き込み) http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2034 ・オンライン日⇔中辞書「北辞郎」 http://www.ctrans.org/cjdic/index.php  そもそも文法を知らない私がどんな辞書を使おうとも変な訳文にしかなりえないので、以下に続く訳文が変なのは決してこの辞書のせいではない(笑)。  というわけで、以下に訳文(と言える代物でもないが)。 ...

13. 三国時代あたりの名刺(謁、刺)
 趣味で三国志小説を書いていて、ある人物が留守中に訪ねて来ていて、その人物が置いていった名刺を見るってシーンを書いていたんだけど、後漢や三国時代にこういった名刺があるって初めて知ったのは何だろう、と思い出してみる。  そういや、下記のサイト「睡人亭」の「三国志のページ」の「朱然墓」のページで知ったんだ。 ・睡人亭 http://www.shuiren.org/ ・朱然墓 http://www.shuiren.org/sangoku/syuzen.htm  今で言う名刺とは用途が少し違うんだろうけど、今の名刺に近い物は、当時、「謁」や「刺」と呼ばれていたとのこと。上記ページに上げられる画像の「謁」には実際、木の板に「謁」と書かれている。これで「謁」と「刺」との形式が区別できるってこと。「謁」の方は 持節右軍師左大司馬当陽侯朱然再拜 と形式ばって書かれていて、「刺」は 故[章β]朱然再拜 問起居 字義封 と「謁」より簡単に書かれている。  上記ページによると朱然墓は1984年6月7日に発見されたそうだけど、それより前に出版された林 巳奈夫/編『漢代の文物』(京都大學人文科學研究所1976年12月15日発行、新版は1996年)にも「謁」と「刺」のことが載っている(539ページ)。そこの冒頭には漢劉熙撰『釋名』卷六釋書契から「謁」と「畫刺」について書かれたところを引用してある。以下、そのまま孫引き。 謁、詣也、詣、告也、書其姓名於上、以告所詣者也 ※冨谷 至先生の『木簡・竹簡の語る中国古代』(岩波書店2003年7月29日発行)の88ページを見て気付いたけど「以告所至詣者也」が正解だね 畫姓名於奏上、曰畫刺、作再拜起居字、皆達其體、使書盡邊、徐引筆書之、如畫也  畫刺は「再拜起居」の文字が書かれているってことなので、このあたりが前述の朱然墓の「刺」の特徴をよく対応する。  『漢代の文物』では続けて、1974年に江西省南昌市で発掘された東晋の墓にあった木簡の釈文を例に挙げ、挿図(木簡のスケッチ)付きで説明してある。その釈文は下記。 弟子呉應再拜 問起居 南昌字子遠 豫章呉應再拜 問起居 中郎豫章南昌都郷吉陽里呉應年七十三字子遠  上から二つがおそらく「刺」で三つ目が「謁」だろうな、と思っていたら、『漢代の文物』では続けて、三つ目の説明がある。同じく『釋名』卷六釋書契から引用し、  下官刺曰長刺、長書中央、一行而下也、又曰爵里刺、書其官爵及郡縣郷里也 「長刺」あるいは「爵里刺」としている。  「作再拜起居字」の「刺」の方の例は「文物圖象研究資料庫 全文檢索」(下記)で「再拜」とか「起居」とか検索すれば、釈文を何例か見ることができる。それを見ると、身分を書いていたり、出身郡、出身県を入れていたり、いろんな形式があるんだな。 ・中央研究院歴史語言研究所 文物圖象研究室 http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/index.html ・文物圖象研究資料庫 全文檢索 http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/search.htm ※関連記事 ・文物圖象研究資料庫 全文檢索 http://cte.main.jp/newsch/article.php/413 ※追記 『漢代の地方官吏と地域社会』(汲古叢書75 2008年) <9月23日追記> 2008年5月3日から東京富士美術館で開催される「大三国志展」には朱然の刺が展示される予定とのこと。 ・大三国志展(2008年5月3日-7月13日)関連情報 http://cte.main.jp/newsch/article.php/699 ・三国志―正史と小説の狭間~満田剛のブログ http://mitsuda.blogtribe.org/ ・呉の隠れた名将―朱然とその一族(その1) http://mitsuda.blogtribe.org/entry-9b78ac33b9d3668728b31e3a29504164.html <2008年5月28日追記> 關尾史郎先生のブログに名刺関連の記事があったので情報中継。 ついで、そこから釈文を引用。 ・關尾史郎先生のブログ http://sekio516.exblog.jp/ ...

14. 12月24日は呂布、陳宮、高順の忌日
※関連記事 8月28日は張讓・段珪の忌日 上記関連記事の続き ・青木朋HP++青青 http://aoki.moo.jp/ ・陳羣の年齢について  (※上記ブログ記事) http://blog.aoki.moo.jp/?eid=1489314 上記サイトの上記ブログ記事のコメント覧にあるように、陳羣やその父の陳紀に生没年が気になり、あれこれ文献に当たると下記の記述に行き当たる。 ・『三国志』巻十一魏書袁渙伝注所引『袁氏世紀』 布之破也、陳羣父子時亦在布之軍、見太祖皆拜。渙獨高揖不為禮、太祖甚嚴憚之。 ※「拜」と「揖」の参照記事 三国創作のための拝メモ 少なくともこの時点で「陳羣父子」は生きていると思い、「布之破也」、つまり呂布が敗れた年はいつだったか探す。手っ取り早いのはその頃になると記述が少なくなる『後漢書』本紀だと思い、見てみると次のような記述だった。 ・『後漢書』紀九孝献帝紀 (建安三年、紀元198年)十二月癸酉、曹操撃呂布於徐州、斬之。 「建安三年十二月癸酉」は下記サイト「中央研究院兩千年中西曆轉換」によると、紀元198年12月24日(もちろん旧暦)だと言う。 ・中央研究院兩千年中西曆轉換 http://sinocal.sinica.edu.tw/ この日付は「曹操撃呂布於徐州」に掛かっている可能性もあるが、それに相当する記述で『三国志』巻七魏書呂布伝に「太祖塹圍之三月」とあり、少なくとも三ヶ月間も臨戦状態にあったため、よりピンポイントな出来事となる「斬之」、つまり呂布が殺された日付に掛かっているのだろう。加えて、『三国志』巻七魏書呂布伝には次のような記述がある。 於是縊殺布。布與宮・順等皆梟首送許、然後葬之。 <清岡による訳>ここにおいて、呂布を絞殺した。呂布と陳宮、高順等は皆、さらし首になり許へ送り、その後でこれを葬った。 つまり、12月24日は呂布、陳宮、高順の忌日だ。 ※追記 1月18日は姜維、鍾会の忌日 ※追記 12月24日は陳羣の忌日 ※追記 京都で哲舟さんを囲む会(2013年2月5日)

15. 「高下在心」
「高下在心 故事」とか「高下在心 意味」とかよく検索されるんで、何かと思って再検索してみると、下記のように11月25日の記事が出てくる。 ・MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/ ・「枯れたヒマワリを咲かせたい」 中村紀の楽天入り濃厚か http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/081125/bbl0811252107009-n1.htm ・よくある質問 - MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/faq/faq.htm#Anchor-06 つまり、中村紀選手が野村克也監督から「高下在心」と書かれた色紙を授かったと言う。 「高下在心」、そのまま読めば「高下(高低)は心に在る」といったところなんだろうね。

16. 「牀」 三国志の筑摩訳本を読む
・サポ板の投稿 http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2061  上記リンク先の投稿をする前、三国志蜀書[广龍]統伝と裴松之注のところで三国志の訳本(筑摩書房、世界古典文学全集、今、出回っている文庫本じゃなくてハードカバー本)を参照にしていたんだけど、その[广龍]統伝の注に引く襄陽記で以下のような気になる文を目にする。 孔明はその家を訪れるといつもただ一人寝台の下に額(ぬか)ずいて挨拶したが、徳公はまったく止めようとはしなかった。  「その家」とは[广龍]徳公の家。人の家に訪れるといつも、わざわざ寝台のところまでいってその下で挨拶するだなんて、この孔明ってやつは変態?! そりゃ徳公って言う人も怖くて止められないね!…… …… ……ではなく。  あらかたどういう訳し方なのか予想は付くけど、一応、原文をあたると、 孔明毎至其家、獨拜牀下、徳公初不令止 となっている。つまり「牀(床)」を「寝台」と単純に訳しているから変になっているんだと思う。(※ちなみに中華書局の三国志では「牀」になっていて中央研究院の漢籍電子文獻ではうちの環境だと「床」にみえる)  そういえば他の「牀」がでてくる箇所はどうなっているかと思い、手元の電子テキストの三国志で魏書の武帝紀の初めから「牀(床)」を検索し、引っかかるたびにその該当個所を三国志の筑摩訳本で探し、訳を確かめる。そうすると探すたびに「牀(床)」→「寝台」あるいは「牀」にルビで「ベッド」というふうに訳されている。ただ、三国志の初めの方に出てくる「牀(床)」は「寝台」と訳しても意味の通じるものばかりで冒頭で掲げたような変な意味になることはない。例えば三国志魏書の呂布伝の陳登のところの許[シ巳]の言葉に「自上大牀臥、使客臥下牀。」(みずから大きな牀の上で寝て、客を牀の下に寝させる)とある。何かしら眠っていたり、病に伏していたりするシチュエーションなのだ。  じゃ、三国志の筑摩訳本では「牀(床)」を「寝台」と訳してばかりか、というとそうではなかった。ちょうど三国志魏書も終わりの方の方技伝の管輅のところで、「寝台」とは違った訳を見つける。曰く、 牀(人がその上で坐ったり寝たりする大きな台) となっていた。そうそうこれこれ! 牀の形状は低い台みたいなもので、その上に正座する用途やその上で眠ったりする用途があるのだ。ただ用途別に牀の大きさや形状が違うかどうか、私は知らない。ちなみに牀の上に正座する様子は画像石でよくみかけるシチュエーションだ。  あと、その近くの管輅別伝のところには「牀(おおきなこしかけの台)」と訳されている。私が画像石等で見た限り、当時の中国で、こしかける座り方は馬上かはたを織る器具を使うときしか知らないので、語弊を招く訳なのかな、と思った。(あと「胡牀」について考察の余地ありかな)  それで話を冒頭に戻して。 孔明毎至其家、獨拜牀下、徳公初不令止  これは「牀」は「牀」でも寝台として使う「牀」ではなく座具としての「牀」であろう。以下、素人の戯言だけど、諸葛亮(字、孔明)が拝する(おがむ)にしても、「牀」に座って[广龍]徳公と対等に拝するのではなく、自分を下げて、わざわざ「牀」から降りて地べたで拝するという意味だろう。  にしても三国志の筑摩訳本の文庫化の際にここらへん改善されているのかな。 ※追記 メモ:踞牀 ※追記 「四大奇書」の研究(2010年11月10日) <2007年3月21日追記>  『中国社会風俗史』を読んでいて気付いたけど、「獨拜」って「ただ一人~額(ぬか)ずいて挨拶したが」と訳すとすごく語弊があるね。「獨拜」はつまりここでは徳公が拜せず諸葛亮が拜しているという意味で「獨」なんだね。 ※追記 諸葛孔明(2010年3月5日 学習漫画 世界の伝記NEXT) ※追記 『イナズマイレブンGO クロノ・ストーン』で劉備登場(2012年10月3日)

17. 石刻拓本資料(京都大学人文科学研究所所蔵)
 以前、「曹全を追え」という記事で紹介したんだけど、それとは別に改めて紹介。 http://cte.main.jp/newsch/article.php/198  京都大学に人文科学研究所というのがあって、さらにその中に漢字情報研究センターというのがあるらしい。  そのウェブサイトに「データベース」があってあれこれ歴史ファンとしてあれこれ便利なものがある。 ・漢字情報研究センター(京都大學 人文科學研究所附屬) http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/  まず何か文献を調べようとするときは「東洋学文献類目検索」が便利だし、原文をあたろうとしたときは「東方學デジタル圖書館」が便利だ。三国志ファンであれば「東方學デジタル圖書館」の「史部 後漢書九十卷坿續漢志三十卷」が役に立つかも。後漢は三国時代の前の時代。  今回、私にとって面白いな、と思ったのは「京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料」。  ここでは大きく分けて「畫像石」と「文字拓本」の画像がある。  「文字拓本」は主に石碑を写し取ったやつ。「曹全を追え」の記事で紹介した。  歴史書は対象となる出来事が起こった時期と歴史書が書かれた時期にどれぐらい時間的差があるかというのはその歴史書を評価するのに一つの目安になると思うんだけど、ここにある石碑は歴史書に比べればその時間的差がかなり短い。素人目に見て、当時の状況が生々しく伝わってくるようだ。まぁこの一例は以前の「曹全を追え」の記事参照。 (11月13日追記)  魏晋時代のところに「漢將軍張飛題名」とあったんで、ビックリして見てみたら、備考欄に「明代偽刻」とあってズッコケてもた。  それと「畫像石」。こちらは石棺に刻まれた画像や、お墓の壁に刻まれた画像の写しだ。先に挙げた「文字拓本」がその名の通り文字や文章の情報だったのに対し、こちらは主に絵の情報。絵に描かれる対象は当時の人々の様子や伝説など。三国志ファンとして面白いのは前者の当時の人々の様子の方。現在、見ることのできる三国志漫画やドラマなどの服飾や建物などはその当時のデザインと異なることがほとんどだ。そのため、表現手法が現在と違うといえども「畫像石」に描かれた当時のデザインは逆に目新しく参考になることが多い。  例えば、ここのデータベースでざっと見てみる。「東安漢里石棺南側板外壁 持刀武士畫像」(後漢 a01-12.djvu)は武人の服飾が面白いし、両者とも刀(剣?)を右手に持っているというの参考になる。「山東 人物、戦争畫像」(後漢 a07-19.djvu)では上部のおそらく官吏であろう人物たちの冠や服装が参考になるし、下部の騎馬、実際に戦闘中の図も面白い。馬上で進行方向とは逆に向き、盾で矢を防ぎ、逆の手で刀(剣?)を振りかざしている。あと「山東 戦争畫像」(後漢 a07-22.djvu)では戟と盾をもって行軍している。四川畫像磚では狩猟や塩田や舞楽雑技など人々の様々な様子を見ることができる。 ※追記 古典籍総合データベース(早稲田大学図書館) ※追記 メモ:三国創作のための扶助会 ※追記 メモ:道教の美術 TAOISM ART ※追記 東アジア人文情報学研究センター(2009年4月) ※追記 リンク:中国の連環画の変遷とその描写技法

18. 8月5日は司馬懿の命日
晋書の帝紀(宣帝のところ)を見ると (嘉平三年、紀元251年)秋八月戊寅、崩於京師、時年七十三。 となっていて http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr&tree=1824 ↑ここを参考にしつつ、日を特定すると、どうやら紀元251年8月5日に司馬懿(字、仲達)は崩御したそうな。 ついでにいうと、司馬懿の息子の司馬昭(字、子上)は晋書の帝紀(文帝のところ)をみると (咸熙二年、紀元265年)秋八月辛卯、帝崩于露寢、時年五十五。 となっておりどうやら紀元265年8月9日に崩御したそうな。 しらなんだ。

19. 文物圖象研究資料庫 全文檢索
 9月17日に長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」があってそれに一般聴講しにいくんだけど、それにおつむを無理からにでもあわせるため、最近は暇を見つけて「長沙呉簡研究報告」第1集や第2集に目を通している日々だ。  そういえばよくよく思い出してみると、こういう出土資料に目を向けるようになったのは、昔からもっと当時の息吹を感じられる資料を欲していたのは確かだけど、決定的になったのは籾山明/著「漢帝国と辺境社会」という本のおかげ。こんな小さく手軽に持ち運べる本なのに得る物が多すぎる。対象となる時代は前漢時代と三国時代より古いけど、三国創作に携わる人は是非、読んで欲しい本。 ・籾山明/著「漢帝国と辺境社会」 http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=165  その本でここで多くとりあえられているのが居延漢簡。エチナ河流域で発掘された漢代の木簡。漢代では「居延」と呼ばれる地域で発掘されたので居延漢簡と呼ばれるとのこと。  その木簡の内容を含め、いくつかの出土資料に書かれた文を検索できるウェブページがあることを思い出す。一度、見かけブックマークしてそのままだったんだけど、今改めてとなかなか面白いページ。中央研究院歴史語言研究所の文物圖象研究室のサイトの一コンテンツだ(下記)。検索元となる文献も検索結果として出てくる。 ・中央研究院歴史語言研究所 文物圖象研究室 http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/index.html ・文物圖象研究資料庫 全文檢索 http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/search.htm  これだけだとわかりにくいんで、このサイトを知るきっかけとなったサイトとそこを紹介したページをあげておく。 ・睡人亭 http://www.shuiren.org/ ・文物圖象研究資料庫マニュアル http://www.shuiren.org/chuden/toyoshi/zuzou/index-j.html  以前、紹介した曹全碑の全文を検索できたり、当時の成人女性の名前の例を知りたければ「大女」というワードで検索をかけたり、あれこれ楽しむことができる。  長沙呉簡の内容も将来的にこうやって検索できるようになるといいんだけど。 ※追記 古典籍総合データベース(早稲田大学図書館) ※追記 リンク:「漢代における郡県の構造について」 ※追記 メモ:「功次による昇進制度の形成」 ※追記 第24回下鴨納涼古本まつり(京都古書研究会2011年8月11日-16日)

20. 一梁?メモ
 右のは某所のネタで作った画像をさらにアレンジして作った画像。  元ネタは「漢代物質文化資料図説」に載っている山東沂南の畫像石(東漢)の「戴有[巾責]之冠者」の絵。確か「中国古代の服飾研究」にも載ってたっけ。  その画像を鏡像にしたり(それに合わせ服を改造)、髭をとったり、色を付けたりしてポップアートっぽくしてみた。  まず左の人物に注目。頭上の一番上に針金が折れ曲がったような部分が「梁」だ。それが三本あることで「三梁」と呼ばれる。それとは別に頭上にあるのが「[巾責]」。頭上の屋根みたいなのが「顔題」と呼ばれ、それから後側から上に出ている箇所は「耳」と呼ばれる。この「梁」や「[巾責]」をまとめて「進賢冠」と呼ばれる。  梁と「[巾責]」それから、顎にかけてある紐がどういう関係なのかよくわからない。進賢冠をかぶった人物の陶俑があってそのスケッチをみてみたら、[巾責]の外側を通って梁ごと紐で上側から抑えている感じ(晋 長沙)。 <7月14日追記> 枕流亭ブログで服飾のデータベースみたいなところの紹介があった。 ・枕流亭ブログ http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/ ・服飾史 http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20060713/p3 そこのリンクをさらっと辿ってみると、上の陶俑の写真があった。 http://www.pep.com.cn/200301/ca143223.htm ↑右から二つ目。 <追記終了>  ちなみに向かって右の顔の側面から出ているのは筆。元ネタにした画像は向かって左側から出ており、耳の上に筆を置いておく習慣があったとのこと(確か、「中国古代の服飾研究」にそこらへんのことが書いてあったかな)  続漢書の輿服志によると 進賢冠、古緇布冠也、文儒者之服也。前高七寸、後高三寸、長八寸。公侯三梁、中二千石以下至博士兩梁、自博士以下至小史私學弟子、皆一梁。宗室劉氏亦兩梁冠、示加服也。 つまり、進賢冠とは古の緇布冠で、文儒者の服だ。前が高さ七寸、後ろが高さ三寸、長さは八寸となる。公や侯は三梁、中二千石以下、博士に至るまで両梁(二梁)、博士から以下、小史や私学の弟子に至るまで、皆一梁となる。劉氏の宗室(親類)もまた両梁(二梁)の冠を服に加えている、となる。  身分によって梁の数が違ってくる。  それで画像の左が三梁の冠で、真ん中が両梁(二梁)となり、最後は一梁と言いたいところだけど、ここは想像で書いている。  というのも普通に考えると、針金みたいな梁の数が減っていくだけのような気がするが、畫像石で針金一本の梁を見かけたことがない。それに対して、画像の右のような幅のあるものを畫像石で結構、見かけ(但し、円筒上、そのまま大きくなっているのか、板を立てているものなのか、見ようによってはいろんな解釈ができる)、陶俑でも板を折り曲げたような冠を一例、見たことがある(成都羊子山)。なので、一梁はこんな感じだと予想。 ※追記 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」 ※追記 メモ:三国創作のための扶助会

21. 「絵に描いた餅」の元祖?
・絵に描いた餅 役に立たないたとえ。計画などが実現する可能性のないこと。画餅。 三省堂「大辞林 第二版」より 毎週土曜日19時から三国志討論会(チャット)が開かれていることで時間があれば参加しようと思っていた。 それでなかなか参加できないでいたけど、この間の土曜日にようやく参加した。 ・サイト「三国志愛好会」の「三国志討論会」 http://san-gokushi.com/ それで毎回テーマが設定されていて、その時は「三国時代の食物と体型」……だったと思う。 それで三国時代の食物の話題になって、麦を食べていたことはわかるけど麦を何の料理にしたかって話題になっていた。 パン? ナン?って話だったんだけど、そこで出てきた単語が「餅」。 餅の材料というとてっきり餅米からつくるのかと思ったら、そうでもないみたい。 その場で「字通」で調べてみると、麦の粉をまるめ蒸してつくったのが餅だそうな。 それで実際に餅ができる過程が史書に載っていないか、後漢書や三国志を調べる。 そうするとあまり関係ないことが目に付いて気になったのが、三国志魏書の盧毓伝。 盧毓(字、子家)は盧植の息子。 で、時代背景や前後関係の説明を抜いて、いきなりその文を書く。 時舉中書郎、詔曰:「得其人與否、在盧生耳。選舉莫取有名、名如畫地作餅、不可啖也。」 <清岡の適当訳> (盧毓が)中書郎に登用されたとき、詔(みことのり)でいわれる。「その人を採用するかどうかは、つまり盧毓の生業いかんだ。選挙(登用の選抜)は名声があるから採用するのではない。名声は地に画を描いて餅を作るようなものだから、啖(くら)うことはできない」 詔を出すのは皇帝。このときは魏の明帝。 この人が「絵に描いた餅」という言い回しを使った元祖? この言葉の由来? とは言っても、三国志より先行する書物をきっちり調べたわけではないので、元祖がどうかわからないのだった。 なんか、普通に故事でありそうだしね。

22. メモ:三才圖會と三禮圖
 アホなことに私は一時期、『三才圖會』(三才図会)という本と『新訂三禮圖』(新定三礼図)という本を混同していた時期があった。混同していたことを自覚していたものだから、手元の本でいちいちどちらの本からの図かを確認してからネットのコミュニティなりに書いていた。以上のことを過去形の文で書いているものの、今、この両者がどう違うかというのはきっちり調べていない。この調子だとずっと調べずに居そうなので足がかり的にここにメモを残す。最近の記事でやたら「三才圖會」という言葉を書いていたので、ふとそんなことを思い立ったもので。 『三才圖會』は明代の王圻の撰で、百六十巻。凡そ、天文四巻、地理十六巻、人物十四巻、時令四巻、宮室四巻、器用十二巻、身体七巻、衣服三巻、人事十巻、儀制八巻、珍宝二巻、文史四巻、鳥獣六巻、草木十二巻だそうな(ここらへん下記の引用のまる写し)。この中で私がよく目にするのは(というより他の図を私が知らないだけ)、おそらく人物のところ。先の記事でも少しふれたように、肖像画なんて残ってない中国古代の人物をテレビ番組で紹介するとき、その人物像を引いてくるときに引用元として『三才圖會』が便利に使われたりする。そういった映像中心のメディア以外にも普通の書籍にも使われていたりする。案外、歴史関連の本にも無造作に人物像が挿し絵として使われているから油断ならない(最近、見たのは十八史略の訳本文庫とか『グラフィック戦史シリーズ 戦略戦術兵器事典1【中国古代編】』とか)。 余談だけど、昔、「シバタツの野望 全・国・版」(2005年6月1日閉鎖)という個人サイトがあったらしく、そこでは日本の戦国時代を題材にしたシミュレーションゲーム『信長の野望』(コーエー製)シリーズ数作品の人物顔グラフィックスを列挙比較していたらしい(非公式に、だが)。今、Internet Archiveで確認すると、ゲームのグラフィックスだけに留まらず、昔の肖像画や像を付記し、それらがゲームの顔グラフィックスにどう影響を与えたかも寸評中で指摘されていた。『信長の野望』はコーエーの代表的なシミュレーションゲームなんだけど、もう一つ代表的なシミュレーションゲームに『三國志』があるんだけど、言われてみれば『信長の野望』の方が舞台となる時代が近いため(あと地理的にも近いか)参考となる肖像画や像が豊富にあるんだな、と妙に感心してしまった。 ※追記 サイト「司馬鏡 -SHIBAKAGAMI-」 <3月21日追記> とあるサイトを見て回ると中国中央電視台のドラマ『三国演義』を結構、参考にしている。 <追記終了> (実状ではゲームの『三國志』は『三国演義』もベースにしているだろうからさらに話が変わってきそうだけど→参照) ※追記 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」 ※追記 メモ:三国創作のための扶助会 ※追記 ザ・プロファイラー「誰かのために生き抜けるか~諸葛孔明・天才軍師伝説の真実」 (2013年12月18日) ※追記 メモ:戦国三国展(2013年10月22日) ※新規関連記事 メモ:中国ゲーム産業史からみる三国志(「三国志 水魚之交」オンライン講演会2022年3月21日) それから『新訂三禮圖』。宋代の聶崇義の撰。私が初めて『新訂三禮圖』を意識したのが『漢代の文物』の「二 かぶり物、その他身につける物」のところを読んでから。『漢代の文物』のかぶり物の挿圖には『新訂三禮圖』からの図と畫像石・俑のスケッチが並べられていて、両者を見比べると互いに編纂されたり作られたりする時代が離れているせいか、結構、違うものだなぁ、思った。ところが『漢代の文物』が世に出た前の本でも後の本でも、漢代あたりのかぶり物の説明に『新訂三禮圖』からの図が無造作に使われていたりするので油断できない(図についてあれこれ論じているわけではなくても使われていたり。最近、見たのは『中国社会風俗史』東洋文庫151。いやあれはエピソード集みたいな本文が私的に面白いんだけど)。 それで『三才圖會』と『新訂三禮圖』についてサイト「寒泉」にある『四庫全書總目』で調べてみる。 ・寒泉 http://210.69.170.100/s25/index.htm 『三禮圖』については下記のように二つ引っかかる。『新訂三禮圖』は『漢代の文物』を見ると前者の『三禮圖集注二十卷』と撰者が同じ。どこらへんが「新」なのかもうちょっと調べないとな。 03.子部 卷一三八 子部四八 類書類存目二  p-1169 【三才圖會一百六十卷】(浙江巡撫採進本)明王圻撰。是書彙輯諸書圖譜、共為一編。凡天文四卷、地理十六卷、人物十四卷、時令四卷、宮室四卷、器用十二卷、身體七卷、衣服三卷、人事十卷、儀制八卷、珍寶二卷、文史四卷、鳥獸六卷、草木十二卷。 採[才庶]浩博、亦有足資考核者、而務廣貪多、雜特甚。其人物一門、繪畫古來名人形像、某甲某乙、宛如目睹、殊非徴信之道。如據蒼頡四目之説、即畫一面有四目之人、尤近兒戲也。 01.經部 卷二二 經部二二 禮類四(三禮通義・通禮・雜禮書)  p-0176 【三禮圖集注二十卷】(內府藏本)宋聶崇義撰。崇義、洛陽人、周顯德中累官國子司業。世宗詔崇義參定郊廟祭玉、因取《三禮》舊圖、凡得六本、重加考訂。宋初上於朝、太祖覽而嘉之、詔頒行。考禮圖始於後漢侍中阮諶。其後有梁正者、題諶圖云:陳留阮士信受學於潁川綦母君、取其說為圖三卷、多不案禮文、而引漢事與鄭君之文違錯。正稱:《隋書‧經籍志》列鄭元及阮諶等《三禮圖》九卷。《唐書‧藝文志》有夏侯伏朗《三禮圖》十二卷、張鎰《三禮圖》九卷、《崇文總目》有梁正《三禮圖》九卷。《宋史》戴吏部尚書張昭等奏云:《四部書目》內有《三禮圖》十二卷、是開皇中敕禮部修撰、其圖第一・第二題云梁氏・第十後題云鄭氏、今書府有《三禮圖》、亦題梁氏・鄭氏。則所謂六本者、鄭元一、阮諶二夏侯伏朗三、張鎰四、梁正五、開皇所撰六也。然勘驗鄭志、元實未嘗為圖、殆習鄭氏學者作圖、歸之鄭氏歟﹖今考書中宮室車服等圖、與鄭注多相違異。即如《少牢饋食》「敦皆南首」、鄭注云:「敦有首者、尊者器飾也。飾蓋象龜」。周之制・飾器必以其類。龜有上下甲・此言敦之上下象龜上下、甲。「蓋」者意擬之辭。而是書敦與簠簋皆作小龜、以為蓋頂。是一器之微、亦失鄭意。沈括《夢溪筆談》、譏其犧象尊・黃目尊之誤;歐陽修《集古錄》、譏其簋圖與劉原甫所得真古簋不同;趙彥衛《雲麓漫鈔》、譏其爵為雀背承一器、犧象尊作一器繪牛象。林光朝亦譏之曰:聶氏《三禮圖》全無來歷、穀璧則畫穀、蒲璧則畫蒲、皆以意為之、不知穀璧止如今腰帶�蝷W粟文耳。是宋代諸儒亦不以所圖為然。然其書鈔撮諸家、亦頗承舊式、不盡出於杜撰。淳熙中陳伯廣嘗為重刻、題其後云:「其圖度未必盡如古昔、苟得而考之、不猶愈於求諸野乎!」斯言允矣。今姑仍其舊帙錄之、以備一家之學。此書世所行者、為通志堂刊本或一頁一圖、或一頁數圖、而以說附載圖四隙。行款參差、尋覽未便。惟內府所藏錢曾也是園影宋鈔本、每頁自為一圖、而說附於後。較為清整易觀、今依仿繕錄焉。 01.經部 卷二二 經部二二 禮類四(三禮通義・通禮・雜禮書)  p-0176 【三禮圖四卷】(浙江吳玉墀家藏本) 明劉績撰。績字用熙、號盧泉、江夏人。宏治庚戍進士、官至鎮江府知府。是書所圖、一本陸佃《禮象》、陳祥道《禮書》・林希逸《考工記解》諸書、而取諸《博古圖》者為尤多、與舊圖大異。考漢時去古未遠、車服禮器、猶有存者、鄭康成圖雖非手撰、要為傳鄭學者所為。阮諶・夏侯伏朗・張鎰・梁正亦皆五代前人、其時儒風淳實、尚不以鑿空臆斷相高。聶崇義參考六本、定為一家之學。雖踵謬沿�、在所不免、而遞相祖述、終有典型。至《宣和博古圖》所載、大半揣摩近似、強命以名、其間�漏多端、洪邁諸人、已屢攻其失。績以漢儒為妄作、而依據是圖、殊為顛倒。然所釆陸・陳諸家之說、如齊子尾送女器出於魏太和中、犧尊純為牛形、王肅據以證鳳羽婆娑之誤;齊景公器出晉永康中、象尊純為象形、劉杳據以證象骨飾尊之非;蒲璧刻文如蒲荏敷時、穀璧如粟粒、其器出於宋時、沈括據以證蒲形・禾形之謬。此書並採用其說、亦足以備一解。至於宮室制度、輿輪名物・凡房序堂夾之位、�|較賢藪之分、亦皆一一分析、不惟補崇義之闕、且以拾希逸之遺。其他珽荼曲直之屬、增舊圖所未備者、又七十餘事。過而存之、未始非兼收並畜之義也。

23. 4月24日は劉備の命日
・4月4日は孫策の命日 http://cte.main.jp/newsch/article.php/311 上の続き、かな? 三国志蜀書先主伝によると、 (章武三年)夏四月癸巳、先主殂于永安宮、時年六十三。 というふうに章武三年(紀元223年)の夏四月癸巳、先主(劉備)は永安宮において63歳のとき亡くなった。しかしながらこの年の四月に癸巳の日はない(「癸巳」にあわせると命日は3月5日?)。これに続く文の諸葛亮の上言によると 亮上言於後主曰:「伏惟大行皇帝邁仁樹徳、覆燾無疆、昊天不弔、寢疾彌留、今月二十四日奄忽升遐、臣妾號咷、若喪考妣。 と、今月の二十四日、たちまち天に昇った、とあるので劉備の命日は4月24日。 ・参照 http://cte.main.jp/newsch/article.php/276 ※追記 4月25日は夏侯惇の命日 ※追記 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日

24. 宋書楽志にある「鼓吹曲」の見方
三国志シンポジウムの雑感をかくまえに宋書楽志に載っている「鼓吹曲」のメモ。 基調報告の「日中韓三国の三国志」と、それに対する討論会での質問でも出てきたので。 ※関連記事 2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1 <追記>Re:蜀の史官の存在について  (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」書き込み) http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=3171 もし蜀の鼓吹曲が残っていたら三国演義の原型のようなものであろう、とする基調講演に対し、蜀の鼓吹曲が残ってないのは、政権を後漢から引き継いだという建前なので元々、蜀の鼓吹曲はなかったのでは? というような討論会での質問。 魏と呉の鼓吹曲は http://china.ic.daito.ac.jp/cgi-bin/handy/ftmsw3 ↑中央研究院漢籍全文資料庫の大東文化大学サーバー版(まぁ本家でも良いんだけど、三国志シンポジウム関連でせっかくなんでこちら)で見ることができる。 ここの「二十五史」のところをチェックして「開啓」のボタンを押して移ったページで「新校本宋書」→「志」→「卷二十二 志第十二」→「樂四」 →「644」と順にクリックしたページから見ることができる(呉は「656」。韋昭がつくっているあたりがファンにとってポイントが高い) ※追記 上記サイトがデッドリンクなので、替わりに下記を挙げておく(というかこっちが本家)。 http://www.sinica.edu.tw/~tdbproj/handy1/ ※追記 韋昭研究(2011年7月) (以下、余談) というようなことをサイト「江河水」 http://kougasui.fc2web.com/ (現URL)の掲示板で2001年7月8日17時52分に書き込んだんだけど(多分、もうログはサイト上に残っていない)、さらによそのサイト「呉書見聞」 http://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/ (現URL)の掲示板で反響があって、2001年8月2日21時29分の佳耶乃さんの書き込みによると(多分、もうログはサイト上に残っていない)、篠田耕一/著「三国志軍事ガイド」(新紀元社刊)に呉の鼓吹曲「伐烏林」の原文と対訳が載っているとのこと(清岡は未確認)。 余談ついでながら、よその掲示板まで反響があって浮かれている清岡の書き込みを以下、あげておく ----------------------------- Res:清岡美津夫(849) 題名:ありがとうございます♪ 投稿日 : 2001年8月3日07時04分 いえいえ、引用されててなんだか嬉しかったです それと、対訳が載っている本を教えてくださってありがとうございます。 えっと、私はその本、持ってないので、どこかで見かけたら、 見させてもらいますね。 って軍歌っていうことはいつ頃、唄われてたのですかね。 三国時代なのですか? だとしたら三国時代に軍楽隊ってあったってことに!? 呉鼓吹曲、あの詞の呉贔屓っぷりが好きです(笑) でも他の国のファンの人には見せれないですね、、、 その中の「關背德曲」なんて題名からいきなりそうですし(苦笑)

25. 4月25日は夏侯惇の命日
・4月24日は劉備の命日 http://cte.main.jp/newsch/article.php/325 上の続き、かな?  というか、ブログ「蓬莱の夢」の記事を見て初めて気付いた。命日のわかる三国志の人物は貴重。 ・ブログ「蓬莱の夢」 http://blog.goo.ne.jp/hourainoyume ・記事「夏侯惇の命日によせて2006」 http://blog.goo.ne.jp/hourainoyume/e/26d1e23d0b402d23a7cec4c1d3ab493a  上記記事のとおり、確かに三国志魏書夏侯惇伝にはなくなった月日の記述はない。そのため、手元の電子文献で試しに「惇 薨」で検索をかけるとあっさりみつかる。三国志の本紀。三国志魏書文帝紀の記述ね 三國志卷二 魏書二 文帝紀第二 (延康元年)夏四月丁巳、饒安縣言白雉見。庚午、大將軍夏侯惇薨。  というわけで、延康元年(紀元220年)の夏四月庚午に大将軍の夏侯惇が薨去した。  庚午は何日かというと、それはネットの「中央研究院兩千年中西暦轉換」を使えば良い。それがどこにあるか、使い方はどうか、は以下のリンク先を参照。 ・「三国志ファンのためのサポート掲示板」のツリー1824 http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one;no=1824  つまり、4月25日は夏侯惇の命日。ちなみに丁巳は12日ね。ついで書くとその庚午は「中央研究院兩千年中西暦轉換」によると新暦でいうところの6月13日。  あと、やたら「○○、命日」って検索ワードが多く、三国志関連においてそんなの滅多に歴史上、残ってないよって意味で以下に参照リンクあげとく。 ・8月23日は三国演義での諸葛亮の命日 http://cte.main.jp/newsch/article.php/164 ・周瑜の命日について http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1899 ・太史慈の命日について http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2244 ※追記  閏1月28日は司馬師の命日  4月25日は蹇碩の忌日 ※追記 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日

26. 「台灣中央研究院漢籍電子文獻」リニューアル?
数日前からやたら 「中央研究院 漢籍電子文獻」とか検索があるんで何かと思えば、「台灣中央研究院漢籍電子文獻」がリンク切れになっている。 「台灣中央研究院漢籍電子文獻」とは『三国志』を始めとする正史類の史書などを閲覧できるサイト。史書系を好む三国志ファンがよく見るサイトなのだ(…と『三国演義』毛宗崗本もあったあるから、三国演義ファンも使うのかな)。私は「漢籍電子文獻」はあまり使わないが、「中央研究院兩千年中西歴轉換」はよく使い、こちらもリンク切れしているので、不便に感じていた(「中央研究院歴史語言研究所文物圖象研究室資料庫檢索系統」も使うがこちらは今、生きている模様)。 ・台灣中央研究院 http://www.sinica.edu.tw/ 昨日あたり、 上記の「台灣中央研究院」→「more」→「學術資源」と辿ると「漢籍電子文獻」にリンクが張られていなかったが、今日、改めて見ると、下記サイトに繋がる。 ・中央研究院漢籍電子文獻 http://dbj.sinica.edu.tw:8080/handy/ そこの「個人使用申請」を見てみると、申請制な上に年間台湾三千元である以前にどうやら日本からの使用ができないみたいだね(汗) 上記には「舊版系統」というのがあってリンクが張られているんだけど、現在、「中央研究院兩千年中西歴轉換」と同様リンク切れを起こしている。こちらは従来どおり無料で使えないものかな。 …と思ったら、以下のようなのがあるんだね(笑) ・新漢籍全文 http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ <12月11日追記> 「台灣中央研究院漢籍電子文獻」が前の状態に戻っているね。昨日までの状況は一体、何だったんだろう。。。 ※追記 古典籍総合データベース(早稲田大学図書館) ※追記 メモ:三国創作のための扶助会

27. 跪坐と垂足坐
仁雛さんから教えていただいた「漢代物質文化資料図説」を買ってきた。  林巳奈夫/著「漢代の文物」のときと同様、サイト「日本の古本屋」で検索し、古本屋で直接、買ってきた。 ・日本の古本屋 http://www.kosho.or.jp/ ・瓢箪山書房 http://www5.ocn.ne.jp/~hyoutan/  それから「漢代物質文化資料図説」の基礎データ。 ・「漢代物質文化資料図説」(中国歴史博物館叢書第二号、平装定价) 著者:孫機 出版発行:文物出版社 出版年月:1991年9月第一版 ISBN 7-5010-0372-6/K・143 価格:25.00元 ※中国の本なので実際は簡体字表記  ちなみに精装定价(ISBN 7-5010-0373-4/K・144)は方は35.00元。どちらにしてもそのまま日本円にすると格安なんだけど、やっぱり日本で買うと、すごく高くなるなぁ。まぁ「漢代の文物」より一桁安くかったので普通に買ったんだけど、もし私が中国へよく行く人だったら現地で買ってたかな。一桁安くなるし。  それで「漢代の文物」のときのように目次をあげたりして本全体の紹介をすればいいんだけど、その前に私にとって衝撃画像(?)を見てしまったのでその紹介をとりあえず。 ・三国志ニュースの記事「牀や榻のことばかり」 http://cte.main.jp/newsch/article.php/286  上記記事に関連する。そこでは この当時の中国人は腰をかけて座ることあったのかな? と思うぐらい画像石の類でもそういう光景は(私の狭い視野の中では)あまりみかけない。画像石や俑をみてみると、馬車でも乗っている人も馬を操っている人も律儀に正座しているし(汗)。※がんばって腰をかけている画像をさがしてみると、艇(?)にのっているところ、釣りをしているところ、機織り器をつかっているところ、そして強いていうなら馬にまたがっているところなどが見つかった。探せばもっとあるかも。 なんて書いていたけど、「漢代物質文化資料図説」の「55 家具II [木平]、榻、床、席、鎮、凭几、衣杆」のところ、221ページの圖版55にある55-13の挿図にばっちり腰をかけて足を垂らし座っている画像があった。その人は刀を持っているけど、状況はよくわからない。「中国古代の暮らしと夢」の俑の個人蔵と違って、ちゃんと巻末に出所が明記されている。 55-13 踞坐凭几者、画像石、江蘇銅山耿集、東漢、≪徐州漢画像石≫圖202 ※例によって元は簡体字だけど適当に繁体字に変えている。  それであわててその図を説明している本文を読む。223ページのところ。中国語だからうまく読めないんだけど、下のようになる。一つの段落をまるまる引用。  漢代通行跪坐、箕踞和垂足坐往往引起人[イ門]的反感。江蘇銅山耿集発現的一塊画像石、刻出一執刀人垂足坐于凭几之上(55-13)。這是一種無礼的姿勢、在当時很不多見。 ※例によって元は簡体字だけど適当に繁体字に変えている。 <清岡のテキトー訳>  漢代では跪いて座る(跪坐)ことが通用していて、箕踞(両足を投げ出して座ること)することと垂足(足をたれること)して座ることは人々の反感を引き起こす。江蘇銅山耿集で見いだせる一つの画像石で、一人の刀を持つ人が凭几の上に足を垂らして座っている(垂足坐)ところが刻みだされている(55-13)。この人は一種無礼な姿勢であり、当時においてほとんど見ることはない。  この部分の一つ前の段落では「几」(または凭几。日本語で言うところの脇息)の説明がある。坐っている(日本語で言うところの正座している)んで、足がしびれたりするんで、几に肘を乗せるんだとか(足への体重の負担を軽くするため?)、二段階に高度調整が出来る几もあるとか、そんな説明。それを受けての前記引用文。つまり(55-13)の画像石は几の上に足を垂らして座っている画像だ。この文だとわかりにくいんで、右上に跪いて座る(跪坐)ところと足を垂らして座っている(垂足坐)ところの絵を描いてあげておく。右上の絵の垂足坐は膝をそろえて座っていて身体のラインもはっきり描いているけど、これはわかりやすくしているだけで、実際には(55-13)の画像石の垂足坐は股を開き気味に右足を右膝より前におき、左足を左膝より後に置き、座っている。  しかし、行儀が悪いとはいえ、腰をかけて座るところは画像石に刻まれるぐらいだからないことはないんだね。とはいっても依然、腰をかけて座る目的のための座具はこの時代(もちろん三国時代も含む)の中国には作られてなさそうだ。 ※追記 メモ:踞牀

28. リンク:国学導航 四部索引
※関連記事 第33回 秋の古本まつり(京都古書研究会)  上記関連記事にあるように「第33回 秋の古本まつり」に行っていて、仏教関連に力を入れている古書店が結構、あった。そこで何となく下記の関連記事で触れた『高僧伝』があったら良いな、とぼんやり思いつつ本棚を眺めていた。 ※関連記事 高僧伝(一)(2009年8月18日)  三密堂書店のところで鎌田茂雄/著『中国仏教史』 (岩波全書 310)が2000円で売られていて、中身をちょっと読んだけど、『後漢書』やら『三国志』やら史書の記述に基づいている感じだったから(当たり前だけど世の中にはこれができてないのもあるので)、買おうか迷っていた。  よくよく考えてみると、例え『高僧伝』があっても、三国時代前後の記述ぐらいしか読まないだろうから、猫に小判だろうし、何か買うのを思いとどまる。  と言うのも、あるアイディアを思い付いており、ノートPCを起動し、ローカルに保存した『太平御覧』で「高僧傳」と検索し、そこに出てくる文を検索語句にして、ネットで検索する。それは下記の関連記事にある方法の応用だ。 ※関連記事 リンク:中国盲人数字図書館 電子図書  そうすると、下記のように、サイト「国学導航」が出てくる。 ・国学导航-中国国学经典在线阅读-免费的手机国学网 http://www.guoxue123.com/  とりあえず[梁]慧皎撰『高僧伝』巻一をざっと読むと、康僧會のところで孫権が出てきてたり関連性がありそうだ。

29. 鄒靖
 司馬法の嚴位第四に「起譟鼓而進、則以鐸止之」なんて書いてあるけど、退却の時も鐸を鳴らすんだっけ?なんて今、悩んでいる清岡です。こんばんは。 ※追記 『イナズマイレブンGO クロノ・ストーン』で劉備登場(2012年10月3日)  さてサイト「呉書見聞」のBBSでのニセクロさんの6月17日の書き込みを見て思い出したんですが、続漢書百官志にも軍の規模(大将軍の?)とそれに応じた官職が書かれているのですね。しかも俸禄付き。以下、抜粋。 其領軍皆有部曲。大將軍營五部、部校尉一人、比二千石;軍司馬一人、比千石。部下有曲、曲有軍候一人、比六百石。曲下有屯、屯長一人、比二百石。 つまり、大将軍には五部があって、それぞれの官職と俸禄、()内にその軍事組織の単位を書くと、 部校尉、比二千石(部)・軍司馬、比千石(部)  ─軍候、比六百石(曲)   ─屯長、比二百石(屯) ってことになりますね。  それと籾山 明/著「漢帝国と辺境社会 長城の風景」(中公新書1473、中央公論新社、1999年)の111ページによると(孫引きになるけど、元は 久保田文次 1988「青海省大通県上孫家塞115号漢墓出土木簡の研究─特に漢代の部隊編成を中心として─」『駿台史学』74号 だそうです)、出土木簡に見られる漢の軍団編成は、 軍尉(校) ─司馬(部)  ─候(曲)   ─五百将(官)    ─士吏(隊)     ─什長(什)      ─伍長(伍) だそうです。漢と後漢の違いはあれど結構、似ているところがありますね。あと「通典 卷第一百四十九 兵二 法制」に載っている後漢魏武軍令の歩戰令に「伍中有不進者、伍長殺之;伍長有不進者、什長殺之;什長有不進者、都伯殺之」とあるので、什長の上には都伯がいるのかな、とあれこれ思ってます。  全然、関係ないですけど、三国志の筑摩訳本などで「部曲(私兵)」なんてありますけど、「部曲」(部と曲)自体は単に軍組織を指している言葉でたまたまその箇所の部曲が私兵的扱いがされているって意味でしょうか。「部曲=私兵」ではないですよね??  あとこれを見ても「侯」と「候」とでは縦線一本違ったら意味がかなり違うことがわかりますね。「夏侯覇」を「夏候覇」と間違って検索している人や「夏侯惇」を「夏候惇」と間違って表記している人! 夏侯さんに失礼なのでお気をつけてくださいね。  で、話を本題に戻しますと、以前、三国志ニュースのコメント(下記URL)で、むじんさんが指摘してくださった鄒靖について。  そうそう下の自サイトのページにもあるように後漢書応劭伝によると中平二年の鄒靖は北軍中候って官職です。 ・京師でゴタゴタと(孫氏からみた三国志29) http://cte.main.jp/sunshi/w/w040504.html ※しかし、ここの応劭のセリフの訳、当時も思っていたけど我ながら酷い訳ですね。機会を見つけて書き直したいと思います。  「北軍中候」って北軍の中曲(ってあるの? 前曲や後曲みたく)の候って意味でしょうか?  それから三国志蜀書先主伝に鄒靖が出てきていて(三国演義に似たように出て来るんで劉備関連の人として有名?) <本文> 靈帝末、黄巾起、州郡各舉義兵、先主率其屬從校尉鄒靖討黄巾賊有功、除安喜尉。 <清岡のテキトー訳> 靈帝の時代の末、黄巾が起こり、州郡おのおのは義兵をあげ、先主(劉備)はその屬従を率い、校尉の鄒靖に従い、黄巾賊を討ち戦功があり、安喜尉(安喜県の尉)になった。 てな感じで、鄒靖は校尉って官職です。  降格がないとすると、鄒靖は軍組織で北軍中候→校尉と昇進していると思われます。ということで、劉備の黄巾戦は中平二年(西暦185年)以降ってことになります。  余談ですけど、三国演義の「第一回:宴桃園豪傑三結義、斬黄巾英雄首立功」、つまり黄巾と戦う時の劉備の年齢は28歳なんですよね(「及劉焉發榜招軍時、玄德年己二十八歳矣」)。三国演義でも史実の劉備と没年・享年が同じなのでこれは中平五年(西暦188年)に相当します。光和七年(西暦184年)、あるいは中平元年(西暦184年)ではないのが不思議ですね。 ※追記 メモ:「魏晉南北朝の客と部曲」

30. 『後漢書』朱儁伝の冒頭
 どうも漢文離れが久しく、私にとってその先の創作になかなか進めないこともあり、良いスパイラルへ変えたくて、この場できっかけ作りをしてみる。  何かというと、史書を自分なりに読んで、その一端を書いてみる。対象は宋范曄『後漢書』朱儁伝の冒頭とそれに対応する唐李賢(※というか章懐太子か)等の注と王先謙等の集解部分。