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2006年3月11日「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」午後レポ
・午前の部 http://cte.main.jp/newsch/article.php/305 「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」の午後の部。 まず司会の冨谷先生から座席についてのお願いとアンケート回答のお願い。 ○講演「漢から魏へ──上尊号碑」(13:10~14:30) 講師は井波陵一先生(京都大学人文科学研究所付属漢字情報研究センター教授)。講演の前に次回「TOKYO 漢籍 SEMINAR」のお知らせ そういや午前の部で書き忘れていたけど、貰った資料の中に次回のお知らせがあった。 2007年3月10日土曜日開催予定 「第三回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」 講演テーマ遠い世界へ Part 1 西域への旅 玄奘三蔵『大唐西域記』 などをとりあげるとのこと それから講演に入る。プリントの資料の2-1に触れ、そこの最初の【延康】から触れている(以下、【】付けはプリントの資料2-1で【】付けにされている項目があるという意味)。延康元年(西暦220年)は曹操がなくなってからの改元だ。延康の前は建安で、建安文学の説明が入る。 プリントの資料に則し次が【禅譲】。禅譲という言葉の走りは後漢書逸民伝に見られるとのこと。そこから禅譲の意味へ。禅譲は武力を伴わないものに対し「放伐」は武力にうったえるもの(例として夏→殷、殷→周)。なるほど、初耳。 【220年当時の情勢】に話が移り、武力は必要ないが、大義名分が必要とのこと。まず周囲の盛り上がりが大事とのこと(曹丕が一方的に圧力をかけたわけではない)。元号の「延康」に漢王朝の抵抗の意味が込められていると説明。 というわけで話は曹丕の【即位へ向けてのプロセス】へ。ここで上尊号碑にまつわる話に触れていく。上尊号碑が今、どういうふうにおかれているか、撮影許可をとるだけでも大変だ、という話など。 それから【上尊号碑】を奉った人物の説明へうつっていく。その奉った人物の一覧表(46人)が別のプリント(2-4 表2)でまとめられている。上尊号碑にはまず肩書きがあって姓がなくて人物の名がくるとかとかいう概説。名しかないので誰のことかわからない人物が何人かいるとのこと。 具体的に上尊号碑に記載のある人物の説明に移る。【三公】から。三公の相國が司徒とも呼ばれ御史大夫が司空とも呼ばれ、それぞれの担当を説明した後、最高責任者であると説明。九卿(元々は九つあったがこの時期は違う)が各省庁の大臣職官にあたると上尊号碑の碑額に「公卿将軍上尊号碑」(公卿→三公九卿)と書かれていて文官武官のトップクラスが並べられていることがわかる。 三公である【華[音欠]・賈[言羽]・王朗】の説明。三国志魏書武帝紀などに見られる着任時期の話。三人が三公になったのは曹丕が魏王だったときで碑文と一致。ただし、三国志魏書賈[言羽]伝との記述とは一致しない。これは即位→即王位とすれば一致する(王昶「金石萃編」の主張)。賈[言羽]の爵位も史書と碑文は一致しない。 【華[音欠]】。三国演義だと曹丕に即位を促した悪人と説明し、史書の説明に移る。三国志魏書華[音欠]伝において、靈帝を廃位しようとしたとき華[音欠]がそれを止めたというエピソードを紹介し(プリントの資料にその言葉が訳して載せられている)、それなのに曹丕に即位を促したというのは相当の覚悟だったと説明。 【賈[言羽]】。資料のプリントには三国志魏書賈[言羽]伝にみえる「[言羽]自以非太祖舊臣、而策謀深長、懼見猜疑、闔門自守、退無私交、男女嫁娶、不結高門、天下之論智計者歸之。」の訳が書かれてあり、それを紹介。他の三公と違って「世説新語」に載せられていない人で面白いと紹介。元々、太祖の臣じゃないところからの心理的な考察等。 【王朗】。経書に注釈を加えたというあたりに触れる。学者。三国演義では当時の学問的な話を取り上げることがなかった。王朗の息子の王粛の話にうつる。ちなみに王粛は鄭玄(じょうげん)の学説に反対の立場をとることが多かった。三国演義だと王朗は諸葛亮と対決する。実際の王朗とは違う云々。 【04曹仁~14臧霸】(数字は上尊号碑においての順番)。碑文にある05劉若は三国志に伝がない。06鮮于輔~09閻柔は異様。「三国職官表」では判で押したように「上尊号碑は九卿の上に在れば、即ち亦た応に三品なるべし」(プリントの資料にあり)というような頼りないコメントであると説明。「通典」での将軍の序列は「大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、前後左右将軍、四征将軍、四鎮将軍、四安将軍、四平将軍、雑号将軍」となっている。これと上尊号碑を対応付け。碑文では……四鎮将軍→九卿→近衛軍→雑号将軍という流れ。「通典」では諱を避けて虎牙将軍(雑号将軍)が武牙将軍になっている。こういった官職の意味で06鮮于輔~09閻柔は序列が異様。さらに三国志には伝がない。曹丕との個人的関係によるもの? 【曹仁・曹洪・曹真・曹休・夏侯尚・臧霸】。臧霸以外、曹丕の親戚。碑文にみえる「使持節・行都督督軍」や「仮節・都督諸軍事」の説明。節のランクが「使持節・持節・仮節」(資料のプリント)。(清岡はここで仮節の意味を取り違えていたことに気付く・汗)。厳密な使い分けは謎(碑文では使持節=仮節?)。臧霸について→川勝義雄先生の本を参照。プリントの資料2-2に引用されている。講演では「六朝貴族制社会の研究」。任侠的な人間関係の話が出てくる。 11曹真の話。曹真残碑(資料のプリント2-6に拓本のコピーあり)について。「蜀賊諸葛亮」の「賊」が後世に削られたって話。清岡はこの話を知っていたけど、これって曹真残碑のことだったんだ。下記URL参照。 ・サイト「睡人亭」内曹眞殘碑 http://www.shuiren.org/sangoku/soshin.htm 【前後左右将軍】。「朱霊という人物をよく知っている方がおられたらよっぽどの三国志マニアだと思います」。この四人は元々、他の配下。朱霊は自ら袁紹の元をさって曹操の元にきた。それは西暦194年で他の三人より早い。朱霊は三国志でちゃんとした伝が立てられていない。上尊号碑の順番で朱霊の重要性を改めて確認できる。 【匈奴】。19呼厨泉。異民族、ある意味、お客さんだから高い位置。 その次が【九卿】。九卿で22程昱トップ。24鍾[夕/缶系]は刑罰の分野で有名。肉刑論の話。→参考、冨谷至先生/著「古代中国の刑罰」。前漢の文帝の13年に肉刑廃止とか。鍾[夕/缶系]は肉刑復活論者。 【近衛軍】。それほど有名な人物は出てこない。三国演義での話云々。【雑号将軍】。35焦触。三国演義では赤壁の戦いであっけなく殺される人物なので、上尊号碑に出てくるぐらい「あんた、生きてたの?」と口走ったほど個人的に面白かったとのこと。46許[木者](キョチョ、上尊号碑ではきへんで書かれているそうな)。上尊号碑の位置づけの最後というのは重要な意味を込めているかも。 まとめ。碑文の名前の羅列と文献史料の対比で何かしら面白みを見いだしてくれたら幸い。 それで司会の冨谷先生のコメント(井波先生の専門等、史書と碑文を厳密に比較云々、順番や官位は碑文の書き手が緊張するところだ)から質問タイムへ。時代の区分に関する質問。ここで清岡が興味深かったのが、史記は前漢あたり「経書」に分類されていたが、三国時代以降、「史書」に分類、つまり「史書」が独立されてきたって話。春秋の扱いに絡ませて。 ○休憩(14:30~14:45、10分おしぐらい) ここで隼鶻さんと会う。よもやま話。 ○講演「魏から晋へ──王基碑」(14:45~15:55、10分おしぐらい) 司会の冨谷先生の紹介から、藤井律之先生の講演(京都大学人文科学研究所助手)。北京大学へ研修へ行くそうな。 ≪1 未完の石刻≫。(以下、同様にプリント内の表題を≪≫でくくる)
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: 清岡美津夫
2006年3月21日(火) 15:53 JST
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三国志学会 第四回大会ノート2
※目次 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日) ※前記事 三国志学会 第四回大会ノート1 10:59。総合司会の石井先生から次の司会の金沢大学の上田望先生への紹介がある。配付資料(レジュメ)はA4の3枚の両面印刷5ページ。 ※参照リンク メモ:KURA(金沢大学学術情報リポジトリ) ○「謀る孔明、女装する仲達――川劇「上方谷」をめぐって」 向かって左に立つ上田先生から田村さんと報告の紹介の後、「川劇」の解説がある。中国には京劇を初めたくさんの地方劇があって、特に四川地方に伝わっている川劇についてどのような三国の物語が伝わっているか、それらについて報告があるか期待しているという。日本では川劇の三国物語はおろか、川劇自体が上演されないので、その辺の話の報告については楽しみにしているという。 それで中央に登壇される田村さんからの報告が始まる。 まず四川省の成都と三国志との関係についての概要が話される。また、雑劇や講談で「三国志」が古くから親しまれていたという。
: 清岡美津夫
2009年9月18日(金) 12:46 JST
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三国志学会第一回大会ノート1
・2006年7月30日「三国志学会 第一回大会」ノート0からの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/395 ○報告(10時-12時40分) 司会に津田資久先生がついて、まず石井仁先生の紹介が述べられる。 ○石井 仁(駒澤大学助教授)「呉・蜀の軍事制度に関する覚書」 昨年、三国志シンポジウムで「三国時代の軍事制度」の報告をされた先生。 http://cte.main.jp/newsch/article.php/152 トップバッターで反董卓時期の曹操にあやかりたいとのこと(すぐに曹操は敗れたから縁起が悪いと自己ツッコミ) レジュメは6ページの箇条書き。 まず時代区分の論争(中世古代の論争)について軽く説明。都督は封建的主従関係かって論争があったそうな。それへの疑問が石井先生の制度史研究のきっかけになったそうだ。当時の制度をきっちりおさえることが大事だと。 それから魏晋の軍事制度のこと。これは記録が多いが呉や蜀は少ない。呉・蜀の軍事制度と魏晋との比較を今回、行う。 魏晋の軍事制度の中心的なものについて説明。中軍(中外軍)、つまり魏晋の正規軍のこと。次が都督について。「使持節・都督○○諸軍事」の略称。各方面の行政・軍事を統轄する機関および長官のこと。必ず三公ないし将軍の加官。魏初には河北都督、揚州都督、荊州都督、雍涼二州都督がいた。駐屯地には都督府がある。 レジュメでは続いて参考文献が列挙されている。 1. 呉・蜀の都督制度 まず呉の都督 通俗的理解では、呉は魏晋よりも小規模な「督」を列置。都督→督の二重構造。 三国志呉書では「假節・督夏口」の記述。三国志魏書では「使持節・都督夏口諸軍事」。同じく「西陵督」と「都督西陵諸軍事」。そのため単なる表記上の問題とみなす(資料の経路の違い?)。魏晋の都督制度とほぼ同等。監軍が派遣されている。呉の都督の特徴として長江流域の重鎮(樂郷・武昌など)の都督が左右(東西)で構成されている。 ※レジュメでは本文があって、そこに○数字がうってあって、その丸数字には論拠となる史書の記述が列挙されている。以下、同じ。 次が蜀の都督。 表記が一定せず統一性がない(レジュメで督の部分を列挙)。「陳寿という人は都督制を理解していたのか?」という根本的なことに行きかねない。魏晋は「督軍」(前漢由来)と「都督」(曹操政権)が融合。そのため正式名称は「都督督軍」。蜀にも都督督軍が一例あるので魏晋と同じ可能性あり。呉も都督と督軍がある。 [广+來]降都督(らいこうととく)だけは統一的表記。[广+來]降は南中の地名だそうな。必ず副貳(副官)がついたとのこと。これは「[广+來]降屯副貳都督」「南中参軍」とも称され、さらに魏晋の記録では[广+來]降都督を「南中都督護軍」「南中監軍」と称す。正式名称は「都督南中諸軍事」? [广+來]降は通称? [广+來]降は来降に通じやってきて降るの意? 受降城と同義? 2. 都護・軍師・監軍・領軍・護軍・典軍・参軍 蜀は「都護→軍師→監軍/領軍→護軍→典軍→参軍」という序列の官職がある。軍部関連。魏晋に似たような官職があるが同一視できない。 呉にも同様なのがある。蜀より簡略。「軍師→都護→護軍」。断片的。始まりは周瑜の「左右大督」に分かれたのを機に「左右護軍」に分かれる(「左右都護」「左右軍師」を累加)。軍部関連。次第に名誉職の意味合いが強くなる。 ここで時間になったのでまとめに入る。 呉・蜀では「都護・軍師・監軍・領軍・護軍・典軍・参軍」の本質は西魏二十四軍の指揮系統に期限を持つ勲官に類するものと推測。 おわりに 蜀は10人に一人兵士、呉は11人に一人兵士。 三国は基幹部分を共有している(劉備集団は曹操政権および孫呉政権と綿密に関わる)。ここらへんも考慮する必要があるか否か。三国時代もしくは中国~東アジアをトータルに眺める視点。 ○質疑応答 ※理解せず聴いていたので以下、ただのメモ。 龍谷大学の村田先生。「都督」、「督」は名詞的方法? 動詞的用法? 当時の都督のイメージ、陳寿の都督のイメージ、現代の都督のイメージが異なるかもしれませんが…。国家を運営する理念が都督制に反映されている。 文官・武官のやりとり。 →時間なので後は懇親会で。 ・三国志学会第一回大会ノート2へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/399
: 清岡美津夫
2006年8月27日(日) 01:52 JST
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リンク:中国の連環画の変遷とその描写技法
※前記事 リンク:張家山漢簡「史律」に見える任用規定について ※関連記事 三国志 Three Kingdoms 群雄割拠(BSフジ2011年1月10日-) 上記関連記事で触れたように『三国志 Three Kingdoms』前篇 DVD-BOXに完全収録『絵本通俗三国志』挿絵集が同梱されると聞いて、一瞬、「何を今さら」と思ってしまったわけだけど、それにはちゃんと解説文がついているようでファンの趣向の幅を広げるという意味では意義があるのかもしれない。 ※参照記事 2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感2 だけど、三国マンガ等、視覚的要素を含む現代日本の三国作品において、ちゃんと根拠を示せるわけじゃないけど、この日本の『絵本通俗三国志』よりも中国の連環画の影響が大きいように思える。 ※参照記事 赤兎馬Presents「三国志の宴3」第1部レポ ここ一年ぐらい、マンガ関連の学会大会やシンポジウムに一般聴講して再認識したんだが、マンガに先立つ一つの表現形式として連環画がある。そのため、日本の三国マンガにどれ程、連環画が影響を与えたか興味を持っていた。なかなか視覚的要素を定量的に扱う案が思い浮かばず、定性的に扱うとなると主観を交えない自信がないため、研究するのに躊躇しているのだが。 ※関連記事 私的メモ2:三国漫画分析 そこで何か参考になるものはないか、今、CiNiiで「連環画」と軽く検索を掛けるといくつか論文が出てきて、それらの中のいくつかは読めるものもあって、今回、リンクするのが下記の論文。 高橋 愛「中国の連環画の変遷とその描写技法」(『美術教育学 : 美術科教育学会誌』27号 (20060331) pp.219-231 美術科教育学会 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/110004702829
: 清岡美津夫
2010年12月21日(火) 19:44 JST
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三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日)
※前記事 三国志学会 第四回大会プレノート 2009年9月5日の前夜、自分の報告内容がどんなふうに伝達されるのか想像すると、ワクワクしてうまく寝付けないで居た。 何かというと2009年9月5日の「三国志学会 第四回大会」で清岡が報告することとなっていた。 ・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ ※関連記事 三国志学会 第四回大会(2009年9月5日龍谷大学) ※追記 三国志学会 第五回大会(2010年9月11日土曜日 二松学舎大学) 当日は開会一時間前の9時に着くように、京都市バス206号系統の七条堀川のバス停で降り、北西の龍谷大学大宮学舎を目指す。 ・龍谷大学 『進取と伝統』~新しさを重ねて370年~ http://www.ryukoku.ac.jp/
: 清岡美津夫
2009年9月10日(木) 18:52 JST
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三国志研究入門(2007年7月25日)
日外アソシエーツというところから2007年7月25日に渡邉義浩先生/著、三国志学会/監修『三国志研究入門』という本が刊行されるとのこと。2300円。 ・日外アソシエーツ http://www.nichigai.co.jp/ ・三国志研究入門(上記サイト内紹介ページ) http://www.nichigai.co.jp/sales/sangokushi.html 上記ページを見ると、「三国志研究」とは言っても「歴史・文学・思想それぞれに焦点をあてて」いるようで、ここらへんは監修の三国志学会の取り扱う領域を反映しているようだね。 ・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ ・『三国志研究入門』 http://www.daito.ac.jp/sangoku/book.html ※このページによると三国志学会の学会員は特別価格2000円になるとのこと。300円安。 目次などを見るといろんな単語がピックアップしてあって興味深い。個人的には思想のあたり馴染みがないので、触りだけでも知りたいところ。日外アソシエーツのページでは「序」を見ることができ、またそのページからはPDF形式で本文見本を見ることができる。本文見本で上げられているのは「第一部 研究入門篇」の「I 三国志をより深く知るには」のところ。監修とあって三国志学会中心の書き出しで、ここらへんこの本の意図するところ(仕掛けようとするところ)のシステマチックなものが見え、面白いね。 この見本で知ったけど、『三国志研究』第二号(三国志学会第二回大会のときに発行)に去年の三国志学会第一回大会で講演のあった「『三国志演義』嘉慶七年刊本試論」の翻訳が載るとのこと。版本の細かい話とか判りづらかったので、ありがたい。 ・三国志学会第一回大会ノート5 http://cte.main.jp/newsch/article.php/405 ・三国志学会第二回大会のプログラム発表 http://cte.main.jp/newsch/article.php/636 ※追記 三国志研究要覧(2011年9月復刊) ※追記 ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日) あまり関係なさそうだけど、三国志ジャンルの「歴史・文学・思想」というと創文社のPR誌『創文』で「三国志の世界:思想・歴史・文学」というシリーズを連想するね。私は未読だけど。 ・三国志の世界:思想・歴史・文学(『創文』) http://cte.main.jp/newsch/article.php/627 <7月25日追記> ・關尾史郎先生のブログ http://sekio516.exblog.jp/ ・購入(07/07/25) http://sekio516.exblog.jp/6160684 あ、そうか、復刊希望の多い『三国志研究要覧』のリニューアル本と捉えるのが自然だね。
: 清岡美津夫
2007年7月13日(金) 00:07 JST
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三国志学会 第三回大会プログラム発表
・三国志学会 http://www.daito.ac.jp/sangoku/ 上記「三国志学会」のサイトで、2008年9月14日に開催される「三国志学会 第三回大会」のプログラムが発表されていたので下記へ引用する。 --引用開始--------------------------------------------------------- 三国志学会 第三回大会 日時:2008年9月14日(日)10時~17時20分 会場:大東文化大学 板橋校舎 多目的ホール 東武東上線、東武練馬駅 徒歩25分 都営三田線 西台駅 徒歩10分 参加費:500円(入会された方は無料です) 板橋キャンパス周辺地図 ※ スクールバスはありません。都営線西台駅より、徒歩が便利です。 三国志学会年会費:2000円 入会をご希望の方は事務局からのお知らせをご覧ください。 当日、入会することもできます。 プログラム 開会の辞 (10:00~10:10) 三国志学会会長 狩野 直禎 研究報告 (10:10~12:00) 10:10~11:00 矢田 博士 (愛知大学経営学部教授) 「魏における五言詩の流行と西晋における四言詩の盛行について」 11:10 ~ 12:00 綿谷 直之 ・ 清水 健史 (超級三国志遺跡紹介HP《三劉》管理人) 「史実と民間伝承からみる三国志遺跡」 お昼休み (12:00~13:00) 講演会 (13:00~17:20) 13:00
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: 清岡美津夫
2008年7月19日(土) 15:42 JST
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リンク:「胡広伝覚書」
※前記事 リンク:「盧植とその『礼記解詁』」 一応、上記のようにネット上で公開されている論文を紹介する記事のシリーズなんだけど、そこに至るまでに前置きが長い。本題のみに興味ある人は読み飛ばしてくださると幸い。 ※関連記事 メモ:「東洋史研究会大会」出店状況 上記関連記事で書いたように『東洋史研究』を買ってきて興味のあるところを読んでいた。それらの中に興味をもった一つに、下記に示す論文があって、いつものようにCiNii(国立情報学研究所提供サービス)内のページへのリンクも続けて記す。 西川 利文「漢代明經考」(『東洋史研究』第54巻 第4號 (199603) pp.583-609 東洋史研究会 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/40002660276 ※追記 メモ:「漢代明經考」 興味のある理由は史書上、孝廉に推挙された後、すぐ郎になるような記述が多いが、(時代性も考慮し)その間に孝廉のまま留まる場合があるのか、また試験があったのか、という二点。 前者に関しては『三國志』卷四十七呉書呉主傳に 策長史張昭謂權曰、孝廉、此寧哭時邪? と、孫策の長史である張昭が、孝廉や茂才に挙げられた行奉義校尉(つまり代行)の孫権へ呼び掛けるとき「孝廉」としている。また後者に関しては、試しに『太平御覧』で「孝廉」と検索し、ざっと見ていくと卷二百一十五職官部十三總敘尚書郎に 『續漢書』曰:胡廣字伯始、舉孝廉試為天下第一、旬日拜尚書郎。 と、試験しその評価で任官が変わる記述がある。
: 清岡美津夫
2009年11月18日(水) 02:32 JST
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リンク:「日本人に於ける三国志とは―見るのか,読むのか,江戸から現代まで―」
・關尾史郎先生のブログ http://sekio516.exblog.jp/ ・拝受(09/04/07) http://sekio516.exblog.jp/10007672/ 上記ブログ記事で知ったこと。 --引用開始----------------------------------------------------- 中林史朗「日本人に於ける三国志とは―見るのか,読むのか,江戸から現代まで―」,『大東文化大学漢学会誌』第48号:237-274,2009年3月 --引用終了----------------------------------------------------- ・大東文化大学文学部中国学科 http://daito-sinology.seesaa.net/ この論文のタイトルから2007年7月28日に開催された「第3回三国志シンポジウム」の一限目の「日本人にとって三國志とは何じゃいな? ~見るのか、讀むのか、掛け軸から『ストップ劉備くん』まで~」を連想し、何か関連があるのかと思い、下記のサイトを見に行く。 ※関連記事 第3回三国志シンポジウム 雑感1 そうすると、同じ論文が公開されていた上に、やはり「第3回「三国志シンポジウム」に於いて発表した講演原稿と配付資料とに、些か手を加えて書き改めたものである」とのこと。 というわけで、下記に該当ページへリンクする。あれこれ参考になるね。「Dynasty Warriors Wiki」もここを参考にすれば良いと思った。 ・黄虎洞 http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/ ・日本人に於ける三国志とは http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/nanjyaina.html ※「http://www.daito.ac.jp/」から「http://www.ic.daito.ac.jp/」へ訂正 ※関連記事 Sangokushi News - Japanese fansite for anything based on the Romance of Three Kingdoms
: 清岡美津夫
2009年4月 9日(木) 12:45 JST
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リンク:「尹湾漢墓簡牘の基礎的研究」
※前記事 リンク:「漢代の扁書・壁書」 漢代においての地方官吏の日常については前々から興味があって、下記掲示板の書き込みにある論文について気になっていた。 ・Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ? (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」投稿) http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2546 その論文は下記の論文。 高村 武幸「秦漢代地方官吏の『日記』について」(『古代文化』54(9) (2002) pp.22-33,63-64) http://ci.nii.ac.jp/naid/110000449115 下記関連記事で触れた高村武幸/著『漢代の地方官吏と地域社会』の「後記」によると、この論文は大幅に書き改められた上で、この書籍の「第二部 漢代官吏の社会と生活」の「第一章 秦漢代地方官吏の「日記」について」に収録されたという。 ※関連記事 『漢代の地方官吏と地域社会』(汲古叢書75 2008年) ・株式会社汲古書院 http://www.kyuko.asia/ ・汲古叢書 75 漢代の地方官吏と地域社会 - 株式会社汲古書院 http://www.kyuko.asia/book/b9728.html その漢代の部分の元となる史料は尹湾六号漢墓簡牘であり、中でも「元延二年日記」と命名された冊書が主となる。前述の論文に先んじて、基礎的研究の論文が下記のようにあり、ウェブ上で閲覧できる。 西川 利文「尹湾漢墓簡牘の基礎的研究──三・四号木牘の作成時期を中心として──」(『文学部論集』第83号 (199903) pp.1-17 佛教大学) http://ci.nii.ac.jp/naid/110006473019
: 清岡美津夫
2010年1月13日(水) 23:38 JST
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『古代中国を発掘する─馬王堆、満城他─』(1975年)
毎年、この大型連休の時期に京都古書研究会主催で京都市勧業館(みやこめっせ、写真)でやっているのが「春の古書大即売会」。今年で第25回で、5月1日から5日までやっている。 ・京都古書研究会 http://www1.kcn.ne.jp/~kosho/koshoken/ どんな催しかというと、広いホールに本棚がずらりとならんでいて、それぞれのスペースに京都を初め大阪や奈良の古書店が出店していて、いろんな古書を物色できる会。出店されている古書店は44店(さっきチラシから一回だけ数えたけど、数え間違え失礼) 会計は会場奥の壁際のカウンターで一律だし、買い物かごも用意されているので、ついつい買いすぎちゃう。 昨年は三顧会と日程が重なったこともあってか、行けず仕舞いだったが、今年は都合が着いたので、行くことに。 といっても15時半ぐらいに会場へ到着。荷物を預け、あれこれ古書を見て回る。値段は高いが『冊府元亀』や『康煕字典』がドカーンとセットで置いていたり、『三才図会』がさりげなく置いていたのはさすがだなぁって思った。ちなみに『中国社会風俗史』は1200円で売っていた。 今回、そのまま旅行に行く予定だったので、良い本があっても心の中で難癖つけて、荷物にならないように勉めた。そのため漢代の出土物の展覧会の図録をあきらめる(難癖:半分ぐらいが興味ない唐代のものだから)。 そんなことを思いながら、うろちょろしていたら、いつの間にやら時刻は16時20分。荷物預かりは16時半までだったので、慌てて、もったいないとばかりに気になっていた本を取りに行き、カウンターへ急ぐ。 それは樋口隆康/著『古代中国を発掘する─馬王堆、満城他─』(<新潮選書>新潮社、1975年)。500円なり。 暇を持て余す旅行の移動中とは言え、すでに旅のお供に『中国社会風俗史』と『画像が語る中国の古代』を携帯していたので、『古代中国を発掘する』を読み始めるのは半年後ぐらいになるだろう、と思っていた。ところがその二冊は既読ともあって、いつの間にやら手を伸ばしページを開いている。 冒頭の「まえがき」を見ると「私の同学の京都大学人文科学研究所の林巳奈夫君」と林巳奈夫先生の名前が不意に出てきていて思わず食いついてしまう。その後、本編でも何度か林巳奈夫先生のお名前が出てくる。 続く「序 ─世紀の大発見─」では原田淑人「盗掘」(『東亜古文化説』昭和四十八年刊)や楊伯峻の論文からピックアップした盗掘の話が印象に残った。そこには三国時代の盗掘や発掘された劉表の墓の話(『水経注』ベン水注と、『三国志』劉表伝)が載っていた。 その後は馬王堆の漢墓について書かれてある。一つの墓についてだから狭く深くしか書かれていないように思ったが、墓自体について出土品について時代背景についてなど多岐にわたりどれも文献からの引用を交え事細かに書かれており、挿図も豊富なので、興味を失うことなく読み進めることができる。例えば帛画に描かれている絵画の説明は林 巳奈夫/編『漢代の文物』を彷彿とさせると、馬王堆漢墓の婦人の遺体の調査のところは冨谷至/著『古代中国の刑罰』を彷彿とさせる。 ※馬王堆漢墓についての関連リンク ・2004年9月7日-10月24日 古代中国の文字と至宝 http://cte.main.jp/newsch/article.php/232 三国時代より前の時代のことながら、三国志に書かれた当時の社会風俗の一部が浮き彫りになるようで面白い(いや、このサイトが「三国志ニュース」なもんでとってつけたような文を入れてみる・笑)。 以下、『古代中国を発掘する』の目次を引用。 まえがき 序 世紀の大発見 第一部 馬王堆の漢墓 1 長沙の国 2 馬王堆一号墓の発掘 3 槨と棺 4 逸品ぞろいの副葬品 5 なぜ保存がよかったか 6 被葬者は誰か 7 長沙と楚の文化 8 馬王堆二号、三号墓の発掘 第二部 満城の漢墓 1 隠されていた墓 2 崖墓のしくみ 3 復原された金縷玉衣 4 副葬品のかずかす 5 劉勝と竇綰 結び 前漢時代の墓制 1 雄壮な帝王陵 2 堅穴墓から洞穴墓へ 以上、旅行中の山口県の岩国駅近くのファーストフードより。
: 清岡美津夫
2007年5月 3日(木) 09:21 JST
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第9回魏晋南北朝史研究会大会(2009年9月12日)
・古代中国箚記 http://ancientchina.blog74.fc2.com/ ・第9回魏晋南北朝史研究会大会(於:駒澤大学・2009/9/12) (※上記ブログ記事) http://ancientchina.blog74.fc2.com/blog-entry-251.html 上記ブログで今年の「第9回魏晋南北朝史研究会大会」のプログラムを知る。駒澤大学で2009年9月12日土曜日13時より開催とのこと。 ・魏晋南北朝史研究会 http://6ch.blog.shinobi.jp/ というわけで前回に引き続きプリントから情報を下記へ転載。 ━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 日時 9月21日(土)午後1時 場所 駒澤大学 深沢校舎1-2講義室 プログラム 開会挨拶 研究報告「魏晋南北朝史の再構成と史料批判の可能性を探る」 報告1 曹魏明帝政権の人的構造 大原 信正 氏 コメンテーター 満田 剛 氏 報告2 東晋南朝の宗廟について 戸川 貴行 氏 コメンテーター 小尾 孝夫 氏 特別講演 近年中国魏晋南北朝史研究动向:以青年学者为中心 侯 旭東 氏 学会報告等 総会 ━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
: 清岡美津夫
2009年8月 8日(土) 00:13 JST
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103.
メモ:『魏晋南北朝壁画墓の世界』
書店で見かけたら買おうと思っていた書籍に、蘇哲/著『魏晋南北朝壁画墓の世界 絵に描かれた群雄割拠と民族移動の時代』(白帝社アジア史選書008、2007年2月1日発行)ってのがあるんだけど、よくよく調べてみると近くの図書館に置いていたので借りてくることに。 とは言ってもタイトルから連想されるように「三国志ニュース」的なことはそれほどないんだろうな、と思っていて、それを証明するかのように七章あるうち、三国志と関係ありそうなのは「第一章 三国西晋の壁画墓」だけだった。第二章は「五胡十六国時代の壁画墓」ということで三国関係はあまり期待できないな、と思いつつ読み進める。 「一、中原壁画墓の衰微」。魏はやはり曹操が厚葬を禁止したので、それほど面白いものが出ていないようだね。 ※『三国志』魏書武帝紀 (建安)十年春正月、攻譚、破之、斬譚、誅其妻子、冀州平。下令曰:「其與袁氏同惡者、與之更始。」令民不得復私讎、禁厚葬、皆一之于法。 その中で紹介されていたのが「壁画のない陳思王墓」という小タイトルで曹植の墓が紹介されている。発掘調査は1951年6月、二度目は1977年3月と結構、古い。タイトル通り壁画はなかったものの、私的には「棺の右側には炊事道具、左側には井戸・車・家畜・家禽類の模型と俑などの陶質明器が並んでいた」という箇所に興味あり(本には写真はなかった)。それから墓の銘文から墓を造営した人に二〓日の休みを賜った(各賜休二〓日)という制度とかも興味あり(一文字だけ消えてるとしたら二十日とか二百日とかどれだろ)。あと三国志ファンとしてはその墓に遺骨が安置されていたってところが気になるんじゃないかな。 この章だとあと「二、河西回廊の壁画墓の繁栄」。ここでは漢民族と異民族の関わり合いが大きく取りあげられている。私が興味あったのは「河西地域の羌と胡」という小タイトルのところ。「嘉峪関市新城6号墓農耕図」、「嘉峪関市新城5号墓牧畜図」、「嘉峪関市新城3号墓穹窿図」の三枚の白黒写真が出てくる。6号墓に描かれている人物を「髪の毛が二股であり、羌族とされている」と書かれている。5号墓に描かれている人物を「鼻が高く、顎が大きくて、中央アジア人種の特徴を持っている」とし後の記述で「月氏族である可能性が高い」と書かれている。3号墓に関しては「ご飯をつくっている人物の服には鳥の尾羽がついている」と書かれている。どうも画像の絵が単純すぎてそれだけだと判りづらいが、こう説明されると理解や想像の手助けにはなる。 ※ちなみにこの本、「夏侯淵」(正)が「夏候淵」(誤)となっている。 それで他の章には三国関係はないかというと、そうではなく時たま過去の事例を引っぱり出すときに不意にでてきたりする。第二章の始めは墓での西王母と東王父の壁画に関し、後漢の事例を引っぱり出している。後は出行図に関してあれこれ。そこの挿図(図32 進賢冠の構造図)に孫機/著『漢代物質文化資料図説』で載っている進賢冠の説明図と同じものがでてくる。「図版出典一覧」の図32の出典を見ると、「図32 進賢冠の構造図(『中国古輿服論叢』文物出版社 2001年)」となっていて、この章の注で「〔15〕武冠・進賢冠・平上[巾責]の形式について、孫機「進賢冠与武弁大冠」(『中国歴史博物館館刊』総13・14期)1989年、のちに『中国古輿服論叢』文物出版社 2001所収)参照」となっているんで、おそらく同じ作者によるものなんだろうな。ここでの個人的チェックポイントは「『晋書』輿服志・『宋書』礼志の記録により、介[巾責]は文吏、平上[巾責]は武官のかぶりものだとわかる」ってあたり。時代にもよるだろうけど、介[巾責]は進賢冠の一部だし、平上[巾責]は武冠の一部だから納得できる。他のチェックポイントは「被葬者冠は武冠(籠冠ともいう)といい、西晋・東晋時代では、将軍クラスの武人がかぶっているものである」というところ。後漢の俑などをみると、音楽を引いたり踊ったりしている人が武冠かぶっていることが多いんで、ここらへんの時代変遷が新鮮。この章ではあと牛車の流行り廃れについて書いている。 もう三国関係はないかと思いきや第六章に「魏晋南北朝の具装騎兵」というのがあって後漢~三国の文献に見られる「鎧馬」、「鉄騎」、「鉄騎都尉」(馬超の弟)などについて書かれている。文献には曹操の『軍策令』からのもある。ここらへん第一回三国志シンポジウムで石井仁先生の報告「三国時代の軍事制度」でも触れられていたことを思い出した。 ・2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1 http://cte.main.jp/newsch/article.php/152 ※追記 リンク:曹操高陵在河南得到考古確認(2009年12月27日) ※追記 関野貞資料と墳墓の世界(2011年3月2日)
: 清岡美津夫
2007年7月21日(土) 17:42 JST
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三國志よりみた邪馬臺國(2016年4月27日)
・關尾史郎のブログ http://sekio516.exblog.jp/ ・購入2(16/05/12) (※上記ブログ記事) http://sekio516.exblog.jp/24394654/ 上記のブログ記事のRSSで知ったこと。 ・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/ ・三國志よりみた邪馬臺國 - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/book/b222657.html ※関連記事 邪馬壹国の歴史学―「邪馬台国」論争を超えて―(2016年3月30日) 上記サイトの上記書籍ページにあるように汲古書院より2016年4月27日に渡邉義浩/著『三國志よりみた邪馬臺國 ―国際関係と文化を中心として―』(ISBN9784762965715)が出版されたという。8000円(税別)。 ・渡邉義浩ホームページ http://ywata.gakkaisv.org/ ※関連記事 三国志 運命の十二大決戦(2016年2月29日)
: 清岡美津夫
2016年5月24日(火) 20:20 JST
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105.
メモ:「功次による昇進制度の形成」
※前記事 メモ:「漢代明經考」 下記関連記事で触れたように、尹湾漢墓簡牘に記載される長吏からも、察挙による就官の事例より功次による昇進の事例の方が多いと確認されたという。 ※関連記事 リンク:「尹湾漢墓簡牘の基礎的研究」 前者の察挙はさらに常科と制科があり、それぞれ孝廉科、賢良・方正科が例として挙げられる。それについては前記事で触れた論文について書かれていた。しかしそれ以外の大半と言われる功次による昇進について私はあまり把握していないので、一度、目を通した論文を再び読んでメモを残す。 論文は一昨年の「2008年度 東洋史研究会大会」で各100円で購入した『東洋史研究』の中にあった分で、ちょうど下記の関連記事(2番目)で触れた論文の次に来る論文だ。 ※関連記事 「魏晋南北朝時代における冠服制度と礼制の変容」ノート メモ:「秦漢時代の爵と刑罰」 ※追記 リンク:張家山漢簡「史律」に見える任用規定について その論文は下記のもの。CiNii(国立情報学研究所提供サービス)内のページへのリンクも続けて記す。リンク先で読めるという訳ではないが。 佐藤 達郎「功次による昇進制度の形成」(『東洋史研究』Vol.58 No.4 (200003) pp.673-696 東洋史研究会 ) http://ci.nii.ac.jp/naid/40002660407 この論文が掲載されている『東洋史研究』Vol.54 No.4は下記の東洋史研究会のサイトによると、1500円で購入できるようだ。 ・東洋史研究会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/
: 清岡美津夫
2010年2月16日(火) 00:33 JST
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106.
「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日)
※前記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート3(2008年9月14日) ※関連記事 公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」(2008年10月11日12日) ※追記 国際シンポジウム「三国時代・魏の世界―曹操高陵の発見とその意義―」(2010年11月27日28日) 上記の関連記事にあるように2008年10月11日12日に愛媛大学で公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」が行われるということで足を運ぶ。 当日はちょうど「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」の利用期間なので、12日の午前中を狙って11日丸一日かけて愛媛大学のある愛媛県松山市へと向かう。初めて行く土地で、車窓を楽しんでいたので、 図書館から借りた『漢代の地方官吏と地域社会』をほとんど読み進められなかったが。 松山はコンパクトにまとまった街で、市電と徒歩でホテル、観光地や繁華街などほとんどカバーできた。しかも市電はどこでも150円で一日券が300円という安さ。ただ市電の終電が早いことは玉にきずだけどね。 12日朝、市電に乗り込み、いざ会場となる愛媛大学へ向かう。 ・愛媛大学 http://www.ehime-u.ac.jp/ 9時前、会場となる建物の愛媛大学法文学部に到着する。その出入り口のど真ん中には写真のように犬がうつ伏せに寝そべって、こちらに無関心な様子で建物の入口の前でくつろいでいた(笑)。 エレベータに乗り込み8階に上がり、東側にある大会議室へ。西の入口でレジュメを貰う。 東の壁にスクリーンがあって、そこが演壇となる。席が東に向かって配置されているのではなく、写真にあるように会議室の名の通り、南北で交互に向かい合わせになるような席と机の配置となっている。清岡はスクリーンが見えるように北側南向きの席に座り、開始を待つ。 ●10月12日:研究発表―午前の部(午前9時~12時) ※以下、頭に「●」をつけた一行はプログラムからの写し 9:06開始。 前日「中国古代の簡牘と記録簡―日本古代木簡との比較―」のご講演をされていた藤田勝久先生が司会として立たれる。ここで王子今先生は渡航手続の関係上、来日できなかったとアナウンスされる。その代わり、三番目に黄 暁芬先生の「秦直道の調査と研究」というご報告をされるそうな。 ※追記 中国古代国家と社会システム(2009年9月25日) ●王子今氏(中国・中国人民大学)「中国古代交通システムの特徴―秦漢出土資料を中心として―」 藤田先生が急遽、作成した資料「中国古代の出土資料と交通論」を元に簡単な説明がされるとのこと。 ○1、中国古代交通史の研究 ※以下、頭に「○」をつけた一行はレジュメからの写し 白寿彝『中国交通史』(1975)は交通区域とか都会とか道路とか、制度史のような形で書かれた。その他、いくつか書かれ漢代だと譚宗義『漢代国内陸路交通考』(1967)、唐代だと厳耕望『唐代交通図考』(1985-1986)など交通路線の問題、それから交通施設の問題など、文献学を中心とした研究。 王子今『秦漢交通史考』(1994)は手に入るものの中で、一番、ベーシックなもの(レジュメでは目次が書かれている)。王子今先生の考えによると交通システムは統一国家を維持するためのものとのこと。秦漢時代に空前の発達を遂げた。秦漢交通史に重要性がある。社会生産の発展は交通の発達と維持を必要とする。交通網の分布、密度、効率は文化圏の範囲と規模を決定する。『秦漢交通史考』はこの当時、発見された出土史料画像史料をも含め概説されている。考察の対象としては狭い意味では人と物の空間、広い意味では通信など伝達方式も意識されている。考察の対象として、交通発展の現象と規律、社会文化面に対する作用を扱う。実際には制度、交通路とか橋とか乗り物とかが社会にどのように関わるか網羅的に扱う。 今回、王子今先生が発表するにあたり、予めどのような内容なのか聴いており、それがレジュメに書かれている「1交通条件と皇帝権、2交通施設と国家の政治、3交通路と国家の建設、4交通道路と軍事化」という目次に当たる。王子今先生には機会を改めて松山で発表してもらう予定とのこと。 ○2、人びとの移動と出土資料:文字資料と口頭伝達 人びとの移動としてどんな資料があるか。藤田先生は昔、『司馬遷の旅』(中公新書、2003)という本を書き、司馬遷は武帝と巡行したりと中国の三分の二を旅行している。交通史の研究が少ないので実際、どうかわからない、と。その本では「余論」として「漢代の旅行事情」として書いて、その時に調べてわかったことがある。つまり中国の交通史の研究は進んでなくて、よくわからないということがよくわかった。 レジュメの右側にいくつか項目を挙げている。それらは中国ではどんな人々が移動しているか、そんな移動を示す出土資料にはどういったものがあるか、そういったものを対象として研究を進んでいけば貢献できるのではないか。 「1)皇帝の巡狩」。一番有名なのに秦始皇帝の天下巡行がある。それを示すものに「刻石」がある。「2)中央の官僚、官吏」「3)地方の官僚、官吏」。従来から研究されている。「4)軍隊とその組織」。王子今先生も注目されている。軍事目的で移動したり辺境の防衛や徙民に関連する資料もある。「5)公的な労働」。単に物資を輸送させるだけではなく、土木建設、例えば皇帝陵墓作るためかり出されるとか。各地への軍需物資の移動の資料の一つに、今日、発表で触れられる「里耶秦漢」などがある。「6)学者、客、一般民など」。思想家、占いをする者、技術者など。 ○3、交通の施設と交通システム 一番考えられるのは「1)公的な城郭、交通・軍事の施設」、こういうハード面がある。出土資料そのものだけではなく近年、遺跡の調査もある。「2)交通システムと規定」について例えば睡虎地秦簡や張家山漢簡には「行書律」「伝食律」などの職業規定が出てきている。また通行書に当たるもの(符、伝、伝信)も資料として増えてきた。 ここで今回の報告の概要が藤田先生により説明される。今回の発表は全て日本語だそうな。 ※次記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート2 ※追記 東アジア出土資料と情報伝達(2011年5月25日) ※追記 日本マンガ学会第13回大会に至るまで(2013年7月4日-) ※追記 中国の歴史をたどる―『三国志』(2014年10月14日-2015年3月10日全6回)
: 清岡美津夫
2008年10月23日(木) 19:15 JST
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107.
メモ:後漢時代の私塾に関する基礎的考察(史料批判研究 9号 2010年12月)
※三国関連の前記事 メモ:曹豹さんを囲む会(仮)(2013年5月4日) ※前雑記 ・メモ:亜種一周片道乗車券 http://cte.main.jp/sunshi/2013/0426.html 上記のリンク先のように一週間も経たず、今度は東へ出かける。当初はその二週間後に同じく東に出かけるため、上記の雑記のようにまた一筆書きの一周片道乗車券、しかも往復を選ぼうとしたが、有効期限を考えるとどう考えても価格的に割りに合わないので普通に高速バスの2往復を選択する。 2013年5月10日10時30分京都駅発の高速バスに乗り込み、バスの中では終わりの見えない大型連休のレポを書き始める。ちょうど上記の雑記からリンクを貼っているページがそれらに当たる。 18時ぐらいに東京駅日本橋口に到着し、そこから160円で丸ノ内線に乗り大手町で半蔵門線に乗り換え、神保町で降り、A7出口へ向かい、少し雨が降る中、通りを歩き、東方書店へ到着する。 ・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店~ http://www.toho-shoten.co.jp/ 下記関連記事で触れたように、夢梨さんとの話で、論文、照内崇仁「後漢時代の私塾に関する基礎的考察」(『史料批判研究』第9号、史料批判研究会2010年12月)のことを思い出していた。国立国会図書館に行けば読めると思っていたが、ちゃんと検索してみると、蔵書がなく、あれこれ当たると東方書店に置いてあると知り、用事のついでにその書店に寄ろうと決める。 ※関連記事 メモ:第18回三顧会 前夜祭(2013年5月3日) それでいざ書店に入ってみてあれこれ本棚を見て回っても、目的の学術雑誌が見当たらない。しばし粘ってみたが、諦めて店員に尋ねてみて探して貰うことになった。 その待っている間の様子は下記関連記事に書いたとおりだ。 ※関連記事 六朝詩における「銅雀台」(中国詩文論叢 第31集 2012年12月) それで出して貰った、下記リンク先に情報のある『史料批判研究』第9号。3150円。308頁もあり、思ったより分厚く一瞬、怯んだが、そのまま購入する。 ・国内書 史料批判研究 第九號【中国・本の情報館】東方書店 http://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=9900008555&bookType=jp
: 清岡美津夫
2013年7月27日(土) 00:39 JST
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108.
論曹操墓出土的部分文物与歴史文献的関係(2010年5月21日)
・財團法人東方學會 http://www.tohogakkai.com/ ※関連記事 漢魏交替期における社会と文化(2009年5月15日) 上記サイトにあるように2010年5月21日に「第55回国際東方学者会議」の併設の「第2回中日学者中国古代史論壇 魏晋南北朝期における貴族制の形成と三教・文学 ―歴史学・思想史・文学の連携による―」が開催される。 名前から連想されるように私を含めた一般人は立ち入りできないから(※追記訂正。この記事のコメント覧で渡邉義浩先生よりご指摘をいただき、一般でも参加できるとのこと。5月12日締切でEメールでの事前申込制で会議参加費4000円で、学生は2000円。ただ、たいへん権威のある学会なのでそこらへんは念頭においてください。)、あまりここで記事にしても意味はなさそうだけど、下記関連記事にあるように昨年の「第53回国際東方学者会議 東京会議」のシンポジウムVI「漢魏交替期における社会と文化」の内容が『三國志研究』第四号にまとめられており、今回も何らかの形で刊行される可能性はないとは言えないので、ここに記しておこう。 ※関連記事 三國志研究 第四号(2009年9月) 今回、「三国志ニュース」的に目を引くのが、「Section II(History)」の13:50-14:10のところにある「梁満倉: 論曹操墓出土的部分文物与歴史文献的関係」というもの。 タイトルに「曹操墓」ってあるけど、これって、連想するに、昨年末(2009年12月27日)に公表された安陽西高穴大墓の出土物(※下記記事参照)と伝世文献史料とを照合し検討するような内容なのかな。 ※関連記事 リンク:曹操高陵在河南得到考古確認(2009年12月27日)
: 清岡美津夫
2010年4月14日(水) 19:34 JST
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109.
林 巳奈夫 先生、死去
訃報です。 2006年1月1日に林 巳奈夫 先生が急性心不全のため死去されました。80歳でした。 ・産経新聞 http://www.sankei.co.jp/ ※ここの「おくやみ」のところです。 林 巳奈夫 先生は京都大学名誉教授で「中国古代の生活史」(吉川弘文館刊、1992年3月10日発行、ISBN4-642-07311-6)の著者であり、つい最近、著作の「漢代の文物」を紹介したばかりです(下のリンク参照)。 http://cte.main.jp/newsch/article.php/258 そのため、個人的にかなり驚きました。 林 巳奈夫 先生のご遺徳を偲び、哀悼の意を表します。 ※追記 『中国古代の生活史』復刊(2009年12月15日)
: 清岡美津夫
2006年1月 5日(木) 10:09 JST
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110.
漢魏交替期における社会と文化(2009年5月15日)
小耳に挟んだんで記事にしてみる。 会議のタイトル通り、私を含めた一般人は立ち入りできないから、あまりここで記事にしても意味はなさそうだけど、前回2008年5月24日に開催された「第53回国際東方学者会議 東京会議」シンポジウムVI「両漢における「天」の文化」─思想史と歴史学の連携による」の内容は、下記のリンク先に情報を示す『両漢儒教の新研究』(汲古書院2009年1月刊行、ISBN978-4-7629-2850-5)にまとめられているから、今回も何らかの形で刊行される可能性はないとは言えないので、ここに記しておこう ・株式会社汲古書院 http://www.kyuko.asia/ ・両漢儒教の新研究 - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/book/b12176.html ※追記 三國志研究 第四号(2009年9月) ※追記 論曹操墓出土的部分文物与歴史文献的関係(2010年5月21日) それで何かというと下記のリンク先にあるように、2009年5月15日金曜日に「第53回国際東方学者会議 東京会議」が日本教育会館(7・8階)で開催され、その中の部会にシンポジウムVI「漢魏交替期における社会と文化」があるという。 ・財團法人東方學會 http://www.tohogakkai.com/ ・54th ICES SYMPOSIUM VI http://www.tohogakkai.com/ICES-program.html#sympo6 ※URLから判断するに、時間が経てばページの内容が差し替えられるかも。
: 清岡美津夫
2009年4月11日(土) 12:23 JST
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「長沙呉簡の世界」ノート6
・「長沙呉簡の世界」ノート5からの続き http://cte.main.jp/newsch/article.php/642 ※例によって中国語の報告であり、清岡はその後の日本語の要約頼りに報告を聴いていた。 ※2、「長沙呉簡の世界」とは関係ないけど、今、手元のログを見ると、阿部幸信先生が講義を持っておられる某大学のホスト(他4つの一般的なホスト)からやたら「長沙走馬楼呉簡 丘について」という検索があるんだけど、最近、課題でも出た? 学期末レポートとか? <7月20日5時半追記> 何か昨日の晩から今朝にかけて「長沙呉簡」関連のアクセスが増加していて今、これを書いているときも検索サイトからアクセスされているんだけど、この必死さをみると今日がテストなんだろうか。 三国志シンポジウムのときに忘れずに一般聴講しているであろう知り合いに確認しないとね。 まぁ、まだこの段階では推測でしかないんだけど。 http://cte.main.jp/newsch/article.php/264 ↑しかし仮にそうだとして、テスト前になってウェブを当たっているようでは結果も知れているような… <7月28日13:20追記> 確認すると、先週の金曜日にレポート提出があったとのこと。受講者数も聞けたんでなるほどな、って思った。どうも講義名か何かに「三国志」がつけられておりそれで受講者数が多いんだとか推理されていたけど。 ※追記 リンク:学生の動向 ※追記 メモ:第20回三顧会 前夜祭(2014年5月3日) <追記終了> ○報告VI(14:50~15:25):羅新(中国・北京大学)「近年来北京呉簡研討班的主要工作」 15時15分開始。まず略歴を紹介。北京大学出身で北京大学の副教授とのこと。そこから報告が始まる。 それで日本語の要約。 報告は大きく二つの部分に分けられる。北京呉簡研討班の成果の紹介の前半部分とその結果、直面した呉簡研究の問題点を述べられた後半部分の二つ。 前半ではまず2000年から始まる北京呉簡研討班の沿革、そのメンバーが発表した論文が87編にも上ることを報告。最新の成果が≪呉簡研究≫第二輯(壇上でこの本が示される)。2006年9月9日に出版。その本の冒頭にあるのが侯旭東先生と安部聰一郎先生の、現在知られている呉簡の形式から文書の原型を復原しようと試みたもの。これらは今後の呉簡の整理作業にも多大な影響を及ぼすため、特に権威者の立場である羅新先生から重要視された。 呉簡中に見られる各種の身分について論じられたものがある。州吏、郡吏、県吏といった吏の身分に貴賤といった側面で描かれた韓樹峰先生の二編の論文。また「吏帥客」について恐らくは国家によってコントロールされる屯田民であろうという見解を示した陳爽先生の論考。さらに王子今先生と張榮強先生による「私學」(※身分の名称)についてのもの。「私學」とは民間儒学の教育を受けた者で学歴や成績によって官吏に上げられる簿籍に登録された者であろう、と見解を示す。 宋超先生は「丘」と「里」について、「丘」は自然聚落であり、「里」は行政単位であるとし、「丘」が耕作地であるとの見解を否定する。かつ三国時代は伝統的な郷里体制から郷丘体制へと移行する段階である、としている。 また侯旭東先生の他の三編の論文はそれぞれが呉簡中の米の分類、古代の輸送における損耗の問題、および医療史の問題から呉簡の解読に迫っている。非常に具体的な問題から始まっているが、その内容は深く、非常に敬服するところが大きい。 孟彦弘先生は呉簡中に見られる「凡口九事七 [竹/弄]四事三」という表現から漢代から唐代に至る過程で「事」が「課」に変化している中で、民衆の自主性が弱まり、国家の民衆に対するコントロールが強化された、というふうに論じている。 羅新先生は呉簡の具体的な事例から度量衡の発展変化を論じている。 王子今先生は「地[イ就]銭」について市場史の角度から検討を加え、「地[イ就]銭」は臨湘侯である歩[陟/馬]の「食地」における「[イ就]銭」の名義で徴収されたものであり、「食地[イ就]銭」あるいは「地[イ就]銭」を「市租銭」と区別している。 王素先生は呉簡中の解釈をめぐる議論されている名詞について、非常に適切な考証をしている。また王素先生は日本の長沙呉簡研究会の発行した二冊の長沙呉簡研究報告の内容について非常に丁寧な論評を行われたものもある。これは日本側の研究について直接、了解することができない中国の研究者の方々について非常に重要な意義を持つものである。 ここまでが北京呉簡研討班の最新の成果について。 後半は北京呉簡研討班の活動を通じて現在、直面している問題点について。 非常に長く時間も押しているため、日本語要約では簡単にまとめるとのこと。 呉簡研究は確かに一定の成果を上げていた。しかしやはり現代までの研究は我々が期待した成果を上げていないと言える。基本的な用語の理解や孫呉における戸籍系統、あるいは郷や里や丘といった社会単位の認識など、熱心に論じられているが未だに決着を見ていない。その原因の最たるものは二つに分けられる。一つは呉簡自体が非常に切れ切れで漠然としたものであり、かつ原始的でランダムな史料であること。もう一つは我々、漢魏六朝史の研究者は基本的に文献史料による研究の訓練を受けており、呉簡のような原始的な史料に対する訓練をうけていないことに由来。呉簡は独特の史料であることを強調。『三国志』など文献史料とするときとは異なった研究方法が必要。この状況を乗り切るには呉簡の整理をさらに進めること、そして我々、研究者自身がこの原始的な史料に慣れるように自ら訓練をすることが必要。現在、新たな研究方法を模索する時にもあたっている。侯旭東先生の中古史の郷村社会に対する関心からの研究は非常に啓発的であり、また伊藤敏雄先生の統計を使った研究は非常に前途ある研究である。また中村威也先生の呉簡における獣皮納入簡の史料から中古時代の長沙の環境を復原する研究なども非常に啓発的で前途ある問題提起である。それ以外の方法とし、我々は視野をかなり拡大し長期の期間で呉簡と関係する史料を呉簡研究に利用することが必要である。例えば、北京呉簡研討班ではすでに東牌楼漢簡の釈読作業に入っている。続けて[林β]州で発見された西晋時代の簡牘についても詳しく研究する予定。これらの呉簡と関係が深い史料を精査することにより、呉簡の多くの問題が解決できると信じている。 呉簡研究は現在、キーポイントを迎えている。新たな方法、新たな視野からの研究がこの苦境を脱し、さらなる開かれた世界をもたらしてくれるだろう。 ※これらのことは『長沙呉簡研究報告』第3集に載っているので詳しくはそちらで。 15時52分終了。休憩時間の前に朝、配った質問用紙に質問を書いてくれるようアナウンス(この後のパネルディスカッションに使う)。 16時過ぎぐらいまで準備のため休憩時間。 ○休憩(15:25~15:45) この間、幸さんらしき人を見かけたので、声をかけてみると、やっぱり幸さんだった。二年ぶり♪ あと書店ブースに行ってあれこれ物色していた。東牌楼漢簡の写真&釈文本には少し心が動く(笑) ・「長沙呉簡の世界」ノート7へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/648 ※追記 レポ:7/26北九州 兀突骨で酒池肉林?! ラウンド3(2014年7月26日)
: 清岡美津夫
2007年7月14日(土) 00:04 JST
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日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)
・日本サブカルチャー研究会 http://www.japan-subculture.com/top.html 上記サイトにあるように(※時間が経てば更新される可能性大)、2012年6月1月金曜日から3日日曜日まで国際学術会議 "Manga Worlds" : Subculture, Japan, Japanology「マンガ・ワールズ-サブカルチャー、日本、日本学」が開催された。その二日目までは神戸大学瀧川記念学術交流館が会場で使用言語は英語のみで、三日目は京都国際マンガミュージアムが会場で使用言語に日本語も加わり発表時の同時通訳と質疑応答時の逐次通訳も行われた。 ・京都国際マンガミュージアム http://www.kyotomm.jp/ その三日目の会場の各座席に予め置かれていたのが、その国際学術会議についてのアンケートと、「日本マンガ学会第12回大会」のフライヤだった。そこには下記の日本マンガ学会サイトの下記ページにあるようなプログラムが書かれてあった。 ・日本マンガ学会 http://www.jsscc.net/ ・日本マンガ学会第12回大会 - http://www.jsscc.net/taikai/12 上記のページによると、2012年6月23日土曜日24日日曜日に明治大学駿河台キャンパス・リバティタワー(東京都千代田区)にて「日本マンガ学会第12回大会」が開催されるという。参加費は、会員であれば2日間で1000円(学生会員500円)、一般であれば1日につき1000円(学生500円)で、懇親会は一律別途3000円だという。 ・明治大学 http://www.meiji.ac.jp/ ここで「三国志ニュース」として目が行くのは23日土曜日13時からの研究発表の「口頭発表(3) 会場3:11階「1115」教室」の1番目の発表だ。 それは 陳曦子[同志社大学社会学研究科メディア学専攻] 日本における三国志マンガの翻案過程 というもの。「会場3」は13時から16時までの間に4報告あってそのうち最後は「ラウンドテーブル(90分)」であるため、この報告に30分が割り当てられているのだろう。ここでいう「三国志マンガ」の対象が、下記関連記事であげたような広く通行する横山光輝/著『三国志』だけ等、絞っているのか、あるいはデータベース消費を誘発するような『BB戦士三国伝』関連マンガ等も含めるぐらい幅広く取り入れられているのか気になるところだ。 ※関連記事 三国志学会 第四回大会ノート1
: 清岡美津夫
2012年6月 7日(木) 00:46 JST
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113.
メモ:日中における『三国志』の受容と再創造の概況
※前記事 メモ:「魏晉南北朝の客と部曲」 下記関連記事にある情報交換会を開催する前に、余っていれば、ある抜刷をくれないか、と著者ご本人にお願いしたところ、有り難いことにその会に用意して下さり、快くそれを下さった。 ※関連記事 議事録:三国創作における視覚的研究材についての情報交換会(仮題)(2012年7月5日) それは下記の論文(雑誌内表記では、研究ノート)だ。CiNii(国立情報学研究所提供サービス)内のページへのリンクも続けて記す。リンク先で読めるという訳ではないが。 陳 曦子「日中における『三国志』の受容と再創造の概況」(『メディア学』 (25), 1-9, 2010 同志社大学大学院メディア学研究会) http://ci.nii.ac.jp/naid/40018711817
: 清岡美津夫
2012年8月 2日(木) 00:44 JST
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ノート2:三国志学会 第五回大会
※目次 ノート:三国志学会 第五回大会(2010年9月11日) ※前記事 ノート1:三国志学会 第五回大会 11時16分再開。牧角先生から発表者と発表題名のアナウンスが入る。以下、二つ目の研究報告のノート。レジュメはB4用紙4枚、B5で縦書き8ページだ。 ○研究報告 11:10~12:00「結びつけられる三国志と太平記―近世初期の学問・思想の一齣として」
: 清岡美津夫
2012年7月28日(土) 00:54 JST
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中国白話文学研究 演劇と小説の関わりから(2016年11月22日)
・中国・本の情報館~中国書籍の東方書店~ http://www.toho-shoten.co.jp/ ・メルマガ登録 http://www.toho-shoten.co.jp/mailmag/ 上記の書店サイトの上記ページにあるように東方書店が発行するメールマガジン『書羅盤:チャイナブックナビゲーター』2016年第11号(総305号)(2016年12月29日発行)により知ったことで、下記の出版社サイトの書籍ページによると、汲古書院より2016年11月22日に小松謙『中国白話文学研究 演劇と小説の関わりから』(ISBN9784762965777)が8500円(税別)で出版されたという。後述するように、タイトルにある中国白話文学には三国ものも含まれており、第四章が「三国志物語の原型について――演劇からの視点――」として「〔呂布の金冠/孫堅の赤幘/糜夫人の死/龐統の死/藝能と小説〕」と節立てされている。 ・株式会社汲古書院 古典・学術図書出版 http://www.kyuko.asia/ ・中國白話文學研究 http://www.kyuko.asia/book/b253130.html ※関連記事 「四大奇書」の研究(2010年11月10日) 三國志演義成立史の研究(2016年3月7日)
: 清岡美津夫
2016年12月30日(金) 11:57 JST
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116.
2006年9月17日「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」ノート
2006年9月17日に長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」が開催されること、さらにそれは一般聴講可能だと聞き及び、前日、清岡は関西から東京入りする。 当日、同じく関西からのしずかさんと共に東京メトロ丸ノ内線で会場となるお茶の水女子大学最寄り駅、茗荷谷駅に向かう。 茗荷谷駅から歩いて北上し、途中のコンビニで飲料水を買いつつ、やってきたのはお茶の水女子大学の正門。正門近くのお茶の水女子大学附属高等学校で輝鏡祭(学園祭)をやっているようで華やか。 それを尻目に会場となる理学部3号館へ向かう。前のスーツ姿の人の後をつけて、3号館の2階から入り、エレベータで7階へ。7階についてエレベータを出ると前は汲古書院などの店舗となっていて、そこから会場を探し歩く。 7階は狭く細長い一本の廊下があるだけなので、少し階段を上がったりしつつそれをずんずん進んでいくと、廊下の突き当たりに受付があったので、受付をすまし、予稿集とレジュメを受け取り、廊下突き当たり左手の701教室へ入る。予稿集は「長沙呉簡研究報告」第1集・第2集と似た構成で、茶色の厚紙が表紙で、表紙が目次代わりとなっている。 どこに座ろうかと、会場向かって右側の通路を通っていると、不意に仁雛さんに声をかけられ、軽く挨拶する。席を真ん中左寄り、前から四列目を確保。10時開始の10分前だけどまわりにあまり人が座っていないのが気になった。ほとんどの人は後や右の端っこの方に座っている。 専門外の清岡は全く気付かなかったけど、しずかさんによると、入り口側、つまり会場向かって右側に席には著名な先生方がかたまっているとのこと。前日、同大学で「第6回魏晋南北朝史研究会大会」があったので、その流れかな、と話していた。 ・「第6回魏晋南北朝史研究会大会」(關尾史郎先生のブログ内記事) http://sekio516.exblog.jp/4182734 当時もそうだけど、上記記事をみると興味深いので聴講しにいけばよかったと後悔。 会場の様子は右上の写真のようになっている。プログラム等は以下の通り。【直前情報】長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」(關尾史郎先生のブログ内記事)のほぼまる写し ---------------------------------------------- ○長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」 日時:2006年9月17日日曜日、10:00~17:00 会場:お茶の水女子大学・理学部3号館7階701教室 主催:長沙呉簡研究会 総合司会:三崎良章(早稲田大学) プログラム: ・開会挨拶(10:00~10:10):窪添慶文(お茶の水女子大学) ・主旨説明(10:10~10:25):關尾史郎(新潟大学) ・報告I(10:30~11:05):阿部幸信(日本女子大学)「嘉禾吏民田家[艸/別]数値データの整理と活用」 ※文字コードの表示上の都合から[艸/別]は「別」の字にくさかんむりをつけた字という意味、以下、同じ ・報告II(11:10~11:45):小嶋茂稔(東京学芸大学)「後漢孫呉交替期における臨湘県の統治機構と在地社会-走馬楼簡牘と東牌楼簡牘の記述の比較を通して-」 ・報告III(11:50~12:25):町田隆吉(桜美林大学)「長沙呉簡よりみた戸について-三国呉の家族構成に関する初歩的考察-」 昼食・休憩(12:25~13:30) ・報告IV(13:30~14:05):王素(中国・故宮博物院)「中日長沙呉簡研究述評」 ・報告V(14:10~14:45):宋少華(中国・長沙簡牘博物館)「長沙出土簡牘的調査」 ・報告VI(14:50~15:25):羅新(中国・北京大学)「従〈呉簡研究〉看呉簡研究所面臨的困難」 ・休憩(15:25~15:45) ・パネルディスカッション(15:45~16:45) コメンテーター:朴漢済(韓国・ソウル大学校) ・閉会挨拶(16:50~17:00):伊藤敏雄(大阪教育大学) ---------------------------------------------- また以下のリンクは開催後の記事 ・長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界―三国志を超えて―」(關尾史郎先生のブログ内記事) http://sekio516.exblog.jp/4174556 それにしてもこのシンポジウム、タイトルに「三国志を超えて」とあるんだけど、個人的に史書である『三国志』にない情報がたくさん長沙呉簡に含まれているという意味で「超えて」だと思っていた。シンポジウムが終わった後、幸さんの話によると、三崎良章先生から「(このシンポジウムには)三国志はないですよ」というようなことを言われたとのこと。それをきいて清岡は、『三国志』を飛び「超えて」しまって通り過ぎたという意味で『三国志』はないんだ、なんてアホなことを思っていた。 ・「長沙呉簡の世界」ノート1へ続く http://cte.main.jp/newsch/article.php/421 ※追記 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題(2009年9月13日) ※追記 レポート:関プチ5 全国ツアー:6/22特別講座「新発見!三国志と日本」勝手に予習(2014年6月22日)
: 清岡美津夫
2006年9月22日(金) 12:08 JST
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第2回三国志学会大会ノート2
<目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日) http://cte.main.jp/newsch/article.php/679 <前回>第2回三国志学会大会ノート1 http://cte.main.jp/newsch/article.php/680 1号館301号室へ移動。番号から想像できるよう3階にあり、エレベータ待ちで混んでいたんで清岡は階段で移動。 そこの教室は想像以上に大きい教室で200名は軽く入る。急がなくて良かったな、と思いつつ、前から五列目ぐらいにど真ん中に陣取る。教室が広いもので固まって座るようなことはなく、左隣にしずかさん、その真後ろにUSHISUKEさん、その左へ順におりふさん、げんりゅうさん、KJさん。 ○「関羽文献の本伝について」伊藤 晋太郎(慶応義塾大学講師) 11時13分スタート。司会は中川先生。 ●はじめに ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ 「関羽文献」(仮称)とは、北宋の時代ぐらいに関羽は神様として崇拝されており、元代以降、関羽に関する伝記や伝説、評論や詩などを収録した文献の総称。伊藤先生自身、まだこの名称に納得していないため「(仮称)」とのこと。関羽の伝記は「本伝」とする。実際、読んでみると文献ごとに内容に違いが見られる。本発表では本伝の内容について検討し、内容の違いを示し、内容の違いが生ずるに至った原因について考える。 (『関帝文献匯編』という全10冊のセットが売っていて、そこに収録されている文献がレジュメに書かれており、そのうち、どれを使うかを説明)7『関壮繆侯時迹』については年表形式なので今回対象としない。 ●一、対象とする「関羽文献」 (レジュメにタイトル、巻数、著者名、初刻年などの情報が載せられている) A『漢前将軍関公祠志』(1603)、B『関聖帝君聖蹟図師全集』(1693)、C『関聖陵廟紀略』(1701)、D『聖蹟図誌』(1733)、E『関帝志』(1756)、F『関帝事跡徴信編』(1774)、G『関帝全書』(1858) これらの序文には著者(編者)のスタンスが見える(レジュメに引用)。ABEFGはそれより前に出た文献の誤りを正しているんだというスタンス(→本伝に反映)。 ●二、「関羽文献」の「本伝」の内容 いくつかの項目をあげその内容について『三国志』蜀書関羽伝との違いに留意しながら検討。 ●1. 呼称 (レジュメに列に『三国志』蜀書関羽伝、ABCDEFGの8文献、行に関羽の諱、文中の呼称、劉備、張飛、張飛の字、諸葛亮の手紙の6項目の表が書かれいる) Aは『三国志』蜀書関羽伝と文中の呼称(羽→公)以外はほぼ同じ。関羽の諱はBが空白、Gが□(四角)。文中の呼称は文献によって帝だったり侯だったり。Aの初刻年ではまだ関羽が帝になっていないので(敬称としての)公。劉備は先主が多い。CEは昭烈、Gは先帝。張飛は大体、張飛だがDとGとでは張侯。諸葛亮の手紙はほとんど髯だがDは髯公。 ●2. 出身地と[シ豕]郡にいたる過程 (レジュメに『三国志』蜀書関羽伝、ABCDEFGの冒頭部分が列挙されている) 『三国志』蜀書関羽伝の「亡命」がABCDEFGでは「避地」に変わっている。『漢語大詞典』よりそれぞれの意味をあたり、亡命→逃亡する、避地→やむなく土地を出る。 出身地は『三国志』蜀書関羽伝の「河東解人」に対しBGは「河東解梁寶池里下馮村人」になっている。解県は春秋時代、解梁城と呼ばれていた。唐の時代の董[イ廷]の文章では「河東解梁人」。『三国演義』では「解良」となっているがこれも「解梁」のことであろう。 「寶池里下馮村人」について。BGがともに収録している聖蹟図(レジュメの別紙にBの聖蹟図のコピーがある。顔良を斬った後の場面で右に絵、左に説明文がある)では「解梁常平村寶池里五甲」。この聖蹟図は王朱旦(解州知州)「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」に基づく。「常平村」「下馮村」の違いはあるが地方志である『旧平陽府志』には「常平下馮邨(=村)、即侯故居、今建廟」とあるので同一の場所。 →王朱旦「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」について。1678年に夢のお告げにより関羽の父の旧居の井戸から発見された巨甎(大きな煉瓦)に記された文字から、関羽の祖父(名審字問之号石磐)や父の名(名毅字道遠)を知る。 「避地」する原因がDに書かれてある。「漢前将軍壮繆侯関聖帝君祖墓碑記」にもBの聖蹟図にも書かれてある(→そのエピソードの解説)。このエピソードは他の文献や京劇にヴァリエーションが多々ある。 →『三国演義』(嘉靖本)の関羽の自己紹介に少し出てくるので、明代より前にこんな民間伝承があったのでは。 関羽の外貌。Gにのみ詳しく書かれる。『三国演義』に近い描写だが、「臉有七痣」とホクロに関する描写がある。 →BDEに関羽の肖像があり、これにもホクロがある(レジュメの別紙にコピーがある)。Gの肖像画には何故かホクロがない。洪淑苓によると演劇の影響ではないか、とのこと。 <参考リンク>2006年1月29日 中国史人游行(神戸南京町・春節祭2006) http://cte.main.jp/newsch/article.php/275 ●3. 車胄を斬る 『三国志』には武帝紀と関羽伝に見える。劉備が曹操に反旗を翻したときに殺された徐州刺史が車胄。関羽が車胄を殺したとは書いてない。DGでは曹操が車胄に劉備を殺させようということを察知して関羽が計略を交え車胄を殺している。関羽が車胄を殺すという場面は『三国志平話』にもあるがそれ以外は『三国演義』の影響。 ●4. 秉燭達旦 『三国志』にはない話。発表では割愛 ●5. 義釈曹操 『三国志』にはない話。発表では割愛。3と同じくDGが『三国演義』の影響 ●6. D『聖蹟図誌』のみに見える史実(史書の記載)と異なるエピソード レジュメで1から13まで挙げられている。12,13を除き『三国演義』の筋立てと基本的に一致。12,13は『三国演義』成立後に流布したような話の影響。 ●7.
...
: 清岡美津夫
2007年9月 8日(土) 11:45 JST
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118.
単軸モデルから多軸モデルへ(あるいはピラミッドモデルからすり鉢モデルへ)
※関連記事 2005年度におけるコーエーとセガの三国製品への関心変遷 上記記事の続き。 現代日本の『三国志』に関わるジャンルについて考えるに当たり、ふと江戸時代のことを思い出す。 2006年7月29日に開催された「第2回三国志シンポジウム」での報告「小説『三国志』と日本人」では、江戸時代中期において三国志を受容した層がどのようなものだったか、模式図としてスクリーンに映し出されていた。 ※関連記事 2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感2
: 清岡美津夫
2009年4月21日(火) 19:37 JST
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119.
ベトナムの『三国志演義』(2014年10月25日)
メールにて教えていただいたこと。 ・京都大学アジア研究教育ユニット http://www.kuasu.cpier.kyoto-u.ac.jp/ ・【お知らせ】公開セミナー「ベトナムの『三国志演義』」10月25日(土)┃京都大学アジア研究教育ユニット http://www.kuasu.cpier.kyoto-u.ac.jp/2014/10/15/jinbunken/ 上記サイトの上記お知らせページによると、2014年10月25日土曜日11時から12時30分まで京都府京都市左京区の京都大学人文科学研究所本館1階第1セミナー室にてDr.Lan NguyenTo「ベトナムの『三国志演義』」という公開セミナーがあるという。講師の方は「ベトナム社会科学院研究員 ・ ハーバード大学客員研究員・京都大学人文科学研究所招へい学者」とのことだ。中国語の発表だが日本語の適宜訳あり。 ・京都大学人文科学研究所 http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/ ※関連記事 高校生のための夏期セミナー ~漢字文化への誘い~ 第一回(2013年8月9日)
: 清岡美津夫
2014年10月15日(水) 23:57 JST
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「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート3(2008年9月14日)
※前記事 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復 2008年9月14日15:55、国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」のパネルディスカッション開始。 ひそかに写真を撮る。分かる人には分かり、知らない人には誰なのか分からないという肖像権の保護的な良い感じの撮れ具合。 以下、清岡の個人的に興味のあるところだけについてのノート。 ●パネルディスカッション:司会・葭森健介氏(徳島大学) まず司会の葭森先生から今回のそれぞれの発表について大まかに紹介される。 次に全体の発表について、明治大学の氣賀澤保規先生からそれぞれコメントが述べられる。 まずシンポジウムのテーマについて。氣賀澤先生は「魏晋南北朝史像の再構築」という点、何から何を再構築するのか、を意識していたという。 まず「晉辟雍碑の再検討」について。晉辟雍碑は非常に面白い資料。時代的には三世紀後半、年代的に立碑したのが278年、西晉の武帝の時で、碑を立てたのは「皇太子になったところの恵帝をヨイショする」ため。皇太子が辟雍に来て参加することを讃える。後漢の顕彰碑からの流れを持つ。碑陰の方で膨大な人の数が存在する。 氣賀澤先生にとって、もう少し踏み込んで欲しかったことは、その中に後漢時代に門生故吏の関係があり、福原先生の言葉で言うと、それが(晉辟雍碑では)国家、全国レベルの門生故吏の関係がくみ取れるのではないか、ということだが、全国レベルの門生故吏の関係とは何か、どういう構造をしているのか、この辺りのことをもう少し具体的に出してくれれば良かった、とコメント。 もう一つはこの時代において地方名望家から貴族へといった点。貴族制の時代がやってこようとする、そのある種の一面をこの碑が示そうとしている、そこらへんをもう少し具体的に、この碑から何を時代の姿として見て取れることができるのか、そこに「再構築」の問題があるのではないか、ということに関心があった。 辟雍碑という史料というのはいろんなところにあるんだと言われている。最近、碑の敷の部分が見つかったということを知っている。碑は路肩に置かれていると言われるが、考えにくいことなので、きっちりとした所在状況を抑えてみておく必要があるのでは? 一般に売っている史料は模刻の場合が多いので、史料そのものの位置付け性格付けが必要となってくると思った、と。 「両晉南朝墓誌と公文書」について。両晉南朝墓誌の中に「詔」とか「策」とか「札」とか、それに関わる史料が入ってくる。これは貴重な提言。実は東晉のものは見つかっていないという。この問題は実は後の時代、唐代隋代まで波及してくる問題。それをどう受け止めるか。公文書が墓誌の中にどの程度の形で組み込まれてくるのかということまで今後、考えていく問題があるのかな、と思った。その先にどういう見通しを持ったらいいのかということを聞きたい。 (※省略) 16:21。ここで司会から事前に回収した質問用紙からの質問を先に公表し氣賀澤先生の質問と合わせて回答してもらうという主旨が告げられる。 まず金沢大学の安部聰一郎先生から福原先生への質問。辟雍碑の意味について、碑陰の題名のところから門生故吏関係と地域的偏在の二点について注目されていたが、太学という場において例えば涼州出身者を重点的に門生故吏関係に組み入れていくのはどういう意味があったのか。 東北大学の川合先生から中村先生への質問。詔書が墓誌に利用されていることについて。実は墓誌以外に○○○(※清岡注。聞き取れず)の自叙の中にも「○○○○○」(※清岡注。やはり聞き取れず)が引かれているところが気になった。こういうのもどこかに関係するのではないか。自叙の中の公文書と墓誌に使われているものとの関係性は? 大阪市立大学の室山先生からの質問。北朝の墓誌にも詔、制がそのままの文章にでてくるが、墓誌にこういった公文書が記される意味、目的、効果について何か考えはあるか。 福原先生からの回答。今朝掲げた拓本は模刻から(拓を)とったのではないか、という質問だが、絶対違うとも言いがたい。 「ま、四千元もするし」との発言で場内を沸かす。 原拓ではないかと思う。あれが模刻の拓本だとすると、その模刻の碑はどこにあるという疑問もある。 この碑から何が言えるかという質問について。(繰り返しになるかもしれないが)碑を立てるという行為自体が後漢時代に始まって盛んになる。どこが舞台になるかというと郡レベル、地方、郷里というよりか民間というよりか、郡太守などの官吏が関わる。そういうところが受け継がれていた。その一方、「立碑の禁」という形で禁止した。二重性がある。その碑の内容は行礼だが、それ自体も後漢時代に地方で流行した。今日、配布した別紙の「参考文献」に示す呂思勉「郷飲射」(『燕石続札』、上海人民出版社、1958年)に地方官がそういうことをやったということが集められている。そこからヒントを得た。ちょうど内藤湖南が「貴族制の成立」で掲げた、いわゆる郷里から名望家から貴族が誕生した、(表面的かもしれないが)それと類似している。これとイコール貴族制とは直接、結びつかないかもしれないが、貴族制があるとするならば、貴族制が生まれた母体と同じものからこういう構造がでたんではないか。民間から国家へ、しかし郡レベルのところから。そういう意味では後漢と西晉とに繋がりがあるという感じだ。後漢というのは立派なものを作る物質的な時代に対し、西晉とは精神性、つまり表面的にはショボいが内面的には充実させていく、文学とかそういうのが盛んになっていく。共通性はあるが変化していく、そういった繋がりがある。貴族制が誕生した同じ動きがここにも二重に、立碑と行礼という点で見られるんじゃないかと考えた。 それと関連し、また安部さんからの質問に関連し、門生故吏というと極端に言うと、地方にあった先生と学生、あるいは主と属僚、その関係が、「立碑の禁」など禁止する方向だが、この場合だと皇帝皇太子と学生の間で言えるかどうか。後漢の場合でも地方官が親臨するわけであって、実際には先生ではないわけであり、ちょっとズレがある。ただ今日説明しなかった、釈奠礼があって、そういう面があるのかと。 涼州の人について。禿髪樹機能の反乱の地域からは誰も来ていないが、西域、敦煌郡、特に西平郡の人が「散生」という特別枠で来ている。なぜここを重視しているのかよくわからない。なぜここを重視して旧蜀漢を重視しないのか。当時、敵国の呉があるので、蜀漢の方を重視した方が政策として良いのではないか、と思う。ただ西平郡の人が多いということは事実。これから考えていきたいと思う。 中村先生からの回答。元々の問題関心は、詔が出た場合、ありがたく受け取った方がそれをどういうふうに扱うのか、後生大事に置いておくのか、ある種の先祖代々の社会的なあるいは政治的なポジションを証明するものとしてありづづけるのかということで、これが使えないかな、と思った。(※清岡注。自叙に関しての具体名が出ていたが、それ自体、清岡が知らないため、この記事で書けず) そういう文脈で考えることができるならば、西晉や梁の墓誌に詔を引用することに一脈通じるものがあるのかな、と思う。少し話がはずれるが、南朝の宋の元嘉の末から力役に関連し戸籍の偽りが行われるが、偽りの仕方の中に辞令に対し、年号を間違えたり干支を間違えたりする誰が見ても分かるような、そういう誤りをおかしたような形で戸籍を偽造しようとするというのがある。これは民間に関したことだが、そういう話からすると干支の付いた詔というのが各家にはあるということが前提になっているのかなと思う。荀岳のような形の干支から始まる詔が任命の時ではなく、後生大事に家に置いておかれたのかなと思う。 北朝の方がもっと詔を引用するケースが多くて、確認したのはまだ一例だけだが「門下」から始まる詔がそのまま引用されているものがある。「制詔」から始まるのもある。これ自体は公文書からいうと非常に面白い現象だと思う。こういうことは始めたばかりなので今後、傍証みたいなのを探しながら話を詰めていきたいと思う。 (※省略) 辟雍碑の所在地について趙水森先生からの回答(※清岡注。但しこの記事では通訳を通しての記述)。私は洛陽で23年間仕事をしてきたが、あの碑についてよく知っている。あの碑があそこにあるかは元々、太学だったからだ。歴史の中であの碑の存在が忘れられ、民国時代、ほとんど新中国成立に近い時期にようやく再発見された。ただその時にはお金がなかったので、あの碑の保護ができなかった。ただ○○(※清岡注。聞き取れず)の中で保護する形をとった。模刻ではないか、ということだが、あまりその可能性はないのではないか。特にあれが70年代に国家の一級文物になるときに、非常に多くの学者があそこに行って様々な検討を行ったんで、私はそれらの学者の目を信じて良いのではないかと思う。当時の学者は偽刻か真刻かというのを考えたのであって、模刻だったのではということはそれほど考えなかったかもしれないが、しかし、それも問題ないのではと思う。福原先生の拓本がどうなのかという問題についても、私が見た感じでは本物だと思う。ただ現在ではあの碑についての模刻もできており、これから購入される場合は原石か模刻かというのを注意する必要がある。 (※省略) 17:39終了。この会場は18時までに撤収しないといけないということだそうな。 ●閉会の挨拶:關尾史郎(新潟大学) この科研のプロジェクトは今年度で最終とのこと。 17:43閉会。 ※次記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日) 以下、余談。 というわけで、清岡はそそくさと会場を後にする。 帰りは大崎駅ではなく五反田駅へと向かう。というのもドキュメンタリー番組『ガイアの夜明け』でモスバーガー五反田東口店が紹介されていてそこで食事を摂ろうと思っていたため。 ・日経スペシャル ガイアの夜明け http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/ ・MOS BURGER http://www.mos.co.jp/ そこは24時間営業で、深夜はシニア層の店員を多く雇っているらしく、気遣いの良い接客で「モス・ジーバー(爺婆)」の愛称で好評だそうな。そこで地域限定期間限定のモスの新メニューの岩手県産南部どりバーガーを食べくつろぐ。今日、初めての食事。後日、別の地域限定のマッシュルームバーガーを食べたけど、南部どりバーガーの方が私の好みだね。
: 清岡美津夫
2008年9月26日(金) 19:07 JST
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