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掲示板 件名 最新投稿

リュウビ十五歳


  • 2006年2月 1日(水) 22:55 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,627
歴史  自サイトで小説を書くためのメモ書きみたいな「孫氏からみた三国志」というコンテンツをつくっていて、そこに劉備(字、玄徳)のことを書くことになった。そのコンテンツで書く書かないは別として、劉備についてあれこれ調べていた。
 そこで気になったのが三国志蜀書先主伝の記述。

年十五、母使行學、與同宗劉徳然・遼西公孫[王賛]倶事故九江太守同郡盧植。徳然父元起常資給先主、與徳然等。

というところの、(劉備が)15歳のとき、劉備の母は(劉備を)同じ一族の劉徳然と遼西出身の公孫[王賛]とともに遊学させ、元、九江太守の同郡([シ豕]郡)出身の盧植につかえさせた。徳然の父、元起はいつも先主(劉備)と徳然たちへ資金援助していた。というところが気になった。

 そういえばこのとき盧植(字、子幹)は何をしていたんだっけ? 黄巾の乱で中郎将になるのは後年のことだし。

 まず年代だけど、幸運なことに劉備の没年と亡くなった歳がわかるので、そこから劉備が15歳のとき、何年だったがわかる。同じく三国志蜀書先主伝によると、

(章武三年)夏四月癸巳、先主[歹且]于永安宮、時年六十三。

というふうに章武三年(西暦223年)の夏四月癸巳(四月に癸巳の日はないので命日は3月5日?、これに続く文の諸葛亮の上言によると命日は4月24日)に先主(劉備)は永安宮において63歳のとき亡くなった、とあるので、そこから逆算し、当時は数え年なので、劉備は西暦161年生まれということになる。
 それで劉備が15歳のときは熹平四年(西暦175年)だ。

 一方、盧植はというと、後漢書盧植伝によると、

建寧中、徴為博士、乃始起焉。熹平四年、九江蠻反、四府選植才兼文武、拜九江太守、蠻寇賓服。以疾去官。作尚書章句・三禮解詁。時始立太學石經、以正五經文字

というふうに、建寧年間(西暦168年-172年)、(盧植は)博士になり、そこから起き始めた(それまで無官)。熹平四年(西暦175年)に九江郡の蠻(蛮)が反乱し、四府は文武を兼ねた才能のある盧植を選び、九江太守にし、蠻は屈服した。病気のため官を去った。尚書章句と三禮解詁(三禮は儀礼、周礼、礼記のこと)を作った。当時、初めて太學石經が立ち、それにより五經(易・書・詩・礼・春秋)の文字を正した、となっている。

 先の三国志蜀書先主伝をみると、「故九江太守同郡盧植」(元、九江太守の同郡出身の盧植)となっているので、九江太守をやめた後、盧植の元へいったと単純に思っても良いけど、経験上、官職の記述はあまりあてにならないと思うので、もうちょっと調べる。

 後漢紀によると

熹平四年 春三月、五經文字刻石立于太學之前。

 後漢書本紀によると

(熹平)四年春三月、詔諸儒正五經文字、刻石立于太學門外。

というふうに共に熹平四年春三月に後漢書盧植伝に記載のある太學石經が立ったことになっており、史書の記述を見比べてみると、九江郡の蠻の乱は熹平四年の上四半期のうちにおさまったんだろう(残念ながら他のところから乱に関する記述を見つけだせなかった)。
 ということは劉備たちは官職についていないときの盧植の元へ行っていたのかな(病をわずらっていないときと思うが・汗)。劉備たちが習ったことは当時、盧植が執筆した尚書章句と三禮解詁の内容を色濃く影響をうけたものだったんだろうか、とあれこれ想像してしまう。

・「リュウビ二十七歳」に続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/278

太平御覽の部の一覧


  • 2006年1月15日(日) 12:41 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,426
歴史  ほとんど自分向けのメモ書きなんだけど(汗)
 「太平御覽」という書物がある。清の紀鈞の「四庫全書總目」によると、子部に分類され、宋の李昉たちによる敕撰で一千巻。太平興國二年(西暦977年)に詔を受け、八年で完成したとのこと。旧名は「太平編類」。中身は世の中のいろんなことがまず大項目(○○部)それから小項目に分かれていて、その項目に関していろんな書物から引用されている。引用されている書物は一千六百九十種とのこと。例えば、「卷六十九」の「地部三十四」の「洲」の「呉録地理志」からは、「呉富春縣有沙漲、武烈為郡吏、赴府、郷人餞之、會於沙上、父老曰:『此沙狹而長、君後當為長沙太守。』後果然、因名孫洲。」となり、呉の富春県に沙漲(砂浜のわき起こり?)があって、武烈(孫堅のこと)が郡吏(郡の役人)になり、府(役所)にむかうとき、郷人(村人)たちがたまたま沙の上でこれをおくり(送別会をし)、父老(村の老人たち)は「ここの沙狹(砂の狭いところ)を長くすれば、あなたは後に長沙太守になるだろう」といって、その後、そうなり、そのため孫洲と名付けた、と引用されている。こういう感じで三国志に関係することも多数あるのだ。

※追記 リンク:中国盲人数字図書館 電子図書

 それでさすがに一巻一巻、どんな項目があるか書くのは一千巻もあるし長すぎるんで、どの巻からどんな部が始まるか、以下に列挙する。つまり「太平御覽」で何か調べるのに便利かと思って、自分向けにつくったメモ書きなのだ(笑)。

卷一 天部
卷十六 時序部
卷三十六 地部
卷七十六 皇王部
卷一百一十七 偏霸部
卷一百三十五 皇親部
卷一百五十五 州郡部
卷一百七十三 居處部
卷二百三 職官部
卷二百七十 兵部
卷三百六十 人事部
卷五百一 逸民部
卷五百一十一 宗親
卷五百二十二 禮儀部
卷五百六十三 樂部
卷五百八十五 文部
卷六百七 學部
卷六百二十 治道部
卷六百三十五 刑法部
卷六百五十三 釋部
卷六百五十九 道部
卷六百八十 儀式部
卷六百八十四 服章部
卷六百九十九 服用部
卷七百二十 方術部
卷七百三十八 疾病部
卷七百四十四 工藝部
卷七百五十六 器物部
卷七百六十六 雜物部
卷七百六十八 舟部
卷七百七十二 車部
卷七百七十七 奉使部
卷七百八十 四夷部
卷八百二 珍寶部
卷八百一十四 布帛部
卷八百二十一 資産部
卷八百三十七 百谷部
卷八百四十三 飲食部
卷八百六十八 火部
卷八百七十二 休征部
卷八百七十四 咎徴部
卷八百八十一 神鬼部
卷八百八十五 妖異部
卷八百八十九 獸部
卷九百一十四 羽族部
卷九百二十九 鱗介部
卷九百四十四 蟲豸部
卷九百五十二 木部
卷九百六十二 竹部
卷九百六十四 果部
卷九百七十六 菜茹部
卷九百八十一 香部
卷九百八十四 藥部
卷九百九十四 百卉部

三国志 地図


  • 2005年12月 8日(木) 18:16 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    7,271
歴史  個人サイトを運営していると、ネット上のどういった経路で自サイトのページへアクセスされるか気になるもので、そういったことを調べるのにアクセス解析という手法がある。
 アクセス解析のやり方とかそういった話はここでは割愛して、アクセス解析によっていろんな情報が得られるんだけど、その中で、自サイトのページにアクセスする前に居たページの情報、つまり「リンク元のURL」(HTTP_REFERER)が含まれている。
 ※アクセス解析によって得られる情報は下記のリンク先参照。
http://www.mse.co.jp/ip_domain/domain_text.html#brows
 (余談だけど、今日からホスト名「YahooBB…」が「softbank…」に変わったんだね)

 googleやyahooなどの大手検索サイトの検索結果ページのURLにはどういった言葉で検索したかといった情報が含まれている。そのため、大手検索サイトからの「リンク元のURL」をアクセス解析によって見ることで、どんな言葉で検索され自サイトのページに来たかわかるようになっている。
 それを眺めていると世間で三国志関連のどんなことに興味を持たれているか、その一端を知ることができる。
 例えば、ちょっと前までだったら「バショクショック」だったり「川原 三国志」だったりした。
・「バショクショック」で辿りつけるところ
http://cte.main.jp/newsch/article.php/188
・「川原 三国志」で辿りつけるところ
http://cte.main.jp/newsch/article.php/220

 あと、三国志と実は関係のなかった方の「二宮事件」とか、それとごく最近ではやたら「捜神記」(あるいは「復活」「干宝」「漢文」「訳」)が引っかかる。何か、模試の問題にでも使われたんだろうか??
・「二宮事件」で辿りつけるところ
http://cte.main.jp/newsch/article.php/184
・「捜神記」で辿りつけるところ
http://cte.main.jp/newsch/article.php/225

 と前置きで思わず脱線してしまったんだけど、そんな検索ワードの中でそれほど多くないんだけど、常にある一定の数があるのが「三国志 地図」という検索ワードだ。
 三国志ファンの中で当時の地名の入った地図をほしがっている人が結構、いるんだろうな、と想像できてしまう。

 ネットで「三国志 地図」ときいて連想できるのは「むじん書院」。ただ期間限定なんだけど。三国志関連の地図を載せているだけじゃなく、Windowsでの地図の作り方まで書かれてある。
http://www.project-imagine.org/mujins/

 あと三国志ファンだったら、書籍の付録としてついている地図を使うというようなことをしているのかな。筑摩書房の世界古典文学全集の「三国志」訳本(ハードカバー)の付録の地図とか。
 それと三国志ファンの中でも知識系ファンで定番になっているのが譚其驤「中国歴史地図集」第三冊 三国・西晋時期(それか第二冊 秦・西漢・東漢時期)。
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=420
 郡境や県城に到るまで事細かに書かれているものの、文字が日本人には馴染みがうすい簡体字で書かれているということ、中国の書籍なので入手が難しいということ、なかなか欲しい時代のものがばら売りしていないということなどの短所があり、大まかに位置関係を知りたいという人にはあまりお勧めできない。

 気軽に三国志の地名の大まかな位置関係を知りたい場合は、下記のリンク先で販売している「三国志地図」両面下敷きがおすすめ。

・三国志グッズ総合オンラインショップ「英傑群像」
http://www.chugen.net/

 オモテが州郡地図、ウラが主要戦争地図になっているとのこと。詳しくは下記のリンク先参照のこと。
http://sangokushi.chugen.net/?eid=396270
http://sangokushi.chugen.net/?eid=401183

 元が下敷きなので、三国志ファンの集いやアミューズメントパーク、それに学校にも持っていける感じ。また三国志関連の本を読むときに見比べたり、ファン同士で話すときなど便利っぽい。

三国志とは


  • 2005年11月21日(月) 20:31 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    4,859
歴史

 「三国志」って何? と思って検索された人も多いと思うけど、そんな初心者・入門者に「三国志」を簡単にわかりやすい説明。


『三国志』とは歴史書のこと。魏、蜀漢、呉の三つの国の記録。正史類の一つ。
中国の三国時代あたり(2世紀の後半から3世紀の中盤あたり)のことが人物別に書かれている歴史書。
陳寿(西暦233年~297年)という人が編纂した。


間違ったことや紛らわしいことを省くとたったこれだけのこと。

※ちなみにこの記事では『三国志』に書かれたこと、つまり『三国志』の内容については触れない

ただ後の時代の人がその歴史書の中身やその時代以降の言い伝えにドラマ性を見いだしたのか、唐の時代あたりから、講釈やお芝居など物語の題材に使われるようになった。
もちろん講釈やお芝居などだから正確な歴史的事実より面白くなければならないので、いろんなフィクションが入り込んだ。

そんな三国志や三国時代の話を元にした物語をまとめあげ、さらにあれこれ創作を入れ、時系列順に一つの物語にしたのが『三国演義』(『三国志通俗演義』)という書籍。14世紀の羅貫中という人が編纂したといわれている。
この本は版を重ねるごとに細かい部分で内容が変わっていくことになる。そして翻訳され外国へも伝わることになる。

日本では『三国演義』を湖南文山が翻訳(翻案?)した『通俗三国志』が1689年から1692年に刊行され、好評を博し版を重ね、絵入りのものが刊行されることもあった。

その後、日本で今で言う小説の形にしたのが、吉川英治がそれまでの三国志関連の物語を元にし1939年から1943年まで執筆した『三国志』であろう。

※この小説と前記の歴史書は同名だけど似て非なるもの。以下の「三国志」と名の付く作品も同様。

その後、多くの人が三国志関連の物語を題材に小説を書いている。代表的なものでは、

・柴田錬三郎/著『三国志 英雄ここにあり』(1966年~1968年)、
・陳舜臣/著『秘本三国志』(1974年)、
・北方謙三/著『三国志』(1996年)、
・宮城谷昌光/著『三国志』(2001年~)

また、三国志関連の物語は書き物や小説の類にとどまらず他のメディアにも広がる。

・主に吉川英治/著『三国志』を元にし、横山光輝が漫画の『三国志』を1972年から1987年まで連載した(※発売日からだと1971年から)。
・1982年にはテレビ番組で人形によるドラマ『人形劇三国志』(NHK制作)が放送された。
・1985年には光栄(現、コーエー)からコンピューターゲーム『三國志』(シミュレーション)が発売されその後、続編が発売され、テレビゲームにも移植された。
・王欣太が漫画の『蒼天航路』(途中まで原作・李学仁)を1994年から2005年まで連載した。
・本場中国では1994年に中国中央電視台製作のテレビドラマ『三国演義』が放送された。
・1999年には『三国演義』を元に舞台化された市川猿之助スーパー歌舞伎『新・三国志』が上演された。
・2000年にはコーエーからテレビゲーム『真・三國無双』(アクション)が発売され、その後、続編が発売された。
・2005年にはSEGAからアーケードゲーム『三国志大戦』(リアルタイムカードアクション)が稼働開始した。
・2007年にはバンダイから『三国演義』と『BB戦士』(SDガンダム)を融合させた玩具(プラモデル、フィギュア)『BB戦士 三国伝 風雲豪傑編』シリーズが販売開始された。

このように三国志関連の物語はいろんな時代でいろんなメディアでいろんな作品として存在している。
そのため、一言、三国志ファンといっても、あるファンは『三国志』や関連の史書を読んで史実を見据える歴史ファンであるし、またあるファンは『三国演義』等を読み楽しむ古典文学ファンだし、また一方では大元に『三国志』を題材とした小説を好む読書ファンだし、他にも漫画ファン、ゲームファン、グッズやカードのコレクターなど、いろんなファンを想定できる。

『三国志』に書かれた歴史はすでに3世紀には終わっているものの、今でも多くの人々に語られ愛され、ニュースとして取り上げることができるのは、こういった三国志関連の物語が今も多くの人々の間で生きているからなのかもしれない。

もしあなたが初心者・入門者で、フィクション混じりでも三国志関連の物語を大まかに一通り楽しみたい場合は次にあげる作品をおすすめする。同じ三国志を題材にしている作品といっても受け手に合う合わないがあるので、購入の前にまず借りるなりして試すのが良いだろう。

○小説
・吉川英治/著『三国志』
・陳舜臣/著『秘本三国志』
・北方謙三/著『三国志』

○漫画
・横山光輝/著『三国志』
・王欣太/著『蒼天航路』

○映像作品
・『人形劇三国志』(NHK)
・『三国演義』(中国中央電視台)

○ゲームソフト
・コンピューターゲーム『三國志曹操伝』(シミュレーションRPG、コーエー制作)
・テレビゲーム『真・三國無双』(アクション、コーエー制作)、1,2,3,4,5のどれか一つ

※ノンフィクションとしては、少し初心者・入門者向けから外れるが次の本がおすすめ
・高島俊男/著『三国志 きらめく群像』


というわけで当ブログ「三国志ニュース」では今も生きる三国志関連のニュースをお伝えしている。

三国志のことを全く知らない人にとって、わかりづらいブログなので、とりあえず三国志の説明をしてみた。三国志の中身の説明や三国志関連の物語もまた別の機会で書いてみたい。

※より詳しい三国志関連作品の年表は下記URL先へ。
http://cte.main.jp/newsch/article.php/588

※2007年11月14日加筆修正
※追記 三国志ニュースの利用案内  

捜神記の日本語訳


  • 2005年11月20日(日) 09:56 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    11,423
歴史  「捜神記」は、晋書干宝伝によると三国時代の後の晋の時代の干宝(字、令升)が編纂した三十巻の書物で、三国志の裴松之注でたびたび引用される。不思議な話をあつめている。
 この「捜神記」は漢文であれば、以下のサイトで見ることができる。

・Project Gutenberg
http://www.promo.net/pg/index.html
ここの「Project Gutenberg」→「Search」→「Chinese」→「Sou Shen Ji」
http://www.gutenberg.org/browse/authors/b#a2398
※要Big5(繁体字)フォント

 また出版では捜神記は本文・書き下し文・通釈・語釈の体裁で出版されている。
・先坊幸子・森野繁夫/編「干寶『捜神記』」(白帝社、ISBN4-89174-693-9)

※追記 「捜神記」で検索される訳

 それでネットでは訳はないかというと、全訳でないながらも老舗中の老舗にあった。青空文庫だ。読むのに対価のいらないインターネット図書館だ。

・青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
・岡本 綺堂/著「中国怪奇小説集 03 捜神記(六朝)」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card1298.html

 ちなみにこれを知ったのが、下記のサイトの記事。

・Die Dunkle Seite
http://motch.cside.com/dds/
・記事「ぶきっちょ元海」
http://motch.cside.com/dds/diary/051113.htm

 岡本 綺堂って人は明治から昭和初期の人なんだね。そんな時期に捜神記が訳されているとは驚き。それで実際、岡本 綺堂/著「中国怪奇小説集 03 捜神記(六朝)」と捜神記の原文を比べて読んでみる。まず目に付いたのは順番が上のサイトにある原文とちがうこと、それに岡本 綺堂/著の方は前書きとわかりやすく各話にサブタイトルがついていること。ちょっと読んだ感じだと、案外、忠実に訳される。
 それでどんな話が載っているのか原文とどう違うか把握するために、順にサブタイトルごとに「時期や場所」 「登場人物」 「掲載巻数」の順で下にまとめてみる(項目に該当するのが見あたらない場合は「△」にしてる)。
 そのまとめを見てみると、三国志関連の時代や有名人(朱桓、麋竺、孫[糸林])が結構、出ている。あと日本にもある羽衣伝説の元ネタかな、と思われるのもある。

・首の飛ぶ女
 秦時→呉時 朱桓 搜神記卷十二
・※[けものへん+矍]猿
 蜀中西南高山之上 蜀の西南地方の楊姓 搜神記卷十二
・琵琶鬼
 呉赤烏三年 楊度 搜神記卷十六
・兎怪
 魏黄初中 △ 搜神記卷十七
・宿命
 △ 陳仲挙 搜神記卷十九
・亀の眼
 古巣&秦 △&△ 搜神記卷二十&搜神記卷十三
・眉間尺
 楚 干将莫邪 搜神記卷十一
・宋家の母
 魏黄初中 宋士宗 搜神記卷十四
・青牛
 秦文公二十七年 △ 搜神記卷十八
・青い女
 呉郡無錫 △ 搜神記卷十八
・祭蛇記
 東越[門+虫]中 △ 搜神記卷十九
・鹿の足
 予章 謝鯤 搜神記卷十八
・羽衣
 予章新喩県 △ 搜神記卷十四
・狸老爺(たぬきおやじ)
 晉時呉興 △ 搜神記卷十八
・虎の難産
 廬陵 蘇易 搜神記卷二十
・寿光侯
 漢章帝時 寿光侯 搜神記卷二
・天使
 東海[月句] 麋竺 搜神記卷四
・蛇蠱(じゃこ)
 ケイ陽郡 廖 搜神記卷十二
・螻蛄
 廬陵太守・太原(出身) [广龍]企 搜神記卷二十
・父母の霊
 漢成帝時・嵩山 劉根 搜神記卷一
・無鬼論
 △ 阮瞻 搜神記卷十六
・盤瓠
 高辛氏 △ 搜神記卷十四
・金龍池
 晉懷帝永嘉中 韓媼・劉淵 搜神記卷十四
・発塚異事
 呉孫休時・廣陵&漢広川王 △&広川王 搜神記卷十五
・徐光の瓜
 呉時 徐光・孫[糸林] 搜神記卷一

「牀」 三国志の筑摩訳本を読む


  • 2005年11月16日(水) 18:50 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,713
歴史 ・サポ板の投稿
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2061

 上記リンク先の投稿をする前、三国志蜀書[广龍]統伝と裴松之注のところで三国志の訳本(筑摩書房、世界古典文学全集、今、出回っている文庫本じゃなくてハードカバー本)を参照にしていたんだけど、その[广龍]統伝の注に引く襄陽記で以下のような気になる文を目にする。

孔明はその家を訪れるといつもただ一人寝台の下に額(ぬか)ずいて挨拶したが、徳公はまったく止めようとはしなかった。

 「その家」とは[广龍]徳公の家。人の家に訪れるといつも、わざわざ寝台のところまでいってその下で挨拶するだなんて、この孔明ってやつは変態?! そりゃ徳公って言う人も怖くて止められないね!……
……
……ではなく。
 あらかたどういう訳し方なのか予想は付くけど、一応、原文をあたると、

孔明毎至其家、獨拜牀下、徳公初不令止

となっている。つまり「牀(床)」を「寝台」と単純に訳しているから変になっているんだと思う。(※ちなみに中華書局の三国志では「牀」になっていて中央研究院の漢籍電子文獻ではうちの環境だと「床」にみえる)
 そういえば他の「牀」がでてくる箇所はどうなっているかと思い、手元の電子テキストの三国志で魏書の武帝紀の初めから「牀(床)」を検索し、引っかかるたびにその該当個所を三国志の筑摩訳本で探し、訳を確かめる。そうすると探すたびに「牀(床)」→「寝台」あるいは「牀」にルビで「ベッド」というふうに訳されている。ただ、三国志の初めの方に出てくる「牀(床)」は「寝台」と訳しても意味の通じるものばかりで冒頭で掲げたような変な意味になることはない。例えば三国志魏書の呂布伝の陳登のところの許[シ巳]の言葉に「自上大牀臥、使客臥下牀。」(みずから大きな牀の上で寝て、客を牀の下に寝させる)とある。何かしら眠っていたり、病に伏していたりするシチュエーションなのだ。
 じゃ、三国志の筑摩訳本では「牀(床)」を「寝台」と訳してばかりか、というとそうではなかった。ちょうど三国志魏書も終わりの方の方技伝の管輅のところで、「寝台」とは違った訳を見つける。曰く、

牀(人がその上で坐ったり寝たりする大きな台)

となっていた。そうそうこれこれ! 牀の形状は低い台みたいなもので、その上に正座する用途やその上で眠ったりする用途があるのだ。ただ用途別に牀の大きさや形状が違うかどうか、私は知らない。ちなみに牀の上に正座する様子は画像石でよくみかけるシチュエーションだ。
 あと、その近くの管輅別伝のところには「牀(おおきなこしかけの台)」と訳されている。私が画像石等で見た限り、当時の中国で、こしかける座り方は馬上かはたを織る器具を使うときしか知らないので、語弊を招く訳なのかな、と思った。(あと「胡牀」について考察の余地ありかな)

 それで話を冒頭に戻して。

孔明毎至其家、獨拜牀下、徳公初不令止

 これは「牀」は「牀」でも寝台として使う「牀」ではなく座具としての「牀」であろう。以下、素人の戯言だけど、諸葛亮(字、孔明)が拝する(おがむ)にしても、「牀」に座って[广龍]徳公と対等に拝するのではなく、自分を下げて、わざわざ「牀」から降りて地べたで拝するという意味だろう。
 にしても三国志の筑摩訳本の文庫化の際にここらへん改善されているのかな。

※追記 メモ:踞牀

※追記 「四大奇書」の研究(2010年11月10日)

<2007年3月21日追記>
 『中国社会風俗史』を読んでいて気付いたけど、「獨拜」って「ただ一人~額(ぬか)ずいて挨拶したが」と訳すとすごく語弊があるね。「獨拜」はつまりここでは徳公が拜せず諸葛亮が拜しているという意味で「獨」なんだね。

※追記 諸葛孔明(2010年3月5日 学習漫画 世界の伝記NEXT)

※追記 『イナズマイレブンGO クロノ・ストーン』で劉備登場(2012年10月3日)

石刻拓本資料(京都大学人文科学研究所所蔵)


  • 2005年11月11日(金) 12:31 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,482
歴史  以前、「曹全を追え」という記事で紹介したんだけど、それとは別に改めて紹介。
http://cte.main.jp/newsch/article.php/198

 京都大学に人文科学研究所というのがあって、さらにその中に漢字情報研究センターというのがあるらしい。
 そのウェブサイトに「データベース」があってあれこれ歴史ファンとしてあれこれ便利なものがある。

・漢字情報研究センター(京都大學 人文科學研究所附屬)
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/

 まず何か文献を調べようとするときは「東洋学文献類目検索」が便利だし、原文をあたろうとしたときは「東方學デジタル圖書館」が便利だ。三国志ファンであれば「東方學デジタル圖書館」の「史部 後漢書九十卷坿續漢志三十卷」が役に立つかも。後漢は三国時代の前の時代。

 今回、私にとって面白いな、と思ったのは「京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料」。
 ここでは大きく分けて「畫像石」と「文字拓本」の画像がある。

 「文字拓本」は主に石碑を写し取ったやつ。「曹全を追え」の記事で紹介した。
 歴史書は対象となる出来事が起こった時期と歴史書が書かれた時期にどれぐらい時間的差があるかというのはその歴史書を評価するのに一つの目安になると思うんだけど、ここにある石碑は歴史書に比べればその時間的差がかなり短い。素人目に見て、当時の状況が生々しく伝わってくるようだ。まぁこの一例は以前の「曹全を追え」の記事参照。
(11月13日追記)
 魏晋時代のところに「漢將軍張飛題名」とあったんで、ビックリして見てみたら、備考欄に「明代偽刻」とあってズッコケてもた。

 それと「畫像石」。こちらは石棺に刻まれた画像や、お墓の壁に刻まれた画像の写しだ。先に挙げた「文字拓本」がその名の通り文字や文章の情報だったのに対し、こちらは主に絵の情報。絵に描かれる対象は当時の人々の様子や伝説など。三国志ファンとして面白いのは前者の当時の人々の様子の方。現在、見ることのできる三国志漫画やドラマなどの服飾や建物などはその当時のデザインと異なることがほとんどだ。そのため、表現手法が現在と違うといえども「畫像石」に描かれた当時のデザインは逆に目新しく参考になることが多い。
 例えば、ここのデータベースでざっと見てみる。「東安漢里石棺南側板外壁 持刀武士畫像」(後漢 a01-12.djvu)は武人の服飾が面白いし、両者とも刀(剣?)を右手に持っているというの参考になる。「山東 人物、戦争畫像」(後漢 a07-19.djvu)では上部のおそらく官吏であろう人物たちの冠や服装が参考になるし、下部の騎馬、実際に戦闘中の図も面白い。馬上で進行方向とは逆に向き、盾で矢を防ぎ、逆の手で刀(剣?)を振りかざしている。あと「山東 戦争畫像」(後漢 a07-22.djvu)では戟と盾をもって行軍している。四川畫像磚では狩猟や塩田や舞楽雑技など人々の様々な様子を見ることができる。


※追記 古典籍総合データベース(早稲田大学図書館)

※追記 メモ:三国創作のための扶助会

※追記 メモ:道教の美術 TAOISM ART

※追記 東アジア人文情報学研究センター(2009年4月)

※追記 リンク:中国の連環画の変遷とその描写技法

曹全を追え


  • 2005年10月24日(月) 13:40 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    4,942
歴史 <2008年1月5日追記>
最近、「曹全碑」でこの古い記事が検索されることが多いんで、情報を付け足しておくけど、釈文はサイトの「文物圖象研究資料庫 全文檢索」に載って居るんでそこで探してね

<関連>文物圖象研究資料庫 全文檢索
http://cte.main.jp/newsch/article.php/413

※追記 道教の美術 TAOISM ART(2009年9月15日-10月25日)

<追記終了>

・「中国 美の十字路展 ~大唐文明への道~」
http://cte.main.jp/newsch/article.php/197

 「中国 美の十字路展」へ行ったとき、数ある展示品の中で特に気になったのがあった。それは「曹全碑拓本」。「中平二年十月丙辰」(西暦185年10月21日)に造られた碑文、その写しだ。隷書で書かれていて、三国志の一人物伝のように名と字と出身地から始まり、その人の業績が書かれている。張角の名も文中に見られる。
 「曹全碑拓本」の横に下のような解説文が入っていた。

----------------------------------------------------------------
曹全は敦煌の人。西域の武官であった時、疏勒(カシュガル)王の謀反を討伐し功績をあげたが、弟の死に遭い官を捨てた。後に酒泉の祿福長に任じられた時、[合β]陽の県令に選ばれて漢末に起こった太平道の張角率いる黄巾の乱を収拾し、民治に尽力した。これを称え在命中にこの石碑が建てられた。
----------------------------------------------------------------


 実際、拓本を読んでみると、曹全が酒泉の祿福長のときに張角に関することがおこったようで、酒泉郡も黄巾の影響があったのかな、とあれこれ疑問に思っていた。
 展覧会を一通り見回ってからまた拓本を読んでいた。見慣れない隷書のせいか、ところどころどういった字かわからない箇所がでてくる。わからないなりにあれこれメモっていたんだけど、帰りのバスの時間が迫っていたんで、諦めてその場を後にする。

 家に帰ってから、メモをたよりにネットで検索をかけてみる。
 そうすると「曹全碑拓本」の写真がみつかる。

・漢字情報研究センター(京都大學 人文科學研究所附屬)
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/
ここの「データベース」→「京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料」

※追記 東アジア人文情報学研究センター(2009年4月)

 ここの「文字拓本」のところを探れば「曹全碑拓本」以外にもあれこれでてくる。「京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料」のページからリンクが張られているページでDjVuプラグインをダウンロードすれば(無料)、拡大画像が見れるのだ。
 また、「畫像石」のところも史料価値が高い。いろんな画像石や画像磚から当時の服飾や風俗をかいま見ることができるのだ。

 しかし、実際、「曹全碑拓本」の拡大写真を見ても清岡のよくわからない文字はよくわからない(汗)
 そこでわかる文字をたよりにネットで検索してみると、「曹全碑拓本」を活字にしてくれているページを発見する。

・琴詩書画巣
http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/
ここの「詩 書」→「漢碑 原文」

 なるほどなるほど、こういうことが書かれていたのか。ここであれこれ思ったことを箇条書きに。

・後漢書傅燮伝の傅燮の上疏にある「今張角起於趙・魏、黄巾亂於六州。」の六州と「曹全碑拓本」にみえる幽冀[六/兄]豫荊楊の六州と数が一致する。中平二年十月の時点では後漢書皇甫嵩伝にみえる八州という認知ではない(?)
・「曹全碑拓本」では六州の乱をあげておきながら、関係のない地域、[合β]陽の県令(司隷左馮翊)となって、乱をおさめている。なぜだろう。郭家たちは実は張角の一味? それとも張角の乱に便乗した?
・黄巾の乱が平定されたとして光和七年十二月己巳(29日)に「中平」と改元したんだけど、史書では中平元年に黄巾の乱がおこったとされることはざら。
http://cte.main.jp/sunshi/w/w040127.html
 だけど「曹全碑拓本」では文の流れからちゃんと(光和)七年の出来事としている。
・張角は当時、「[言夭]賊」という位置づけ。
・碑陽(碑の表側)では姓+名表記と姓+字表記。だけど碑陰(碑の裏側)では姓+名+字表記ばかり。字に書く表記(変な言い方だけど)では姓+名+字表記はありってことかな。逆に碑陽で「是以郷人為之諺曰重親致歡曹景完」となっているように話す方の表記は姓+字表記(ここでは「曹景完」)なのかな、と前々から思っていたことを確認した。
・碑陰では役職+姓名字+数字が列記されているけど、最後の数字は何? 張遷碑の碑陰では「銭五百」とかなっているのでこの碑をたてるにあったって寄贈金?
・碑陽にある「學者李儒」や碑陰にある「傳士李儒文優」は後漢書皇后紀に出てくる「郎中令李儒」や三国演義 第三回:議温明董卓叱丁原、餽金珠李肅説呂布に出てくる「(董)卓婿謀士李儒」と同姓同名だから、三国志ファンの話題や創作のネタになるなぁ、とおもって、試しに「李儒文優」と検索したら、すでにネット上で話題になっていた。

 まだじっくり読んでないので意外な発見があれこれあるかも。

 ちなみに書体に関しては下記のリンク先参照
http://cte.main.jp/newsch/article.php/181

「絵に描いた餅」の元祖?


  • 2005年8月30日(火) 23:31 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,959
歴史 ・絵に描いた餅
役に立たないたとえ。計画などが実現する可能性のないこと。画餅。
三省堂「大辞林 第二版」より


毎週土曜日19時から三国志討論会(チャット)が開かれていることで時間があれば参加しようと思っていた。
それでなかなか参加できないでいたけど、この間の土曜日にようやく参加した。

・サイト「三国志愛好会」の「三国志討論会」
http://san-gokushi.com/

それで毎回テーマが設定されていて、その時は「三国時代の食物と体型」……だったと思う。
それで三国時代の食物の話題になって、麦を食べていたことはわかるけど麦を何の料理にしたかって話題になっていた。
パン? ナン?って話だったんだけど、そこで出てきた単語が「餅」。
餅の材料というとてっきり餅米からつくるのかと思ったら、そうでもないみたい。
その場で「字通」で調べてみると、麦の粉をまるめ蒸してつくったのが餅だそうな。

それで実際に餅ができる過程が史書に載っていないか、後漢書や三国志を調べる。
そうするとあまり関係ないことが目に付いて気になったのが、三国志魏書の盧毓伝。
盧毓(字、子家)は盧植の息子。
で、時代背景や前後関係の説明を抜いて、いきなりその文を書く。

時舉中書郎、詔曰:「得其人與否、在盧生耳。選舉莫取有名、名如畫地作餅、不可啖也。」

<清岡の適当訳>
(盧毓が)中書郎に登用されたとき、詔(みことのり)でいわれる。「その人を採用するかどうかは、つまり盧毓の生業いかんだ。選挙(登用の選抜)は名声があるから採用するのではない。名声は地に画を描いて餅を作るようなものだから、啖(くら)うことはできない」

詔を出すのは皇帝。このときは魏の明帝。
この人が「絵に描いた餅」という言い回しを使った元祖?
この言葉の由来?

とは言っても、三国志より先行する書物をきっちり調べたわけではないので、元祖がどうかわからないのだった。
なんか、普通に故事でありそうだしね。

宋書楽志にある「鼓吹曲」の見方


  • 2005年8月 7日(日) 21:29 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,707
歴史 三国志シンポジウムの雑感をかくまえに宋書楽志に載っている「鼓吹曲」のメモ。
基調報告の「日中韓三国の三国志」と、それに対する討論会での質問でも出てきたので。

※関連記事 2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1

<追記>Re:蜀の史官の存在について  (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」書き込み)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=3171

もし蜀の鼓吹曲が残っていたら三国演義の原型のようなものであろう、とする基調講演に対し、蜀の鼓吹曲が残ってないのは、政権を後漢から引き継いだという建前なので元々、蜀の鼓吹曲はなかったのでは? というような討論会での質問。

魏と呉の鼓吹曲は
http://china.ic.daito.ac.jp/cgi-bin/handy/ftmsw3
↑中央研究院漢籍全文資料庫の大東文化大学サーバー版(まぁ本家でも良いんだけど、三国志シンポジウム関連でせっかくなんでこちら)で見ることができる。
ここの「二十五史」のところをチェックして「開啓」のボタンを押して移ったページで「新校本宋書」→「志」→「卷二十二 志第十二」→「樂四」
→「644」と順にクリックしたページから見ることができる(呉は「656」。韋昭がつくっているあたりがファンにとってポイントが高い)

※追記
上記サイトがデッドリンクなので、替わりに下記を挙げておく(というかこっちが本家)。
http://www.sinica.edu.tw/~tdbproj/handy1/

※追記 韋昭研究(2011年7月)



(以下、余談)
というようなことをサイト「江河水」
http://kougasui.fc2web.com/
(現URL)の掲示板で2001年7月8日17時52分に書き込んだんだけど(多分、もうログはサイト上に残っていない)、さらによそのサイト「呉書見聞」
http://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/
(現URL)の掲示板で反響があって、2001年8月2日21時29分の佳耶乃さんの書き込みによると(多分、もうログはサイト上に残っていない)、篠田耕一/著「三国志軍事ガイド」(新紀元社刊)に呉の鼓吹曲「伐烏林」の原文と対訳が載っているとのこと(清岡は未確認)。

余談ついでながら、よその掲示板まで反響があって浮かれている清岡の書き込みを以下、あげておく

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Res:清岡美津夫(849) 題名:ありがとうございます♪ 投稿日 : 2001年8月3日<金>07時04分
いえいえ、引用されててなんだか嬉しかったです
それと、対訳が載っている本を教えてくださってありがとうございます。
えっと、私はその本、持ってないので、どこかで見かけたら、
見させてもらいますね。
って軍歌っていうことはいつ頃、唄われてたのですかね。
三国時代なのですか? だとしたら三国時代に軍楽隊ってあったってことに!?

呉鼓吹曲、あの詞の呉贔屓っぷりが好きです(笑)
でも他の国のファンの人には見せれないですね、、、
その中の「關背德曲」なんて題名からいきなりそうですし(苦笑)