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メモ:踞牀


  • 2007年1月17日(水) 23:30 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    15,804
歴史 坐・踞・箕踞 ※随分前に書きかけで放置していたのをちょっとつけ足してアップしました。放置するとそのまま日の目をみない恐れがありましたので。

 2006年11月10日に発売した文庫の「十八史略 2 権力の構図」を読んでいると、自分が肝心なエピソードを忘れていたことに気付く。ちょうど漢朝のできる前のところ。劉邦関連のエピソードのところだ。

・史記卷八 高祖本紀第八

[麗β]食其(謂)〔為〕監門、曰:「諸將過此者多、吾視沛公大人長者。」乃求見説沛公。沛公方踞牀、使兩女子洗足。[麗β]生不拜、長揖、曰:「足下必欲誅無道秦、不宜踞見長者。」於是沛公起、攝衣謝之、延上坐。食其説沛公襲陳留、得秦積粟。
※史記[麗β]食其伝では「沛公方倨牀」となっている

 訳は略すんだけど、このエピソードは[麗β]食其が沛公(漢の高祖、劉邦)に面会した際、沛公が牀の縁に踞し足を二人の女子に洗わせていたというもの。
<2007年11月16日追記>
 「不拜、長揖」については下記記事参照

・三国創作のための拝メモ
http://cte.main.jp/newsch/article.php/736
<追記終了>

 このエピソードのことをすっかり忘れていたんだけど、ここで私が注目したのは「沛公方踞牀」のところ。字通CD-ROM版で調べると「踞」とは腰をかけてすわる意味らしい。ちょうど右の図のようになるかな。
 つまり沛公は牀に腰掛けていたとのこと。「牀」に関してはここ三国志ニュースで過去、何度か取り上げているので、そちらの記事(下記の三つ)を参照のこと。

・「牀」 三国志の筑摩訳本を読む
http://cte.main.jp/newsch/article.php/221

・牀や榻のことばかり
http://cte.main.jp/newsch/article.php/286

・跪坐と垂足坐
http://cte.main.jp/newsch/article.php/344

 三つ目の記事で書いていた「垂足坐」は当時の言葉でいうと「踞」となるんだね(「漢代物質文化資料図説」とエピソードを合わせると沛公の無礼さがどれぐらいかを伺い知ることができる)。
 この「踞」は前々から私が知りたかった言葉だ。言葉をしっておくと電子テキスト内を検索するときに便利なものとなる。例えば椅子なんてない当時、実際、一般的には「踞」なんて座り方がどういったシチュエーションで行われていたか調べることができる。
 今、さらっと三国志およびその注から「踞」で検索をかける

・三國志卷十六 魏書十六 任蘇杜鄭倉傳第十六

帝大怒、踞胡牀拔刀、悉收督吏、將斬之。

こちらは「牀」ではなく「胡牀」(胡床)。踞すことができる椅子に近い座具だったのかな。
※参照
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=532

・三國志卷五 魏書五 后妃傳第五の注に引く魏略

後太祖就見之、夫人方織、外人傳云「公至」、夫人踞機如故。

機織り器にも踞す。ここらへん画像石などに描かれている様と一致する。

 あと「箕踞」という座り方。「箕」単体だとちりとりの意味で、総じて図のような座り方となる(例によって字通CD-ROM版を引いている)。エピソードの例としては下記のとおり。先主(劉備)の前でも箕踞している簡雍の様子が有名かな。

・三國志卷三十八 蜀書八 許麋孫簡伊秦傳第八

在先主坐席、猶箕踞傾倚、威儀不肅、自縱適

<1月19日追記>
 『中国社会風俗史』東洋文庫151を読んでいると、腰掛けて座るのは「據」ともいるらしい。用例は『世説新語』に多いとのこと。
 確かに検索かけてみると『世説新語』にやたら「據胡牀」って言葉がひっかかる。

<10月13日追記>
『礼記』曲礼上第一に「坐毋箕」とある

メモ:三才圖會と三禮圖


  • 2007年1月10日(水) 18:50 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,599
歴史

 アホなことに私は一時期、『三才圖會』(三才図会)という本と『新訂三禮圖』(新定三礼図)という本を混同していた時期があった。混同していたことを自覚していたものだから、手元の本でいちいちどちらの本からの図かを確認してからネットのコミュニティなりに書いていた。以上のことを過去形の文で書いているものの、今、この両者がどう違うかというのはきっちり調べていない。この調子だとずっと調べずに居そうなので足がかり的にここにメモを残す。最近の記事でやたら「三才圖會」という言葉を書いていたので、ふとそんなことを思い立ったもので。

『三才圖會』は明代の王圻の撰で、百六十巻。凡そ、天文四巻、地理十六巻、人物十四巻、時令四巻、宮室四巻、器用十二巻、身体七巻、衣服三巻、人事十巻、儀制八巻、珍宝二巻、文史四巻、鳥獣六巻、草木十二巻だそうな(ここらへん下記の引用のまる写し)。この中で私がよく目にするのは(というより他の図を私が知らないだけ)、おそらく人物のところ。先の記事でも少しふれたように、肖像画なんて残ってない中国古代の人物をテレビ番組で紹介するとき、その人物像を引いてくるときに引用元として『三才圖會』が便利に使われたりする。そういった映像中心のメディア以外にも普通の書籍にも使われていたりする。案外、歴史関連の本にも無造作に人物像が挿し絵として使われているから油断ならない(最近、見たのは十八史略の訳本文庫とか『グラフィック戦史シリーズ 戦略戦術兵器事典1【中国古代編】』とか)。

余談だけど、昔、「シバタツの野望 全・国・版」(2005年6月1日閉鎖)という個人サイトがあったらしく、そこでは日本の戦国時代を題材にしたシミュレーションゲーム『信長の野望』(コーエー製)シリーズ数作品の人物顔グラフィックスを列挙比較していたらしい(非公式に、だが)。今、Internet Archiveで確認すると、ゲームのグラフィックスだけに留まらず、昔の肖像画や像を付記し、それらがゲームの顔グラフィックスにどう影響を与えたかも寸評中で指摘されていた。『信長の野望』はコーエーの代表的なシミュレーションゲームなんだけど、もう一つ代表的なシミュレーションゲームに『三國志』があるんだけど、言われてみれば『信長の野望』の方が舞台となる時代が近いため(あと地理的にも近いか)参考となる肖像画や像が豊富にあるんだな、と妙に感心してしまった。

※追記 サイト「司馬鏡 -SHIBAKAGAMI-」

<3月21日追記>
とあるサイトを見て回ると中国中央電視台のドラマ『三国演義』を結構、参考にしている。
<追記終了>
(実状ではゲームの『三國志』は『三国演義』もベースにしているだろうからさらに話が変わってきそうだけど→参照

※追記 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」

※追記 メモ:三国創作のための扶助会

※追記 ザ・プロファイラー「誰かのために生き抜けるか~諸葛孔明・天才軍師伝説の真実」 (2013年12月18日)

※追記 メモ:戦国三国展(2013年10月22日)

それから『新訂三禮圖』。宋代の聶崇義の撰。私が初めて『新訂三禮圖』を意識したのが『漢代の文物』の「二 かぶり物、その他身につける物」のところを読んでから。『漢代の文物』のかぶり物の挿圖には『新訂三禮圖』からの図と畫像石・俑のスケッチが並べられていて、両者を見比べると互いに編纂されたり作られたりする時代が離れているせいか、結構、違うものだなぁ、思った。ところが『漢代の文物』が世に出た前の本でも後の本でも、漢代あたりのかぶり物の説明に『新訂三禮圖』からの図が無造作に使われていたりするので油断できない(図についてあれこれ論じているわけではなくても使われていたり。最近、見たのは『中国社会風俗史』東洋文庫151。いやあれはエピソード集みたいな本文が私的に面白いんだけど)。

それで『三才圖會』と『新訂三禮圖』についてサイト「寒泉」にある『四庫全書總目』で調べてみる。

・寒泉
http://210.69.170.100/s25/index.htm

『三禮圖』については下記のように二つ引っかかる。『新訂三禮圖』は『漢代の文物』を見ると前者の『三禮圖集注二十卷』と撰者が同じ。どこらへんが「新」なのかもうちょっと調べないとな。


03.子部 卷一三八 子部四八 類書類存目二  p-1169

【三才圖會一百六十卷】(浙江巡撫採進本)明王圻撰。是書彙輯諸書圖譜、共為一編。凡天文四卷、地理十六卷、人物十四卷、時令四卷、宮室四卷、器用十二卷、身體七卷、衣服三卷、人事十卷、儀制八卷、珍寶二卷、文史四卷、鳥獸六卷、草木十二卷。 採[才庶]浩博、亦有足資考核者、而務廣貪多、雜特甚。其人物一門、繪畫古來名人形像、某甲某乙、宛如目睹、殊非徴信之道。如據蒼頡四目之説、即畫一面有四目之人、尤近兒戲也。


01.經部 卷二二 經部二二 禮類四(三禮通義・通禮・雜禮書)  p-0176

【三禮圖集注二十卷】(內府藏本)宋聶崇義撰。崇義、洛陽人、周顯德中累官國子司業。世宗詔崇義參定郊廟祭玉、因取《三禮》舊圖、凡得六本、重加考訂。宋初上於朝、太祖覽而嘉之、詔頒行。考禮圖始於後漢侍中阮諶。其後有梁正者、題諶圖云:陳留阮士信受學於潁川綦母君、取其說為圖三卷、多不案禮文、而引漢事與鄭君之文違錯。正稱:《隋書‧經籍志》列鄭元及阮諶等《三禮圖》九卷。《唐書‧藝文志》有夏侯伏朗《三禮圖》十二卷、張鎰《三禮圖》九卷、《崇文總目》有梁正《三禮圖》九卷。《宋史》戴吏部尚書張昭等奏云:《四部書目》內有《三禮圖》十二卷、是開皇中敕禮部修撰、其圖第一・第二題云梁氏・第十後題云鄭氏、今書府有《三禮圖》、亦題梁氏・鄭氏。則所謂六本者、鄭元一、阮諶二夏侯伏朗三、張鎰四、梁正五、開皇所撰六也。然勘驗鄭志、元實未嘗為圖、殆習鄭氏學者作圖、歸之鄭氏歟﹖今考書中宮室車服等圖、與鄭注多相違異。即如《少牢饋食》「敦皆南首」、鄭注云:「敦有首者、尊者器飾也。飾蓋象龜」。周之制・飾器必以其類。龜有上下甲・此言敦之上下象龜上下、甲。「蓋」者意擬之辭。而是書敦與簠簋皆作小龜、以為蓋頂。是一器之微、亦失鄭意。沈括《夢溪筆談》、譏其犧象尊・黃目尊之誤;歐陽修《集古錄》、譏其簋圖與劉原甫所得真古簋不同;趙彥衛《雲麓漫鈔》、譏其爵為雀背承一器、犧象尊作一器繪牛象。林光朝亦譏之曰:聶氏《三禮圖》全無來歷、穀璧則畫穀、蒲璧則畫蒲、皆以意為之、不知穀璧止如今腰帶�蝷W粟文耳。是宋代諸儒亦不以所圖為然。然其書鈔撮諸家、亦頗承舊式、不盡出於杜撰。淳熙中陳伯廣嘗為重刻、題其後云:「其圖度未必盡如古昔、苟得而考之、不猶愈於求諸野乎!」斯言允矣。今姑仍其舊帙錄之、以備一家之學。此書世所行者、為通志堂刊本或一頁一圖、或一頁數圖、而以說附載圖四隙。行款參差、尋覽未便。惟內府所藏錢曾也是園影宋鈔本、每頁自為一圖、而說附於後。較為清整易觀、今依仿繕錄焉。


01.經部 卷二二 經部二二 禮類四(三禮通義・通禮・雜禮書)  p-0176

【三禮圖四卷】(浙江吳玉墀家藏本) 明劉績撰。績字用熙、號盧泉、江夏人。宏治庚戍進士、官至鎮江府知府。是書所圖、一本陸佃《禮象》、陳祥道《禮書》・林希逸《考工記解》諸書、而取諸《博古圖》者為尤多、與舊圖大異。考漢時去古未遠、車服禮器、猶有存者、鄭康成圖雖非手撰、要為傳鄭學者所為。阮諶・夏侯伏朗・張鎰・梁正亦皆五代前人、其時儒風淳實、尚不以鑿空臆斷相高。聶崇義參考六本、定為一家之學。雖踵謬沿�、在所不免、而遞相祖述、終有典型。至《宣和博古圖》所載、大半揣摩近似、強命以名、其間�漏多端、洪邁諸人、已屢攻其失。績以漢儒為妄作、而依據是圖、殊為顛倒。然所釆陸・陳諸家之說、如齊子尾送女器出於魏太和中、犧尊純為牛形、王肅據以證鳳羽婆娑之誤;齊景公器出晉永康中、象尊純為象形、劉杳據以證象骨飾尊之非;蒲璧刻文如蒲荏敷時、穀璧如粟粒、其器出於宋時、沈括據以證蒲形・禾形之謬。此書並採用其說、亦足以備一解。至於宮室制度、輿輪名物・凡房序堂夾之位、�|較賢藪之分、亦皆一一分析、不惟補崇義之闕、且以拾希逸之遺。其他珽荼曲直之屬、增舊圖所未備者、又七十餘事。過而存之、未始非兼收並畜之義也。

  

文物圖象研究資料庫 全文檢索


  • 2006年9月16日(土) 22:22 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,583
歴史  9月17日に長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」があってそれに一般聴講しにいくんだけど、それにおつむを無理からにでもあわせるため、最近は暇を見つけて「長沙呉簡研究報告」第1集や第2集に目を通している日々だ。
 そういえばよくよく思い出してみると、こういう出土資料に目を向けるようになったのは、昔からもっと当時の息吹を感じられる資料を欲していたのは確かだけど、決定的になったのは籾山明/著「漢帝国と辺境社会」という本のおかげ。こんな小さく手軽に持ち運べる本なのに得る物が多すぎる。対象となる時代は前漢時代と三国時代より古いけど、三国創作に携わる人は是非、読んで欲しい本。

・籾山明/著「漢帝国と辺境社会」
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=165

 その本でここで多くとりあえられているのが居延漢簡。エチナ河流域で発掘された漢代の木簡。漢代では「居延」と呼ばれる地域で発掘されたので居延漢簡と呼ばれるとのこと。

 その木簡の内容を含め、いくつかの出土資料に書かれた文を検索できるウェブページがあることを思い出す。一度、見かけブックマークしてそのままだったんだけど、今改めてとなかなか面白いページ。中央研究院歴史語言研究所の文物圖象研究室のサイトの一コンテンツだ(下記)。検索元となる文献も検索結果として出てくる。

・中央研究院歴史語言研究所 文物圖象研究室
http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/index.html

・文物圖象研究資料庫 全文檢索
http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/search.htm

 これだけだとわかりにくいんで、このサイトを知るきっかけとなったサイトとそこを紹介したページをあげておく。

・睡人亭
http://www.shuiren.org/

・文物圖象研究資料庫マニュアル
http://www.shuiren.org/chuden/toyoshi/zuzou/index-j.html

 以前、紹介した曹全碑の全文を検索できたり、当時の成人女性の名前の例を知りたければ「大女」というワードで検索をかけたり、あれこれ楽しむことができる。

 長沙呉簡の内容も将来的にこうやって検索できるようになるといいんだけど。


※追記 古典籍総合データベース(早稲田大学図書館)

※追記 リンク:「漢代における郡県の構造について」

※追記 メモ:「功次による昇進制度の形成」

※追記 第24回下鴨納涼古本まつり(京都古書研究会2011年8月11日-16日)

一梁?メモ


  • 2006年7月13日(木) 18:10 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,792
歴史 左から三梁、両梁(二梁)、一梁。但し、一梁は想像。 右のは某所のネタで作った画像をさらにアレンジして作った画像。
 元ネタは「漢代物質文化資料図説」に載っている山東沂南の畫像石(東漢)の「戴有[巾責]之冠者」の絵。確か「中国古代の服飾研究」にも載ってたっけ。
 その画像を鏡像にしたり(それに合わせ服を改造)、髭をとったり、色を付けたりしてポップアートっぽくしてみた。

 まず左の人物に注目。頭上の一番上に針金が折れ曲がったような部分が「梁」だ。それが三本あることで「三梁」と呼ばれる。それとは別に頭上にあるのが「[巾責]」。頭上の屋根みたいなのが「顔題」と呼ばれ、それから後側から上に出ている箇所は「耳」と呼ばれる。この「梁」や「[巾責]」をまとめて「進賢冠」と呼ばれる。
 梁と「[巾責]」それから、顎にかけてある紐がどういう関係なのかよくわからない。進賢冠をかぶった人物の陶俑があってそのスケッチをみてみたら、[巾責]の外側を通って梁ごと紐で上側から抑えている感じ(晋 長沙)。
<7月14日追記>
枕流亭ブログで服飾のデータベースみたいなところの紹介があった。
・枕流亭ブログ
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/
・服飾史
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20060713/p3
そこのリンクをさらっと辿ってみると、上の陶俑の写真があった。
http://www.pep.com.cn/200301/ca143223.htm
↑右から二つ目。
<追記終了>

 ちなみに向かって右の顔の側面から出ているのは筆。元ネタにした画像は向かって左側から出ており、耳の上に筆を置いておく習慣があったとのこと(確か、「中国古代の服飾研究」にそこらへんのことが書いてあったかな)

 続漢書の輿服志によると

進賢冠、古緇布冠也、文儒者之服也。前高七寸、後高三寸、長八寸。公侯三梁、中二千石以下至博士兩梁、自博士以下至小史私學弟子、皆一梁。宗室劉氏亦兩梁冠、示加服也。

つまり、進賢冠とは古の緇布冠で、文儒者の服だ。前が高さ七寸、後ろが高さ三寸、長さは八寸となる。公や侯は三梁、中二千石以下、博士に至るまで両梁(二梁)、博士から以下、小史や私学の弟子に至るまで、皆一梁となる。劉氏の宗室(親類)もまた両梁(二梁)の冠を服に加えている、となる。

 身分によって梁の数が違ってくる。
 それで画像の左が三梁の冠で、真ん中が両梁(二梁)となり、最後は一梁と言いたいところだけど、ここは想像で書いている。
 というのも普通に考えると、針金みたいな梁の数が減っていくだけのような気がするが、畫像石で針金一本の梁を見かけたことがない。それに対して、画像の右のような幅のあるものを畫像石で結構、見かけ(但し、円筒上、そのまま大きくなっているのか、板を立てているものなのか、見ようによってはいろんな解釈ができる)、陶俑でも板を折り曲げたような冠を一例、見たことがある(成都羊子山)。なので、一梁はこんな感じだと予想。

※追記 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」

※追記 メモ:三国創作のための扶助会

鄒靖


  • 2006年6月19日(月) 22:17 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,000
歴史  司馬法の嚴位第四に「起譟鼓而進、則以鐸止之」なんて書いてあるけど、退却の時も鐸を鳴らすんだっけ?なんて今、悩んでいる清岡です。こんばんは。

※追記 『イナズマイレブンGO クロノ・ストーン』で劉備登場(2012年10月3日)

 さてサイト「呉書見聞」のBBSでのニセクロさんの6月17日の書き込みを見て思い出したんですが、続漢書百官志にも軍の規模(大将軍の?)とそれに応じた官職が書かれているのですね。しかも俸禄付き。以下、抜粋。

其領軍皆有部曲。大將軍營五部、部校尉一人、比二千石;軍司馬一人、比千石。部下有曲、曲有軍候一人、比六百石。曲下有屯、屯長一人、比二百石。

つまり、大将軍には五部があって、それぞれの官職と俸禄、()内にその軍事組織の単位を書くと、

部校尉、比二千石(部)・軍司馬、比千石(部)
 ─軍候、比六百石(曲)
  ─屯長、比二百石(屯)

ってことになりますね。

 それと籾山 明/著「漢帝国と辺境社会 長城の風景」(中公新書1473、中央公論新社、1999年)の111ページによると(孫引きになるけど、元は 久保田文次 1988「青海省大通県上孫家塞115号漢墓出土木簡の研究─特に漢代の部隊編成を中心として─」『駿台史学』74号 だそうです)、出土木簡に見られる漢の軍団編成は、

軍尉(校)
─司馬(部)
 ─候(曲)
  ─五百将(官)
   ─士吏(隊)
    ─什長(什)
     ─伍長(伍)

だそうです。漢と後漢の違いはあれど結構、似ているところがありますね。あと「通典 卷第一百四十九 兵二 法制」に載っている後漢魏武軍令の歩戰令に「伍中有不進者、伍長殺之;伍長有不進者、什長殺之;什長有不進者、都伯殺之」とあるので、什長の上には都伯がいるのかな、とあれこれ思ってます。
 全然、関係ないですけど、三国志の筑摩訳本などで「部曲(私兵)」なんてありますけど、「部曲」(部と曲)自体は単に軍組織を指している言葉でたまたまその箇所の部曲が私兵的扱いがされているって意味でしょうか。「部曲=私兵」ではないですよね??
 あとこれを見ても「」と「候」とでは縦線一本違ったら意味がかなり違うことがわかりますね。「夏侯覇」を「夏候覇」と間違って検索している人や「夏侯惇」を「夏候惇」と間違って表記している人! 夏侯さんに失礼なのでお気をつけてくださいね。

 で、話を本題に戻しますと、以前、三国志ニュースのコメント(下記URL)で、むじんさんが指摘してくださった鄒靖について。

 そうそう下の自サイトのページにもあるように後漢書応劭伝によると中平二年の鄒靖は北軍中候って官職です。

・京師でゴタゴタと(孫氏からみた三国志29)
http://cte.main.jp/sunshi/w/w040504.html
※しかし、ここの応劭のセリフの訳、当時も思っていたけど我ながら酷い訳ですね。機会を見つけて書き直したいと思います。

 「北軍中候」って北軍の中曲(ってあるの? 前曲や後曲みたく)の候って意味でしょうか?
 それから三国志蜀書先主伝に鄒靖が出てきていて(三国演義に似たように出て来るんで劉備関連の人として有名?)

<本文>
靈帝末、黄巾起、州郡各舉義兵、先主率其屬從校尉鄒靖討黄巾賊有功、除安喜尉。

<清岡のテキトー訳>
靈帝の時代の末、黄巾が起こり、州郡おのおのは義兵をあげ、先主(劉備)はその屬従を率い、校尉の鄒靖に従い、黄巾賊を討ち戦功があり、安喜尉(安喜県の尉)になった。

てな感じで、鄒靖は校尉って官職です。
 降格がないとすると、鄒靖は軍組織で北軍中候→校尉と昇進していると思われます。ということで、劉備の黄巾戦は中平二年(西暦185年)以降ってことになります。
 余談ですけど、三国演義の「第一回:宴桃園豪傑三結義、斬黄巾英雄首立功」、つまり黄巾と戦う時の劉備の年齢は28歳なんですよね(「及劉焉發榜招軍時、玄德年己二十八歳矣」)。三国演義でも史実の劉備と没年・享年が同じなのでこれは中平五年(西暦188年)に相当します。光和七年(西暦184年)、あるいは中平元年(西暦184年)ではないのが不思議ですね。

※追記 メモ:「魏晉南北朝の客と部曲」




跪坐と垂足坐


  • 2006年5月28日(日) 15:28 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,888
歴史 仁雛さんから教えていただいた「漢代物質文化資料図説」を買ってきた。
 林巳奈夫/著「漢代の文物」のときと同様、サイト「日本の古本屋」で検索し、古本屋で直接、買ってきた。

・日本の古本屋
http://www.kosho.or.jp/
・瓢箪山書房
http://www5.ocn.ne.jp/~hyoutan/

 それから「漢代物質文化資料図説」の基礎データ。

・「漢代物質文化資料図説」(中国歴史博物館叢書第二号、平装定价)
著者:孫機
出版発行:文物出版社
出版年月:1991年9月第一版
ISBN 7-5010-0372-6/K・143
価格:25.00元
※中国の本なので実際は簡体字表記

 ちなみに精装定价(ISBN 7-5010-0373-4/K・144)は方は35.00元。どちらにしてもそのまま日本円にすると格安なんだけど、やっぱり日本で買うと、すごく高くなるなぁ。まぁ「漢代の文物」より一桁安くかったので普通に買ったんだけど、もし私が中国へよく行く人だったら現地で買ってたかな。一桁安くなるし。

 それで「漢代の文物」のときのように目次をあげたりして本全体の紹介をすればいいんだけど、その前に私にとって衝撃画像(?)を見てしまったのでその紹介をとりあえず。

・三国志ニュースの記事「牀や榻のことばかり」
http://cte.main.jp/newsch/article.php/286

 上記記事に関連する。そこでは

この当時の中国人は腰をかけて座ることあったのかな? と思うぐらい画像石の類でもそういう光景は(私の狭い視野の中では)あまりみかけない。画像石や俑をみてみると、馬車でも乗っている人も馬を操っている人も律儀に正座しているし(汗)。※がんばって腰をかけている画像をさがしてみると、艇(?)にのっているところ、釣りをしているところ、機織り器をつかっているところ、そして強いていうなら馬にまたがっているところなどが見つかった。探せばもっとあるかも。

なんて書いていたけど、「漢代物質文化資料図説」の「55 家具II [木平]、榻、床、席、鎮、凭几、衣杆」のところ、221ページの圖版55にある55-13の挿図にばっちり腰をかけて足を垂らし座っている画像があった。その人は刀を持っているけど、状況はよくわからない。「中国古代の暮らしと夢」の俑の個人蔵と違って、ちゃんと巻末に出所が明記されている。

55-13 踞坐凭几者、画像石、江蘇銅山耿集、東漢、≪徐州漢画像石≫圖202
※例によって元は簡体字だけど適当に繁体字に変えている。

 それであわててその図を説明している本文を読む。223ページのところ。中国語だからうまく読めないんだけど、下のようになる。一つの段落をまるまる引用。


 漢代通行跪坐、箕踞和垂足坐往往引起人[イ門]的反感。江蘇銅山耿集発現的一塊画像石、刻出一執刀人垂足坐于凭几之上(55-13)。這是一種無礼的姿勢、在当時很不多見。
※例によって元は簡体字だけど適当に繁体字に変えている。

<清岡のテキトー訳>
 漢代では跪いて座る(跪坐)ことが通用していて、箕踞(両足を投げ出して座ること)することと垂足(足をたれること)して座ることは人々の反感を引き起こす。江蘇銅山耿集で見いだせる一つの画像石で、一人の刀を持つ人が凭几の上に足を垂らして座っている(垂足坐)ところが刻みだされている(55-13)。この人は一種無礼な姿勢であり、当時においてほとんど見ることはない。


 この部分の一つ前の段落では「几」(または凭几。日本語で言うところの脇息)の説明がある。坐っている(日本語で言うところの正座している)んで、足がしびれたりするんで、几に肘を乗せるんだとか(足への体重の負担を軽くするため?)、二段階に高度調整が出来る几もあるとか、そんな説明。それを受けての前記引用文。つまり(55-13)の画像石は几の上に足を垂らして座っている画像だ。この文だとわかりにくいんで、右上に跪いて座る(跪坐)ところと足を垂らして座っている(垂足坐)ところの絵を描いてあげておく。右上の絵の垂足坐は膝をそろえて座っていて身体のラインもはっきり描いているけど、これはわかりやすくしているだけで、実際には(55-13)の画像石の垂足坐は股を開き気味に右足を右膝より前におき、左足を左膝より後に置き、座っている。
 しかし、行儀が悪いとはいえ、腰をかけて座るところは画像石に刻まれるぐらいだからないことはないんだね。とはいっても依然、腰をかけて座る目的のための座具はこの時代(もちろん三国時代も含む)の中国には作られてなさそうだ。

※追記 メモ:踞牀

リュービ十五歳ダッシュ


  • 2006年5月 4日(木) 00:24 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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歴史  ほとんどメモ書きだけど。
 下記の記事関連。

・リュウビ十五歳
http://cte.main.jp/newsch/article.php/276

 劉備(字、玄徳)が一体全体、何を目指して遊学してたか、想像してみる。盧植(字、子幹)に師事していたのは良いとして、このことがこれ以降のことにつながっていない。
 同じ盧植門下の公孫瓚(字、伯珪)は盧植の元で学ぶ前に一度、郡の門下書佐になっている(三国志魏書公孫瓚伝)といえども、盧植の元を離れた後、ちゃんと上計吏へ就職している(後漢書公孫瓚伝)。
 以前書いた記事(下記リンク先)に従うなら劉備は27歳頃まで職らしい職についていないので、遊学の目的がわからない。

・リュウビ二十七歳
http://cte.main.jp/newsch/article.php/278
・孫氏からみた三国志39(別サイト)
http://cte.main.jp/sunshi/w/w060412.html

 27歳頃に従軍したことが盧植から軍事について教えてもらったとか就職を斡旋して貰ったとか盧植が関係するとは想像しにくいしね。
 それで遊学中の人、つまり当時の学生がどうだったか、たまたま見かけたのであげてみる。見かけた文献(というかネット上にあった電子文献。恥ずかしながらちゃんとした底本で確認していない)は唐の杜佑撰「通典」。その選舉典 通典卷第十三 選舉一のところ。

桓帝建和初、詔:「諸學生年十六以上、比郡國明經、試、次第上名。高第十五人・
上第十六人為中郎、中第十七人為太子舍人、下第十七人為王家郎。」

<以下、あやしい訳>
桓帝の建和年間(西暦147~149年)の初め、詔で告げる。「学生たち十六歳以上で、郡国の明経科から選び試験し、上から順に名をあげる。高の及第者十五人、上の及第者十六人を中郎にし、中の及第者十七人を太子舍人にし、下の及第者十七人を王家郎にする」

 そうか試験をやって成績に応じて、中郎(宮中の郎?)が31名、太子舍人(皇太子付きの宮中の官?)が17名、王家郎(皇帝ではなく王の郎?)が17名にするってことなのか。劉備はこういうことを目指していたのかな、と想像する。さらに通典の記述は以下のように続く。

永壽二年甲午、詔復課試諸生、補郎・舍人。其後復制:「學生滿二歳、試通二經者、補文學掌故;其不能通二經者、須後試復隨輩試、試通二經者、亦得為文學掌故。其已為文學掌故者、滿二歳、試能通三經者、擢其高第、為太子舍人;其不得第者、後試復隨輩試、第復高者、亦得為太子舍人。已為太子舍人、滿二歳、試能通四經者、擢其高第、為郎中;其不得第者、後試復隨輩試、第復高者、亦得為郎中。已為郎中、滿二歳、試能通五經者、擢其高第、補吏、隨才而用;其不得第者、後試復隨輩試、第復高、亦得補吏。」

<以下、あやしい訳>
永壽二年(西暦156年)の甲午の日、ふたたび諸生(学生)を課試し、郎・舍人としてたすよう詔で告げる。その後、再び制定する。「学生が二年間を満たすと、二経(易、書、詩、礼、春秋の五経のうち二つ?)に通じるか者か試験し、文学掌故の定員として足す。その二経に通じない者すべては後に再び共同で二経に通じるか者か試験し、また文学掌故になることができる。そのすでに文学掌故とした者が二年経つと、三経に通じる者か試験し、その高い及第者を引き抜き、太子舍人とする。それ以外の者は後にふたたび共同試験し、高い者をふたたび及第とし、また太子舍人となることができる。すでに太子舍人になり二年経つと四経に通じる者か試験し、その高い及第者を引き抜き、郎中とする。それ以外の者は後にふたたび共同試験し、高い者をふたたび及第とし、また郎中となることができる。すでに郎中になり二年経つと五経に通じる者か試験し、その高い及第者を引き抜き、吏(役人)として足し、才能に応じ用いる。それ以外の者は後にふたたび共同試験し、高い者をふたたび及第とし、また吏となることができる。」

 ということでつまり試験に受かり続けると、学生2年→文学掌故2年→太子舍人2年→郎中2年→吏という流れ。最短で8年で吏になれるってことだろうか。この例に近いのが、王郎(字、景興)の「以通經、拜郎中、除菑丘長。」(経に通じていたことで、郎中に拝命され、菑丘長に任官される。三国志魏書王郎伝)。 もちろん、茂才や孝廉にあげらえると、一気に吏(県令とか)や郎中になったりできるんだろう(後漢書臧洪伝の注によると「漢法、孝廉試經者拜為郎。」とのこと)。
 ちなみに誰かに師事し、その後、孝廉にあげられる流れの人は、傅燮(字、南容)の「少師事太尉劉寬。再舉孝廉。」(後漢書傅燮伝)、周防(字、偉公)の「師事徐州刺史蓋豫、受古文尚書。經明、舉孝廉、拜郎中。」(後漢書儒林列傳)、潁容(字、子嚴)の「博學多通、善春秋左氏、師事太尉楊賜。郡舉孝廉、」、王郎(字、景興)の「師太尉楊賜、賜薨、棄官行服。舉孝廉、辟公府、不應。」(三国志魏書王郎伝)などがあげられる。コネクションとまでは言わないものの孝廉に挙げられるにはその人に関する情報がある程度、伝わらないといけないかな、と。

 劉備がこういうことを目指していたかどうかなんてわからないことだけど、想像するとあれこれ創作の種になりそうで楽しい。というか書いているうちに、「行學」している人=「學生」 ってわけじゃないような気がしてきたが。

 ちなみに十六歳未満では、童子郎という官職がある。司馬朗(字、伯達)の「十二、試經為童子郎」(三国志魏書司馬朗伝)、「洪年十五、以父功拜童子郎、知名太學」(後漢書臧洪伝)などがあげられる。通典にも「年始十二、各能通經、雄並奏拜童子郎」とある(前後をちゃんと読んでいないので何かって私にはわからないけど)

4月25日は夏侯惇の命日


  • 2006年4月25日(火) 18:20 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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歴史 ・4月24日は劉備の命日
http://cte.main.jp/newsch/article.php/325

上の続き、かな?

 というか、ブログ「蓬莱の夢」の記事を見て初めて気付いた。命日のわかる三国志の人物は貴重。

・ブログ「蓬莱の夢」
http://blog.goo.ne.jp/hourainoyume
・記事「夏侯惇の命日によせて2006」
http://blog.goo.ne.jp/hourainoyume/e/26d1e23d0b402d23a7cec4c1d3ab493a

 上記記事のとおり、確かに三国志魏書夏侯惇伝にはなくなった月日の記述はない。そのため、手元の電子文献で試しに「惇 薨」で検索をかけるとあっさりみつかる。三国志の本紀。三国志魏書文帝紀の記述ね

三國志卷二 魏書二 文帝紀第二

(延康元年)夏四月丁巳、饒安縣言白雉見。庚午、大將軍夏侯惇薨。

 というわけで、延康元年(紀元220年)の夏四月庚午に大将軍の夏侯惇が薨去した。
 庚午は何日かというと、それはネットの「中央研究院兩千年中西暦轉換」を使えば良い。それがどこにあるか、使い方はどうか、は以下のリンク先を参照。

・「三国志ファンのためのサポート掲示板」のツリー1824
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one;no=1824

 つまり、4月25日は夏侯惇の命日。ちなみに丁巳は12日ね。ついで書くとその庚午は「中央研究院兩千年中西暦轉換」によると新暦でいうところの6月13日。

 あと、やたら「○○、命日」って検索ワードが多く、三国志関連においてそんなの滅多に歴史上、残ってないよって意味で以下に参照リンクあげとく。

・8月23日は三国演義での諸葛亮の命日
http://cte.main.jp/newsch/article.php/164
・周瑜の命日について
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1899
・太史慈の命日について
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2244

※追記
 閏1月28日は司馬師の命日
 4月25日は蹇碩の忌日


※追記 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日

4月24日は劉備の命日


  • 2006年4月24日(月) 21:31 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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歴史 ・4月4日は孫策の命日
http://cte.main.jp/newsch/article.php/311

上の続き、かな?

三国志蜀書先主伝によると、

(章武三年)夏四月癸巳、先主殂于永安宮、時年六十三。

というふうに章武三年(紀元223年)の夏四月癸巳、先主(劉備)は永安宮において63歳のとき亡くなった。しかしながらこの年の四月に癸巳の日はない(「癸巳」にあわせると命日は3月5日?)。これに続く文の諸葛亮の上言によると

亮上言於後主曰:「伏惟大行皇帝邁仁樹徳、覆燾無疆、昊天不弔、寢疾彌留、今月二十四日奄忽升遐、臣妾號咷、若喪考妣。

と、今月の二十四日、たちまち天に昇った、とあるので劉備の命日は4月24日。

・参照
http://cte.main.jp/newsch/article.php/276

※追記 4月25日は夏侯惇の命日


※追記 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日

呉景の父


  • 2006年4月22日(土) 11:03 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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歴史 メモ。
近頃、買った三国志集解を何気なくみていいると、呉書五 三國志五十 妃嬪傳第五の冒頭のところで

<本文>
孫破虜呉夫人呉主權母也。本呉人徙錢唐

<注釈>
呉錢唐均
見孫堅傳

とあり、これは普通に、前者が三国志呉書妃嬪伝の本文で「孫破虜(破虜将軍の孫堅)の呉夫人は呉主の権(孫権)の母だ。元々、呉人(呉郡呉県の人)で銭唐(会稽郡の銭唐)にうつった」とあり、後者(小さい文字で表記)が三国志集解特有の注釈であり「呉の銭唐は孫堅伝(三国志呉書孫破虜討逆伝)で均しく見られる」とある。
 さらに次のように続く。


<本文>
早失父母與
弟景居

<注釈>
趙一清曰寰宇記卷九十一云姑蘇山西北十二里胥口東岸有漢奉軍
都尉衡州刺史呉[火軍]墓(弼按寰宇記衡作衝漢時無衡州亦無衝州二

者均誤)[火軍]字光脩
丹陽太守呉景父也


 前者は同じく三国志呉書妃嬪伝の本文。「(呉夫人は)早くに父母を失い、弟の景(呉景)と住んでいた」となるんだけど、気になったのは小さい文字で書かれている注釈部分。以下に訳してみると、

 趙一清(清の人)はいう。寰宇記(太平寰宇記?)巻九十一によると姑蘇山の西北十二里にある胥口の東岸に漢の奉軍都尉衡州刺史の呉[火軍]の墓がある(盧弼は寰宇記を調べ「衡」を「衝」と作るが、漢代に衡州も衝州もなく両者はともに誤りだ)。[火軍]の字は光脩で、丹陽太守の呉景の父だ。

となり、個人的に記録に残っていないと思いこんでいたのが、あっさりと呉景の父親の名や字や就いてた官職があきらかになる。呉景の父親ということは異父姉弟じゃないかぎり、呉夫人の父ってことになり、ひいいては孫策&孫権の母方のお祖父ちゃんってことになる。