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メモ:漢中興士人皆冠葛巾


  • 2008年9月12日(金) 23:20 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,093
歴史  私の記憶で、袁紹か袁術かを例にして当時の身分の高い人でも物資の乏しさ故に冠を被れないってのがあったんだけど、何で見かけたのか、すぐに思い出す。下記。

 沈従文/編著、古田真一/訳『中国古代の服飾研究』(京都書院1995年)※原書1980年

・三国志ファンのためのサポート掲示板
http://cte.main.jp/
・やっぱり「中国古代の服飾研究」 (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」投稿)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=64

 この『中国古代の服飾研究』だけど、そういえば豊富な挿図に目が行き、ある程度、通して読んでなかったなと思い、この期に図書館から借り興味のあるところを一通り読んでみる。

※関連記事 前漢に鐙はあった?!

※追記 ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)


 典拠があまり明示されていなかったり、語句が主に現在のもので当時の呼ばれ方が判りにくかったりするものの、あれこれ新たに発見することも多かった。綬を納めるためのものが「虎頭[般/革]嚢」と呼ばれ、その画像もあったりと(※ここでいう画像は畫像磚石・俑などの出土物の写真やスケッチのことね)。あと出土した武冠の漆紗部分の写真とか。進賢冠の梁は鉄製だとか(※出典不明。探せばありそう)

※関連記事 メモ:武冠のあみあみ

 それで読んでいくと記憶にある箇所を見つける。それを下記に引用。

P144
「このような状態であったので、将軍の身分であった者、例えば袁紹や崔鈞でさえも、ただ頭巾で頭を包むことができただけで、冠を戴くことは難しかったわけであり、ましてや他は推して知るべしであろう。」


 「このような状態」というのは天下の荒廃ぶりを示した文であるが、特に典拠が書かれていない。しかし、冠ってそんな物資が要るかな? 進賢冠の梁ぐらいのような。

※関連記事 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」

 ちなみに崔鈞といえば、下記のように袁紹と共に山東で反董卓のため兵を起こした人なので、上記のこともこれぐらいの時期の出来事を指しているのかな?

・『後漢書』崔[馬因]列傳

鈞少交結英豪、有名稱、為西河太守。獻帝初、鈞與袁紹倶起兵山東、董卓以是收烈付[眉β]獄、錮之、[金良]鐺鐵鎖。


 それで「崔鈞」をキーワードに典拠を探してみるとあっさり見つかる。『三国志』魏書武帝紀の注に引く『傅子』だ。似たような記述は『晋書』や『宋書』にも見られる。


・三国志』魏書武帝紀の注に引く『傅子』

漢末王公、多委王服、以幅巾為雅、是以袁紹・崔鈞之徒、雖為將帥、皆著[糸兼]巾。魏太祖以天下凶荒、資財乏匱、擬古皮弁、裁[糸兼]帛以為[巾合]、合于簡易隨時之義、以色別其貴賤、于今施行、可謂軍容、非國容也。

<清岡による訳>
漢末の王公は王服を多くまねて、幅巾をもって雅として、これにより袁紹・崔鈞の徒は將帥だといえども、皆、[糸兼]巾をつけた。魏太祖は天下の凶荒をもって、資財が乏しく尽き、古の皮弁をまね、[糸兼]帛(白いかとりぎぬ)を裁つことで[巾合]にし、簡易に随時の義において合わせ、色をもってその貴賎を分かち、今において施行し、軍容(軍の儀容)というべきで、国容(国の儀節)ではない。


 後半部分の魏太祖(曹操)はまさしく『中国古代の服飾研究』の言うとおりなんだけど、個人的には、前半部分だけだと、特に袁紹や崔鈞が資財に乏しいだけで[糸兼]巾を着けていたわけじゃなく、「冠を戴くことは難しかった」と言い切れないような気がする。

 『三国志集解』によると、上記「非國容也」の後に次のように書かれている。

博物志漢中興士人皆冠葛巾建安中魏武造白[巾合]於是遂廢惟二學書生猶
著也中華古今注軍[巾(匚+夾)]魏武所制以軍中服之輕便又作五色[巾(匚+夾)]以表方面也

<清岡による訳>※うまく訳せてない。
博物志に言う。
漢の中興の士人は皆、葛巾を冠し、建安中、魏武は白[巾合]を造り、このため、遂に(葛巾を)廃し、ただ二学書生は(葛巾を)著した。(※追記。二学は太学と国子学)
中華古今注に言う。
軍[巾(匚+夾)]は魏武の制するところであり、これにより軍中でこれを軽便(手軽)に服し、また五色の[巾(匚+夾)]を作ることにより方面を表した。


 これと合わせて考えると、袁紹や崔鈞の時期というより、建安中あたりから冠を戴くことは難しかったのかな? とは言っても袁紹や崔鈞の時期と建安中は重なる部分はあるだろうけど。

 あと「葛巾」と言えば諸葛亮を連想することをメモとして残しておこう。

・諸葛亮の羽扇について。 (※「三国志ファンのためのサポート掲示板」投稿)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1452

メモ:東漢人多為舉主行喪制服


  • 2008年7月13日(日) 17:18 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,380
歴史  『後漢書』傅燮伝を読んでいると

再舉孝廉。聞所舉郡將喪、乃棄官行服。

という記述があって、傅燮は二回、孝廉に挙げられ、挙げた郡将(=郡太守)の喪を聞き、すなわち官を棄て喪に服したと言う。

 これを読んだとき、どれぐらいの期間、喪に服していたのかな、と疑問を持っていた。

 私自身、こういった礼に詳しくないんだけど、例えば『儀礼』喪服に当たり(池田末利/訳註『儀礼』(東海大学古典叢書)を参考にした)、三年の喪に該当する相手(亡くなった人の立場)や実際に行う人を挙げると、まず斬衰三年(斬衰を着用して三年の喪に服する礼)については

 父 (父のためにする)
 諸侯為天子 (天子のために諸侯がする)
 君 (君のためにする)
 父為長子 (長子のために父がする)
 為人後者 (人の跡継ぎとなった者がする)
 妻為夫 (夫のために妻がする)
 女子子在室為父 (父のために女子子で室に在る者がする)
 子嫁反在父之室為父三年 (子が嫁し、反って父の室は父のために三年する)

となり、つぎに齊衰三年(齊衰を着用して三年の喪に服する礼)については

 父卒則為母 (父が卒しておれば、母のためにする)
 慈母如母 ((父が卒しておれば)慈母のためにすることは母の如くにする)
 母為長子 (長子のために母がする)

となっており、少なくともここでは、孝廉を挙げた太守のために喪に服する場合で該当するものがないので、三年ではないのだろうな、と漠然と思っていた。

 ところが今、『後漢書集解』の傅燮伝を見ると冒頭で掲げた傅燮伝の箇所に、『後漢書集解』による注が以下のように付けられてあった。

[集解]蘇輿曰此為舉主行服之始桓鸞傳太守向苗舉鸞
孝廉苗卒鸞去膠東令職奔喪終三年乃歸荀爽傳袁逢
舉爽有道不應及逢卒爽制服三年並其事也此外屬吏之於其
長如郡吏樂恢為太守行服功曹李恂為太守李鴻服喪三年弟
子之於師如馮冑之於李[合β]制服心喪三年封丘令王元賞之門
生斬杖三年當時風氣之厚如此但與親喪無別則昧
等差耳
※さらに細かい字で注があったが私の持っている本だと潰れて読めない部分もあるので省略。

 いちいち訳すのは面倒なので略すけど、要は孝廉に挙げた太守の向苗のために三年の喪に服した桓鸞や、孝廉に挙げた袁逢のために三年の喪に服した荀爽のことが例として載せられている(さらに言えば荀爽は孝廉に応じていないのにも関わらず三年の喪に服している)。
 それに続き、属吏がその長のために三年の喪に服している例や、弟子が師のために三年の喪に服している例が挙げられる。

 上記の漢文をタイプするのが面倒なので、コピー&ペーストで済まそうと手元の電子文献で似たような文を探しているときに見かけたんだけど、『風俗通義』十反第五の注に

案東漢人多為舉主行喪制服

とあって、それに続き上記の傅燮伝、桓鸞伝、荀爽伝の記述が書かれてあった。

 どれぐらいの割合でこういったことが行われたか見当がつかないけど、挙主に対して三年の喪に服す事例はあるのだということはわかった。

 ちなみに三年の喪に関しては下記のURL参照。

・素朴な質問(「三国志ファンのためのサポート掲示板」内ツリー)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2489

※というか関係ないが、「三国志ファンのためのサポート掲示板」の書き込みでも「夏」を感じられるようになってしまったんだね(滝汗)

※追記 メモ:『後漢書』傅燮伝

4月25日は蹇碩の忌日


  • 2008年4月25日(金) 00:12 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,461
歴史 『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)によると、

(中平六年四月)庚午、上軍校尉蹇碩下獄誅、兵皆屬進。

<清岡による訳>紀元189年4月25日、上軍校尉の蹇碩は獄に下り誅殺され、兵は皆、何進に属した。

とのことで4月25日は蹇碩の忌日。庚午の年月日は例によって中央研究院兩千年中西暦轉換を頼りにしている。
宦官の蹇碩と言えば霊帝の寵臣で、西園八校尉のリーダーたる上軍校尉になっている。
しかし、蹇碩はその権力を支えていた霊帝の死後、もう一方の権力者である大将軍の何進により死に追い込まれる。
霊帝が亡くなってから14日後のことだった。

ちなみに31年後の4月25日に夏侯惇が薨去している。

※関連記事
 10月16日は霊帝が無上将軍を自称した日
 4月11日は霊帝崩御の日
 4月25日は夏侯惇の命日


※追記 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日

4月13日は劉弁即位の日


  • 2008年4月13日(日) 11:32 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,032
歴史 二日前に「4月11日は霊帝崩御の日」なんてことを書いたけど、皇帝が崩御すると、次の皇帝が即位するということで、『後漢書』孝靈帝紀によると、

(中平六年夏四月)戊午、皇子辯即皇帝位、年十七。

<清岡による訳>紀元189年4月13日、皇子の弁は年十七で皇帝位についた。


とあり、同様に 『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)によると、

(中平六年四月)戊午、皇子辯即帝位、太后臨朝、大赦天下。

<清岡による訳>紀元189年4月13日、皇子の弁は帝位につき、太后は朝に臨み、天下に大赦した。


とのこと。といっても当時の状況を象徴するかのように、紀元189年9月1日に董卓により廃帝され弘農王にされ、紀元190年1月12日(『後漢紀』より)に劉弁は年十八の若さで董卓により殺されてしまう。

※関連記事
 4月11日は霊帝崩御の日
 3月13日は張純の忌日

4月11日は霊帝崩御の日


  • 2008年4月11日(金) 12:18 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,548
歴史 『後漢書』孝靈帝紀によると、

(中平六年夏四月)丙辰、帝崩于南宮嘉徳殿、年三十四。

<清岡による訳>紀元189年4月11日、帝は南宮嘉徳殿において、年三十四で崩御した。

とあり、同様に 『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)によると、

(中平六年四月)丙辰、帝崩於嘉徳殿。

<清岡による訳>紀元189年4月11日、帝は嘉徳殿において崩御した。

とのこと。ここでいう帝とは後漢の霊帝(劉宏)のこと。丙辰の年月日は例によって中央研究院兩千年中西暦轉換を頼りにしている。
無上将軍を自称してから半年ほどしか経っていないうちの崩御となった。
この後、京師(みやこ)は権力争いや董卓による秉政によりいろんな意味でボロボロになっていく。

※関連記事
 10月16日は霊帝が無上将軍を自称した日
 3月13日は張純の忌日

 4月13日は劉弁即位の日

 4月25日は蹇碩の忌日


※追記 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日

※追記 メモ:『古代中国と皇帝祭祀』(汲古選書26)

※追記 8月25日は何進の忌日

3月13日は張純の忌日


  • 2008年3月13日(木) 00:01 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,274
歴史  過去の記事で「x月x日は○○の命日」なんて銘打って書いていたけど、「命日」は仏教用語だろうから当然、三国時代では使われていないと自己ツッコミをしつつ今回から「忌日」と銘打つ(前回、自己ツッコミ済だけどね)。

※関連記事
 閏1月28日は司馬師の命日
 4月25日は夏侯惇の命日
 8月5日は司馬懿の命日
 10月16日は霊帝が無上将軍を自称した日

 4月11日は霊帝崩御の日

 それで今回、取り上げるのは張純。同姓同名が居ると思うけど、漁陽郡漁陽県出身で中山相だった張純のこと。中平四年に叛乱を起こした人物だ。
 そのことは『後漢書』孝靈帝紀に載っている。

<本文>
(中平四年六月)
漁陽人張純與同郡張舉舉兵叛、攻殺右北平太守劉政・遼東太守楊終・護烏桓校尉公[其/糸]稠等。舉(兵)自稱天子、寇幽・冀二州。

<清岡の頼りない訳>
(紀元187年6月)漁陽人の張純と同郡の張挙は兵叛を挙げ、右北平太守の劉政、遼東太守の楊終、護烏桓校尉の公[其/糸]稠らを攻め殺した。張挙は天子を自称し、幽・冀二州に進寇した。


 この張純は三国志ファンに馴染みのない人物かもしれないが、劉備の初戦に関わる人物として、下記に引用する『三国志』蜀書先主伝の注に引く『典略』に出てくる

<本文>
典略曰:平原劉子平知備有武勇、時張純反叛、青州被詔、遣從事將兵討純、過平原、子平薦備於從事、遂與相隨、遇賊於野、備中創陽死、賊去後、故人以車載之、得免。後以軍功、為中山安喜尉。

<清岡の頼りない訳>
典略に言う。平原の劉子平は劉備に武勇があることを知っていて、当時、張純が反乱をおこし、青州は詔(皇帝の命令)を受け、兵を率いた從事に張純を討伐させた。平原を通過中に子平は劉備を従事にすすめ、(劉備は)付き従うことになり、平野で賊にまみえることになった。劉備は傷を受け死んだふりをし、賊が去った後、旧知の人が車に劉備を載せ、事なきをえた。後に軍功により、中山の安喜尉(安喜県の尉)になった。

※関連記事
 リュウビ二十七歳


 それでようやく本題だけど、下記のように『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)だとこの張純は三月己丑(3月13日)に殺されたとのこと。ただ三月己丑が張純の殺されたところまでかかるかどうかわからないけど。三月己丑の日付の同定は例によって「中央研究院兩千年中西暦轉換」を使っている。

<本文>
(中平六年)
三月己丑、光祿劉虞為司馬領幽州牧、撃張純。虞使公孫[王賛]撃純、大戰破之。純客王政斬純首降。封虞為襄賁侯、[王賛]為都亭侯、並鎮北邊

<清岡の頼りない訳>
(紀元189年)
3月13日、光祿の劉虞は司馬になり幽州牧を領し、張純を撃った。劉虞は公孫[王賛]に張純を撃たせ、大いに戦いこれを破った。張純の客の王政は張純の首を斬り、下った。劉虞は襄賁侯、公孫[王賛]は都亭侯に封じられ、並んで北辺を鎮めた。


・「中央研究院兩千年中西暦轉換」関連のサポ板での書き込み
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=1825

メモ:虎牢関って


  • 2008年2月22日(金) 23:18 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    9,558
歴史 『中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期』を参考とした地図。 手元のサイトのアクセスログを見ると、ちょくちょく検索されるワードに「虎牢関 場所」というものがある。それほど、虎牢関の場所を知りたがっている三国志ファンが居るのだろうな、と実感していた。というわけで迷える三国志ファンのために少しでもお役に立てれば良いなとおもいつつ、「虎牢関」について私が知っていることをメモしておこう。

 白話小説である『三国演義』には「第五回:發矯詔諸鎮應曹公、破關兵三英戰呂布」に董卓の軍勢と袁紹の軍勢が戦う場として「汜水関」や「虎牢関」が出てくる。『三国演義』において、前者では関羽が華雄を一刀のもとに斬り捨てたシーンで有名な場所で、後者は劉備・関羽・張飛が呂布と戦ったシーンで有名な場所。そのため三国志ファンの間では特に「虎牢関」が良く知られている
(↑一応、記事の前提条件を読者に確かめてもらう文)

 「虎牢」という地名自体はすでに『史記』や『漢書』にも見られ(例えば『史記』三代世表、『漢書』五行志)、さらに『史記』の注に

正義括地志云:「洛州氾水縣古(之)〔東〕[(埒虎)の土を抜いた字]國、亦鄭之制邑、又名虎牢、漢之成皋。」

<清岡による頼りない訳>
正義括地志に言う。「洛州の氾水県は古の東[(埒虎)の土を抜いた字]国であり、また鄭の制邑であり、またの名を虎牢であり、漢の成皋だ」

とあり、「虎牢」は漢代では「成皋」と呼ばれている。

 それで本題の『三国志』では「成皋」という地名は出てきており、『三国志』魏書武帝紀ではズバリ、董卓の勢力との戦いのところで出ている。長いが以下に標点がついた文を引用し、頼りない訳をつけておく。あと解りやすいように譚其驤(主編)『中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期』(中國地圖出版社出版)を元とした関連地図をこの記事につけておく。「成皋」という地名に注目。

初平元年春正月、後將軍袁術・冀州牧韓馥・豫州刺史孔[イ由]・[六/兄]州刺史劉岱・河内太守王匡・勃海太守袁紹・陳留太守張[しんにょうに貌]・東郡太守橋瑁・山陽太守袁遺・濟北相鮑信同時倶起兵、衆各數萬、推紹為盟主。太祖行奮武將軍。

二月、卓聞兵起、乃徙天子都長安。卓留屯洛陽、遂焚宮室。是時紹屯河内、[しんにょうに貌]・岱・瑁・遺屯酸棗、術屯南陽、[イ由]屯潁川、馥在[業β]。卓兵彊、紹等莫敢先進。太祖曰:「舉義兵以誅暴亂、大衆已合、諸君何疑?向使董卓聞山東兵起、倚王室之重、據二周之險、東向以臨天下;雖以無道行之、猶足為患。今焚燒宮室、劫遷天子、海内震動、不知所歸、此天亡之時也。一戰而天下定矣、不可失也。」遂引兵西、將據成皋。[しんにょうに貌]遣將衛茲分兵隨太祖。到[(螢)の虫が水]陽[シ卞]水、遇卓將徐榮、與戰不利、士卒死傷甚多。太祖為流矢所中、所乘馬被創、從弟洪以馬與太祖、得夜遁去。榮見太祖所將兵少、力戰盡日、謂酸棗未易攻也、亦引兵還。

太祖到酸棗、諸軍兵十餘萬、日置酒高會、不圖進取。太祖責讓之、因為謀曰:「諸君聽吾計、使勃海引河内之衆臨孟津、酸棗諸將守成皋、據敖倉、塞[(車環)の王ぬき]轅・太谷、全制其險;使袁將軍率南陽之軍軍丹・析、入武關、以震三輔:皆高壘深壁、勿與戰、益為疑兵、示天下形勢、以順誅逆、可立定也。今兵以義動、持疑而不進、失天下之望、竊為諸君恥之!」[しんにょうに貌]等不能用。

<清岡による頼りない訳>
初平元年(紀元190年)の春正月に後将軍の袁術、冀州牧の韓馥、豫州刺史の孔[イ由]、[六/兄]州刺史の劉岱、河内太守の王匡、勃海太守の袁紹、陳留太守の張[しんにょうに貌]、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、濟北相の鮑信が同時に共に兵を起こし、衆はそれぞれ数万であり、袁紹を盟主に推した。太祖(曹操)は奮武将軍を兼行した。

二月、董卓は(山東で)兵が起こったと聞き、すなわち天子の都を長安に遷した。董卓は洛陽に留まり駐屯し、ついに宮室を焼いた。この時、袁紹は河内に駐屯し、張[しんにょうに貌]、劉岱、橋瑁、袁遺は酸棗に駐屯し、袁術は南陽に駐屯し、孔[イ由]は潁川に駐屯し、韓馥は[業β]に在った。董卓の兵は強く、袁紹らは敢えて先に進もうとはしなかった。太祖(曹操)は言う。「義兵を挙げ暴乱を誅しようと、大衆は既に集合し、諸君は何を疑いましょうか? 仮に董卓が山東の兵起を聞いているのであれば、王室の重に依り、二周の険(要害)に拠り、東へ向かい天下を望むでしょう。道が無くこれを行うといえども、なお満ちて患いとなります。今、宮室を焼き、天子を脅し遷し、海内(天下)は震え動き、帰す所を知らず、この天の亡ぶ時です。一戦で天下が定まり、失敗することはできません」 遂に(曹操は)兵を西へ引き、まさに成皋をよりどころとしようとした。張[しんにょうに貌]は将の衛茲を遣り、兵を分け太祖(曹操)に随行させた。[(螢)の虫が水]陽の[シ卞]水に至り、董卓の将、徐栄に遭遇し、戦い利を失い、士卒の死傷がはなはだ多かった。太祖(曹操)は流れる矢により当たるところとなり、馬に乗るところで傷を被り、従弟の曹洪は馬をもって太祖と共に、夜に逃れ去ることができた。徐栄は太祖が率いる兵が少ないところを見て、一日中、力戦し、酸棗は未だ攻めやすくないと思い、また兵を引き帰った。

太祖(曹操)は酸棗に至り、諸軍の兵十万余りで、日々、酒を置き盛宴を張り、積極的な行動を図らないでいた。太祖(曹操)はこれを責め、謀ることに因りて言う。
「諸君は吾の計を承け、勃海(袁紹)には河内の衆を率い孟津に臨んでいただきき、酸棗の諸将には成皋を守っていただき、敖倉に拠り、[(車環)の王ぬき]轅(関)、太谷(関)を塞ぎ、それら険(要害)すべてを制していただきます。袁将軍(袁術)には南陽の軍を率い丹(水)、析に陣取り、武関に入ることで、三輔を驚かせていただきます。皆、土塁で深い壁で、戦うことなく、疑兵を増やし、天下に形勢を示し、順をもって反逆者を誅殺し、定めを起こしてください。今、義の動きによる兵は、疑いを持ち進まず、天下の望みを失い、密かに諸君のためにこれを恥じています!」 張[しんにょうに貌]らは用いることができなかった。

※[(車環)の王ぬき]轅と太谷を「関」としている理由は後述。

 ここで注目ししばし覚えてほしいことは「成皋」という地名が出てくるものの実際に戦いはない。また「[(車環)の王ぬき]轅(関)」、「太谷(関)」、「武関」と「関」が出てくるもののこの時期、実際、山東勢と董卓による戦いが行われなかったことだ。
 『三国志』において「虎牢」という言葉はなく(但し、『三国志』魏書文帝紀の注に引く『魏書』の詩に「虎牢」という言葉が載っている)、反董卓時期に「関」での戦いも載っていないので、従って

 『三国志』に「虎牢関」は載っていない

ということになる(「汜水関」も載っていない)。

※「関」が何かは下記のURL先参照。

・関所の役割(「三国志ファンのためのサポート掲示板」、通称、サポ板内ツリー)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2880

 もっと掘り下げると当時、「成皋」辺りに「関」があったのかどうかということになる。「[(車環)の王ぬき]轅(関)」、「太谷(関)」、「武関」は洛陽から見てそれぞれ南東、南東、南西にあり、東にある「成皋」からほど遠い位置にある。この時期あたりで、この三つの関以外に出てくる関は『三国志』魏書武帝紀において董卓秉政時期に曹操が洛陽から密かに東へ帰る下りで出てくる。

太祖乃變易姓名、間行東歸。出關、過中牟、為亭長所疑

<清岡による頼りない訳>
太祖(曹操)はすなわち姓名を変え、密かに東へ帰った。関を出て、中牟を過ぎ、亭長に疑われるところとなる。


 また、この部分の直前の注に引かれる『魏書』には


從數騎過故人成皋呂伯奢。

<清岡による頼りない訳>
数騎を従え、昔馴染みの成皋出身の呂伯奢のところを訪れた。


とある。但し「成皋呂伯奢」が成皋出身の呂伯奢という意味で現住所かどうかわからないが。

<関連記事>2006年7月29日大学院特別講演会「曹操殺呂伯奢」雑感
http://cte.main.jp/newsch/article.php/388

 それでこの関は何かというと、『三国志』からは見出せず、対象となる時代が近い『後漢書』から見出せる。
 『後漢書』皇甫嵩伝で黄巾から洛陽を守る準備をするという下りで、


詔敕州郡修理攻守、簡練器械、自函谷・大谷・廣城・伊闕・[(車環)の王ぬき]轅・旋門・孟津・小平津諸關、並置都尉。
※大谷・[(車環)の王ぬき]轅在洛陽東南、旋門在汜水之西。

<清岡による頼りない訳>
詔敕により州郡に攻守の修理をさせ、函谷、大谷、廣城、伊闕、[(車環)の王ぬき]轅、旋門、孟津、小平津の諸関より器械を選び出し、並びに都尉を置く
※注。大谷・[(車環)の王ぬき]轅は洛陽の東南に在り、旋門は汜水の西に在る。


というのあり(これを見ると前述の「孟津」も関のことかも)、さらに『続漢書』郡国志によると

成[四/幸](皋)有旃然水。有瓶丘聚。有漫水。有汜水。

ということで、成皋に汜水がある。
 まとめると曹操は東へ帰るときに通った関は「成皋」近くにある「旋門関」の可能性が高い。

 話を戻し、対象となる時代を順に『三国志』から正史類を見ていくと、『宋書』小帝紀で


(景平元年正月)虜將達奚(斤)破金[土庸]、進圍虎牢。

<清岡による頼りない訳>
(紀元423年1月)虜(北魏)の将の達奚斤は金[土庸](地名)を破り、虎牢に進み包囲した。

(※2009年12月追記。よく考えたら唐の李淵の祖父は李虎なんで、避諱されて「武牢」になるんだよね。後もそうなんだけど、「武牢」や「武牢関」で調べ直す必要がある。)


というふうにようやく「虎牢」という地名が出てくる。さらに蛇足だけど『宋書』文帝紀では


(元嘉七年)十一月癸未、虎牢城復為索虜所陷。

<清岡による頼りない訳>
(紀元430年)十一月癸未、虎牢城はふたたび索虜(北魏)に落とされた。


というふうに「虎牢城」という表現が見られるようになる(もっとも仮に県の名前が「AAA」だとするとその県城を「AAA城」という表現をするが)。
 さらに正史類において時代を下っていくと、『新唐書』武宗紀で


(會昌五年)十月、作昭武廟于虎牢關。

<清岡による頼りない訳>
(紀元845年)十月に昭武廟を虎牢関に作った。


というふうにようやく「虎牢関」の表現が出てくる(この「虎牢関」が前述の「旋門関」と同じあるいは同じ場所にあるのか、私は調べ切れていない)

 ここからは史書から離れて、なぜ『三国志』に載っていない「虎牢関」が三国志ファンによく知られるようになったかについてメモを書く。
 唐代からかなりの空白ができてしまうんだけど、元代の雑劇で董卓の軍勢と袁紹の軍勢が戦うものに、そのものズバリのタイトルで鄭光祖『虎牢關三戰呂布』(最近、サポ板でも書いたとおり私自身、ちゃんと確認していない)というようにタイトルに「虎牢関」があり、さらには冒頭でも書いたように『三国演義』(ここでは最も普及している毛宗崗本)でも「第五回:發矯詔諸鎮應曹公、破關兵三英戰呂布」とタイトルに「虎牢関」がある。後漢末や三国時代と違い、ここまで時代が下ると「虎牢関」は馴染みのあるものとなっていたんだろう。
 また宋代の『朱子語類』卷第五十七 孟子七によると


 鄭之虎牢、即漢之成皋也。虎牢之下、即[シ秦][シ有]之水、後又名為汜水關

<清岡による頼りない訳>
 鄭の虎牢はすなわち漢の成皋だ。虎牢の下は、[シ秦]水と[シ有]水につき、後にまたの名を汜水関とする


ということで虎牢と「汜水関」が同じと認識されている。

 また、サイト「超級三国志遺跡紹介ホームページ≪三劉≫」を見ると現在でも虎牢関があったとされる場所を示す碑もあるらしい。

・超級三国志遺跡紹介ホームページ≪三劉≫
http://kankouha.cool.ne.jp/

 また、私からは未確認ながらサポ板の書き込み記事143828821512によると『歴史群像【中国戦史】シリーズ 真三國志』(学研)には虎牢関の場所を示す地図、『歴史群像シリーズ17 三国志 上巻 曹操・劉備・孫権天下への大計』(学研)には虎牢関のイラスト、『三国志の大地』(竹内書店新社)では「汜水関と虎牢関は同じ物で、三国時代では汜水関と言われていた」という記述が見られるとのこと。これらは歴史を元にしているのか創作を元にしているのか確認していないが。


 ということで三国志関連の作品で「虎牢関」という記述を見かけると、その作品は歴史以外にも何か別に参考にしているのだな、と判断するように、私は「後漢は木徳」と同じように「虎牢関」があるかどうかを作品のチェック項目としている。


<2008年7月24日追記>
知り合いが、塩沢裕仁「洛陽八関とその内包空間-漢魏洛陽盆地の空間的理解に触れて-」(『法政考古学』第30集記念論文集)のコピーを持っていたんだけど、それによると成皋関(前漢)→旋門関(後漢)となっていた。
機会が在れば貸して貰ってちゃんと読んでみよう。

※追記 メモ:「洛陽八関とその内包空間」

※追記 メモ:鎧 and リンク:東アジアにおける武器・武具の比較研究

三国創作のための拝メモ


  • 2007年11月13日(火) 18:26 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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歴史 「呉家荘 双闕楼閣、拝礼畫像」の一部をスケッチ 以前、『中国社会風俗史』という本を買って一通り読んでいたけど、あまり図で説明するといった本ではなかったことや私の能力の限界もあってか、あまり理解できなかった箇所が少なからずあった。

・中国社会風俗史
http://cte.main.jp/newsch/article.php/548

 それらの中の一つに「第二十六章 敬礼」がある。近頃、『礼記』に目を通すようになってこの章に書かれてある「拝」(旧字は「拜」)について多少なりとも馴染んできたためもう一度、目を通す。その際のメモ。尤もまだ『礼記』に目を通してないし、その上、また新たな視点で拝を見るようになるかもしれないんで、続きのメモができる可能性は大いにある。

 まず三国創作と拝がどう関わるか、おさらいがてら説明。
 ここで言う「拝」とは言ってみればお辞儀のような動作のことで(他にも拝には拝受するなど受けるという意味もあるが)、具体的には右上の画像において真ん中の人が行っている動作のこと(恐らく座っている状態からではなく、立っている状態からこのポーズになりまた立つといった動作)。
 回りくどいがこの画像の説明。これは石刻拓本からAdobe Illustrator CSを使ってスケッチしたもの。拓本資料は京都大学人文科学研究所所蔵の「呉家荘 双闕楼閣、拝礼畫像」(後漢、嘉祥縣畫像石、管理番号B01-22)だ。もっとスケッチしやすい鮮明な石刻拓本はあったが、たまたまスケッチしづらい画像石を選んでしまう(鮮明な画像石はどれかは後述)

・石刻拓本資料(京都大学人文科学研究所所蔵)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/215

 現代日本人から見ればあたかも土下座しているように見えるけど、当時においては日常的な動作。
 時代が少し遡るが漢代に成立した『礼記』曲禮下には

大夫士相見.雖貴賤不敵.主人敬客.則先拜客.客敬主人.則先拜主人

大夫・士が互いに見えたら、地位の高い低いが同等でないといっても、主人が客を敬えば、則ちまず客を拝し、客が主人を慕えば、則ち主人を拝する。

と書かれている等、少なくとも士大夫層には日常的な動作だということがわかる。
 『三国志』でも、ぱっと思い付くのが『三国志』呉書張昭伝や同周瑜伝に見られる 「升堂拜母」(堂に昇り、母を拝する)という記述。つまり、ここでの「拜母」は公の場だけではなく家庭でもという意味合いで、相手の母に拝する程、公私とも親しい仲ということなのかな。堂に関しては下記記事参照。こちらの記述も家庭でも、ってあたりを強調しているんだろうね(と、ここらへんこだわると「拝」から話が外れそうなのでこのへんまで)。

・三国創作のための『儀礼』メモ
http://cte.main.jp/newsch/article.php/721

 また特殊なことではないので、拝だけでは『三国志』のような史書に記載されづらく、何かしらの+αがあれば載っていたりする。例えば、以前、紹介した『三国志』蜀書龐統伝の注に引く襄陽記の記述(他にもあるがちゃんと目を通していない・汗)。

・「牀」 三国志の筑摩訳本を読む
http://cte.main.jp/newsch/article.php/221

 それで話を戻し、『中国社会風俗史』のこと。この訳本は社会風俗について中国古代から記述されてあって、それぞれの根拠となる出典が明記されている。今回、拝に関して改めて目を通すことになり、それぞれの出典を当たってみる。

 まず拝について。上の画像にある動作以外の拝もあるそうな。つまり拝には状況に応じて動作が違ってくるという言ってみればグレードのようなものがあるとのこと。それは時代が遡るが『周礼』春官宗伯に書かれてある。

辨九拜.一曰稽首.二曰頓首.三曰空首.四曰振動.五曰吉拜.六曰凶拜.七曰奇拜.八曰褒拜.九曰肅拜.

 まず一番目と二番目の稽首、頓首について。これらはお馴染みのやつで『礼記』の訳註(明治書院の新釈漢文大系シリーズ)を見ると、稽首は人に対する最敬礼で、ひざまずき、頭を垂れて地(もしくはゆか)に接する礼で、頓首は、頭を下げ地に接するとすぐに頭を上げるものとのこと(『周礼』春官太祝の項の注に拠るものとのこと)。
 『中国社会風俗史』では『春秋左伝』哀公十七年の記述を元に、稽首を説明している。

公會齊侯盟于蒙.孟武伯相.齊侯稽首.公拜.齊人怒.武伯曰.非天子.寡君無所稽首.

公は齊侯と会い、蒙において盟を結び、孟武伯は見ていた。齊侯は稽首し、公は拜し、齊人は怒った。武伯は言う。天子でなければ我が君は稽首するところではありません。

 稽首と拝に違いがあって、稽首は天子に対して行うことがわかる。ちなみに春秋のころの天子とは王で、後漢のころの天子は皇帝のこと(後者は下記参照。『独断』の記述より)。

・Re:三国志の皇帝の呼び名について
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2775

 また稽首と頓首は皇帝への上書の文面にも形式として出てくるとのこと(こちらも『独断』の記述より)。敬意を表してのことだろうね。

・上表・上疏・上奏の違い
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2906

 話が少し脱線するが、そう言えば形式として「拝」も文面として出てくるね。例えば下記記事のように「謁」や「刺」に「再拝」(二回、拝する)と書かれている。再拝が日常のどういうシチュエーションでなされるか、今後、『礼記』や『儀礼』を当たらないとね。

・三国時代あたりの名刺(謁、刺)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/566

 続けて、三番目の空首。『中国社会風俗史』によると空首は画像を交え前述した一般的な拝に相当するそうな(根拠がよくわからんが)
 そこの出典として上がっているのが『荀子』大略篇第二十七の記述。

平衡曰拜,下衡曰稽首,至地曰稽顙。

平衡が拝と言い、下衡が稽首と言い、地に至るのが稽顙と言う。

 とのことで、平衡とは『中国社会風俗史』によると頭と腰が平らになることで、下衡は腰より頭が下がる場合とのこと。その記述に準じて上の画像の真ん中の人が拝するということにしている。
 また拝のポーズは『礼記』内則によると、

凡男拜.尚左手.

およそ男が拝するのは左手を尚(うえ)にする。

凡女拜.尚右手.

およそ女が拝するのは右手を尚(うえ)にする。

とのこと。上の画像では服に隠れてどちらの手が上か確認できないが、左手を上にしているんだろうね。画像が不鮮明で分かりにくいけど(手にも見える)、腕から出ているものは、おそらく笏(こつ)ってやつ。命令をメモったりする板。聖徳太子の有名な画像で太子が持っているやつと用途は同じだろうね。使い方や身分に応じた材質等は『礼記』に書かれてある。
 京都大学人文科学研究所所蔵の石刻拓本資料を見る限り、こうやって誰かの前に拝している画像は画像石によくあるモチーフのようだ。上にあげた画像元は不鮮明すぎて分からなかったんだけど、他の石刻拓本では拝する人の冠がよく見える。
 「〓上縣孫家村 孔子・項託、升鼎畫像」(後漢、山東畫像石、管理番号A07-04)では拝する人の冠は武冠になっている。それに対し、「左石室小龕後壁 拝礼、出行畫像」(後漢、武氏祠左石室、管理番号B04-01)では拝する人の冠は進賢冠になっている。冠については下記記事参照。

・メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」
http://cte.main.jp/newsch/article.php/641

 余談ながら、後者の画像中の進賢冠は梁の部分が地面に落ちている描写がされている。時代変遷が関わってくるだろうが、長沙市金盆嶺9号晋墓の青磁騎馬俑を見ると梁ごと紐で固定しているので、拝で梁が落ちる描写は不自然のように見えるんだけど、それはもしかして拝の度合いを演出しているのかな。いや、それは考えすぎで頭を90°傾けたら落ちるぐらいの固定具合かな。梁の上部は斜めなんで、力が分散してそうだし(後から前への力に弱い)。

 四番目以降は個人的にどうも理解しづらいのが続き、今のところ、興味のないものが多そうなので、一気に飛ばし九番目の粛拜に行く。『中国社会風俗史』によると粛拜は揖に相当するとのこと(ここらへんの理由もよく分からないが)
 まず『礼記』曲礼上の記述。

介者不拜、為其拜而蓌拜 .

介者(鎧を着た者)は拝せず。その拝が蓌(いつわり)の拜になるためだ。

とのことで、鎧を着て、上の画像の真ん中の人のポーズを取るのは困難で、やればやったでいつわりの拜になるってことだ。じゃ、何もしないのかといえばそうではなく代わりに粛拜を行うとのこと。次に『春秋左伝』成公十六年。

郤至見客.免冑承命曰.君之外臣至.從寡君之戎事.以君之靈.間蒙甲冑.不敢拜命.敢告不寧.君命之辱.為事之故.敢肅使者.三肅使者而退

郤至は客を見て甲冑を脱ぎ、命令を承けて言う。「君の外臣の至は我が君の軍事に従い、君の霊により、そのまま甲冑を被り、あえて命令を拝せず、敢えて不寧と君命の辱を告げ、これにつかえるために、あえて使者に粛します」 使者に三回粛し退いた。
※清岡が訳したためちゃんとした訳ではない。

とのことで拝の代わりに粛していることがわかる。

<11月16日追記>
 また揖に関してもこんな記述がある。『史記』卷八 高祖本紀第八より。

酈食其(謂)〔為〕監門、曰:「諸將過此者多、吾視沛公大人長者。」乃求見説沛公。沛公方踞牀、使兩女子洗足。酈生不拜、長揖、曰:「足下必欲誅無道秦、不宜踞見長者。」於是沛公起、攝衣謝之、延上坐。食其説沛公襲陳留、得秦積粟。

酈食其は監門になって言う。「諸將はこのことを優れているとしすぎなので、私は沛公が大人長者かどうか見たい」 そのため会って沛公に説くことを求めた。沛公は牀の縁に踞し、二人の女子に足を洗わせていた。酈は現れ拝せず、深く揖して言う。「足下(あなた)は必ず無道の秦を誅したいと望むのだから、踞して長者に会うべきではない」 ここで沛公は立ち上がり、衣裳を整えこれを謝り、上にのび座った。食其は沛公に陳留を襲うことを説き、秦を得て粟を積んだ。

 「踞」については下記記事参照。

・メモ:踞牀
http://cte.main.jp/newsch/article.php/485

 つまり沛公(劉邦)が「踞」という非礼な態度を示したのに対し、酈食其は拝せず揖したという非礼な態度で応じたということだ。

<追記終了>

 この揖(粛拝)というのは『中国社会風俗史』での記述を見て考えるに、おそらく上の画像の左の人の動作に相当するのだろう。つまり膝を地面に着かず拝するとのこと。
 余談ながら粛は中国中央電視台制作ドラマの『三国演義』(下記記事参照)でもよく見られる。ドラマをよく見ると前述したように男の左手がちゃんと上になっているのはさすがだと思った。まぁ、上の画像より肘が張りすぎている気はするが。

・中国歴史ドラマ『三国志』の冒頭
http://cte.main.jp/newsch/article.php/638

<追記>
中華ファンタジーのアニメの『彩雲国物語』でドラマ『三国演義』ばりに肘の張った粛が出てきたが、やはりこの世とは別世界という設定なので、女性も男性も左手が上になっていた。
<追記終了>

※追記 初恋三国志 りゅうびちゃん、英傑と出会う!(2014年8月15日)

 上の画像の左の人。こちらも手から出ているのは笏だろうね。京都大学人文科学研究所所蔵の石刻拓本資料を見ると、他の画像石にも揖(粛拝)している場合があって、多くの場合は上の画像と同じく進賢冠を被っている。
 この画像が本当に揖(粛拝)しているかどうかは『礼記』『儀礼』の記述と詳細に照らし合わせないといけないね。もしかすると拝の動作の途中を描いているかもしれないし。

<2009年5月16日追記>
 幾つかの知識を持っているものの、それが頭の中で繋がっていない、ということはよくある。以下、その一例なんだけど、別件で『三国志』魏書閻恩伝の注に引く『魏略』勇俠伝を読んでいてどこかで見たことある話だな、と思ったら、『中国社会風俗史』の46ページにあった。漢晋代では笏を版と言うそうで、『魏略』勇俠伝にも一例に挙げられるんだけど、長官と会うときは版を持つのが慣例のようだね。ということで上の画像も版を持って拝しているよく見る姿ということなんだろう。
<追記終了>

 ちなみに上の画像の右の人のように牀や榻の上に座って、拝や粛を承けるケースも他の画像石に見られる。上の画像では、進賢冠なんだけど、その他、よくわからない冠だったりすることもある(前述の「〓上縣孫家村 孔子・項託、升鼎畫像」(後漢、山東畫像石、管理番号A07-04)など)。網羅的に見ていないが、この名称不明冠(左前方として横から見ると梁の部分が「h」になっている冠)は後漢から見て昔の情景を描くときの画像によく見られる。他の画像石をみると、例えば「武梁祠西壁 神話故事、出行畫像」(後漢、武氏祠武梁祠、管理番号B02-02)だと、「呉王」と銘打たれた人が着けている冠にこの名称不明冠が使われている。後漢代には使われていない想像上の冠なのかな?(林 巳奈夫/編『漢代の文物』では「名称不明冠」として出てくる)
 また他の鮮明な画像石を参考にすると右の人の腕からでているものは「几」というやつで、正座して足が痺れないようにもたれかかる家具だ。


※関連記事 佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年)

三国創作のための『儀礼』メモ


  • 2007年10月26日(金) 21:24 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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    12,900
歴史 『儀礼I 別冊図』の中身 以前、三国創作における冠などかぶりものに関して「最低限、進賢冠と武冠が描かれていればリアリティが増すのかなぁ」と強引な説を書いてみた(下記リンク先)。

・メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」
http://cte.main.jp/newsch/article.php/641

 それで今度は建物について強引なことを書く。最低限、「堂」が描かれていたらリアリティが出るのかなあ、と思っている。
 「堂」とは建物の部分の名称で、地面より高い位置にある台で、その三方が「室」など他の建物の部位に繋がっているのに対し、その南面には壁がなく開けている(逆に「北堂」は北側が開けている)。南側から堂の上にアクセスするには南面の東と西にある階段を使う。つまり階段を使って地面から堂の上へ昇る。また「殿」は『説文』に「堂の高大なる者なり」とあり基本的に堂と同じ構造なんだろう。堂の子孫だろうなと思えるものが今でも神社仏閣(それに舞台も?)に見られる。
 こういった堂は後漢時代あたりの明器によく見られる題材となっている。

※参照(と言ってもほとんど関連性はないが)
・中国古代の暮らしと夢
http://cte.main.jp/newsch/article.php/317

 それで何で「堂」かというと、多くの日常的な活動の舞台となっているからだ。

 少々、遠回りになるが、以下、ここに至るまでの説明。
 当時の社会風俗を知ろうと思えば、墓から出土された明器や畫像石・畫像磚に描かれたものを参照・適合にしながら、文献を読み解いていけば良いんだろう。こっちは三国志ファンなもんだから、当時の文献で真っ先に思い付くのが『三国志』や『漢書』『後漢書』などの史書になっちゃうんだけど、それはあくまでも歴史のトピックスが書かれていて日常的なことが書かれることは希になる。強いて言えば『後漢書』の志の部分かな、禮儀志や輿服志があるし。そこで史書以外で社会風俗がよく書かれている当時の文献は何かと行き着いたのがいわゆる三礼。三礼とは経典の『周礼』『儀礼』『礼記』のことで、『三国志』中にも数例その単語が見られ、有名どころでは『後漢書』盧植伝で「作尚書章句・三禮解詁。」とあり盧植が三礼の解詁を作ったことが書かれている(『字通』CD-ROM版によると「解詁」→「訓詁」で「字義の古今を解く。」とのこと)。このうち、ごく簡単に書くと(※というか私の理解が乏しいので簡単にしか書けない)、『周礼』は制度について書かれてあり、『儀礼』は礼に関する行動が細かく書かれてあり、『礼記』は『周礼』と『儀礼』との両方の性格を併せ持っているとのこと(自転車で喩えるとロードレーサーとMTBとの両方の性格を持つクロスバイクといったところか。悪く言えばどっちつかずとも言うが)。
 三礼のうち、当時の社会風俗を具体的に浮き彫りにしているのは『儀礼』だろう。もっとも経典なので教科書的で礼として理想化されてそうだが、それを差し引いてもよく当時の様子をよく残していると思っている。そういう考えで『儀礼』の訳註を探し大手書店に行ったものの見つからない。書店の検索端末で「儀礼」と検索すると、普通名詞の「儀礼」を持つタイトルが並んだため、『儀礼』が見つかりにくい。ようやく『儀礼』が見つかったものの在庫無し。仕方ないので、『礼記』の訳註(明治書院の新釈漢文大系シリーズ、原文、書き下し、通釈、語釈)に目を通すと、冠婚葬祭の個々の人の行動は元より、宴会や食事の様子まで書かれていて、これでも目的の多くは達せられると思い、暇があれば目を通していた。そこには具体的に細かく書かれているんだけど、冒頭で書いた堂をはじめ、稽首、答拜、揖やら簟やら馴染みのない単語が出てくる。もちろんこれらは語釈に解説があるもののどうもイメージとしては想像しにくい。これを三国志ファンにもわかりやすく喩えると『三国志』蜀書[广龍]統伝の注に引く『襄陽記』に「孔明毎至其家、獨拜牀下、徳公初不令止」とあっても孔明がしていた「獨拜」がどんなものか「牀下」がどんなところなのかそれぞれの単語を知った上でさらに全体像を掴むことに似ている。

<参照>「牀」 三国志の筑摩訳本を読む
http://cte.main.jp/newsch/article.php/221

 まぁ『三国志』自体もそうだけど、「どうせだったら『ヴィジュアル礼記』なんかあったら便利だなあ」と思っていた。

 そんなおり、図書館で見かけたのが池田末利/訳註『儀礼』(東海大学古典叢書)。『礼記』より『儀礼』の訳註を探していたことをすっかり忘れていたんだけど、試しに全四巻のうち一巻、つまり『儀礼I』を借りることにする。箱入りのハードカバーで同じ箱には『儀礼I 別冊図』として訳註とは別の冊子があり、そこには折り込みで45枚の図がある。どんな図かというと建物の平面図(ほとんど堂が描かれてある)があり、それぞれには『儀礼』の本文に対応した人物の配置や人物の行動が描き込まれている。それが右上の写真(少々分かりにくいが、図があってそこに文字があれこれ書き込まれているという雰囲気だけでも)。立体ではないにせよ、まさしくヴィジュアルなのだ。
 それで『儀礼I』の冒頭にある「自序」を読むと、こういった「空間的に再構成」することは『儀礼』を理解するために必要と考えられているようで、その例として「台湾の孔徳成氏等の儀礼グループでは十六ミリの映画を使用していると聞く」(※本来は旧字体で書かれているが表示の都合上、書き替える、以下、同じ)やら「さらに、焦循は十七篇のうち喪服・士喪・既夕・士虞礼を除く十三編については「習礼格(※「すごろく」とルビ)」を作って習うことを述べている。則ち、朝廟や庠に門・階・堂などを記入した紙の奕秤(※二字合わせて「ばん」とルビ)を作って、それぞれ人物・器物、それに揖・拝などの行動を示す棋(※「こま」とルビ)を木か石で種別に作り(後略)」やらが出ている。部外者だから無責任にここらへんはお人形ごっこを連想し、笑ってしまうんだけど。器物図は聶崇義/撰『新定三禮圖』に拠っているとのことなので、『中国社会風俗史』同様、畫像磚石・俑などの出土史料に基づいている訳ではないので注意が必要かな。
 さて『儀礼』に目を通し新たな発見が楽しみだ(その前に『礼記』に目を通し終えたいところだけど・汗)

 こういうふうに堂は当時の日常生活で重要な場所なんだけど、三国創作において堂を描いたのは良いが、堂上で「踞する」描写をしてしまってはリアリティが台無しになってしまうのでそこらへんは注意が必要となる。

・メモ:踞牀
http://cte.main.jp/newsch/article.php/485

<2008年7月14日追記>

・池田末利/訳註『儀礼』(東海大学古典叢書)

巻の内訳

儀禮I
 士冠禮 士昏禮 士相見禮 郷飲酒禮 郷射禮

儀禮II
 燕禮 大射儀 聘禮 公食大夫禮 覲禮

儀禮III
 喪服

儀禮IV
 士喪禮 既夕禮 士虞禮

<追記終了>


※関連記事 佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年)

※追記 メモ:東漢人多為舉主行喪制服

10月16日は霊帝が無上将軍を自称した日


  • 2007年10月16日(火) 00:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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歴史 後漢書卷八 孝靈帝紀第八によると

(中平五年冬十月)甲子、帝自稱「無上將軍」、燿兵於平樂觀。

(西暦188年10月16日に帝自ら「無上将軍」を称し、平楽観において兵を輝かせた。)

とのことで中央研究院兩千年中西暦轉換で西暦(といっても日付は旧暦のまま)に変換すると、後漢の霊帝(劉宏、33歳)は西暦188年10月16日に「無上将軍」を自称したとのこと。今年で1819周年、来年に1820年という節目を迎える……と言っても来年、何かあるというわけではなさそうだが。
ちなみに霊帝は翌年の4月丙辰(11日)に34歳で亡くなったんだけど、その間に「無上将軍」として何かしたというわけではなさそうだけど。
同時期に設立された西園八校尉には一応、動きがある。同年十一月に八校尉の一人、下軍校尉の鮑鴻は葛陂賊討伐にあたる。ところがそこで横領したせいか(後漢紀より)、翌年の三月、獄に入り死んでいる。

<関連>閏1月28日は司馬師の命日
http://cte.main.jp/newsch/article.php/514

 4月11日は霊帝崩御の日