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画文帯環状乳神獣鏡 一般公開(2012年8月5日)


  • 2012年8月 4日(土) 00:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,282
歴史 8月1日の夜のニュースで知ったこと。

・上牧町ホームページ
http://www.town.kanmaki.nara.jp/

・画文帯環状乳神獣鏡が出土|上牧町ホームページ (※上記サイトインフォメーション)
http://www.town.kanmaki.nara.jp/information/%E7%94%BB%E6%96%87%E5%B8%AF%E7%92%B0%E7%8A%B6%E4%B9%B3%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1%E3%81%8C%E7%99%BA%E8%A6%8B

上記地方行政のサイトの上記インフォメーション・ページによると、奈良県北葛城郡上牧町(※難読地名の一つだと思うけど「きたかつらぎぐん かんまきちょう」と読む)の久渡(くど)古墳群にて画文帯環状乳神獣鏡が出土したということが2012年8月1日に報道された。そのため、2012年8月5日日曜日10時から15時まで奈良県北葛城郡の上牧町文化センター(ペガサスホール) ロビーにて画文帯環状乳神獣鏡が一般公開されるという。

1月18日は姜維、鍾会の忌日


  • 2012年1月18日(水) 00:00 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,665
歴史 ※関連記事 12月24日は呂布、陳宮、高順の忌日

上記関連記事の続き。

※関連記事 サイト「同人用語の基礎知識」で三国志関連

上記関連記事でも追記したように、下記サイトの下記ページを見ると、姜維(字伯約)の生没年で「202年~264年3月3日」としている。

・同人用語の基礎知識
http://www.paradisearmy.com/doujin/

・打ち間違い消し忘れ/ 同人用語の基礎知識
http://www.paradisearmy.com/doujin/pasok_umkw.htm

これの確認を取ろうと率直に『三国志』巻四十四蜀書姜維伝を見ると、

(景耀六年、紀元263年以降の記述)魏將士憤怒、殺會及維、維妻子皆伏誅。
<訳>魏の将士は憤怒し、鍾會(鍾会)及び姜維を殺し、姜維の妻子は皆、誅に伏した。

となり、特に没年月日の記述はない。一方、生年に目を向けると同伝で、

(建興六年、紀元228年の記述)亮辟維為倉曹掾、加奉義將軍、封當陽亭侯、時年二十七。
<訳>諸葛亮は姜維を召し倉曹掾にし、奉義將軍を加え、當陽亭侯に封じ、時に年二十七だった。

とあるので、当時は年号と同じく数え年だから、生年は紀元202年となる。
ここで共に殺された鍾會に着目し、『三国志』巻二十八魏書鍾会伝を見ると、

(景元五年、紀元264年一月の記述)十八日日中、烈軍兵與烈兒雷鼓出門、諸軍兵不期皆鼓譟出、曾無督促之者、而爭先赴城。(中略)姜維率會左右戰、手殺五六人、衆既格斬維、爭赴殺會。會時年四十、將士死者數百人。
<訳>景元五年一月十八日の日中に、烈しい軍兵と烈しい児は鼓を叩き門を出て、諸軍兵は皆、騒ぎ出る時を定めず、すなわち督促の者が無く、先を争い城に赴いた。(中略)姜維は鍾會の左右を率い戦い、自ら五、六人を殺し、衆は皆戦い姜維を斬り、争って鍾會を殺しに赴いた。鍾會は時に年四十で、将士の死者は数百人だった。

とあり、姜維字伯約の没年月日(忌日)は紀元264年1月18日で、享年63歳(数え年)だと判る。生年は前述の通り紀元202年なので、今年は生誕1810年だね。
一方、鍾會字士季の没年月日(忌日)は同じく紀元264年1月18日で、享年40歳(数え年)であるため、生年は紀元225年と判る。

12月24日は呂布、陳宮、高順の忌日


  • 2011年12月24日(土) 00:01 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    5,425
歴史 ※関連記事 8月28日は張讓・段珪の忌日

上記関連記事の続き

・青木朋HP++青青
http://aoki.moo.jp/


・陳羣の年齢について  (※上記ブログ記事)
http://blog.aoki.moo.jp/?eid=1489314

上記サイトの上記ブログ記事のコメント覧にあるように、陳羣やその父の陳紀に生没年が気になり、あれこれ文献に当たると下記の記述に行き当たる。

・『三国志』巻十一魏書袁渙伝注所引『袁氏世紀』
布之破也、陳羣父子時亦在布之軍、見太祖皆拜。渙獨高揖不為禮、太祖甚嚴憚之。

※「拜」と「揖」の参照記事 三国創作のための拝メモ

少なくともこの時点で「陳羣父子」は生きていると思い、「布之破也」、つまり呂布が敗れた年はいつだったか探す。手っ取り早いのはその頃になると記述が少なくなる『後漢書』本紀だと思い、見てみると次のような記述だった。

・『後漢書』紀九孝献帝紀
(建安三年、紀元198年)十二月癸酉、曹操撃呂布於徐州、斬之。

「建安三年十二月癸酉」は下記サイト「中央研究院兩千年中西曆轉換」によると、紀元198年12月24日(もちろん旧暦)だと言う。

・中央研究院兩千年中西曆轉換
http://sinocal.sinica.edu.tw/

この日付は「曹操撃呂布於徐州」に掛かっている可能性もあるが、それに相当する記述で『三国志』巻七魏書呂布伝に「太祖塹圍之三月」とあり、少なくとも三ヶ月間も臨戦状態にあったため、よりピンポイントな出来事となる「斬之」、つまり呂布が殺された日付に掛かっているのだろう。加えて、『三国志』巻七魏書呂布伝には次のような記述がある。

於是縊殺布。布與宮・順等皆梟首送許、然後葬之。
<清岡による訳>ここにおいて、呂布を絞殺した。呂布と陳宮、高順等は皆、さらし首になり許へ送り、その後でこれを葬った。

つまり、12月24日は呂布、陳宮、高順の忌日だ。

※追記 1月18日は姜維、鍾会の忌日

※追記 12月24日は陳羣の忌日

※追記 京都で哲舟さんを囲む会(2013年2月5日)

三国統一(280年3月15日)


  • 2011年3月15日(火) 21:44 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,987
歴史  『三国志』巻四十八呉書三嗣主伝(孫皓伝)では下記のような記述がある。

・『三国志』巻四十八呉書三嗣主伝
 (天紀四年三月)壬申、王濬最先到、於是受皓之降、解縛焚櫬、延請相見。

<清岡訳>
 天紀四年(紀元280年)三月壬申、王濬は最も先に到り、これに於いて孫皓の降伏を受け、わかち縛り櫬(ひつぎ)を焼き(降伏の礼)、連なって対面するのを請うた。

とのことで、呉の皇帝の孫皓は晋に降伏したのは紀元280年3月で、日付は「壬申」になる。これは十干十二支と呼ばれる一周六十日の表記で、中央研究院兩千年中西暦轉換を見ると、紀元280年3月に「壬申」はない。
 そこで晋側の記述、『晋書』巻三武帝紀を見てみると、

・『晋書』巻三武帝紀
 (太康元年)三月壬寅、王濬以舟師至于建鄴之石頭、孫皓大懼、面縛輿櫬、降于軍門。

<清岡訳>
 太康元年(紀元280年)三月壬寅(15日)、王濬は舟師で建鄴の石頭に至り、孫皓は大いに大いに懼れ、面縛し(後ろ手に縛り)、櫬(ひつぎ)を車に乗せ(降伏の礼)、軍門に降った。

となっており、さらに「三月壬寅」に次のように注が入る。

 三月壬寅至石頭「壬寅」、各本皆作「壬申」。按:三月戊子朔、無壬申。校文云、王濬傳載濬入石頭後上書有「以十五日至秣陵」語、十五日為壬寅、則「申」當為「寅」字之誤。今據改。

<清岡訳>
 三月壬寅、石頭に至る「壬寅」は、各本は皆、「壬申」に作る。按じるに、三月戊子が朔(一日)であり、壬申は無い。校文に言う、王濬伝は王濬が石頭に入った後に上書に「十五日を以て秣陵に至る」の語が有り、十五日は壬寅とすれば、則ち「申」は「寅」字の誤りとすべきである。

メモ:成人、元服、加冠


  • 2011年1月10日(月) 23:51 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,031
歴史  今日が「成人の日」なんだけど、三国時代辺りではどの日なのか参考になるのが、『続漢書』志四礼儀志上の

正月甲子若丙子為吉日、可加元服、儀從冠禮。

と言う記述だ。つまり一月の甲子の日もしくは丙子の日に元服し(成人し)、冠礼の儀を行うため、毎年、同じ一月だが同じ日にはならない。

8月28日は張讓・段珪の忌日


  • 2010年8月29日(日) 19:58 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,987
歴史 ※関連記事 8月27日は何苗の忌日

上記関連記事の続き。

8月28日は張讓・段珪の忌日、あるいは卒去した日。勿論、例の如く旧暦(※追記。2013年10月26日に「中央研究院 兩千年中西曆轉換」で確認して「29日」から「28日」に訂正)。
下記に引用するように『後漢書』列伝六十八宦者列伝で十二人の中常侍(宦者の官職)に挙げられた内の二人だ(光和七年、紀元184年の記述)。ちなみに史上、「十常侍」はここの張鈞(『後漢紀』では「張均」)に関する記述でしか見られないが、白話小説『三国演義』に採用されたため、実際の官職「中常侍」より有名になっている。

・『後漢書』列伝六十八宦者列伝
是時讓・忠及夏惲・郭勝・孫璋・畢嵐・栗嵩・段珪・高望・張恭・韓悝・宋典十二人、皆為中常侍、封侯貴寵、父兄子弟布列州郡、所在貪殘、為人蠹害。黃巾既作、盜賊糜沸、郎中中山張鈞上書曰:「竊惟張角所以能興兵作亂、萬人所以樂附之者、其源皆由十常侍多放父兄・子弟・婚親・賓客典據州郡、辜榷財利、侵掠百姓、百姓之冤無所告訴、故謀議不軌、聚為盜賊。宜斬十常侍、縣頭南郊、以謝百姓、又遣使者布告天下、可不須師旅、而大寇自消。」

そんな張讓と段珪は下記に引用するように、少帝と陳留王を連れ去り雒陽城を北へ出て、河水まで出たものの追い詰められ、紀元189年8月28日(光熹元年八月辛未)に河水で投身し亡くなる。この後、董卓が少帝と陳留王を護衛し雒陽城に帰って専政に向かうといった流れ。

・『後漢書』紀八孝靈帝紀
(光熹元年八月)辛未、司隸校尉袁紹勒兵收偽司隸校尉樊陵・河南尹許相及諸閹人、無少長皆斬之。讓・珪等復劫少帝・陳留王走小平津。尚書盧植追讓・珪等、斬數人、其餘投河而死。

※追記 12月24日は呂布、陳宮、高順の忌日

8月27日は何苗の忌日


  • 2010年8月28日(土) 14:54 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,793
歴史 今日8月27日は何苗の忌日、あるいは卒去した日。勿論、例の如く旧暦。
何苗は元の姓が朱で、『続漢書』志十三 五行一に「皇后同父兄何進為大將軍、同母弟苗為車騎將軍、兄弟並貴盛、皆統兵在京都。」とあり、何進が何皇后の同父の兄、何苗が何皇后の同母の弟であるため、何苗は何進の血の繋がらない弟ということになる(※追記。2013年10月26日に「中央研究院 兩千年中西曆轉換」で確認して「28日」から「27日」に訂正)。

・『後漢書』紀八孝靈帝紀
(光熹元年)八月戊辰、中常侍張讓・段珪等殺大將軍何進、於是虎賁中郎將袁術燒東西宮、攻諸宦者。庚午、張讓・段珪等劫少帝及陳留王幸北宮德陽殿。何進部曲將呉匡與車騎將軍何苗戰於朱雀闕下、苗敗斬之。

※関連記事 8月25日は何進の忌日

上の漢文にも書かれているけど、上記関連記事で書いたように紀元189年8月25日(光熹元年八月戊辰)に何進が宦官の中常侍の張讓・段珪らによって殺害された。その二日後(庚午)に、その部曲の将の呉匡が何苗を素より怨んでいて、宦官と共に謀ったと疑い、北宮の朱雀闕の下で戦い、何苗を殺害したという流れ。

※追記 8月28日は張讓・段珪の忌日

リンク:洛陽邙山陵墓群考古工作獲重要新發現(2010年5月17日)


  • 2010年5月18日(火) 00:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,875
歴史 ・河南文物网
http://www.haww.gov.cn/

・洛阳邙山陵墓群考古工作获重要新发现  (※上記サイト記事)
http://www.haww.gov.cn/html/20100517/596427.html

※リンク追記
・曹休墓七问  (※上記サイト記事)
http://www.haww.gov.cn/html/20100518/825959.html

まずは2010年5月17日の写真付きの発表記事(情報源)へリンク。
曹休の墓だって。上記リンク先の記事に画像がある「曹休」と書かれた私印が証拠だとのこと。
高速道路の工事の際、見つかって、上記リンク先で画像もある「鎏金铜带钩」(※よくバックルと訳される・笑)をはじめ、「主要有陶器、铜器、铁器等。陶器有四系罐、碗、盘、尊、耳杯等。铜器有铺首、鎏金铜带钩、泡钉、铜印,铁器有铁蒺藜、勾、镜、刀削」(上記リンク先より)と文物がたくさんあって興味深い

※関連記事 リンク:曹操高陵在河南得到考古確認(2009年12月27日)

※追記 三国志ミステリー 覇王・曹操の墓は語る!(2010年6月12日)

※追記 関野貞資料と墳墓の世界(2011年3月2日)

※リンク追記
・睡人亭日常
http://www.shuiren.org/blog/

・曹休の墓発掘される  (※上記ブログ記事)
http://www.shuiren.org/blog/2010/05/19/

リンク:曹操高陵在河南得到考古確認(2009年12月27日)


  • 2009年12月27日(日) 19:22 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    7,213
歴史 ・枕流亭ブログ
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/

・曹操の墓キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!  (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20091227/p1
<追記>曹操の墓キタ━つづき  (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20091228/p1
<追記>曹操の墓キタ━まだつづくんじゃよ  (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20091230/p1
<追記>「曹操の墓」に陪葬されたふたりの女性について  (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100101/p2
<追記>安陽の「曹操の墓」が冉閔の墓だという説について  (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100120/p1
<追記>曹操の墓の石碑に「トイレ」  (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100125/p1
<追記>曹操の墓から出土した石碑が偽作との説  (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100825/p1


 上記ブログ記事で知る。
 魏武王高陵(つまり曹操の陵墓)が発見されたという報道が2009年12月27日にあったとのこと。例えば(というより写真入りでの情報源の一つは)下記の「河南文物网」のページとか。

・河南文物网
http://www.haww.gov.cn/

・曹操高陵在河南得到考古确认  (※上記サイト記事)
http://www.haww.gov.cn/html/20091227/153670.html

 ここまで明白だと素人考えながら返って疑ってしまう。まずそれだけ銘(石牌)が出ているのに年月日の書かれたものがないこと(加えて、それだけに根拠を集約させていること)、画像石に描かれたモチーフが、後漢の典型すぎて既視感があること。続報が出ないままってことにならなければ良いけど。
 ちなみに史書上では次の記述ね。

・『三国志』巻一魏書武帝紀建安二十五年春正月条

庚子、王崩于洛陽、年六十六。遺令曰:「天下尚未安定、未得遵古也。葬畢、皆除服。其將兵屯戍者、皆不得離屯部。有司各率乃職。斂以時服、無藏金玉珍寶。」諡曰武王。二月丁卯、葬高陵。

※追記<訳>庚子(紀元220年1月23日)、王は洛陽で崩御し、年六十六だった。遺令に言う。「天下はなお未だ安定せず、未だ古にしたがい得ない。葬が終われば、皆、服喪を止めろ。その将兵屯戍者は皆、屯部を離れるな。有司は各々、汝の職を修めろ。季節の衣服を(柩に)収め、金玉珍宝を(陵墓)に収めるな」 諡(おくりな)は武王と言う。二月丁卯(紀元220年2月20日)、高陵に葬る。(※清岡コメント。今さらだけど、『禮記』王制に「天子七日而殯.七月而葬.諸侯五日而殯.五月而葬. 大夫士庶人三日而殯.三月而葬」とあって、天子であれば七ヶ月後、諸侯で五ヶ月後、大夫、士、庶人でも三ヶ月後に葬るんだけど、戦時とあってか一ヶ月未満と早いね)


 ちなみに下記関連記事にあるように1977年3月に陳思王墓(曹植墓)と遺骨が発見されているので、曹操のものと期待されている亡骸とDNA照合できないかな、とひそかに期待している。

※関連記事 メモ:『魏晋南北朝壁画墓の世界』

 それと伝世文献史料では、下記の『資治通鑑』の胡三省注にあるように、今回の記事にある河南省安陽県と違って、河北の鄴城の西に曹操高陵があることになっている。「西門豹祠」がどこにあるかがネックだそうな。
(※訂正。違ってない。Googleマップで確認すると今回の安陽縣安豐郷西高穴村は鄴城の西、さらには西門豹祠の西の位置にある)

・『資治通鑑』巻第六十九魏紀一黄初元年二月条(胡三省注)

丁卯、葬武王于高陵。(高陵、在鄴城西。操遺令曰:汝等時時登銅雀臺、望吾西陵墓田。魏紀載操令曰:規西門豹祠西原上為陵。)

※追記<訳>丁卯(紀元220年2月20日)、高陵において武王を葬った。(高陵は鄴城の西にある。曹操の遺令に言う。「汝らはおりおりに銅雀台に登り、吾の西陵墓の連なりを望め」 魏紀に載る曹操の令に言う。「西門豹祠の西の原の上を則り陵となせ」)


<追記>
それで中国情報局(サーチナ)で早速、日本語記事が出ているね。さすが仕事が早い。下記サイトで「曹操」で検索すれば、「三国時代「曹操の墓」発見か、カギとなる石牌を確認―河南省」という「2009/12/27(日) 19:23」付けの記事が出てくる。

・アジアへの扉、サーチナ。
http://searchina.ne.jp/

リンク:国学導航 四部索引


  • 2009年11月 1日(日) 00:03 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,642
歴史 ※関連記事 第33回 秋の古本まつり(京都古書研究会)

 上記関連記事にあるように「第33回 秋の古本まつり」に行っていて、仏教関連に力を入れている古書店が結構、あった。そこで何となく下記の関連記事で触れた『高僧伝』があったら良いな、とぼんやり思いつつ本棚を眺めていた。

※関連記事 高僧伝(一)(2009年8月18日)

 三密堂書店のところで鎌田茂雄/著『中国仏教史』 (岩波全書 310)が2000円で売られていて、中身をちょっと読んだけど、『後漢書』やら『三国志』やら史書の記述に基づいている感じだったから(当たり前だけど世の中にはこれができてないのもあるので)、買おうか迷っていた。

 よくよく考えてみると、例え『高僧伝』があっても、三国時代前後の記述ぐらいしか読まないだろうから、猫に小判だろうし、何か買うのを思いとどまる。
 と言うのも、あるアイディアを思い付いており、ノートPCを起動し、ローカルに保存した『太平御覧』で「高僧傳」と検索し、そこに出てくる文を検索語句にして、ネットで検索する。それは下記の関連記事にある方法の応用だ。

※関連記事 リンク:中国盲人数字図書館 電子図書

 そうすると、下記のように、サイト「国学導航」が出てくる。

・国学导航-中国国学经典在线阅读-免费的手机国学网
http://www.guoxue123.com/

 とりあえず[梁]慧皎撰『高僧伝』巻一をざっと読むと、康僧會のところで孫権が出てきてたり関連性がありそうだ。