・「長沙呉簡の世界」ノート2からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/425
○報告III(11:50~12:25):町田隆吉(桜美林大学)「長沙呉簡よりみた戸について-三国呉の家族構成に関する初歩的考察-」
11時54分スタート。予稿集7ページ、レジュメ12ページ、共にA4サイズ。
本報告は長沙市文物考古研究所・中国文物研究所・北京大学歴史学系走馬楼簡牘整理組編『長沙走馬楼三国呉簡』竹簡〔壹〕(上、中、下)(文物出版社、2003)から伊藤敏雄先生が中心となってつくったデータベースをもとにした研究について。
1. はじめに
※この数字付きの小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。
『漢書』食貨志に「五口之家」という記述。中国古代の農民の家族というのは五人家族。では具体的な家族はどうだったか?
しかしながら、走馬楼の呉簡にはたくさんの名籍(竹簡)が含まれている。竹簡は編綴の紐が腐食してバラバラになっており、それを可能な限り元に戻すことで、三国呉の農民の「戸」が再現できる安部聡一郎さんの研究(「長沙呉簡にみえる名籍の初歩的検討」(『長沙呉簡研究報告』第2集、2004)など)や關尾史郎さんの研究など先行する研究を踏まえ、名籍の表記、竹簡の簡番号(出土時の位置関係)、竹簡の形状(編綴痕の位置)、書体などからより確度の高い復元を試みた。こういう「戸」の復元に基づき、三国呉の農民の家族構成を視覚的に示し、家族構成の特徴を考察。
2. 長沙呉簡名籍の検討
いくつかの時代が混ざっている。レジュメ1ページ末の胡禮という人物を例に。六年の開きがある。「師佐籍」「烝嚢」の場合、時期が同じという例。
(1)名籍にみえる「戸」と「家」
※この括弧数字付きの小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。
「戸」や「家」はどういう意味か。「夏隆」という人物を例に。
民籍では冒頭の「戸人」に「戸」を代表(→「…戸人公乘夏隆…」)。集計簡の「家」の字に「戸人」の名を冠し、その下に家に居住する人数(「口」)と資産評価額(「[此/言]」)を記す(→「右隆家口食九人 [此/言] 一 百」)。つまり「戸」とは「戸人」某に代表される「家」であり、そして「同居」と観念される。
※清岡注。予稿集やレジュメに出ているのは復元後の釈文。例えばこの「夏隆」の例だと一行が一つの竹簡に対応していて、左横に「9090/9165/9213/9217…」など簡番号が打たれている。「口食九人」となっていて、実際、9人の一人一人の竹簡に書かれた個人情報があるが、うち3人は見つからなかったとのこと。
この名籍に多様な親族姻族が含まれていて、その続柄をこれから紹介。続柄の表記は必ずしも統一されていないとのこと。予稿集に続柄の多くの例が整理され書かれている。ここで気をつけないといけないのは「妻」が名前の場合があるんで単に検索しただけでは駄目。
(2)名籍の書式
名籍では冒頭に「戸人」の名、そのあとの家族の部分では妻や最初の子どもを除くとそれ以降「戸人」の続柄ではなく直前の記載者の関係を示す書式(※清岡注 例えば先の「夏隆」の例だと「9165 隆子男帛年十一」「9213 帛男弟燥年八歳」「9217 燥男弟得年六歳」 )。これと同じ書式は紙形式(敦煌発見の「西涼建初12年(416年)正月籍」(紙)、楼蘭発見の「晋[4世紀?]楼蘭戸口簿稿」(紙))にも継承されている。池田温先生によると、こうした書式の前提には木簡名籍の存在を想定。簡がバラバラになったり順序が前後しても原型に復しやすいようにするためと推測。長沙呉簡はそういう推測を裏付ける。では言葉の使い方は前後の史料でどうなっているか?→レジュメ2~3ページ
例えば、前漢景帝2年(BC155)では「戸人」、前漢永光4年(BC40)では「子少女」(子○○)、後漢建寧4年(171)では戸人、子○○。後漢光和6年(183)では「女替、替弟建、建弟顔、顔女弟」。晋[4世紀?]楼蘭戸口簿稿では前の行のを受ける形式で「息男奴□…」「□男弟□得…」「得□□阿罔…」。4ページの「西涼建初12年(416年)正月籍」でも同じだが、西魏大統13年ではそういう書式が消え戸人との続柄になる。プリントでは表にまとめてある。(その表を見ながら)走馬楼までは「戸人」、晋楼蘭と西涼建初は書いてない。西魏大統では「戸主」。子どもに関しては走馬楼までは「子男/子女」等、晋楼蘭からは「息男」等。
(3)名籍にみえる戸人と戸数・口数
戸人に関して年齢別、男女別に統計をとったものがレジュメの5ページに記されている。表1 長沙呉簡の名籍中の戸人の年齢分布(総数406人) 男子391人、女子15人。最年少の戸人(男)13歳(漢籍番号2951)大女33歳、最年長85歳老女81歳。
さらに次の表では口数の分布。表2 長沙呉簡名籍にみえる口数と戸(477戸) 中心は口数が5人よりやや少ないところにくるとのこと。ちなみに『太平広記』に基づく唐代庶民層の家族規模3.9人に近い。
3. 戸(同居家内集団)に対する初歩的考察
復元した戸に基づいた図式化の話。予稿集では3ページに渡り6例、レジュメの方には9例あり、それぞれ釈文(簡番号あり)と家系図のような家族関係を図示したものがある。この図示は戸人簡がなくても残存したものから推測したものを含んでいる。
まず予稿集。単純家族世帯、拡大家族世帯、拡大家族世帯(戸人簡なし)、多核家族世帯の例について説明していき、それから非家族世帯、兄弟の同居+その他の親族[叔父、従小父、従兄]の同居の例、非家族世帯、兄弟の同居+その他の親族[寡婦と子ども]の同居の例
他の時代との比較。例えば西涼建初12年(416)籍。レジュメの9ページに記載。そうするととりわけ妻の親族や兄弟の寡婦およびその子を含んでいる世帯の存在などは他の時代の戸籍にはほとんどみられず、呉簡名籍の特徴がわかる。孫呉政権には相互扶助的な機能を有する世帯を前提とした戸口編成をおこなっていたようにみえる。
ここでレジュメ8ページへ。「三国時代の呉地域や越族特有の女系を含む家族形態が名籍に反映されている可能性」【小林 2005】 後漢時代長沙郡における嬰児殺し(『北堂書鈔』巻75謝承『後漢書』) 長沙太守となった宗慶という人物は民が子を殺すことを禁止し、年間で子を養う人は三千人あまりとなって、その年、男女はみな、宗を名とした。ここで注目するのは、この土地の人口に対する耕地の狭さ(嬰児殺し)→相続における耕地の細分化を回避する必要性(つまりそれが拡大家族世帯、多核家族世帯、非家族世帯の多さに関わる?)。後漢豪族の同族内の相互扶助の例。後漢崔寔『四民月令』9月令。
4. むすびにかえて
民籍の他に師佐籍がある。レジュメ8ページに師佐籍の例があり、それはみかけは1つの単純家族世帯で実体は2つの単純家族世帯(同居していない)。レジュメで資料をつけたのは、唐西州戸籍・手実 こういった時代の比較も重要。
12時30分終了。
時間がおしているので、午後は13時40分スタートとのアナウンス。
○昼食・休憩(12:25~13:30)
予稿集やレジュメとともに「日曜日に営業している食堂」というB5一枚のプリントも配られていて、それを元にどこか行こうと思ったけど、結局、そこには載っていなかった近くの喫茶店で食事した。
・「長沙呉簡の世界」ノート4へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/448
・「長沙呉簡の世界」ノート1からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/421
○報告II(11:10~11:45):小嶋茂稔(東京学芸大学)「後漢孫呉交替期における臨湘県の統治機構と在地社会-走馬楼簡牘と東牌楼簡牘の記述の比較を通して-」
11時7分スタート。予稿集4ページとは別にA4の7ページのレジュメ。予稿集を読み上げる形で報告をすすめていくとのこと。主に走馬楼簡牘と東牌楼簡牘の比較の報告。
緒言
※この小タイトルは予稿集の写し
日本の長沙呉簡研究会の「長沙呉簡研究報告」第1集・第2集や羅新先生がお勤めになっている中国の北京大学の北京呉簡研討班の『呉簡研究』第1輯・第2輯などにより広く学界に共有。
しかし、走馬楼呉簡は文献史料との接点が極めて少なく、理解の共有化に至るには困難。一例として「丘」の問題。それまでの文献中心の研究から知られなかった「丘」という存在が走馬楼呉簡の研究の一つの軸になった。いまだ論者同士で議論が平行化。
少ないながらも文献史料と呉簡の接点を探ることで、従来の文献から得られた研究成果を活用するのもあり得る。「丘」について具体的には中国古代の地方行政制度史の研究蓄積を活用。
これまでの走馬楼呉簡から文献史料を凌駕する知見が得られていないが、見方をかえて孫呉政権下の臨湘において国家の統治統制が及んでいたことは間違いないため、そういった累積的な国家統治機構の延長上で「丘」をどうとらえるかという方法が可能。さらに後漢から孫呉で統治機構がどう変わったかというのも論点となりうる。
走馬楼近くに東牌楼簡牘(後漢末)が発見される。走馬楼呉簡には「官文書簡牘」と分類されるのが公開されていて、それに対する東牌楼簡牘でも行政機構間の職務上のやりとりの記録がある。二つの文書群と記載された内容を比較で機構の変容があったかどうか探ることができる。
以上のように、この報告は走馬楼簡牘と東牌楼簡牘の記述を比較検討しながら、従来の研究に依拠し、当時の臨湘県や長沙郡において実現していた国家統治の具体相を論じる。「丘」の問題を全面的にとりあげない。高村武幸先生・侯旭東先生の「郷」に関する研究、羅新先生の督郵に関する研究に学びながら、「郷」の問題を取り上げる。
1. 呉簡から見る孫呉期臨湘侯国下の郷
※この小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。
「郷」に関して、ここにいる人に説明不要だとおもうが、一応、プリント(レジュメ)1ページ目で文献に見られる「郷」をとりあげた。
孫呉政権期の臨湘侯国治下における「郷」のあり方について、高村武幸先生(「長沙走馬楼呉簡に見える郷」)と侯旭東先生(「長沙走馬楼三国呉簡所見“郷”与“郷吏”」)の「郷」に関する研究に依拠しながら紹介。
吏民田家[艸/別]の表題簡には「南郷」などの郷名があったが小型竹簡の公表でさらに多くの郷名を確認。代表的なものはレジュメに記載。都郷・北郷・西郷の「方角名+郷」以外にも広成郷・小楽郷などの郷名もあり。ちなみにこれらの郷が臨湘侯国に属するかは議論が分かれている。
走馬楼呉簡の「官文書簡牘」にも「郷」の字が数点みられる。それらは「勧農掾」と関係する内容がある。例として簡番号J22-2543(『文物』1999-5 彩版参-1 .戸籍)のところ。予稿集に釈文、レジュメにその書き下しが載っている。さらにレジュメに別の二つの記述の釈文とその書き下しが載っている。この勧農掾はどういうものなのか議論の余地あり。県吏? 漢代の郷嗇夫と同じとみるのは難しいが、漢代と孫呉期の郷とにそれほど大きな違いはなさそう。
レジュメにある二例目の簡番号J22-2546(『文物』1999-5 彩版肆 1 .戸籍)の「一人夜」や「四人真身已逸」となっている釈文は実際、小嶋先生が簡牘をみたら、それぞれ「一人被」、「四人真身已送」という可能性も感じたとのこと。
プリントの2ページ目に「呉簡に見える郷」という項目でまとめられている。
2. 呉簡から見る臨湘侯国と長沙郡の関係-督郵の存在から-
督郵の基本的な資料はプリントの3ページ目。漢代では郡吏として県の監察を掌握、監察区域は郡の内部でいくつかに区分。呉簡で督郵あり。羅新先生の研究(「呉簡所見之督郵制度」)がある。
呉簡に「中部督郵」が見られる。その他「東部」。租税徴収業務に何らかの関与→プリント3ページに抽出。督郵が長沙太守の指揮下にあったことを示すもの等
木牘(簡牘番号J22-2540 『文物』1999-5、彩版参)の方にも見られる。予稿集にその箇所が引用されている(プリントの4ページには書き下しあり)。郡吏である督郵と録事掾以下(県の属吏)の関係を考察。督郵の告発を受け、取り調べが行われていた。胡平生・李天紅『長沙流域出土簡牘与研究』(湖北教育出版社、2004)の611ページに中賊曹掾の陳曠が調査報告した事例の釈文あり(しかし督郵は出てない)。小嶋先生の考えでは告発までが督郵の仕事でそれから先の取り調べは別。
藤岡喜久男先生の研究(「督郵研究」)では督郵はまず属県への監察が先行(論拠は漢代でもっとも古い記述、漢書尹翁帰伝)。羅新先生の研究では郵便通信機関に対する監察が先行。
文献から見られないことで呉簡に見られたことは勧農掾の存在と勧農掾が県の指示で戸籍の照合等を行っていたこと。督郵の存在が明確に見られる。臨湘が中部督郵の監察下にある。
呉簡は「漢制の枠組みの継承」という点で格好の史料。東牌楼簡牘と比較することで深化した検討が可能。
3. 東牌楼簡牘に見える長沙郡と臨湘県
「東牌楼簡牘」は走馬楼のすぐ近くの長沙市東牌楼の古井から発見。木簡・木牘・封検・名刺・簽牌など。後漢霊帝期の年号が多く記される。ここでは最近、刊行された長沙市文物考古研究所・中国文物研究所編『長沙東牌楼東漢簡牘』(文物出版社、2006年4月、7-5010-1857-X)の釈読に従う。
ここで注目するのは次にあげる五つの点。
(1)臨湘県の「東部勧農郵亭掾」の名を記した「封匣」がある。→プリント4ページに記載。勧農掾と県との関係について考えを深化可能
(2)「監臨湘」の李氷と「例督盗賊」の殷何が起草した上行文章(簡牘番号五 1001号)→プリント4ページに記載、以下同じ。この二人が「中部督郵」の掾の檄を受けての文章。
(3)臨湘の県令(簡牘では「守令」)が上言した文章(簡牘番号一二 1105号)
(4)東牌楼簡牘に「丘」の記述あり。呉簡に見えない「度上丘」。呉簡にみれる「桐丘」。「丘」は霊帝期にも存在。小嶋先生個人としてはショックを受けたとのこと。
(5)様々な姓の記述。呉簡に見られる姓と共通のものが多い
その他、プリントの方に督郵の記述の資料。
孫呉政権は基本的に後漢からそのまま継承している。
報告終了
質問というより補足。プリント2ページの終わりの方。誤「5分の1」→正「7分の1」
・「長沙呉簡の世界」ノート3へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/428
※追記 歴史評論 2014年5月号 3世紀の東アジア――卑弥呼と『三国志』の世紀(2014年5月10日)
・2006年9月17日「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」ノートからの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/417
中国からの先生が到着するのを待つために5分押しでスタート。
まず総合司会の三崎良章先生から会場の注意事項についてアナウンス。
○開会挨拶(10:00~10:10):窪添慶文(お茶の水女子大学)
窪添慶文先生の挨拶。中国訳が逐次入る。長沙呉簡の紹介と研究の現状について。呉簡の全貌が明らかにされていないが、最近、北京大学を中心とした北京呉簡研討班による『呉簡研究』第2輯が刊行されたことなど。日本の長沙呉簡研究会のも含めた今までの研究の流れも紹介。あと、中国から来られた王素先生、宋少華先生、羅新先生、それから韓国からの朴漢済先生の一人一人の紹介。紹介ごとに先生が起立され、その都度、拍手。あと日本からの阿部幸信先生、小嶋茂稔先生、町田隆吉先生のご紹介。
○主旨説明(10:10~10:25):關尾史郎(新潟大学)
予稿集の1ページ目を開くように言われ、そこには「主旨説明」と銘打たれた文章が2ページに渡りあった。基本的にはそれを關尾史郎先生が読み上げていく。1996年に長沙市の中心街である走馬楼の工事現場の古井戸(J22)から大量の簡牘が見つかったことから始まり、その価値、影響や研究動向について解説され、その後、このシンポジウムで発表される報告について一つ一つ順に概略を述べられていた。
主旨説明が終わると拍手。
○報告I(10:30~11:05):阿部幸信(日本女子大学)「嘉禾吏民田家[艸/別]数値データの整理と活用」
予稿集とは別に資料があるA4の2ページの資料と附表が配られる。
はじめに
※この小タイトルは予稿集の写し
昨年の8月に行われた北京大学での長沙呉簡の国際シンポジウムでの日本側のデータベースの発表に中国側から強い関心が寄せられたので、それを受けての報告とのこと。
1.嘉禾吏民田家[艸/別]とは
※この小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。
まず田家[艸/別]の説明。50センチメートル前後の木簡で、面積に応じた租税額の計算と納税の確認が記録されているとのこと。それぞれの情報はすべて1枚におさまっている。記録された年度は嘉禾四年と五年(西暦235,236年)に集中しているとのこと。長沙のこの時期について詳細な情報が得られる。
その記載例が予稿集とレジュメに書かれている。記載例に項目ごとに順に番号が打たれていてその後、それぞれの意味するところが説明されている。「(1)丘名(2)身分(3)姓名(4)田地の総数……(30)銭の納入先(31)校閲日(32)校閲者の官職・姓名(名は自著)」といったようなこと。ここで予稿集とレジュメ両方間違っていると言うことで訂正。予稿集とレジュメは釈文(実物を見て解釈された文)に則って書かれたが、写真を見ると、違っていたとのこと。正「(32)田戸経用曹史趙野張惕陳通校」。訂正前は「用」が抜けていた
田家[艸/別]の性質としては今のところ不明とのこと。
2.数値データベースの紹介
データベースは簡番号、釈文、『嘉禾吏民田家[艸/別]』の掲載ページ(写真版・釈文)いうシンプルなもの。入力作業そのものは2001年に終了。しかし、釈文と写真版を比べるとあれこれ論ずる点が出てくる。例えば「丘ごとの納税者の偏り、年度ごとの記載情報の特徴」とか。こういったことはデータベースの副産物。
さらに進んで、データベースを検索システムにとどめず、数値化し、田家[艸/別]全体を分析・利用する手段にしようという動きが出てくる。
具体的には、阿部幸信・伊藤敏雄/編『嘉禾吏民田家[艸/別]数値一覧(I)』に載っている三つの数値一覧、(1)阿部幸信/編「嘉禾吏民田家[艸/別]田土額一覧」(2)伊藤敏雄/編「嘉禾吏民田家[艸/別]米納入状況一覧」(3)伊藤敏雄/編「嘉禾吏民田家[艸/別]における丘別・倉吏別米納入状況一覧」。この本のタイトルに「(I)」とあるのはまだ全部じゃなくごく一部で、全部は膨大な量とのこと。
続いて『嘉禾吏民田家[艸/別]数値一覧(I)』の作成の背景について。田家[艸/別]は木簡一枚ごとに完結したものなので、できるだけ多くの複数枚のデータを抽出して比較検討する必要がある。田家[艸/別]のように田地の状況と課税の過程が詳細に表れている史料はなく、さらにそれが2000点以上もまとまっているので、数値データベースの手法が有効な手段の一つとしてでてきた
3.「嘉禾吏民田家[艸/別]田土額一覧」の活用事例─町数と畝数の関係を中心に─
数値データベース、「嘉禾吏民田家[艸/別]田土額一覧」の活用例(一例)について解説。判別不能な部分も逆算して求めることもしてある。
田地の数(町数)と田地の総面積について双方にについて判明するものを選別。
「丘」が田地を含んだ一定の空間的広がりをもつものであるとしてここでは扱う。田家[艸/別]のその次の記載に身分と姓名が記されている。これが耕作者なのか納税者なのか不明。その次の課税と直接関係しない田地の数量まで記載された理由が不明。しかし、嘉禾4年・5年の長沙近辺の田地の数と広さを知ることが出来る。
ここで面積を個数で割ることでその人物が工作していた個数あたりの面積(畝数/町数)をだすことができる。そうして出したデータの嘉禾4年全体をみてやると平均値が6.1畝、中央値が5.0畝とのこと。
こういったデータを丘ごとにわけてやる。その結果がはじめに配られた附表。丘によって畝数/町数にばらつきが出てくる。つまり数字が大きいものと小さいものに分かれてくる。
ここにどういった意味があるかというと、阿部先生が仮説を立てる。傾斜が比較的きつい丘では畝数/町数が小さく、平坦に近いと畝数/町数が大きくなると仮説。「丘」という名称が使われていても必ずしもそこが傾斜地であるとはかぎらないのではないか。
※清岡補足
後日、コメントで仁雛さんから教えていただいたんだけど、ネット上に「走馬樓三國呉簡.嘉禾吏民田家[艸/別]資料庫」というデータベースがある。試しに今、地名で「下伍」と検索すると地名が下伍丘である木簡の出土編號、地名、人名、年代編號、内容(釈文)が項目としてあげられ表となってずらずらと出てくる。内容(釈文)はこの報告通りのフォーマットであることを追認できる。なかなか楽しい。
・走馬樓三國呉簡.嘉禾吏民田家[艸/別]資料庫
http://rhorse.lib.cuhk.edu.hk/
※追記 古典籍総合データベース(早稲田大学図書館)
司会から、予稿集に質問用紙が挟んであるので、それに書き込んでもらうことで、午後のパネルディスカッションで質疑応答を行うとアナウンス。その関係か特にこの時間の質疑応答はなし。
・「長沙呉簡の世界」ノート2へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/425
※追記 走馬樓三國呉簡 嘉禾吏民田家莂資料庫
2006年9月17日に長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」が開催されること、さらにそれは一般聴講可能だと聞き及び、前日、清岡は関西から東京入りする。
当日、同じく関西からのしずかさんと共に東京メトロ丸ノ内線で会場となるお茶の水女子大学最寄り駅、茗荷谷駅に向かう。
茗荷谷駅から歩いて北上し、途中のコンビニで飲料水を買いつつ、やってきたのはお茶の水女子大学の正門。正門近くのお茶の水女子大学附属高等学校で輝鏡祭(学園祭)をやっているようで華やか。
それを尻目に会場となる理学部3号館へ向かう。前のスーツ姿の人の後をつけて、3号館の2階から入り、エレベータで7階へ。7階についてエレベータを出ると前は汲古書院などの店舗となっていて、そこから会場を探し歩く。
7階は狭く細長い一本の廊下があるだけなので、少し階段を上がったりしつつそれをずんずん進んでいくと、廊下の突き当たりに受付があったので、受付をすまし、予稿集とレジュメを受け取り、廊下突き当たり左手の701教室へ入る。予稿集は「長沙呉簡研究報告」第1集・第2集と似た構成で、茶色の厚紙が表紙で、表紙が目次代わりとなっている。
どこに座ろうかと、会場向かって右側の通路を通っていると、不意に仁雛さんに声をかけられ、軽く挨拶する。席を真ん中左寄り、前から四列目を確保。10時開始の10分前だけどまわりにあまり人が座っていないのが気になった。ほとんどの人は後や右の端っこの方に座っている。
専門外の清岡は全く気付かなかったけど、しずかさんによると、入り口側、つまり会場向かって右側に席には著名な先生方がかたまっているとのこと。前日、同大学で「第6回魏晋南北朝史研究会大会」があったので、その流れかな、と話していた。
・「第6回魏晋南北朝史研究会大会」(關尾史郎先生のブログ内記事)
http://sekio516.exblog.jp/4182734
当時もそうだけど、上記記事をみると興味深いので聴講しにいけばよかったと後悔。
会場の様子は右上の写真のようになっている。プログラム等は以下の通り。【直前情報】長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」(關尾史郎先生のブログ内記事)のほぼまる写し
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○長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」
日時:2006年9月17日日曜日、10:00~17:00
会場:お茶の水女子大学・理学部3号館7階701教室
主催:長沙呉簡研究会
総合司会:三崎良章(早稲田大学)
プログラム:
・開会挨拶(10:00~10:10):窪添慶文(お茶の水女子大学)
・主旨説明(10:10~10:25):關尾史郎(新潟大学)
・報告I(10:30~11:05):阿部幸信(日本女子大学)「嘉禾吏民田家[艸/別]数値データの整理と活用」
※文字コードの表示上の都合から[艸/別]は「別」の字にくさかんむりをつけた字という意味、以下、同じ
・報告II(11:10~11:45):小嶋茂稔(東京学芸大学)「後漢孫呉交替期における臨湘県の統治機構と在地社会-走馬楼簡牘と東牌楼簡牘の記述の比較を通して-」
・報告III(11:50~12:25):町田隆吉(桜美林大学)「長沙呉簡よりみた戸について-三国呉の家族構成に関する初歩的考察-」
昼食・休憩(12:25~13:30)
・報告IV(13:30~14:05):王素(中国・故宮博物院)「中日長沙呉簡研究述評」
・報告V(14:10~14:45):宋少華(中国・長沙簡牘博物館)「長沙出土簡牘的調査」
・報告VI(14:50~15:25):羅新(中国・北京大学)「従〈呉簡研究〉看呉簡研究所面臨的困難」
・休憩(15:25~15:45)
・パネルディスカッション(15:45~16:45)
コメンテーター:朴漢済(韓国・ソウル大学校)
・閉会挨拶(16:50~17:00):伊藤敏雄(大阪教育大学)
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また以下のリンクは開催後の記事
・長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界―三国志を超えて―」(關尾史郎先生のブログ内記事)
http://sekio516.exblog.jp/4174556
それにしてもこのシンポジウム、タイトルに「三国志を超えて」とあるんだけど、個人的に史書である『三国志』にない情報がたくさん長沙呉簡に含まれているという意味で「超えて」だと思っていた。シンポジウムが終わった後、幸さんの話によると、三崎良章先生から「(このシンポジウムには)三国志はないですよ」というようなことを言われたとのこと。それをきいて清岡は、『三国志』を飛び「超えて」しまって通り過ぎたという意味で『三国志』はないんだ、なんてアホなことを思っていた。
・「長沙呉簡の世界」ノート1へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/421
※追記 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題(2009年9月13日)
※追記 レポート:関プチ5 全国ツアー:6/22特別講座「新発見!三国志と日本」勝手に予習(2014年6月22日)