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掲示板 件名 最新投稿

三国志学会第一回大会懇親会


  • 2006年9月13日(水) 22:36 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,444
研究 ・三国志学会第一回大会ノート6の続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/407

 三国志学会第一回大会は17時に予定通りに無事終了。
 プログラム通りだと18時から希望者は懇親会だ。
 ここで渡邉義浩先生によるアナウンス。それによると、余裕を持って17時半に終わると考え、その後の予定もその通りに組んだとのこと。懇親会の会場は大東文化大学の板橋キャンパスになるとのことなので、そこまでチャーターしたバスで移動する手順。予想外にきちんと時間通りに終わったので、30分程度、大東文化会館での待ち時間となる。

 とりあえず清岡KJさんやらUSHISUKEさんやらげんりゅうさんやらミミまろさんやらたいがあさんやらそれぞれとしゃべったりしていて時間をつぶしていた。何の話してたっけ? USHISUKEさんとKJさんが全国津々浦々に我々のような三国志ファンの集まりがあるはずって話かな。そういった草の根の集まりと連絡をとりあって連携をとりたいなぁなんて言っていた。それは必ずしもネットにつないでいる集まりではないからどうやって把握しようって話かな。清岡は実現性を考えないと前置きをおいて我々がイベントやら講演やらの巡業をすればいいんじゃない?なんて言ってた。あとミミまろさんとは清岡が手に持つ礼記の訳本を元にした話(殿下、陛下の語源をお聞きしたり)、たいがあさんとはやっぱりテイラー訳の種本の話をしていた。
 時間になって呼びかけがあったんで、地下のバス発着場に降りると、大型のバスが二台きていた。みんなで同じバスへ乗り込む。

 大東文化大学板橋校舎に到着し、案内されたところは食堂みたいなところ。「大東文化大学板橋校舎 カフェテリア Green Spot」とのこと。

○懇親会(18時-) 会 場:大東文化大学板橋校舎 カフェテリア Green Spot

 そこにはテーブルが10ぐらい用意されていて、みなさん、用意された荷物置き場に荷物をおいて、自由にそれぞれのテーブルへ陣取る。
 案の定、我々6人だけが一つのテーブルにかたまった。

 そして懇親会は、沈伯俊先生からの乾杯のご挨拶から始まる。
 一同「乾杯!」、そして満場拍手。
 懇親会のお料理はバイキング形式+立食パーティー形式。こういうときは清岡は話すよりも何よりも真っ先にお料理を取りに行く(汗)

 遠目で岡崎先生を見かけたので、宣和堂電網頁のオフ会の受け売りな上に冗談で、げんりゅうさんに「田中芳樹先生のこと、聞いてきてくださいよぉ」なんて言っていた(私自身、田中芳樹先生のご著作をまとまって読んでいないので実行できなかったが)。
 それから6人であれこれお話。この6人だと三国志関連のネットの話とかネット上の知り合いの話とかの話になりがち。

 それで我々6人専用と化していたテーブルへの初のお客様はKJさんのお知り合いの池田雅典さん(※清岡は初対面だったので初め誰だかわからないでいた)。今回、スタッフをされていて、あれこれ裏方のお話をしてくださる。
 その次のお客さんが11歳の女の子とそのお母さん(と思われる女性)。実は三国志学会第一回大会の会場でこのお二人のすぐ後ろに我々が陣取っていたので、どの講演でもこの女の子が熱心にノートをとっていたのを我々は知っていた。
 それで我々のところへ来た用件というのが、USHISUKEさんが質疑応答で名乗った「NPO三国志フォーラム」についてそれは何の団体かって聞きに来たとのこと。ということで代表者のUSHISUKEさんに説明してもらう……ってまだ団体の実体はほとんどない(汗) それでメンバーのサイトなどを紹介したり。「NPO三国志フォーラム」のお客さん第一号だ。
 その後、その女の子は「三国志の舞台」という本を手に作者の田中靖彦先生の元へサインを貰いに行っていた。

 その後、我々6人のところへ来たお客さんは仁雛さん。清岡とあれこれ話をした。それにしても国際シンポジウムの定義は外国人の方が参加していたらそういうことだとのこと。それから画像石を使う場合の著作権の話とか(まるまるスキャンはその絵の著者や撮影者の著作権に抵触するので駄目だけど、スケッチだとOKだとか)。あと仁雛さんとげんりゅうさんとに意外なつながりがあったことが判明。しばしお二人でローカルトークで盛り上がる。その後、仁雛さんはKJさんと三国時代の地理関連の話をされていた。

 お次のゲスト(?)はビッグなゲスト。USHISUKEさんのところへ澤章敏先生がいらっしゃる。やっぱりこれも質疑応答がきっかけになってるね。場所が遠かったので何を話していたかわからなかったけど、結構、長い間、熱心にUSHISUKEさん、聴いていたなぁ。

 19時ごろ、狩野直禎先生による三国志学会第一回大会に対する総評が入る。おっしゃるとおり会を追うごとに会員が増えると良いなぁ。

 それから誰か確認とってないけど、たいがあさんのところへお客さん。こちらもやっぱり質疑応答がきっかけになってる。
 狩野先生の総評をまたいで、仁雛さんとKJさんと熱心に話していて、さらに清岡が加わり交代し(笑)、結構、長い間、あれこれ話していた。「漢代の文物」が共同研究の成果の本だから市販されていない幻の書だったとか、画像石に異民族はなかなか書かれていないとか、学生を中国に送り込む方式(?)とかあれこれ。

 その後、また6人で話していたんだけど、ここで、たいがあさんからネット関連のビッグニュースをきく。さっそくその夜……というかオフ会への移動最中、三国志ニュースの記事にしたんだけどね。



 20時ごろ、そうこうしている間に懇親会も終了の宣言。
 帰り方の概要が説明された後、石井仁先生から締めの挨拶。
 「この席は三国演義でいうところの桃園結義」とおっしゃり場内をわかせる。満場拍手。
 その後、渡邉義浩先生が「来年は三顧の礼1800年記念でございますから、来年もお会いしたいと」と場内をわかせ、さらに「再来年は赤壁の戦いで」とさらに場内を沸かせ、解散。

 お別れの挨拶をそれぞれの人に言って、スタッフの方が先導してくれる帰り道にそれぞれ別れる。
……とそのまま6人、別れるはずだったんだけど、仁雛さんのこの後、飲みに行くのかって質問になぜか再結集する。USHISUKEさん、げんりゅうさん、KJさん、清岡、ミミまろさん、仁雛さんの6人が池袋で軽く飲みに行くことに(清岡が乗る夜行バスの出発時間がリミット)。
 スタッフの池田雅典さんが先導するままに東武練馬駅行きのバス停へ向かって歩き出し、会場を後にした。


・第3回三国志シンポジウム 雑感(2007年7月28日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/661


<次回>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679

三国志学会第一回大会ノート6


  • 2006年9月10日(日) 23:34 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,809
研究 ・三国志学会第一回大会ノート5の続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/405


 司会の渡邉義浩先生から狩野直禎先生の紹介が入る。狩野先生がご著作の『諸葛孔明』を書くに至ったか、のご講演とのこと。

○狩野直禎(三国志学会会長、元京都女子大学学長)「私と三国志」

 レジュメは縦書き手書きの5枚。ある意味、貴重なレジュメ。

 先祖は熊本肥後。(転勤族の)父親が初めて東京に赴任したときに狩野先生がお生まれになったとのこと。大半は京都にいらっしゃったとのこと。
 小学校5年生のときに再び東京へ転勤。夏休みに引っ越し。そういう意味で友達がいなかったので両親が佐藤春夫/著『支那文學選』(新潮社、新日本少年少女文庫14)を買ってくださったとのこと。
 ここで狩野先生が初めて三国志の存在を知ったとのこと。そこのエピソードは「天下の英雄は君と僕だけさ」「五丈原の戦ひ」など。そこの解説では三国時代は我が国の神功皇后の時代、と解説があったそうな。さらに引用した書物の簡単な解説があるとのこと。そこに『三国志演義』と『三国志』の解説があったそうな。狩野先生がこの本で印象に残ったのは「故郷(ふるさと)」と題したもの。魯迅の「故郷」を訳したもの。
 1942年3月に小学校卒業。
 当時は義務教育6年間。狩野先生は東京の中学校進学。当時の主要教科は英数國漢だそうな。現代では考えられないが漢文の授業があった。教科書は簡野道明『新修漢文』。最初は簡単だが(江戸時代に書かれた漢文)、十八史略など入ってきて、曹植「七歩詩」などがあったそうな。歴史(社会の一つじゃなく独立している。)は一年が日本史、二年が東洋史、三年が西洋史、四年がふたたび日本史だったとのこと。そのとき二年の教科書は羽田亨『中等東洋史』とのこと。仏教がらみでインド史が入ってくる程度。三国時代も当然、入ってくるが30分か1時間程度。
 1944年で中学三年生。労働に使われたりしたそうな。狩野先生は防空壕の木材を運んだりしたとのこと。そのため西洋史については勉強する機会がなかったそうな。そのうち空襲が始まる。京都に帰る。京都府立の中学に転校。戦争が終わったら終わったで車掌として労働にかり出されていたとのこと。
 その後、出師表について授業を受けたそうな(教科書、土井晩翠『星落秋風五丈原』)。祖父が手紙で書き下し文を送ってくれたとのこと。後年、狩野先生の『諸葛孔明』でその文をそのまま使ったとのこと。
 京都の高等学校に進学。高等学校の一年生は日本史、二年生は東洋史、三年生は西洋史。東洋史の授業の先生は羽田亨先生のご令息だったそうな。そのときの夏休みの宿題が内藤虎次郎『中國中古の文化』(1927年の授業が本になったものとのこと)を読むようにというもの。当時は紙は悪いし内容が難しいし読みづらいものだったそうな。感想文提出。その中の項目で「曹操の文学趣味」「曹操の矯正策」「諸葛亮の矯正策」というのがあったとのこと。岡崎文夫『魏晋南北朝通史』を読んだそうな。
 大学へ進学(当時は高等学校進学の方が難しいそうな)。狩野先生は哲学に行くか、文学に行くか、史学に行くか迷ったとのこと。結局、東洋史学へ。狩野先生は四川省に興味をもつ。那波利貞「文化史上より観察する四川省成都」(歴史と地理 十二巻五号・六号)、久村因(ちなみ)の諸論文(漢代の地名に詳しい)。大庭脩「秦の蜀地経営」(卒業論文→竜谷史壇33号、1950年)。卒業研究は蜀漢か五代十国がまよったが、結局、その両方を含む○○伝説の研究(※聞き取れず)。三国志の研究に近づく。
 1953年に大学を卒業。そのころに小川環樹・金田純一郎/訳『三国志』(岩波文庫、1953年、※三国演義の訳) 旧制大学院に進学。一切、単位なし。そのころに川勝先生の論文が書かれる。
 川勝義雄「曹操軍団の構成について」(京都大学人文科学研究所創立二十五周年記念)、その中で曹操軍団の構成は任侠的結合である、とかかれていたとのこと。同じ頃に宮川尚志先生が京大に来られる。
 宮川尚志「三国呉の政治と制度」(史林38巻1号、1955年)
 狩野先生はちょうどそのとき史林の編集委員だったとのこと。この論文の構成などをしたとのこと。
 吉川幸次郎「曹氏父子伝」(世界121~132 6回 1956年)。この中の文を読まれる。内容は、我々は曹操を三国演義的な人物像を想像するが、それは正しくない、とかそういう旨。
 1957年に狩野先生はある論文を書き上げる。それが狩野直禎「後漢末の世相と巴蜀の動向」(東洋史研究15巻3号、1957年)。その書き上げた直後に、吉川幸次郎「曹植兄弟」(新潮55巻、1958年)の連載が始まる。その後、1962年に吉川幸次郎「三国志実録」(筑摩書房)刊行。時代区分論争に関連し、「魏晋から中世なのか?」と吉川先生から三ヶ月も質問を受けた、という話。
 その後、五斗米道の話も含めた論文、狩野直禎「蜀漢政権の構造」(史林42-4、1959年)を書き上げたそうな。このころ、狩野先生は京都大学東洋史辞典編纂会『東洋史辞典』(東京創元社、1961年)の出版(下請けの仕事)に携わる。ここでいろんなことを勉強したとのこと。
 そのころから狩野先生は聖心女子大学の小林分校に就職。そこで二年間勉強すると短大の資格が貰えるとのこと。その時期に狩野直禎「華陽国志の成立を廻って」(聖心女子大学論叢21、1963年)を書き上げる。狩野直禎「後漢時代地方豪族の政治生活」(史泉22、1961年)という論文を書く。これは[牛建]為郡の張氏について書かれていて、三国時代から離れて後漢時代だとのこと。
 狩野直禎『両漢學術考』(筑摩書房、1964年)。吉川先生から言われた仕事とのこと。元は1924年の講義。後漢における老荘思想の萌芽。
 宮崎市定先生が定年を迎える。普通は定年記念で論文集ができるが、人物往来社から中国人物叢書の企画があがる。第一回配本は随の煬帝で宮崎市定先生ご自身の著。第二回配本は「諸葛孔明」で狩野先生に割り当てられる。狩野直禎『諸葛孔明』(人物往来社、中国人物叢書2、1966年)。これに書くに当たって参考にした本がレジュメに書かれている。内藤虎次郎『諸葛武侯』(東華堂 1897年)。これは劉備がなくなった時点で終わっている。つまり未完。非常に細かく優れた内容。内藤先生は三顧の礼を否定。杉浦重剛・猪狩又藏『諸葛亮』(博文館、1913年)。古本屋で購入。宮川尚志『諸葛孔明』(富山房、支那歴史地理叢書、1940年)。植村清二『諸葛孔明』(筑摩書房、1964年)。
 桑原隲藏「孔子と孔明」。これは「支那史上の偉人」というタイトルで1923年に大阪の懐徳堂で講演したときの紀要。のちに『東洋史説苑』(弘文堂、1923年)におさめられる。そこには桑原先生が「至誠一貫してその行動に一点の不純をも認めぬ」と断定。その中で中国嫌いの平田篤胤先生が「孔明の生涯の中で尤も感激に堪えぬのは、実に成敗を度外に北伐を実行して義務に殉じた時にある」と紹介されているとのこと。
 その後、狩野先生は森鹿三/編『東洋の歴史』第四巻「分裂の時代」(人物往来社、1967年)で「三国の鼎立」、「西晋から東晋へ」、「民族の大移動」の章を執筆されたとのこと。それと平行して狩野直禎『魏晋學術考』(筑摩書房、1968年、1926年の講義内容)を執筆。狩野直禎『支那文學史』(みすず書房、1970年、1908年の講義内容)を出版。これは六朝文學。狩野直禎「李固と清流派の進出 田村博士頌寿 東洋史論叢」(1968年)を執筆。これはタイトル通り三国時代の前の話。狩野直禎『「三国志」の世界─孔明と仲達─』 清水書院、1971年 人と歴史東洋5。孔明についてそれ以前に書いたので、仲達を入れたとのこと。

○質疑応答

 質疑を呼びかけたものの、特になかったので、「ご講演ということで質疑はなし」ってことで終了。満場拍手。


・三国志学会第一回大会懇親会へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/409

三国志学会第一回大会ノート5


  • 2006年9月 3日(日) 18:19 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,521
研究 ・三国志学会第一回大会ノートお昼休みからの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/402


 14時に定刻通り始まる。


○劉世徳(中国社会科学院教授)、通訳 伊藤晋太郎(慶応義塾大学講師)「『三国志演義』嘉慶七年刊本試論」


 今回はレジュメというより「≪三国志演義≫嘉慶七年刊本試論」という11ページの論文が配られている。それはタイトルも含め簡体字で書かれている。以降、ここで表示できる漢字に置き換える。
 劉世徳先生は中国の三国志演義学会の会長でだそうな。司会の金文京先生によると、中国の古典小説研究の権威とのこと。
 講演のスタイルは前日の劉先生の大学院特別講演会「曹操殺呂伯奢」と同じくまず劉先生が中国語で話し、随時、その後に通訳の伊藤先生が訳されていくというものだ。

 なぜ劉先生が三国演義の版本について研究しているかのお話。三国演義の版本については日本の方が先を行っていて、中国人の方も急いで追いつかないといけないとのこと。そういう考えの元、一人に日本人学生(博士課程)をとったとのこと。もちろんその学生は版本研究。彼の論文は優秀だと評価されたので、研究所では彼を版本研究にとどめようとしたそうな。ところが彼はその研究所から去ることになったとのこと。その理由は彼が結婚することになったんだけど、彼は家を貰えなかったからとのこと。その後、彼は商売替えし、三国演義から完全に離れてしまったとのこと。
 その後、劉先生自ら、版本の研究をすることになったとのこと。

 劉先生が今まで嘉慶七年刊本の研究をしてきた理由。その版本というのは希なものだから。イギリスの学者、アンドリュー・ウエスト(論文の除魏安?)の「三国演義版本考」という本によると、嘉慶七年刊本はアメリカのハーバード大学にしかないとのこと。その版本というのは紹介する価値がある。

 その版本の特徴は福建省の建陽というところで清の時代(嘉慶七年)に刊行されたとのこと。
 嘉慶七年刊本は二つの版本の流れが合流している性質がある。この趨勢は明代の終わりから清代の初めに始まった。福建省の建陽にあった出版社のあるものが南京の方へうつった。本来は上三分の一が絵で残り下三分の二が字だったんですが清代になりその形式を捨て去った。この時代の版本は毛宗崗本にどんどん近づいた。この版本は毛宗崗本についてた絵を移植している。また金[又/土][口又]という有名な文芸評論家の名を勝手に使っている。毛宗崗本に近づいているのに毛宗崗本とは称されていない。福建省の建陽の版本は風下におかれていて絶体絶命の状況にあった。
 嘉慶七年刊本は12幅(12枚)の絵がある(論文にその人物が書かれている。昭烈帝、張飛、諸葛亮、趙雲、姜維、曹操、張遼、許チョ、呉大帝、周瑜、魯粛、司馬懿)。その中に関羽だけ居ない。

 明代、関羽は重きを置かれていた。嘉靖本とその復刻本の区別がある。嘉靖本には関羽がどのように殺されるか詳しく書かれている。復刻本ではそういう場面がない。どう書き換えられたかというと、天から関羽を呼ぶ声(「はやくおいでよ」)がした、というふうに書き換えられている。このように明代には関羽を尊重して書き換えが行われている。同じように関羽の名前もでず「関公」と置き換えられている。それに対し、嘉慶七年刊本では関羽の絵がなくなっている。明代から清代の初めにかけて関羽を神様にする機運が高まっていたが、嘉慶年間になると関羽崇拝のブームが覚めてきた。
 嘉慶七年刊本は簡本(二十巻)であり、福建の本は簡本と繁本の二種類に分かれる。それら簡本は「志伝」と「英雄志伝」の二種類がある。嘉慶七年刊本を劉龍田刊本と黄一鶚刊本とで比較した。論文の比較は全面的ではないかもしれない。

 次に論文の構造と結論についての話。
 論文は八つの部分で構成。一は概況。二はいくつかの注意点。ここで四つの問題について述べている。一つ目は嘉慶七年刊本に書かれた作者の出身地が間違っている。二番目に関羽がいない点。三つ目は誤字が多い。四つ目はコスト削減のため臨機応変的な処置をとっている。
 三番目のテーマはこれが福建省の出版なのかどうか。三つの問題。一つは劉先生は福建省出版と認識している。その理由は書店、序文の作者や巻の構成などから。三つ目は二つの可能性がある。一つの可能性は福建の書店が出版した。二つ目の可能性は余所の書店が福建の古い版本をつかって出版した。
 四番目のテーマは三国演義第240節の題名について述べられている。三つの問題について述べている。一つ目は目次と本文の題名の不一致。二つ目は第139節、本文に関索は出てこないが、本の先頭にある目次には関索の文字が見える。三つ目は節のタイトルに誤字が見られる。→黄一鶚刊本によく似ている。
 五番目のテーマ。一部分をみて全体を判断する、其の一。235節の本文を例にとって述べている。いろんな本を比べ文字を見ると「簡本」に分類。他の簡本に比べてもかなり簡略化されている。
 六番目のテーマ。一部分をみて全体を判断する、其の二。33節と175節の末尾。33節の最後の部分には三つの違いがある。嘉慶七年刊本は明代の黄一鶚刊本の系列の簡略化された本と同じ。
 七番目のテーマ。一部分をみて全体を判断する、其の三。関索の挿話について述べている。結論。嘉慶七年刊本は基本的に黄一鶚刊本、明代の劉龍田刊本と同じ。別の系統にある周曰校刊本とは異なる。
 八番目は終わりに。すでにお話ししたのでここでは繰り返さない。


○質疑応答

 たいがあさんからの質問。三国志演義の版本について、日頃から疑問に思っていたことの質問。三国志演義の英訳(テイラー訳)について。英訳本と和訳本(小川環樹訳)とに内容が食い違う部分がある。例えば三顧の礼のシーンで諸葛亮が吟じる詩のところ。
※ここらへんは「三国志ファンのためのサポート掲示板」で出ていた話題なので以下のリンク先を参照のこと
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2023
これら二つは版本が元々違うのか?

→司会の金文京先生が(和訳の話なので)劉先生には答えることはできないとし、まず話の確認から。小川環樹訳は毛宗崗本とのこと。それから誰がおわかりになるか? と呼びかける。しばし二、三人からの中国語が会場に響き渡る。
(※中国文学のイギリス人の訳と日本人の訳について中国人と韓国人が中国語で話し合っているのを多くの日本人が静かに見守るという何とも国際色豊かなシーンだと清岡は内心思っていた)
司会の金先生は「それは面白い問題ですね」と話す。
→(劉先生の中国語の話を金先生が日本語に訳して)まとめると、結論としてはお答えできない。なぜなら劉先生自体、英訳も和訳も見ていないから。一般的な状況としてそれらは毛宗崗本に基づいて訳されている。毛宗崗本と一言にいってもそれは複雑で毛宗崗本の中でもいろんな違いがある。もしかすると英訳と和訳とでは元にした本が違うのかも。もし同じものに基づいていたら違いは起こらないだろう、と劉先生は信じているとのこと。明らかな例をあげると毛宗崗本では冒頭で詩があげられているが、本来の羅貫中のにはなかったここらへんは{前日の三国志シンポジウムの基調報告にあった話だ)
→さらにここから実際に諸葛亮の詩の違いについての確認。英訳にあたるような版本はない、とのこと。意訳ではないか? この間、やっぱり中国語が飛び交う。
(清岡がたいがあさんにきくと今、英語の文が手元にないとのこと。あとで清岡がノートPCでサポ板のツリーを見せる)

周文業先生からの質問。嘉慶七年刊本を劉先生はどこでみたのか?
→亡くなった方の蔵書の中で見た。

ハーバード大学のものと劉先生のみた本は同じものか?
→同じものであろう

12幅の絵で関羽が居ない理由は? それは単に抜けているだけでは?
→その可能性は小さいだろう。ハーバード大学の方の本でも関羽が居ないから。

周先生の理解では関羽崇拝ブームがどんどん高まっていった。劉先生との考え方以外で説明できることはないか?
→関羽崇拝は文化現象。明代の終わりから清代の初めまで関羽崇拝が高まったことは間違いない。清代中頃、関羽崇拝がさがっていったかどうかは検討の余地がある。劉先生は版本の話だけで述べた。関羽崇拝がどんどん高まっていったという根拠は?

周先生による別の考え方。関羽を崇拝するあまり怖ろしくて絵にもできなくなった(場内笑)。それは証拠があって清代に関羽のお芝居をすることが禁止された例がある。
→劉先生。関羽があるべきところにはあるはずだし、必要なければないはずだ。(何か例が出たけど清岡失念)。お芝居というのは特殊な状況で版本の問題は別。しかし、周先生の解釈も否定できない。

33節の末尾に三つの違いがあるということだけどどれが正しいか?
→字数の調整による違い。区切り方によってそれぞれのテキストに違いがでてきた。(その後、「紅楼夢」の例があげられる。) 話を通すと全部、同じだが、どこで区切るかによって違う。33節の末尾について専門に論文を書いたことがある。建陽で火事が起き出版業がだめになったことがある。数年前に建陽にいったことがあるが出版業が盛んだった時代のいかなる痕跡も残っていなかった。建陽の出版業は時代が下るごとに縮小していった。出版の中心は浙江省の杭州や南京の方へ移っていった。(以下、専門的な話が続く)

司会の金先生からのコメント。こういったテキストの研究というのは必要なものではあるが、非常に退屈なこと。劉先生の講演の冒頭で学生さんが版本の研究を離れるのも当然か、なと(場内笑)。もう一人名前の出ていたイギリスの人も今は銀行員になっていて、刊本研究をやめている。これから版本研究をやる人はご参考に、とのこと(場内笑)

○10分休憩

 ここで清岡は昨日一瞬、会った仁雛さんと会い、挨拶。
 あと清岡はさっきのたいがあさんの質問に関してたいがあさんとあれこれ話す。それからKJさんとUSHISUKEさんとでホールの入り口の外側近くで雑談。三国志シンポジウムって中国語に訳すと三国志座談会なんだ。
 そうするとホールの後ろの方でげんりゅうさんが話している人がいた。あまりにも自然な光景だったので、清岡はてっきりげんりゅうさんの出身大学関連の人(げんりゅうさんの先輩)かな、と思っていたら、渡辺精一先生だった(汗)。あまりにも唐突なことだったので、心の準備ができないまま、結局、清岡は渡辺先生にお話することができず仕舞いだった。その後、USHISUKEさんやKJさんあたりは渡辺先生とお話していたかな。ちなみにげんりゅうさんの話によると、渡辺先生もこちらのことをげんりゅうさんの出身大学関連の人だと思っていたとのこと。


・三国志学会第一回大会ノート6へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/407

三国志学会第一回大会お昼休み


  • 2006年9月 1日(金) 12:28 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,445
研究 ・三国志学会第一回大会ノート4からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/401


 我々はアナウンス通り、お昼をとろうと近くのスーパーの最上階を目指す。
 ここで伊比学さんは旧交をあたためた徹夜明けのためそのまま帰宅。KJさんは業務のため昼休み我々と行動を別にする。そのため、USHISUKEさん、げんりゅうさん、清岡、ミミまろさん、たいがあさんの五人で昼飯へ。
 歩きながら、前日の三国志シンポジウムにこれなかったUSHISUKEさんやたいがあさんに前日の会場の様子や客層などを話す。

 スーパーの最上階はレストランを集めた階で、さすがに子供の夏休みの日曜日とあって通路まで大混雑。我々は空いているお店をうろうろ探すと、意外と簡単にみつかる。ジンギスカンのお店。ランチメニューや単品もあるんでそこに決定!

 店に入って、皆、メニューを決めると、やはり午前中の質疑応答でUSHISUKEさんが質問したことが話題になる。やっぱり王平が出るとUSHISUKEさんが質問するんだな(以下のリンク参照)、って話。

・【独占!】王平は南蛮非漢民族出身か!?
http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040/2366658#2366658
http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040/2370072#2370072
http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040/2410665#2410665
http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040/2422391#2422391

 さらに前日の三国志シンポジウムのパネルディスカッションは去年と違ったのか、って話。そうそう予め質問用紙が配られたり、研究会からの質問が控えめになったりしたんだ。
 メニューをきく人が来る。やはりビビンバとか韓国系のランチが豊富みたいでそれを頼む人も結構居た。清岡は冷麺ランチ。韓国風冷麺ね。

 やがて自己紹介が始まる。
 まず、げんりゅうさんから。唯一、初対面のたいがあさんからあれこれ質問が来る。分かりやすい、げんりゅうさんのブログの行き方は三国志連環の「三国志連環について」のページから。そこから右回りに、お次は、たいがあさんの自己紹介。次、向かいに座っている清岡、その次、向かって右に座るUSHISUKEさん、さらに右に座るミミまろさん。
 それから三国志学会第一回大会の懇親会に出ようか出まいかどうしようって話をしていた。私はKJさんに合わせるといった事を言っていた。

 そのうち徐々に食事が来て、来た順に各人が食べていった。

 また話が昨日の三国志シンポジウムへ。清岡から。USHISUKEさんに{上田先生の報告で発表のあった江戸中期の三国演義を受容した人たちのピラミッドの図の話(下記のリンク先参照)をする。そうそう2月18日にプチオフ会をしたとき、USHISUKEさんとげんりゅうさんと隼鶻さんとで、現代の三国志ファンの話をしていたとき、同じような図(下記のリンク先参照)が出ていたんだよな。プチオフ会のときは上下逆さで下に向かって先細りした図だけど。

・上田望先生の報告「小説『三国志』と日本人」
http://cte.main.jp/newsch/article.php/377
・2月18日プチオフ会での話
http://cte.main.jp/newsch/article.php/288
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2191

 それから上田先生の報告にあった、歌舞伎役者に挿し絵を似せるのは現代の真・三國無双のキャラのようなものだ、とか。
 次は映画「赤壁之戦」の話。北京オリンピックにあわせて公開されるんで撮影開始がさらに遅れた、など話していた。あと公開後は役者のファンが三国志ジャンルにどっと押し寄せて来るんだろうな、って話をしていた(7月18日の宣和堂電網頁オフ会に出た話題の受け売りなんだけど・笑)。
 あと韓国の三国志映画の話もどうなったんだ、とか。

 時間も時間だったので我々はその店を後に

 それから店の旧名が実は「ジンギスカン フランス人」だった。謎な店名(汗)。ジンギスカン(チンギスハン)はフランス人だった?!とか皆いろんなツッコミをしていた。

 帰り道は中国と日本の三国志研究の活発さの話をしていた。中国語わからないと、理解できないことが多いね、とか。

 13時50分ぐらい。大東文化会館の建物に入ると、KJさんに会う。真っ先に懇親会の話を振ってみたら、KJさん出る予定ということなので、そこの五人全員出ることに。
 あと三国志学会の話になって、普通の会員よりグレードが高い維持会員があるって話をしていた。それから三国志学会のサイトでその前日ぐらいから広報担当の人の所属が「NPO三国志フォーラム」に変わっていたって話もしていた(笑)
 その後、清岡は受付で懇親会に出席する手続きをすませ、ホールに入る。

 さていよいよ午後の部だ。


・三国志学会第一回大会ノート5へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/405

三国志学会第一回大会ノート4


  • 2006年8月31日(木) 01:07 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究 ・三国志学会第一回大会ノート3からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/400

 待ち時間、たいがあさんが持ってきた小川環樹先生による『三国演義』の訳本のの挿し絵を見せて貰っていた。その挿し絵はちょうど昨日の三国志シンポジウムの上田望先生の報告で出てきた葛飾戴斗二世の絵だった。

 次の司会は三国志学会副会長の金文京先生(京都大学人文科学研究所所長)。

○竹内真彦(龍谷大学助教授)「呂布には何故ひげがないか-三国志物語の図像と本文の関係について」

 ※以下、「1. 」といった番号に続くタイトルはレジュメのをそのまま使っている。

1. 問題意識

 レジュメは4ページ、それに図像が10ページ。
 図像の葛飾戴斗二世の呂布の絵(『絵本通俗三国志』)を見せ、髭があることを確認し、次に図像の中国の『絵図三国演義』の呂布の絵を見せ、髭がないことを確認した。
 その後、図像の二枚目を見せ、呂布が貂蝉に言い寄る場面で日本(『絵本通俗三国志』)と中国(『三国志演義』周曰校本)での呂布の描かれ方の違いを見せた。あきらかに日本は美女にむさい男が言い寄っているが、中国のは美男美女。むしろ中国の方がなぜ美男美女に描かれるのかが疑問(本報告のきっかけ)

 図像三枚目、上が『三国志演義』呉観明刻本の王允と策をねっているところ。下が虎牢関。ともにひげのない「白面の貴公子」
 →こう描かれるには『三国演義』本文にはでていない「呂布の物語」があったのではないのか?

2. 呂布の物語

 赤兎馬。『三国志』では関羽が乗っていないが、『三国演義』や『三国志平話』では乗っている。なぜ関羽は赤兎馬に乗っているのか?→関羽は物語中、英雄的役割だから。
 呂布に物語があった? 『水滸伝』中に過去の英雄が出てくる。「小温侯 呂方」。登場人物が呂布の物語を背負っている
 具体的にどういう物語なのか確認できない。

3. 呂布の物語

※以下の漢文はレジュメそのまま引用。
『三国志平話』 
  董卓見呂布身長一丈、腰闊七圍、獨殺百十餘人、如此英雄、方今天下少有。(巻一)
『三国志演義』呉観明刻本
  時李儒見丁原背後一人、身長一丈、腰大十圍、弓馬熟閑、眉目清秀。五原郡九原人也。姓呂、名布、字奉先。(第三回)
『三国志演義』毛宗崗本(通行本)
  時李儒見丁原背後一人,生得器字軒昂,威風凜凜,手執方天畫戟,怒目而視。(第三回)

 古い『三国演義』(呉観明刻本)では「眉目清秀」となっている。まだあたらしくなると(毛宗崗本)では「威風凜凜」になっている。
 呂布の「髭がない」とされるのはかなり少ない。ただこちらはそれほど古い歴史はない
 もう一つの特徴としてかぶりものがあげられる。同じ者をかぶっている登場人物はそれほどいない。

 図像の四枚目上、『三国志平話』に出てくる呂布のところ。はっきり呂布に髭がある。しかしかぶりものが共通している
 →かぶりものに意味がある?

4. 呂布の装束

※以下の漢文は表示できるかぎりレジュメそのまま引用。
『三国志平話』
  左有義兒呂布、布騎赤免馬、身披金鎧、頭帶[けものへんに解]豸冠、使丈二方天戟、上面挂黄幡豹尾
「関雲長単刀劈四寇」雑劇穿関
  三叉冠雉鷄 抹額 蠎衣曳撒 袍 項帛 直纏 [ころもへんに荅]膊 帯 三髭髯 簡

 かぶりものは『三国志平話』に「頭帶[けものへんに解]豸冠」とあり、『三国演義』に先行する雑劇に服装の指定が書かれているのがある。それが「三叉冠雉鷄」(かぶりもの)とあるが「三髭髯」(ひげの指定)がある。
 「帶[けものへんに解]豸冠」」や「三叉冠」はいずれも図像のものではない。
 →図像は「束髪冠」


※以下の漢文はレジュメそのまま引用。

『演義』呉観明刻本
  頭戴三叉束髮紫金冠、體挂西川紅錦百花袍、身披獸面呑頭連環鎧、腰繁勒甲玲瓏獅蠻帶。弓箭隨身可体、手持畫桿方天戟、坐下嘶風赤兔馬。果然是人中呂布、馬中赤兔。人馬之中、漢末両絶。(第五回)

 『三国演義』呉観明刻本では「三叉束髮紫金冠」。束髮冠とはどんなものか?
 →図像四枚目下図。三才図絵から。
 ・『紅楼夢』の賈宝玉が図像(五枚目上)でつけている。本文では「束髪嵌宝紫金冠」となっている。ここは「束髪」に注目。
 束髮冠とは何か?→古代の帝王、貴人(三王など)・公子(賈宝玉)がかぶるもの?
 他の雑劇や小説でも束髮冠が出てくる。普通の武将がかぶるようなものではない。

5. 「連環記」再考──結びにかえて

 『三国演義』では貂蝉は自発的に(王允の恩義に報いるため)計略をかけようとする。
 →実は伏線がなくなっている
 「錦雲堂美女連環記」雑劇(息機本)では呂布と貂蝉は夫婦で生き別れ、王允はそれを知りそれを利用する(貂蝉は身を汚すことを王允に強制される)
 ※『三国志平話』でも元々、夫婦。
 →雑劇の方が原型に近い。
 竹内先生の考えでは原型は呂布と貂蝉が復縁する話。呂布は善玉だったのでは?
 →『三国演義』は全体的な流れで呂布を悪玉にする必要があり、夫婦設定はカット。その善玉設定が残って「束髮冠」であり「ひげがない」のでは。


○質疑応答

 大学院生からの質問。京劇の呂布にひげがないことに前々から疑問に思っていた。「4. 呂布の装束」。雑劇の例でひげがあるとのことだけど、宮廷で上演されたものではないのでしょうか?(宦官が演じていたのでは?)
 →もちろんそうだけど(宦官が演じていたが)、ひげをつけない場合もあるので解釈が難しい。同じ特性をもったものに同じような格好をさせる(同じ符号を与えられる)。※あとその例をあげられた。敵役の武将に髭をつける場合がある。他の例として忠義の符号を与えられた関羽と岳飛はかぶりものが同じ。(司会補足。明末からということですよね、雑劇ででてくるのは、ひげがないのは)

 [けものへんに解]豸冠は後漢書輿服志か独断ででてきたのではないか?(※こまかいところは聞き取れず)
 →ありがとうございます。
 司会補足、[けものへんに解]豸は想像上の動物とのこと。
 ※清岡注。細かい議論が見えてこなかったけど、今、続漢書輿服志をみてみると確かに法冠のところに書いてある。あと手元の「漢代の文物」をみてみると、ばっちり[けものへんに解]豸の画像と法冠の画像が載っている。しかし『三国演義』関連の図像と当時の冠は一致しないことの方が多いと思うので、これでたどると危険かも。

 中国語で質問(劉先生か周先生だと思うけど失念)。司会が翻訳。『三国演義』葉逢春本でひげがあるかどうか?
 →ない。(そのころの)人物像が簡単なんでひげがない人が多い。そのため呂布にひげがないことに意味があるか不明。


 というわけで午前の部は終わって次はお昼休み。
 渡邉義浩先生がご飯の食べられるところについてのアナウンスが入り、聴衆はぞろぞろと会場の外へと動き出した。


・三国志学会第一回大会お昼休みへ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/402

三国志学会第一回大会ノート3


  • 2006年8月29日(火) 00:00 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究 ・三国志学会第一回大会ノート2からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/399

 時間がおしているので休憩なしでそのまま。会場のホールでの空調の調子は悪いが、皮肉なことに一階上の控え室はガンガンにクーラーが効いている、と渡邉先生の小粋なアナウンスが入る。

 お次は文学の研究とのこと。建安文学がどういう位置づけかとのこと。あと和田先生のご紹介。

○和田英信(お茶の水大学助教授)「建安文学をめぐって」

 レジュメは縦書きの2ページ。丸で囲った数字が全部で16あり、それぞれの数字の下に引用した文が載せられている。建安は後漢の年号。建安期を代表する文学者、曹操、その息子、曹丕、曹植、その周りに集まった王粲といった詩人たち。
(1)李白の詩で建安のことが詩でうたわれている。建安は中国の文学の中で特別な位置。建安はその他の時代と異なる。
 建安期以前の詩とはどのようなもの? そのほとんどが古詩あるいは樂府と呼ばれる作者不詳の詩。
(2)(3)現在見られるものの例、『文選』にある「古詩」十九首など。
(4)樂府とは音楽と共にうたわれたもの。例として『宋書』樂志にのっているもの。
 古詩あるいは樂府はいつどのようなにつくられたか、はここでは論じないが、建安の詩人たちの土俵になったことは間違いない。曹操の作品は現在、樂府にカテゴリーに分類される。
 古詩・樂府と建安を隔てる大きな違いは作品に署名があるかどうか。
(5)(6)

 なぜ建安期によってかわったか。どのようにかわったか
 建安期以降、歴史時代にはいったという考え(※漢字あってるかな)
 具体例。(7)古詩と(8)曹植の詩の比較。
(7)「古詩十九首」其三。洛陽がにぎやかな代名詞としてあげられている。ここではかならずしも実在の洛陽でもなくてもよい。
(8)曹植「送應氏」二首其一。應氏が実在の人物。作者と作品とが関係。董卓の時代(190年)に宮室が焼かれた洛陽が描写される。ここでは洛陽を他の場所におきかえることができない。
 人物に関して(3)古詩と(9)曹植の詩の比較。古詩の中に描き込まれる人物は神仙、神話上の人物など特殊な人物がほとんど。
(3)「古詩」十九首其十五。仙人がでてくるが不老不死の代名詞として出てくる。
(9)曹植「贈丁儀王粲」。二人の人物がでてくる。その人そのものを指す。具体的背景のその人たちへのメッセージ。作者と作品の関係は署名だけではなく詩のうたい方にも現れている。詩のあり方がかわったから、作者の署名が加わるようになったと考え方もできる。
 建安以降、あらゆる詩がこうなったというわけではない。

(10)曹植「贈徐幹」。(個性を有した)徐幹を生き生きと描くのみならず、そういったメッセージを贈った作者そのものも生き生きと表現されているようだ。

 建安以降、文学は個を表現するようになった。

 建安期以降、詩が極めて具体的な政治状況で詩がくみ出されること。
(11)曹丕「令詩」。詩は明らかに政治的な文脈で書かれている。
(12)曹丕「至廣陵於馬上作詩」
 曹操も政治的な作品をつくっている。政治的アピール。(13)曹操「短歌行」(14)「苦寒行」
 (12)と(14)に東山詩が組み込まれている。
→そういう意味では文学は政治に従属するようになった?

(15)典論論文の文学至上主義はそういう文脈でみると…

(16)『文選』にみられる建安期の詩人


○質疑応答
※清岡が失念。文学と政治の話が司会と報告者で延々と応酬される。その後、質問者が一人。


・三国志学会第一回大会ノート4へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/401

三国志学会第一回大会ノート2


  • 2006年8月28日(月) 00:07 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究 ・三国志学会第一回大会ノート1からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/397


 司会に三国志学会副会長の堀池信夫先生がついて、早速、次の報告がスタート。

○澤 章敏(関東学院六浦中学校・高等学校)「五斗米道研究の現状と課題」

 レジュメは6ページ。家系図、年表やら史書からの引用がある。
 初めは澤先生から高校の授業で三国志がほとんど取り上げられないことに不満の声が挙がるほど関心が高いという掴み。

【1】宗教名の変遷

 まず五斗米道の説明。張陵が始祖。いつのころから天師道と呼ばれるようになったとのこと。元代には正一教と呼ばれる。南北朝のころには様々な経典を受け入れ、道教とも呼ばれるようになった。つまり初期道教と呼ばれる。

【2】歴代張天師

 歴代の天師名がレジュメに並べられる。初期の三代を三張(張道陵、張衡、張魯)と呼ばれる。現在は64代目の張源先(1969~)で台湾におられるとのこと。この系図は疑わしい部分がある。張魯のときに五斗米道は大きな飛躍をする。

【3】五斗米道関係年表

 190年に劉焉と結びつき漢中郡と巴郡を支配下に置き、五斗米道に基づいた政治を行う。この政権は宗教王国のような捉え方をされている。道教からの研究(道教の歴史や教義、仏教との論争等)と歴史からの研究の二つがある。歴史研究において太平道(黄巾の乱)に比べ副次的に五斗米道が研究されてきた。

【4】『三国志』巻8張魯伝

 タイトルにある三国志魏書張魯伝の冒頭の漢文が引用されていて、それが読まれていく。五斗米道は病気を治す→レジュメ【5】裴松之注を読まれる

【5】同前、裴松之注

 五斗米道の細かいところが読まれる。「老子五千文」を読ませるとか。老子がテキストに使われていることに注目。五斗米道のころから老子が重要。六朝時代から唐の時代にかけての道教の伝承では張衡あるいは張魯が老子に注をつけたということで「老子想爾注」が成立したとのこと。道教の研究には不可欠なもの。成立年代は多くの人が後漢の成立だろうといっている。疑問の声もある。

【6】『後漢書』巻8霊帝紀、中平元年(184)の条

 裴松之の指摘。張脩を張衡としている。これらの論争があって幸田露伴は裴松之に従う。張脩のままでいいんだ、としている人もいる。五斗米道の研究ではさらにやっかいで、張脩という人物は三人出てくる。裴松之注に引く典略、三国志魏書張魯伝、後漢書本紀の三カ所出てきて、どれとどれとが同一人物とかいろんなパターンが出てくる。
 実は張脩が五斗米道を開き、張魯が乗っ取って張魯が歴史をねつ造したという興味深い説もある。
 澤先生は裴松之の指摘は間違いで、三カ所の張脩は同一人物と考えているとのこと。そうすると本筋とは別の問題が出てくる。なぜ陳寿は『三国志』で「別部司馬張脩」とだけ載せたか? 五斗米道との関係を書かなかったのか。澤先生は張魯の伝であって、張魯中心に書いていたため張脩については簡略に書いた、と考えた。

 歴史研究、五斗米道を主な研究としたもの。「教団の組織」と「異民族との関係」とを対象とした二つがある。
 まず教団の組織について。大きな組織(大きな軍)をおさめられたのか? 地元の豪族の協力が必要。教団そのものではない。政権としては地元の有力者を形式的に祭司に任命し治めさせていたのではないか。信者じゃない人も信者としていた

【7】『華陽国志』巻8霊帝紀、中平元年(184)の条
【8】『三国志』巻1武帝紀、建安20年の条
【9】『文選』巻4所載、蜀都賦注引『風俗通』
【10】『後漢書』巻86南蛮伝、板楯蛮夷の条

 そして異民族との関係。曹操に攻められたとき、異民族を張魯は味方にしていた。【7】で[宗/貝]人(そうじん)、【10】で板楯蛮と呼ばれている。非常に勇猛な民族をうまく取り入れた。民族の首長を祭司に任命し取り入れた。

・残された課題

 五斗米道と太平道との関係。宮崎市定先生から「君、関係あると思うかね?」ときかれたそうな。黄巾の乱とは別に考える?

・質疑応答

 津田先生からの質問というか意見。
 第一に張魯の娘が曹操の息子に嫁ぐ。その息子が最後の皇帝になる。そういったことに関係するのか。
 第二に陳寿のこと。陳寿の出身地は五斗米道の活動範囲とかぶる。

 USHISUKEさんからの質問。名乗らず、NPO三国志フォーラムに所属とのこと
 異民族についての質問。王平のこととか。
 五斗米道はどの程度、異民族に対し寛容であったか。
※詳しくは下に示す三国志漂流の記事参照

・三国志漂流
http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040
・『三国志学会』レポート
http://www.doblog.com/weblog/myblog/3040/2606181#2606181

 →元々、漢民族に対し協力的。後漢になると中央政府に対する板楯蛮の反乱が多くなってくる。そういった異民族に対し五斗米道は受け入れる体制にあった。板楯蛮は租税を免除されいたんだろう。曹操に降った後、異民族は軍団長に任命されていたり、と。


・三国志学会第一回大会ノート3へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/400

三国志学会第一回大会ノート1


  • 2006年8月27日(日) 01:52 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究 ・2006年7月30日「三国志学会 第一回大会」ノート0からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/395

○報告(10時-12時40分)

 司会に津田資久先生がついて、まず石井仁先生の紹介が述べられる。

○石井 仁(駒澤大学助教授)「呉・蜀の軍事制度に関する覚書」

 昨年、三国志シンポジウムで「三国時代の軍事制度」の報告をされた先生。
http://cte.main.jp/newsch/article.php/152

 トップバッターで反董卓時期の曹操にあやかりたいとのこと(すぐに曹操は敗れたから縁起が悪いと自己ツッコミ)
 レジュメは6ページの箇条書き。

 まず時代区分の論争(中世古代の論争)について軽く説明。都督は封建的主従関係かって論争があったそうな。それへの疑問が石井先生の制度史研究のきっかけになったそうだ。当時の制度をきっちりおさえることが大事だと。
 それから魏晋の軍事制度のこと。これは記録が多いが呉や蜀は少ない。呉・蜀の軍事制度と魏晋との比較を今回、行う。

 魏晋の軍事制度の中心的なものについて説明。中軍(中外軍)、つまり魏晋の正規軍のこと。次が都督について。「使持節・都督○○諸軍事」の略称。各方面の行政・軍事を統轄する機関および長官のこと。必ず三公ないし将軍の加官。魏初には河北都督、揚州都督、荊州都督、雍涼二州都督がいた。駐屯地には都督府がある。
 レジュメでは続いて参考文献が列挙されている。


1. 呉・蜀の都督制度

 まず呉の都督
 通俗的理解では、呉は魏晋よりも小規模な「督」を列置。都督→督の二重構造。
 三国志呉書では「假節・督夏口」の記述。三国志魏書では「使持節・都督夏口諸軍事」。同じく「西陵督」と「都督西陵諸軍事」。そのため単なる表記上の問題とみなす(資料の経路の違い?)。魏晋の都督制度とほぼ同等。監軍が派遣されている。呉の都督の特徴として長江流域の重鎮(樂郷・武昌など)の都督が左右(東西)で構成されている。
 ※レジュメでは本文があって、そこに○数字がうってあって、その丸数字には論拠となる史書の記述が列挙されている。以下、同じ。

 次が蜀の都督。
 表記が一定せず統一性がない(レジュメで督の部分を列挙)。「陳寿という人は都督制を理解していたのか?」という根本的なことに行きかねない。魏晋は「督軍」(前漢由来)と「都督」(曹操政権)が融合。そのため正式名称は「都督督軍」。蜀にも都督督軍が一例あるので魏晋と同じ可能性あり。呉も都督と督軍がある。
 [广+來]降都督(らいこうととく)だけは統一的表記。[广+來]降は南中の地名だそうな。必ず副貳(副官)がついたとのこと。これは「[广+來]降屯副貳都督」「南中参軍」とも称され、さらに魏晋の記録では[广+來]降都督を「南中都督護軍」「南中監軍」と称す。正式名称は「都督南中諸軍事」? [广+來]降は通称? [广+來]降は来降に通じやってきて降るの意? 受降城と同義?

2. 都護・軍師・監軍・領軍・護軍・典軍・参軍

 蜀は「都護→軍師→監軍/領軍→護軍→典軍→参軍」という序列の官職がある。軍部関連。魏晋に似たような官職があるが同一視できない。

 呉にも同様なのがある。蜀より簡略。「軍師→都護→護軍」。断片的。始まりは周瑜の「左右大督」に分かれたのを機に「左右護軍」に分かれる(「左右都護」「左右軍師」を累加)。軍部関連。次第に名誉職の意味合いが強くなる。

 ここで時間になったのでまとめに入る。
 呉・蜀では「都護・軍師・監軍・領軍・護軍・典軍・参軍」の本質は西魏二十四軍の指揮系統に期限を持つ勲官に類するものと推測。

おわりに

 蜀は10人に一人兵士、呉は11人に一人兵士。
 三国は基幹部分を共有している(劉備集団は曹操政権および孫呉政権と綿密に関わる)。ここらへんも考慮する必要があるか否か。三国時代もしくは中国~東アジアをトータルに眺める視点。


○質疑応答

※理解せず聴いていたので以下、ただのメモ。
 龍谷大学の村田先生。「都督」、「督」は名詞的方法? 動詞的用法?
 当時の都督のイメージ、陳寿の都督のイメージ、現代の都督のイメージが異なるかもしれませんが…。国家を運営する理念が都督制に反映されている。
 文官・武官のやりとり。
 →時間なので後は懇親会で。


・三国志学会第一回大会ノート2へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/399

2006年7月30日「三国志学会 第一回大会」ノート0


  • 2006年8月23日(水) 16:52 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究 開始30分前の会場。さすがまだ人は集まっていない。・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/

 2006年7月29日土曜日に三国志シンポジウムが大東文化大学の板橋キャンパスで開かれ、その次の日に三国志学会の第一回大会が大東文化大学の板橋キャンパス近くの大東文化会館ホールで開かれるということだった。
 ちょうど私は前日の板橋キャンパスへは東武練馬駅から歩き大東文化会館発のスクールバスに乗っていったので、スムーズに三国志学会 第一回大会の会場へ行くことができた。到着したのは開始30分ほど前。会場となるホールの入り口にはすでに何人か人がいて、東方書店の出張店舗で本を物色している人や、立ち話をしている人など様々だった。
 受付には前日の三国志シンポジウムで通訳をされていた田中靖彦先生が座っておられて、三国志学会への入会手続き等の担当をされていた。私は予め書いていた入会申込書を手渡し学会費を払い、三国志学会会員となった。今回の大会のレジュメなどを受け取り、ホール内の真ん中あたりの席を確保した。写真のとおりまだ人はほとんど来てなかった。
 缶コーヒーを買って待っていると、まずげんりゅうさんが現れ、あれこれ話していたら、そのうち、2005年の三国志シンポジウムでお会いした、たいがあさんに声をかけられ、昨日の三国志シンポジウムの話などをしていた。
 そのうち、前日にお会いした、ミミまろさんや伊比学さんがこられ、さらにKJさんとUSHISUKEさんが来られ、私の近くの席に座っていた。
 そして開始を待つ。

 満場拍手の中、三国志学会の会長の狩野直禎先生が壇上に立たれる。
 そして、狩野直禎先生により「三国志学会 設立趣意」が高らかに宣言される。
 満場拍手。


 以下に当日、もらった「三国志学会 第一回大会」のプログラムを転載しておく。一部、仮題だったのでそこは修正してある。

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三国志学会 第一回大会
日時:2006年7月30日(日) 10時-17時
会場:大東文化大学 大東文化会館ホール(東武東上線、東武練馬駅1分)


報告(10時-12時40分)

石井 仁(駒澤大学助教授)
「呉・蜀の軍事制度に関する覚書」

澤 章敏(関東学院六浦中学校・高等学校)
「五斗米道研究の現状と課題」

和田英信(お茶の水大学助教授)
「建安文学をめぐって」

竹内真彦(龍谷大学助教授)
「呂布には何故ひげがないか-三国志物語の図像と本文の関係について」

お昼休み

講演(14時-17時)

劉世徳(中国社会科学院教授),通訳 伊藤晋太郎(慶応義塾大学講師)
「『三国志演義』嘉慶七年刊本試論」

狩野直禎(三国志学会会長、元京都女子大学学長)
「私と三国志」

懇親会(18時-)
会 場:大東文化大学板橋校舎 カフェテリア Green Spot

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・三国志学会第一回大会ノート1へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/397


※追記 三国志学会 第三回大会プログラム発表

※追記 『中国古典小説研究』第14号(2009年11月15日)

2006年9月17日 「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」


  • 2006年7月 1日(土) 19:24 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究

 關尾史郎先生のブログより。2006年9月17日日曜日10時から17時まで、お茶の水女子大学・理学部3号館7階701教室にて長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」があるそうな。入場無料,一般聴講可とのこと。詳しくは下記のリンク先へ。

・關尾史郎先生のブログ
http://sekio516.exblog.jp/
・記事「長沙呉簡国際シンポジウム『長沙呉簡の世界-三国志を超えて-』」
http://sekio516.exblog.jp/3729950


<追記>2006年9月17日「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」ノート
http://cte.main.jp/newsch/article.php/417