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「長沙呉簡の世界」ノート6


  • 2007年7月14日(土) 00:04 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,200
研究

・「長沙呉簡の世界」ノート5からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/642

※例によって中国語の報告であり、清岡はその後の日本語の要約頼りに報告を聴いていた。

※2、「長沙呉簡の世界」とは関係ないけど、今、手元のログを見ると、阿部幸信先生が講義を持っておられる某大学のホスト(他4つの一般的なホスト)からやたら「長沙走馬楼呉簡 丘について」という検索があるんだけど、最近、課題でも出た? 学期末レポートとか?
<7月20日5時半追記>
何か昨日の晩から今朝にかけて「長沙呉簡」関連のアクセスが増加していて今、これを書いているときも検索サイトからアクセスされているんだけど、この必死さをみると今日がテストなんだろうか。
三国志シンポジウムのときに忘れずに一般聴講しているであろう知り合いに確認しないとね。
まぁ、まだこの段階では推測でしかないんだけど。
http://cte.main.jp/newsch/article.php/264
↑しかし仮にそうだとして、テスト前になってウェブを当たっているようでは結果も知れているような…
<7月28日13:20追記>
確認すると、先週の金曜日にレポート提出があったとのこと。受講者数も聞けたんでなるほどな、って思った。どうも講義名か何かに「三国志」がつけられておりそれで受講者数が多いんだとか推理されていたけど。

※追記 リンク:学生の動向

※追記 メモ:第20回三顧会 前夜祭(2014年5月3日)

<追記終了>


○報告VI(14:50~15:25):羅新(中国・北京大学)「近年来北京呉簡研討班的主要工作」

 15時15分開始。まず略歴を紹介。北京大学出身で北京大学の副教授とのこと。そこから報告が始まる。

 それで日本語の要約。
 報告は大きく二つの部分に分けられる。北京呉簡研討班の成果の紹介の前半部分とその結果、直面した呉簡研究の問題点を述べられた後半部分の二つ。

 前半ではまず2000年から始まる北京呉簡研討班の沿革、そのメンバーが発表した論文が87編にも上ることを報告。最新の成果が≪呉簡研究≫第二輯(壇上でこの本が示される)。2006年9月9日に出版。その本の冒頭にあるのが侯旭東先生と安部聰一郎先生の、現在知られている呉簡の形式から文書の原型を復原しようと試みたもの。これらは今後の呉簡の整理作業にも多大な影響を及ぼすため、特に権威者の立場である羅新先生から重要視された。
 呉簡中に見られる各種の身分について論じられたものがある。州吏、郡吏、県吏といった吏の身分に貴賤といった側面で描かれた韓樹峰先生の二編の論文。また「吏帥客」について恐らくは国家によってコントロールされる屯田民であろうという見解を示した陳爽先生の論考。さらに王子今先生と張榮強先生による「私學」(※身分の名称)についてのもの。「私學」とは民間儒学の教育を受けた者で学歴や成績によって官吏に上げられる簿籍に登録された者であろう、と見解を示す。
 宋超先生は「丘」と「里」について、「丘」は自然聚落であり、「里」は行政単位であるとし、「丘」が耕作地であるとの見解を否定する。かつ三国時代は伝統的な郷里体制から郷丘体制へと移行する段階である、としている。
 また侯旭東先生の他の三編の論文はそれぞれが呉簡中の米の分類、古代の輸送における損耗の問題、および医療史の問題から呉簡の解読に迫っている。非常に具体的な問題から始まっているが、その内容は深く、非常に敬服するところが大きい。
 孟彦弘先生は呉簡中に見られる「凡口九事七 [竹/弄]四事三」という表現から漢代から唐代に至る過程で「事」が「課」に変化している中で、民衆の自主性が弱まり、国家の民衆に対するコントロールが強化された、というふうに論じている。
 羅新先生は呉簡の具体的な事例から度量衡の発展変化を論じている。
 王子今先生は「地[イ就]銭」について市場史の角度から検討を加え、「地[イ就]銭」は臨湘侯である歩[陟/馬]の「食地」における「[イ就]銭」の名義で徴収されたものであり、「食地[イ就]銭」あるいは「地[イ就]銭」を「市租銭」と区別している。
 王素先生は呉簡中の解釈をめぐる議論されている名詞について、非常に適切な考証をしている。また王素先生は日本の長沙呉簡研究会の発行した二冊の長沙呉簡研究報告の内容について非常に丁寧な論評を行われたものもある。これは日本側の研究について直接、了解することができない中国の研究者の方々について非常に重要な意義を持つものである。
 ここまでが北京呉簡研討班の最新の成果について。

 後半は北京呉簡研討班の活動を通じて現在、直面している問題点について。
 非常に長く時間も押しているため、日本語要約では簡単にまとめるとのこと。
 呉簡研究は確かに一定の成果を上げていた。しかしやはり現代までの研究は我々が期待した成果を上げていないと言える。基本的な用語の理解や孫呉における戸籍系統、あるいは郷や里や丘といった社会単位の認識など、熱心に論じられているが未だに決着を見ていない。その原因の最たるものは二つに分けられる。一つは呉簡自体が非常に切れ切れで漠然としたものであり、かつ原始的でランダムな史料であること。もう一つは我々、漢魏六朝史の研究者は基本的に文献史料による研究の訓練を受けており、呉簡のような原始的な史料に対する訓練をうけていないことに由来。呉簡は独特の史料であることを強調。『三国志』など文献史料とするときとは異なった研究方法が必要。この状況を乗り切るには呉簡の整理をさらに進めること、そして我々、研究者自身がこの原始的な史料に慣れるように自ら訓練をすることが必要。現在、新たな研究方法を模索する時にもあたっている。侯旭東先生の中古史の郷村社会に対する関心からの研究は非常に啓発的であり、また伊藤敏雄先生の統計を使った研究は非常に前途ある研究である。また中村威也先生の呉簡における獣皮納入簡の史料から中古時代の長沙の環境を復原する研究なども非常に啓発的で前途ある問題提起である。それ以外の方法とし、我々は視野をかなり拡大し長期の期間で呉簡と関係する史料を呉簡研究に利用することが必要である。例えば、北京呉簡研討班ではすでに東牌楼漢簡の釈読作業に入っている。続けて[林β]州で発見された西晋時代の簡牘についても詳しく研究する予定。これらの呉簡と関係が深い史料を精査することにより、呉簡の多くの問題が解決できると信じている。
 呉簡研究は現在、キーポイントを迎えている。新たな方法、新たな視野からの研究がこの苦境を脱し、さらなる開かれた世界をもたらしてくれるだろう。

※これらのことは『長沙呉簡研究報告』第3集に載っているので詳しくはそちらで。

 15時52分終了。休憩時間の前に朝、配った質問用紙に質問を書いてくれるようアナウンス(この後のパネルディスカッションに使う)。
 16時過ぎぐらいまで準備のため休憩時間。

○休憩(15:25~15:45)

 この間、さんらしき人を見かけたので、声をかけてみると、やっぱり幸さんだった。二年ぶり♪
 あと書店ブースに行ってあれこれ物色していた。東牌楼漢簡の写真&釈文本には少し心が動く(笑)


・「長沙呉簡の世界」ノート7へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/648

※追記 レポ:7/26北九州 兀突骨で酒池肉林?! ラウンド3(2014年7月26日)
 

三国志研究入門(2007年7月25日)


  • 2007年7月13日(金) 00:07 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,240
研究 日外アソシエーツというところから2007年7月25日に渡邉義浩先生/著、三国志学会/監修『三国志研究入門』という本が刊行されるとのこと。2300円。

・日外アソシエーツ
http://www.nichigai.co.jp/
・三国志研究入門(上記サイト内紹介ページ)
http://www.nichigai.co.jp/sales/sangokushi.html

上記ページを見ると、「三国志研究」とは言っても「歴史・文学・思想それぞれに焦点をあてて」いるようで、ここらへんは監修の三国志学会の取り扱う領域を反映しているようだね。

・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/
・『三国志研究入門』
http://www.daito.ac.jp/sangoku/book.html
※このページによると三国志学会の学会員は特別価格2000円になるとのこと。300円安。

目次などを見るといろんな単語がピックアップしてあって興味深い。個人的には思想のあたり馴染みがないので、触りだけでも知りたいところ。日外アソシエーツのページでは「序」を見ることができ、またそのページからはPDF形式で本文見本を見ることができる。本文見本で上げられているのは「第一部 研究入門篇」の「I 三国志をより深く知るには」のところ。監修とあって三国志学会中心の書き出しで、ここらへんこの本の意図するところ(仕掛けようとするところ)のシステマチックなものが見え、面白いね。
この見本で知ったけど、『三国志研究』第二号(三国志学会第二回大会のときに発行)に去年の三国志学会第一回大会で講演のあった「『三国志演義』嘉慶七年刊本試論」の翻訳が載るとのこと。版本の細かい話とか判りづらかったので、ありがたい。

・三国志学会第一回大会ノート5
http://cte.main.jp/newsch/article.php/405
・三国志学会第二回大会のプログラム発表
http://cte.main.jp/newsch/article.php/636

※追記 三国志研究要覧(2011年9月復刊)

※追記 ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)

あまり関係なさそうだけど、三国志ジャンルの「歴史・文学・思想」というと創文社のPR誌『創文』で「三国志の世界:思想・歴史・文学」というシリーズを連想するね。私は未読だけど。

・三国志の世界:思想・歴史・文学(『創文』)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/627

<7月25日追記>
・關尾史郎先生のブログ
http://sekio516.exblog.jp/
・購入(07/07/25)
http://sekio516.exblog.jp/6160684

あ、そうか、復刊希望の多い『三国志研究要覧』のリニューアル本と捉えるのが自然だね。

「長沙呉簡の世界」ノート5


  • 2007年7月11日(水) 18:08 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,462
研究

・「長沙呉簡の世界」ノート4からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/448

※こちらの報告もまず中国語で行われ、後で日本語の要約が日本人の訳者により話される。中国語の判らない清岡は前報告と同じく聴いている振りをし日本語要約に集中していた。報告では、長沙呉簡の出土現場の写真を見せながら行われていたが、当然ながら、日本語の要約発表にはその写真は出されていない。

○報告V(14:10~14:45):宋少華(中国・長沙簡牘博物館)「長沙出土簡牘的調査」

 14時35分報告開始。まず宋少華先生の略歴を司会の方から紹介がある。長沙市の簡牘博物館の館長なんだね。
 会場の照明が落とされ、OHPで写真がスクリーンに映される。予稿集を見ると「一、調査的目的」(実際は簡体字表記、以下同じ)となっていて、まず長沙における出土簡牘について書かれていて、その次が「二、長沙二十世紀五十年代~七十年代簡牘出土的情況」となっており、その中で続く小タイトルが「(一)1951年・1952年長沙出土楚漢簡牘」となっていたので、1950年代から1970年代の長沙の出土簡牘についての解説をしつつ、それに関係する写真を出しているのだな、と清岡は思っていた。OHPの1枚目が報告タイトルでNo.2、3が出土場所を記した地図、と予稿集にメモをとる(以下、「No.」は清岡が勝手につけたもの)。
 「(一)1951年・1952年長沙出土楚漢簡牘」の中にさらに細かい内訳があって、「1、五里牌406楚墓,年代属戦國中期(公元前四世紀)」、「2、徐家湾401号墓,年代属西漢晩期(公元前四世紀)」、「3、伍家嶺203号墓,年代亦属西漢晩期」とあって、それぞれに説明文が添えられている。メモを見るとこの2と3にOHPのNo.4、5が使われており、3の中に説明がある「封泥」(写真?)にNo.6が使われている。
 「(二)1953年仰天湖25号墓楚簡」ではNo.7に分布図、No.8に楚簡の写真が映し出されていて、「(三)1954年長沙楊家湾6号墓」ではNo.9、10と写真が使われ、「(四)1972-1973年,長沙馬王堆一、三号漢墓出土簡牘」ではNo.11~13と使われ、その中に木[木曷]の写真があった。

※2007年3月にこのシンポジウムの報告冊子として『長沙呉簡研究報告』第3集が刊行され、このときの予稿集の日本語訳は掲載されたが、残念ながらこのときの図や写真などの発表資料は掲載されていない。

 次の大きな括りである「三、長沙二十世紀九十年代至本世紀初簡牘的發現」に移る。まずOHPのNo.14で現場の航空写真、No.15でその拡大写真を見せ、「(五)1993年西漢長沙王后“魚陽”墓出土封検、木[木曷]」(※『長沙呉簡研究報告』第3集でのこの箇所は「(五)」ではなくナンバーがリセットされ、「1)」になっている)ではNo.16にその墓の写真が出てきて、No.17,18で封検・木[木曷]の写真が出てくる。「(六)1996年長沙走馬楼出土三国呉簡」ではNo.19に出土した場所を示した地図、No.20に竹簡の写真、No.21に発掘場所の全景が来て、「(七)1997年九如斉(科文大厦)出土東漢簡牘」の話に移る(九如斉は走馬楼から200m離れたところにあるとのこと)。No.22にJ4と名付けられた古井戸の写真が出された。それからNo.23で全景が出され、「(八)2003年長沙走馬楼8号井出土西漢簡牘」に話が移り、No.24で8号井の写真、No.25で作業する人の写真、No.26~28で清浄後の簡牘の写真が出ていた。「(九)2004年長沙東牌楼東漢簡牘」に話が移り、No.29でまず全景写真、それからNo.30で出土したJ7と名付けられた古井戸の図が映し出された。
 このように時代を追って出土した簡牘についての解説があり、予稿集ではこの後、「四、長沙出土簡牘所見的一些特点」とタイトルで、長沙出土簡牘の考察が続く。小タイトルは「1、長沙的自然地理環境」、「2、簡牘出土地点保存条件」、「3、出土的時代特征」、「4、簡牘形制特征」、「5、長沙簡牘年代序列」、「6、長沙簡牘内容的特点」、「7、長沙簡牘埋蔵特点」となる。

 報告が終わり、その日本語要約に移る。
 これらのことは宋少華先生からいろいろな資料を含め改めて文章を書かれていると聞き及んでいるとのことで、詳しくはそちらを参照とのこと。報告では長沙簡牘について1950年代から現代に至るまでの状況について詳しく説明があった。出土状況について時期について二つの段階に分けられた。一つは1950年代から1970年代まで。一つは1970年代後半(文革以降)から現代まで。後者の中の1996年の長沙走馬楼の呉簡の発見、これ以降が特に重要とのこと。1950年代から1970年代までは長沙の郊外の地の墓葬から簡牘類が発見されたことを一つ一つ丁寧な紹介があった。1970年代後半以降、現在に至るまで墓葬や井戸から出土した長沙呉簡、九如斉漢簡、前漢の走馬楼漢簡、後漢の東牌楼漢簡も紹介された。今回、紹介のあった中には画像には未公開のものが多数含まれていた。後半部分はなぜ長沙でこういった簡牘が発見されたという理由について長沙の自然条件、2000年来、人が住み続けていったという状況と、土地の状況についての指摘があった。まず郊外に多く見られる墓葬については深く掘ってお墓を作っている、あるいは白膏泥、木炭を沈めているいること、密封性が高かったために簡牘類が発見できたとのこと。ただその簡牘類は少数。1990年代以降について、中国の経済発展に伴って、中心地での発掘が多くあって、井戸から大量の木簡・竹簡が出土した。井戸から出土した物について漢簡などがあるが、走馬楼呉簡(長沙呉簡)に関してはある一定の規則とまでは言わないまでも、本来保存すべき名籍類・行政文書などはある定まりで棄てられていた。まとまって棄てられていたことからある管理期間を過ぎた後に廃棄した物だと言われている。それに対してほぼ同じ地区から出た物、九如斉漢簡、前漢の走馬楼漢簡、後漢の東牌楼漢簡の三つについては生活のゴミのようなものと一緒に出てきたため、これらは長沙呉簡と違い、生活のゴミとして廃棄されたものでなかろうかと指摘される。


・「長沙呉簡の世界」ノート6へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/646

※2011,5/18追記。アクセスログを見ると、二日前から同一ホストから「東ひ楼漢簡」という検索語句があるんだけど、もしかして、「東牌楼漢簡(とうはいろうかんかん)」を「とうひろうかんかん」と読むという恥をふりまいているのだろうか。それともそういう名の漢簡が別にあるとか。※さらに追記。その後、別のホストから「東碑楼漢簡」という検索語句があった。なるほどね。「片」を「石」と誤ったんだ。※さらに2011,5/22追記。複数のホスト(うち地域が判るのは東京、立川や浦和)から「東牌楼漢簡」という検索語句が多くなってきたが、この現象、どこかで見覚えある。中央大学あたりでレポートが出ていたりして(笑)

メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」


  • 2007年7月 8日(日) 15:09 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    6,421
研究  このまま日にちが経つと、私にとって「興味深かった」という印象が残るだけなので、自分向けにメモを残しておこう。何かというと、2007年5月26日に東方書店で買った『西北出土文献研究』第5号。それに収録されている小林 聡先生/著「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓―絵画資料における進賢冠と朝服の分析の試み―」という論文について。

・メモ:二つの学術刊行物
http://cte.main.jp/newsch/article.php/561
・神保町
http://cte.main.jp/newsch/article.php/608

 といっても私は専門にはほど遠い立場のまったくの素人で、しかも単に「進賢冠の梁の数はどう数えるの?」という素朴な疑問を知りたいだけなので、まったく論文の主旨とは外れたメモになると思う。

 とその前に、このブログは「三国志ニュース」と銘打たれているので、一応、三国志との関わり合いを説明。漫画なり映像作品なり三国志に関係する創作物のそのほとんどはどうも三国時代より後代の『三国演義』の挿し絵などを参考にしているようで、三国時代前後の画像史料に馴染んだ人にとってはおそらく違和感が残るものとなっている。違和感が出るものに服飾(服装)、鎧や座具なんてのがあるが、そのうちの一つに人物がかぶる冠があって、創作するに当たり何を参考にしているか顕著に現れる箇所であろう。

※参考リンク
・三国時代の建物など(「三国志ファンのためのサポート掲示板」内ツリー)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;id=;tree=2443
・三国志学会第一回大会ノート4
http://cte.main.jp/newsch/article.php/401
・メモ:三才圖會と三禮圖
http://cte.main.jp/newsch/article.php/480

※追記 「魏晋南北朝時代における冠服制度と礼制の変容―出土文物中の服飾資料を題材として―」(2008年度 東洋史研究会大会)

 別に「正史三国志ベースのマンガです」とセールスポイントを喧伝しつつ、冠が『三国演義』の挿し絵ベースであっても、作品の本質には関係ないんで良いような気がするが、ごく個人的な話だと表紙でそういった冠を見掛けると手にとって見ようとも思わなくなってしまったことが多々あった。あとマンガに限らず、ビジネス書や解説書の類で、「三国志正史が書かれている」とあっても表紙で当時の冠じゃないイラストなんかが描かれている上、人物がしていたら内容と無関係に購買意欲が完全になくなるかな……もちろんごく個人的な話ね。
※その前に「正史三国志」という用語を使っている時点で買わないか…こちらもごく個人的な話。

 それで、話を戻し当時の冠はどんなものがあるかというと、折角なんで論文から引用すると、

小林 聡2007「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓―絵画資料における進賢冠と朝服の分析の試み―」(『西北出土文献研究』第5号,90頁)
--引用開始---------------------------------------------------------
冠の場合,皇太子・諸王のための遠遊冠,主として文官のための進賢冠,主として武官のための武冠,監察官のための法冠,謁者のための高山冠などがあるが,官人の着用者数で言えば,進賢冠と武冠が圧倒的多数を占めたであろう.
--引用終了---------------------------------------------------------

とのこと。これを漫画など三国創作の話に強引に話題を持っていくと、最低限、進賢冠と武冠が描かれていればリアリティが増すのかなぁ、と個人的に思い続けているところ。作品の本質とはあまり関係ないことを書いていて恥ずかしくなってくるんだけど、恥かきついでに書くと、『八卦の空』では進賢冠がたくさん描かれていて、『江南行』では武冠がたくさん描かれている。
 それでそれらは実際、どんな冠かって話だけど、まず今回、触れない武冠については下記の記事参照。リンク先の絵はスケッチのスケッチなのであみあみ部分がかなり荒くなってしまっているが。

・メモ:武冠のあみあみ
http://cte.main.jp/newsch/article.php/502

 その次が本題の進賢冠。冠の形としては下記のリンク先のイラストみたいなものなんだけど、「梁」については今回、触れる話なのでそこは保留して読んでいただけると幸い。

・一梁?メモ
http://cte.main.jp/newsch/article.php/365

 話を戻し、今回のメモの主題となるのは「梁」の数え方。「梁」とは進賢冠の上部に縦に立っている線の部分。何の予備知識もなく、三つの線が縦に立っているのを見れば、素直に「三梁」(三つの梁)とカウントしてしまうんだけど、論文によると周錫保『中国古代服飾史』(中国戯劇出版社,1984)では


小林 聡2007「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓―絵画資料における進賢冠と朝服の分析の試み―」(『西北出土文献研究』第5号,93頁)
--引用開始---------------------------------------------------------
周氏は後漢時代の画像石や壁画に見られる進賢冠を多数挙げた上で,三梁冠を着用する官吏が広範に存在するのは文献史料と符合しないとし,両側の2本は「梁」でないと考え,これらは一梁冠であろうとしている(22).
--引用終了---------------------------------------------------------
(22) 周錫保『中国古代服飾史』(中国戯劇出版社,1984)

としている。
※以後、「本」と「梁」では意味(単位)が違うとする。

 これを裏付けることとして論文中では、後漢後期に属する河北望都所薬村1号壁画墓の前室西壁壁画を挿図(出典:河北省文物研究所編『河北古代墓葬壁画』(文物出版社,2000))と共に取りあげている。その壁画には「門下功曹」(挿図では「門」が削れている)という文字と共に三本の進賢冠を着けている人物が描かれてる。実際、文献と照らし合わせると、「門下功曹」は三梁ではないという理由から、「三本」≠「三梁」であり「三本」=「一梁」ということだ。その他の同様の例として遼陽三道壕張君墓の右耳室壁画の墓主像を挿図(□□支令という文字があり、つまり図中の三本の進賢冠をかぶった人は県令の身分)と共に取りあげている。
 この説に準じてか、作品として中国中央電視台製作/制作『三国演義』(TVドラマ)、前述の『江南行』(漫画)、『八卦の空』(漫画)では四本の進賢冠を見ることが出来る。

 ただ個人的には現時点でこの説に強い違和感を感じる。というのも五本や四本の進賢冠を出土史料関連で見たことがないし、それに対し、二本の進賢冠はいろんな文献に見られる出土史料のスケッチや拓本の写真(京都大学人文科学研究所所蔵の石刻拓本資料。ごくわずかながら)で見られるからだ。
 尤も今後、出土史料で五本と四本の進賢冠を見た上で、二本の進賢冠と思っていたものが、単なる写した際の情報損失だったというオチになる可能性はありうる。
 それに現時点では上記の「門下功曹」の例の説明はできないしね(「妄想」では文字では嘘をつけないが、絵では嘘をつけるとし、墓をつくった人が見栄で三本にしたのかな、とかあるけど・笑)

 話を論文に戻し、この流れで、一本の進賢冠の例が挿図付きで取りあげている。それが西溝7号墓の「騎導」画像磚(出典:馬建華編『甘粛酒泉西溝魏晋墓―中国古代壁画精華叢書―』(重慶出版社,2000))。つまり一梁進賢冠はこの一本の進賢冠ではないか、ということ。ただ画像が荒すぎてよくわからないのが残念。
 この挿図では進賢冠をかぶった人が騎乗しても、西晋の礼制に反しないという例として、長沙市金盆嶺9号晋墓の青磁騎馬俑が挿図(出典:富田哲雄編著『中国の陶磁 陶俑』第2巻(平凡社,1998))と共に取りあげられている。これも画像が荒いんだけど、個人的に図録(多分)からのカラーのスキャン画像を持っているんで、それを見ることが出来る。
※ちなみにこの騎馬俑は鞍に鐙がある最古の例(その墓から「永寧二年五月十日作」との紀年銘磚が出土したとのこと。永寧二年は西暦302年)として有名だったもの。
 この進賢冠の梁の部分を見ると、線や管ではなく面、つまり板のように表現されている。その面を写真でみると線あるいは管を表現しようとしているような凹凸が見られない。そこで私はこういった板状の梁を持つ冠が一梁進賢冠ではないか、と思って居るんだけどね。


※関連記事 佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年)

※追記 メモ:漢中興士人皆冠葛巾

※追記 メモ:三国創作のための扶助会


※次記事 メモ:「党錮の「名士」再考」

※追記 メモ:「晋南朝における冠服制度の変遷と官爵体系」

※追記 画像資料に見る魏晋時代の武器―河西地域を中心として―(2012年3月)

※追記 リンク:模範解答でいいのか(ニュースな史点2012/4/30の記事)

※追記 ノート:日本における三国志マンガの翻案過程(2012年6月23日)

※追記 議事録:三国創作における視覚的研究材についての情報交換会(仮題)(2012年7月5日)

三国志学会第二回大会のプログラム発表


  • 2007年7月 1日(日) 09:27 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,439
研究 下記、「三国志学会」のサイトで2007年7月29日に行われる三国志学会第二回大会のプログラムが発表されましたので、以下に引用し告知しておきます。

・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/

--引用開始---------------------------------------------------------
三国志学会 第二回大会

日時:2007年7月29日(日)午前10時~午後5時
会場:大東文化大学 板橋校舎 30114教室
   (東武東上線、東武練馬駅下車、スクールバスが運行されています。)
参加費:500円(入会された方は無料です)
三国志学会年会費:2000円

プログラム

会長挨拶

  三国志学会会長 狩野 直禎

報告(午前10時10分~午後1時)

 谷口 建速(早稲田大学大学院文学研究科)
 「長沙走馬楼呉簡にみえる「限米」――孫呉政権初期の財政についての一考察」

 伊藤 晋太郎(慶応義塾大学講師)
 「関羽文献の本伝について」

 休憩

 狩野 雄(相模女子大学准教授)
 「建安文学における香りについて」

 松本 浩一(筑波大学教授)
 「台湾における関帝信仰の諸相」

お昼休み

講演(午後2時~午後4時)

 李殷奉(韓国仁川大学国語国文科講師),通訳 金文京(京都大学人文科学研究所所長)
 「韓国における三国志演義の受容と研究」

 林田 愼之助(神戸女子大学名誉教授)
 「私の中の三国志」

懇親会(午後6時~)
 参加費:2000円
 会場:グリーンスポット
(大東文化大学板橋校舎内)
--引用終了---------------------------------------------------------

第一回と大きな分野わけが似ているというか講演枠みたいなのが確立されているようで面白いですね。

※関連記事
・2007年7月29日三国志学会第二回大会
http://cte.main.jp/newsch/article.php/474

・2006年7月30日「三国志学会 第一回大会」ノート
http://cte.main.jp/newsch/article.php/395

・第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679

『古代中国を発掘する─馬王堆、満城他─』(1975年)


  • 2007年5月 3日(木) 09:21 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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    3,244
研究 京都市勧業館(みやこめっせ)の入り口 毎年、この大型連休の時期に京都古書研究会主催で京都市勧業館(みやこめっせ、写真)でやっているのが「春の古書大即売会」。今年で第25回で、5月1日から5日までやっている。

・京都古書研究会
http://www1.kcn.ne.jp/~kosho/koshoken/

 どんな催しかというと、広いホールに本棚がずらりとならんでいて、それぞれのスペースに京都を初め大阪や奈良の古書店が出店していて、いろんな古書を物色できる会。出店されている古書店は44店(さっきチラシから一回だけ数えたけど、数え間違え失礼) 会計は会場奥の壁際のカウンターで一律だし、買い物かごも用意されているので、ついつい買いすぎちゃう。
 昨年は三顧会と日程が重なったこともあってか、行けず仕舞いだったが、今年は都合が着いたので、行くことに。
 といっても15時半ぐらいに会場へ到着。荷物を預け、あれこれ古書を見て回る。値段は高いが『冊府元亀』や『康煕字典』がドカーンとセットで置いていたり、『三才図会』がさりげなく置いていたのはさすがだなぁって思った。ちなみに『中国社会風俗史』は1200円で売っていた。
 今回、そのまま旅行に行く予定だったので、良い本があっても心の中で難癖つけて、荷物にならないように勉めた。そのため漢代の出土物の展覧会の図録をあきらめる(難癖:半分ぐらいが興味ない唐代のものだから)。
 そんなことを思いながら、うろちょろしていたら、いつの間にやら時刻は16時20分。荷物預かりは16時半までだったので、慌てて、もったいないとばかりに気になっていた本を取りに行き、カウンターへ急ぐ。
 それは樋口隆康/著『古代中国を発掘する─馬王堆、満城他─』(<新潮選書>新潮社、1975年)。500円なり。

 暇を持て余す旅行の移動中とは言え、すでに旅のお供に『中国社会風俗史』と『画像が語る中国の古代』を携帯していたので、『古代中国を発掘する』を読み始めるのは半年後ぐらいになるだろう、と思っていた。ところがその二冊は既読ともあって、いつの間にやら手を伸ばしページを開いている。
 冒頭の「まえがき」を見ると「私の同学の京都大学人文科学研究所の林巳奈夫君」と林巳奈夫先生の名前が不意に出てきていて思わず食いついてしまう。その後、本編でも何度か林巳奈夫先生のお名前が出てくる。
 続く「序 ─世紀の大発見─」では原田淑人「盗掘」(『東亜古文化説』昭和四十八年刊)や楊伯峻の論文からピックアップした盗掘の話が印象に残った。そこには三国時代の盗掘や発掘された劉表の墓の話(『水経注』ベン水注と、『三国志』劉表伝)が載っていた。
 その後は馬王堆の漢墓について書かれてある。一つの墓についてだから狭く深くしか書かれていないように思ったが、墓自体について出土品について時代背景についてなど多岐にわたりどれも文献からの引用を交え事細かに書かれており、挿図も豊富なので、興味を失うことなく読み進めることができる。例えば帛画に描かれている絵画の説明は林 巳奈夫/編『漢代の文物』を彷彿とさせると、馬王堆漢墓の婦人の遺体の調査のところは冨谷至/著『古代中国の刑罰』を彷彿とさせる。

※馬王堆漢墓についての関連リンク
・2004年9月7日-10月24日 古代中国の文字と至宝
http://cte.main.jp/newsch/article.php/232

 三国時代より前の時代のことながら、三国志に書かれた当時の社会風俗の一部が浮き彫りになるようで面白い(いや、このサイトが「三国志ニュース」なもんでとってつけたような文を入れてみる・笑)。
 以下、『古代中国を発掘する』の目次を引用。

まえがき

序 世紀の大発見

第一部 馬王堆の漢墓

1 長沙の国
2 馬王堆一号墓の発掘
3 槨と棺
4 逸品ぞろいの副葬品
5 なぜ保存がよかったか
6 被葬者は誰か
7 長沙と楚の文化
8 馬王堆二号、三号墓の発掘

第二部 満城の漢墓

1 隠されていた墓
2 崖墓のしくみ
3 復原された金縷玉衣
4 副葬品のかずかす
5 劉勝と竇綰

結び 前漢時代の墓制

1 雄壮な帝王陵
2 堅穴墓から洞穴墓へ



以上、旅行中の山口県の岩国駅近くのファーストフードより。

メモ:二つの学術刊行物


  • 2007年4月13日(金) 12:08 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,718
研究

 私のような素人が、学術関連、特に史学関連の情報を知るのにとても重宝しているのは下記の關尾先生のブログ。ブラウザについているRSSニュースフィードで更新をチェックしている。
 ※ブログのタイトルには当たり前だけど敬称がなく、ここで取り上げるときにはいつも付けているが、今回は紛らわしいので敬称略。

・『關尾史郎のブログ』
http://sekio516.exblog.jp/

 実は上記ブログ以外にも關尾先生には個人的な趣味のブログがあって、それが下記。タイトルの初めの文字が違うんだね。

・『関尾史郎のブログ』
http://sekio402.exblog.jp/

 『關尾史郎のブログ』の方で気になる刊行物を見かける(と今更のメモだけど)。

・『西北出土文献研究』第5号,入稿間近!
http://sekio516.exblog.jp/5341600

 この号は「画像磚墓・壁画墓の特集号」ということでそれ自体、とても興味深いんだけど、その中でもとりわけ個人的には

>小林 聡「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓―絵画資料における進賢冠と朝服の分析の試み―」

がとても気になる。進賢冠ファンの私としては興味深いし、中国古代服飾ファンの諸兄(?)も読んでおきたいところだろうね。幸運には「書店を通じて販売の予定」があるとのことなので、資金に余裕があれば購入したいところ。でも、下記のように第4号が出たばかりだからまだ先なのかな?

・『西北出土文献研究』第4号、刊行!
http://sekio516.exblog.jp/5404246

<4月17日追記>
今更気付いたけど、ここを書いた夜に刊行の記事がアップされている。

・『西北出土文献研究』第5号,刊行!
http://sekio516.exblog.jp/5502972

1500円。ころあいを見て書店(東方書店とか?)へ問い合わせだな。
<追記終了>

 刊行された『長沙呉簡研究報告』第3集を例に取ると、タイトルにある「入稿」の次に「刊行」ってのが来るんだろうね。

・『長沙呉簡研究報告』第3集,入稿!
http://sekio516.exblog.jp/5286728
・『長沙呉簡研究報告』第3集,刊行!
http://sekio516.exblog.jp/5357377

 『長沙呉簡研究報告』第3集は第1集、第2集がそれぞれ国際シンポジウム後の論文集であったのと同じように、2006年9月17日の長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」の論文集で、買っておきたいところ(また、あの地に足のついた三国時代に浸りたいね)。送料の関係から、前述した『西北出土文献研究』第5号とまとめ買いしたいところだ。

<追記>
・ご挨拶
http://sekio516.exblog.jp/5433102

 上記のリンク先のように、実はブログを出版する話があったそうで、出版されるようであれば私は買いそう。学術史的にも後世、貴重な資料になるのでは、と。


※追記 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」
 

中国社会風俗史


  • 2007年3月30日(金) 20:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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研究  前々から話に聞いていて、サポ板でも何回か出ている『中国社会風俗史』が欲しくなり、お馴染みサイト「日本の古本屋」で検索すると、あじろ書林中川店という古書店に置いてあることがわかり2006年12月9日に買いに行く。

・日本の古本屋
http://www.kosho.or.jp/

・あじろ書林中川店
http://ikaino.com/

※追記 第34回 秋の古本まつり(京都古書研究会)

※追記 第30回 春の古書大即売会(京都古書研究会2012年5月1日-5日)

※追記 第36回 秋の古本まつり(京都古書研究会2012年10月31日-11月4日)

 その古書店は大阪駅前第3ビルの地下にあり、そこを目指し、大阪駅近くの地下をひたすら歩く。平日はよくわからないんだけど休日の大阪駅前第1~第4ビルの地上部分は店がほとんど開いていないのに対し、地下は奇妙ににぎわっていて、来るたびに変なカルチャーショックをうける。私にとってはすごく独特な雰囲気に思える。第3ビルの地下一階で目的の店が見つからず、その場でノートパソコンを開いて確認。ちゃんと電波がとどくようで、目的地はどうやら地下二階にあることがわかる。
 それでお店の人に聴くまでもなく、東洋文庫用の棚があったんで、『中国社会風俗史』が二冊ならんでいた。それぞれ1500円強。定価を見ると、それぞれ550円と600円。
 あれ、プレミアついているのかな、と思い、一旦、店の外の廊下に出て平凡社のサイトで定価を調べる。

・平凡社
http://www.heibonsha.co.jp/
・東洋文庫
http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=series.toyo/

 そうすると「定価:2835円」を見かけたし、品切れとのことなので、安心し古書で購入する。

東洋文庫 151
『中国社会風俗史』
尚秉和/著・秋田成明/訳

 その日からだらだらと読んでいたんだけど、さっきようやく一通り目を通す。内容はいろんな中国古代の社会風俗に関すること(下記目次参照)を項目ごとにそれぞれエピソードを文献から引用しつつ紹介していき、当時の様子を浮き彫りにしている。紹介されたエピソードはそれぞれ番号が振られていてどこからの引用かがちゃんと明記されているので、ちゃんと確認できて良い。深く知ろうと思えば、それを手がかりにどんどん手繰れるのだ。
 『三国志』に載っているエピソードや三国時代のエピソード、例えば『世説新語』に載っているものなど、意外と多く載っているし、載っていなくとも三国時代あたりの社会風俗を知ろうと思えば、漢代や晋代のことを読めば推測の助けになる。ただ挿図の少ない本で、あってもとくに畫像磚石・俑などの出土史料に基づいている様子がないので注意が必要となる。
 それほど一通り眺めた感じで深くは読んでいないが、おそらく必要に応じて、後からたぐることになると思う。例えばネット上で「曹丕はおはじきが好き」とか見かけると、「ソースは何?」と気になると、『中国社会風俗史』の「第三十四章 各種の遊戯」の「(二)弾棊」を見ると、魏の文帝が弾棊に優れていたという旨の文章をみかけ、さらに引用元(『世説新語』巧藝)を辿ることができ、近いことを知ることができる。

彈棋始自魏宮内、用妝奩戲。文帝於此戲特妙、用手巾角拂之、無不中。有客自云能、帝使為之。客箸葛巾角、低頭拂棋、妙踰於帝。

 ちなみに巻末にある解説(秋田成明/著)によると、この『中国社会風俗史』は民国27年(西暦1938年)4月に発行された尚秉和/著『歴代社会風俗事物考』四十四巻のうち三十六巻を訳したものとのこと。残り八巻が気になるところだね。


○目次

第一章 冠髪
  一 冠
  二 美髪・化粧
第二章 衣服
  一 周代
  二 漢代
  三 魏晉、六朝以後
  四 佩帯品
  五 女性の服装
第三章 履物
第四章 飲食
  一 昔の料理法
  二 食事礼法
  三 食器および食料品
  四 酒
第五章 住居
第六章 坐席
第七章 廁
第八章 昔の家庭生活
第九章 燈火
第十章 火・水・木の利用
第十一章 周代の車馬
第十二章 漢代以後の車馬
第十三章 城郭
第十四章 都市の道路
第十五章 商業
第十六章 祭祀
第十七章 祝日
第十八章 迷信・禁忌
第十九章 医療・追儺
第二十章 学校
第二十一章 文具
第二十二章 結婚
第二十三章 喪礼
第二十四章 葬儀
第二十五章 墳墓
第二十六章 敬礼
第二十七章 訴訟と刑罰
第二十八章 官吏の生活
第二十九章 平民の任官制度
第三十章 賦役と戸籍
  一 租税
  二 夫役
  三 戸籍
第三十一章 奴婢の売買
第三十二章 旅行
第三十三章 軍事
第三十四章 各種の遊戯
第三十五章 社会雑事
第三十六章 芸妓

2007年7月29日三国志学会第二回大会


  • 2006年12月27日(水) 22:35 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,268
研究  下記のブログより三国志学会の学会誌『三国志研究』第一号が発行されたことを知った。

・古代中国箚記
http://ancientchina.blog74.fc2.com/
・『三国志研究』第一号
http://ancientchina.blog74.fc2.com/blog-entry-48.html

 ついに発行されたのか、と興味を抱いていて、ふと何か肝心なことを忘れていることに気付く。
 あわててうちの郵便受けを見てみると、三国志学会からの封筒が届いていた。中をあけてみると、プリントと『三国志研究』第一号が入っていた。そうそう申し込んだんだった。

・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/

 プリントには次回の三国志学会第二回大会の予定もかかれてあった。

 三国志学会第二回大会
会場:大東文化大学板橋校舎多目的ホール
日時:2007年7月29日日曜日 10:00-17:00

 『三国志研究』第一号の編集後記によると、この予定は変更の可能性もありとのこと。

<2007年7月1日追記>
会場は「大東文化大学 板橋校舎 30114教室」に変更になったようだ。

・三国志学会第二回大会のプログラム発表
http://cte.main.jp/newsch/article.php/636

<追記終了>

 話を『三国志研究』第一号に戻し、下記に箇条書きで記す。

・『三国志研究』第一号
発行:2006年12月15日
価格:1500円
ISSN:1881-3631
内容:
 三国志学会 設立趣意書
 三国志学会会則

 講演
  狩野直禎  私と三国志
 論考
  石井 仁  呉・蜀の都督制度とその周辺
  和田英信  建安文学をめぐって
  竹内真彦  呂布の装束 ──その意味についての考察
  渡邉義浩  九品中正制度と性三品説


 講演と論考の前者三つは三国志学会第一回と関連し、論考の四番目はこの第一号で初お目見え。関連したものでも下記リンク先からもわかるように、タイトルを変えているものもある(まだ中身は読んでいないが、それは後日、じっくり読むとしよう)

・2006年7月30日「三国志学会 第一回大会」ノート
http://cte.main.jp/newsch/article.php/395

 第二号の現行の締め切りは2007年3月31日。第一号の編集後記によると「研究者以外の方々の原稿も広く募集しております」とのことなので興味のある方はどうぞ。

「長沙呉簡の世界」ノート4


  • 2006年11月14日(火) 00:23 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,193
研究

・「長沙呉簡の世界」ノート3からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/428


 お昼休みも終わり。次の報告へ。

○報告IV(13:30~14:05):王素(中国・故宮博物院)「中日長沙呉簡研究述評」

 13:40スタート。予稿集にA4で13ページの資料がある。中国語のご報告ということなのでそれは中国語(繁体字)で書かれている。巻末の5ページにわたり中國・日本で人物ごとに長沙呉簡の研究が論集・論叢8つからリストアップされている「參考文獻略稱」は役立ちそう。

※注
 ご報告は中国語だけどそれが終わった段階で、日本語での要約があるとのこと。清岡にとって中国語はさっぱりなので、ご報告中、中国語のわかるしずかさん(短期留学帰り)の予稿集のページめくりに合わせながら、ご報告を聞いているそぶりにつとめた(笑)。
 というわけでここではご報告本編というより日本語要約のノートとなる。

 1996年に出土された長沙呉簡、その研究はすでに史料集は2つ、論文集が8つだされ、関連論文は100点を越える。研究内容は非常に広い。ここでは中日両国の参照論文だけとりあげる。論評して、中日両国の研究の趣向や方向について述べる。

一 關於長沙呉簡的性質
※この小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。

 まず長沙呉簡の性質について。[木當]案(役所の文書)であることは間違いないが、どの役所に帰属するものか、三つの説がある。
※以下3つ、予稿集の写し

 (一)長沙郡有關各曹文書[木當]案(胡平生・宋少華1997A・1997B)
 (二)臨湘縣・長沙郡文書[木當]案(王素・宋少華・羅新1999A)
 (三)臨湘侯國田戸曹文書[木當]案(關尾史郎2005)

 (三)については新しい説。この性質について検証をまつ必要がある。

二 關於≪田家[艸/別]≫的性質

 いわゆる≪田家[艸/別]≫の性質について。今回でも何度か触れられているようにこの大木簡の性質について主に九つの説があげられている。その中の(三)納税人總帳(關尾史郎1998・2001A、伊藤敏雄2003)と(四)郷租税簿(張榮強2001・2003)の二つが有力だろう、とのこと。

三 關於≪田家[艸/別]≫田地的性質

 ≪田家[艸/別]≫の中で言及される田地について。

(一)二年上限田
※この小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。

 主に六つの説があるうちの(4)根據輪耕制制定的按照二年一墾標準収取官租的規定(張榮強2001・2003)と(5)以二年為周期進行輪耕或休耕的田地(呉榮曾2001、孟彦弘2004)の二つ。総合的に見ればこの二つの説が正しく、それ以外は成立しないだろう。

(二)火種田
 主に五つの説があり、(4)火耕水耨田(張榮強2003)と(3)刀耕火種・燒兩次耕種・夥同互助耕種三田選一(呉榮曾2001)の二つが妥当。「田家[艸/別]」であり稲を収穫しているので(4)だろうと王素先生が考えている。

(三)餘力田與餘力火種田

 主に六つの説があって厳格に言えばそれぞれ根拠があるがどれも充分ではない。(※清岡注。このあとのところはよくわからず)

四 關於≪田家[艸/別]≫的統計錯誤

 ≪田家[艸/別]≫にでてきた統計上の誤りについて。土地面積や合計などの数に大分、誤りがある。これについて主に三つの説がある。具体的に、共通にあがっているある郷の特定の郷吏が誤ったものだろう、という説であろう。

五 關於丘的性質及其與郷・里的關係

 非常に重要なこと。丘と郷・里の関係。主に十の説。十のうち三つが妥当。(三)丘陵地區村落(王素・宋少華・羅新1999、張榮強2001、李卿2002、宋超2005)、(四)居住地或居民點(關尾史郎2001B・侯旭東2004)、(五)含有田地的居住地。「丘」というのは孫呉時期特有のものだと思われていたのが、先ほどの報告にもあったように後漢時期では「丘」と「里」が併用されている地域もあるので、孫呉時期特有という説は誤り。この「丘」というものの性質を理解するのに王素先生はご自身の一つの経験を紹介し、それを参考にしてほしいとのこと。つまり1969年冬に湖北省荊門県にいったときの話。そこは典型的な丘陵地区で山間に細長くのびる、「沖」(チョン)と呼ばれる低地が多数あった。それぞれに○○沖って言う名前が付いていた。細長いのでいくつもの行政単位に分かれていた。例えば土地の農民に「あなたはどこの人ですか?」ときくと「▽▽生産隊の人間で○○沖に住んでいる」と答えた、とのこと。これについて生産隊が当時の「里」に相当し、沖が当時の「丘」に相当すると考えれば、この問題はすっきり解決するのではないか。

六 關於戸口簿籍及其相關問題

(一)戸口簿籍的分類與定名

 まず戸籍簿の分類と名前の付け方。ここでは主に七つの説がある。この中で(七)吏民年紀簿・叛走人名簿・師佐年紀簿(關尾史郎2005)が最も孫呉時期の実際の状況に即しているだろう。

(二)戸口簿籍所見“殘疾病症”

 戸籍の中にある傷害や病気の問題について。ここでは12種類の見解がある。諸説入り乱れ結論がでない。多くの説にはどれも賛成できない。それらの中で傷害や病気が免役の目的なのか、そういった観点を高く評価している。また何の病気がどれにあたるかというのも検討しなければならない。

七 關於邸閣・倉・庫及其相關問題

(一)邸閣的性質與作用

 「邸閣」という言葉について。五つの説がある。鍵は「關邸閣」という言葉の「關」をどう理解するか。「關」というのは動詞だという説があり、王素先生はそれには道理があるとのこと。

(二)三州倉・州中倉及庫的性質與作用

 これについて七つの説がある。ただ倉・庫吏が県吏である、ということは成立しない。州中倉は郡倉である、と王素先生は考えておられる。倉と庫は一緒に存在しており、庫は倉に附属している、という考えをどちらかというと支持している。

(三)邸閣主管與倉吏・庫吏的身分

 邸閣に関係する吏の身分について。これは州吏県吏の一種の職役だろうという意見に賛成している。

小結
※このタイトルもレジュメの写し

 非常に多岐に問題がわたっているが、非常に大事なところに、中国と日本の研究者の注目する問題に違いがある。中国では賦役とか身分とかに注目するが日本ではあまりない。日本では基礎的な研究を重視するが中国ではそういう研究は非常に少ない。両国で共同で努力することは非常に大事である。日本の多くの研究は重要で、この分野に非常に貢献している。呉簡について新史料が続々と現れるのでこの分野の前途は非常に明るい、と信じているとのこと。

 質疑は特になし。


・「長沙呉簡の世界」ノート5へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/642