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「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート3(2008年9月14日)


  • 2008年9月26日(金) 19:07 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,214
研究

※前記事 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復


パネルディスカッションの様子 2008年9月14日15:55、国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」のパネルディスカッション開始。
 ひそかに写真を撮る。分かる人には分かり、知らない人には誰なのか分からないという肖像権の保護的な良い感じの撮れ具合。

 以下、清岡の個人的に興味のあるところだけについてのノート。


●パネルディスカッション:司会・葭森健介氏(徳島大学)

 まず司会の葭森先生から今回のそれぞれの発表について大まかに紹介される。

 次に全体の発表について、明治大学の氣賀澤保規先生からそれぞれコメントが述べられる。
 まずシンポジウムのテーマについて。氣賀澤先生は「魏晋南北朝史像の再構築」という点、何から何を再構築するのか、を意識していたという。

 まず「晉辟雍碑の再検討」について。晉辟雍碑は非常に面白い資料。時代的には三世紀後半、年代的に立碑したのが278年、西晉の武帝の時で、碑を立てたのは「皇太子になったところの恵帝をヨイショする」ため。皇太子が辟雍に来て参加することを讃える。後漢の顕彰碑からの流れを持つ。碑陰の方で膨大な人の数が存在する。
 氣賀澤先生にとって、もう少し踏み込んで欲しかったことは、その中に後漢時代に門生故吏の関係があり、福原先生の言葉で言うと、それが(晉辟雍碑では)国家、全国レベルの門生故吏の関係がくみ取れるのではないか、ということだが、全国レベルの門生故吏の関係とは何か、どういう構造をしているのか、この辺りのことをもう少し具体的に出してくれれば良かった、とコメント。
 もう一つはこの時代において地方名望家から貴族へといった点。貴族制の時代がやってこようとする、そのある種の一面をこの碑が示そうとしている、そこらへんをもう少し具体的に、この碑から何を時代の姿として見て取れることができるのか、そこに「再構築」の問題があるのではないか、ということに関心があった。
 辟雍碑という史料というのはいろんなところにあるんだと言われている。最近、碑の敷の部分が見つかったということを知っている。碑は路肩に置かれていると言われるが、考えにくいことなので、きっちりとした所在状況を抑えてみておく必要があるのでは? 一般に売っている史料は模刻の場合が多いので、史料そのものの位置付け性格付けが必要となってくると思った、と。

 「両晉南朝墓誌と公文書」について。両晉南朝墓誌の中に「詔」とか「策」とか「札」とか、それに関わる史料が入ってくる。これは貴重な提言。実は東晉のものは見つかっていないという。この問題は実は後の時代、唐代隋代まで波及してくる問題。それをどう受け止めるか。公文書が墓誌の中にどの程度の形で組み込まれてくるのかということまで今後、考えていく問題があるのかな、と思った。その先にどういう見通しを持ったらいいのかということを聞きたい。

 (※省略)

 16:21。ここで司会から事前に回収した質問用紙からの質問を先に公表し氣賀澤先生の質問と合わせて回答してもらうという主旨が告げられる。
 まず金沢大学の安部聰一郎先生から福原先生への質問。辟雍碑の意味について、碑陰の題名のところから門生故吏関係と地域的偏在の二点について注目されていたが、太学という場において例えば涼州出身者を重点的に門生故吏関係に組み入れていくのはどういう意味があったのか。
 東北大学の川合先生から中村先生への質問。詔書が墓誌に利用されていることについて。実は墓誌以外に○○○(※清岡注。聞き取れず)の自叙の中にも「○○○○○」(※清岡注。やはり聞き取れず)が引かれているところが気になった。こういうのもどこかに関係するのではないか。自叙の中の公文書と墓誌に使われているものとの関係性は?
 大阪市立大学の室山先生からの質問。北朝の墓誌にも詔、制がそのままの文章にでてくるが、墓誌にこういった公文書が記される意味、目的、効果について何か考えはあるか。

 福原先生からの回答。今朝掲げた拓本は模刻から(拓を)とったのではないか、という質問だが、絶対違うとも言いがたい。
 「ま、四千元もするし」との発言で場内を沸かす。
 原拓ではないかと思う。あれが模刻の拓本だとすると、その模刻の碑はどこにあるという疑問もある。
 この碑から何が言えるかという質問について。(繰り返しになるかもしれないが)碑を立てるという行為自体が後漢時代に始まって盛んになる。どこが舞台になるかというと郡レベル、地方、郷里というよりか民間というよりか、郡太守などの官吏が関わる。そういうところが受け継がれていた。その一方、「立碑の禁」という形で禁止した。二重性がある。その碑の内容は行礼だが、それ自体も後漢時代に地方で流行した。今日、配布した別紙の「参考文献」に示す呂思勉「郷飲射」(『燕石続札』、上海人民出版社、1958年)に地方官がそういうことをやったということが集められている。そこからヒントを得た。ちょうど内藤湖南が「貴族制の成立」で掲げた、いわゆる郷里から名望家から貴族が誕生した、(表面的かもしれないが)それと類似している。これとイコール貴族制とは直接、結びつかないかもしれないが、貴族制があるとするならば、貴族制が生まれた母体と同じものからこういう構造がでたんではないか。民間から国家へ、しかし郡レベルのところから。そういう意味では後漢と西晉とに繋がりがあるという感じだ。後漢というのは立派なものを作る物質的な時代に対し、西晉とは精神性、つまり表面的にはショボいが内面的には充実させていく、文学とかそういうのが盛んになっていく。共通性はあるが変化していく、そういった繋がりがある。貴族制が誕生した同じ動きがここにも二重に、立碑と行礼という点で見られるんじゃないかと考えた。
 それと関連し、また安部さんからの質問に関連し、門生故吏というと極端に言うと、地方にあった先生と学生、あるいは主と属僚、その関係が、「立碑の禁」など禁止する方向だが、この場合だと皇帝皇太子と学生の間で言えるかどうか。後漢の場合でも地方官が親臨するわけであって、実際には先生ではないわけであり、ちょっとズレがある。ただ今日説明しなかった、釈奠礼があって、そういう面があるのかと。
 涼州の人について。禿髪樹機能の反乱の地域からは誰も来ていないが、西域、敦煌郡、特に西平郡の人が「散生」という特別枠で来ている。なぜここを重視しているのかよくわからない。なぜここを重視して旧蜀漢を重視しないのか。当時、敵国の呉があるので、蜀漢の方を重視した方が政策として良いのではないか、と思う。ただ西平郡の人が多いということは事実。これから考えていきたいと思う。

 中村先生からの回答。元々の問題関心は、詔が出た場合、ありがたく受け取った方がそれをどういうふうに扱うのか、後生大事に置いておくのか、ある種の先祖代々の社会的なあるいは政治的なポジションを証明するものとしてありづづけるのかということで、これが使えないかな、と思った。(※清岡注。自叙に関しての具体名が出ていたが、それ自体、清岡が知らないため、この記事で書けず) そういう文脈で考えることができるならば、西晉や梁の墓誌に詔を引用することに一脈通じるものがあるのかな、と思う。少し話がはずれるが、南朝の宋の元嘉の末から力役に関連し戸籍の偽りが行われるが、偽りの仕方の中に辞令に対し、年号を間違えたり干支を間違えたりする誰が見ても分かるような、そういう誤りをおかしたような形で戸籍を偽造しようとするというのがある。これは民間に関したことだが、そういう話からすると干支の付いた詔というのが各家にはあるということが前提になっているのかなと思う。荀岳のような形の干支から始まる詔が任命の時ではなく、後生大事に家に置いておかれたのかなと思う。
 北朝の方がもっと詔を引用するケースが多くて、確認したのはまだ一例だけだが「門下」から始まる詔がそのまま引用されているものがある。「制詔」から始まるのもある。これ自体は公文書からいうと非常に面白い現象だと思う。こういうことは始めたばかりなので今後、傍証みたいなのを探しながら話を詰めていきたいと思う。

 (※省略)

 辟雍碑の所在地について趙水森先生からの回答(※清岡注。但しこの記事では通訳を通しての記述)。私は洛陽で23年間仕事をしてきたが、あの碑についてよく知っている。あの碑があそこにあるかは元々、太学だったからだ。歴史の中であの碑の存在が忘れられ、民国時代、ほとんど新中国成立に近い時期にようやく再発見された。ただその時にはお金がなかったので、あの碑の保護ができなかった。ただ○○(※清岡注。聞き取れず)の中で保護する形をとった。模刻ではないか、ということだが、あまりその可能性はないのではないか。特にあれが70年代に国家の一級文物になるときに、非常に多くの学者があそこに行って様々な検討を行ったんで、私はそれらの学者の目を信じて良いのではないかと思う。当時の学者は偽刻か真刻かというのを考えたのであって、模刻だったのではということはそれほど考えなかったかもしれないが、しかし、それも問題ないのではと思う。福原先生の拓本がどうなのかという問題についても、私が見た感じでは本物だと思う。ただ現在ではあの碑についての模刻もできており、これから購入される場合は原石か模刻かというのを注意する必要がある。

 (※省略)

 17:39終了。この会場は18時までに撤収しないといけないということだそうな。

●閉会の挨拶:關尾史郎(新潟大学)

 この科研のプロジェクトは今年度で最終とのこと。

 17:43閉会。

※次記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日)



 以下、余談。
 というわけで、清岡はそそくさと会場を後にする。
 帰りは大崎駅ではなく五反田駅へと向かう。というのもドキュメンタリー番組『ガイアの夜明け』でモスバーガー五反田東口店が紹介されていてそこで食事を摂ろうと思っていたため。

・日経スペシャル ガイアの夜明け
http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/

・MOS BURGER
http://www.mos.co.jp/

 そこは24時間営業で、深夜はシニア層の店員を多く雇っているらしく、気遣いの良い接客で「モス・ジーバー(爺婆)」の愛称で好評だそうな。そこで地域限定期間限定のモスの新メニューの岩手県産南部どりバーガーを食べくつろぐ。今日、初めての食事。後日、別の地域限定のマッシュルームバーガーを食べたけど、南部どりバーガーの方が私の好みだね。
 

メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復


  • 2008年9月24日(水) 00:04 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,747
研究

※前記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート2(2008年9月14日)

※以下の文はほぼ『三国志』と無関係。

 2008年9月14日11:30。国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」の会場である立正大学大崎キャンパス11号館5階1151番教室で一般聴講していた清岡は席を立ち、外に出る。

・立正大学
http://www.ris.ac.jp/

 というのもの三国志学会の年会費を払い『三國志研究』第3号や「三国志学会 第三回大会」のレジュメを手に入れるべく、その会場となる大東文化大学板橋キャンパスに向かうためだ。別に会費の支払は郵送等で行えば良いんだけど、ここは敢えてネタとして払いに行こうかと前から思っていた。そのネタというのはこの記事を見ている人が勝手に意味を読みとるってことも含まれる(笑)。
 しかし、「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」の「与北魏平城京畿城邑相関的石刻史料的整理与研究工作」以降の発表を聴けないのは残念なんだけど、まぁ清岡の興味のない時代なので良いのかなぁ、と(より正確には興味のない時代であるため少しも消化する自信がない)。後で気付いたんだけど、発表は母国語で行われ日本語訳もないため、中国語も韓国語も理解できない清岡には特に後悔することでもなかったんだけど。

 数分掛けてJR大崎駅に向かい、11:39、そこから山手線渋谷方面行に乗り込み、12:06巣鴨に到着し降りる。12:14、都営三田線(西高島平行)に乗り込む。
 今回の旅に合わせ、塩沢裕仁「洛陽八関とその内包空間-漢魏洛陽盆地の空間的理解に触れて-」(『法政考古学』第30集記念論文集)のコピーと落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』(ちくま新書)を借りたんだけど、前者は前日の高速バスの中で一通り読んだため、列車の中では後者を読んでいた。元々、店頭で少し立ち読みして面白そうだなと思っていたんだけど、借りれる当てがあったんで、買わずに借りてこの日に読んでいた。列車の中でその新書を読んで楽しんでいるんだけど、脳の別の片隅では、そう言えば店頭で見かけた後、ネット上のいろんなブログでこの本のことを取り上げていたことを思い出していた。互いに関係性があまりないいろんなブログで同じ本のことが取り上げられること、つまりブログ群に同報性が潜んでいるだな、と興味を抱く。同じような趣味を持っているから当たり前かもしれないが、見かけ上(何かのブログを参照したとかなく)、それぞれ独立しているブログが同じ報せを取り上げる現象は面白い。それにこの本に関してそれぞれのブログでは感想なり書評なりが書かれており、どれも読んでいて楽しめるし、総じて多角的にその本について知ることができる。ところが別のジャンルや層のブログ群を見て回ると、こういった楽しみ方ができなくなってしまうこともある。どこの層かはここでは特定するようなことは書かないが、最近では、北方謙三先生が今度は『史記』を題材にして書くとか、少し前ではキャナルガーデンの人物像とかを取り上げたブログ群の極端な例では、それぞれのブログ(あるいはSNSの日記)で独立して報じている点では前述の本の事例と同じなんだけど、ブログ記事で書かれている内容は単に事実が述べられ、一言端的な感想(というか動物的反応)が添えられているぐらいで総じて無個性であるため、前述の事例のように同じことを報せていても見て回って楽しむことができない。さらにはあたかも第一発見者のようなテンションで書かれるとげんなりした気分になる。その層のブログ群の中で互いに情報のやりとりがあれば、互いに意識するものだから個性が出てきて、その無個性が変わるかもしれないと何となく思っている。だけど、あるブログの書き手とそれとは別のブログの書き手の趣味趣向が互いにとても似ていて、互いに似ている記事を書いているんだけど、まるで別の国、別の世界に住んでるかの如く、互いに交流しているどころか認知している気配もない、そういうことは多々見かけるんで、いつまでも見かけ上、別々の閉じた系に居るんだろうな、と予想が付く。まぁ、ブログがネットのコンテンツの中でもより私的なものと認知されているならば、そういう現象が起こるのも道理なのかもしれないし、部外者がとやかく思うことでもないんだろうけど。どちらにせよ、清岡の脳の大半では『甲骨文字に歴史をよむ』を読みつつ、脳の局所的なところで「ブログの同報性キモい」というフレーズがぐるぐる回っていた。もちろん自分に向けたフレーズでもあるんだけどね。

※追加 古代中国の虚像と実像(2009年10月20日)

 そうこうしている間に12:31、西台駅到着。同じ東京都内と言うのに、最寄駅に着くまで一時間もかかってしまうなんて、と悪態をつきながら、そこから大東文化大学板橋キャンパスに向けて歩く。清岡は「学会の類ではスーツ」と決めていたものだから、この日はスーツ。大崎駅に行くまでもそうだったんだけど、炎天下の中、スーツ姿で歩いているためか、汗がダラダラ出てきて、歩きながらも何度もハンドタオルで顔をぬぐっていた。少なくとも次の公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」ではカジュアルな服装で行こうと決心する。おまけにこの日は前日の諸葛亭とホテルの無料パン以来、何も口にしていない。すでに一周回って特にお腹が減っているわけではなかったんだけど、道中の欧州カレー専門店の店頭で売っているカレー弁当が妙に美味しそうに見えていた。
 10分余りで大東文化大学板橋キャンパスに到着。

会場の様子道しるべ 

・大東文化大学
http://www.daito.ac.jp/

 会場となる多目的ホールは過去の三国志シンポジウムでも三国志学会大会でも使われたことがないため、どこにあるのかしばらく目が泳ぐ。そうすると道しるべを見かけ(写真のようになぜか「三国志シンポジウム」の絵が使い回しされていた)、意外と近いところにあった。昨年、三国志学会 第二回大会で見かけた方が受付をやっておられ、そこで支払を済ませ、『三國志研究』第3号や「三国志学会 第三回大会」のレジュメを手に入れ任務完了。あとで気付いたんだけど、「三劉」の発表のレジュメが1/4から3/4ページまでしかなくこれは4/4ページが抜けているのか、それとも元からないのかよく解らなかった。

・超級三国志遺跡紹介ホームページ≪三劉≫
http://kankouha.cool.ne.jp/

 会場内へ入る。広めの会場だけど、休憩中なのか、人が4,5人しか居らず、前方のスクリーンでは映画『レッドクリフ』の予告編2分33秒バージョンが繰り返し流れていた。とりあえず画面が写り込まないように映像が流れていないときに、会場の様子をデジカメで撮る。
 後から考えると戻っても清岡の理解の範囲外の発表であるため、しばらく三国志学会大会の会場に留まっても良かったが、そういう考えに及ばずすぐに踵を返し、西台駅を目指す。
 13:04、西台駅発都営三田線(白金高輪行)に乗り込む。13:21巣鴨駅着。13:26、山手線池袋行に乗り、13:54大崎駅到着。14時過ぎ、立正大学大崎キャンパス11号館5階1151番教室に戻る。五番目の発表の途中だった。

 15:40に七つの発表が全て終了し、15分の休憩を挟んでパネルディスカッションとのこと。
 休憩時間になるとすぐに教室を出る。5階エレベータ近く、エレベータ出て右側に今回、汲古書院が出店していることが目に付いていたので、直で底へ足を運ぶ。もしかすると前日、神保町で購入できなかった『漢代都市機構の研究』が置いてあるのではないかという期待を元に並んでいる書籍を見ると、有ったんで、迷わず手に取り購入する。ふと見ると全品二割引ということで結果的に得した状態だった。ちなみに『狩野直禎先生傘寿記念 三国志論集』も置いてあった。
 チラシをいくつか貰ったけど、高村武幸『漢代の地方官吏と地域社会』というのが面白そう。以前、サポ板で話題に出ていた「秦漢代地方官吏の『日記』について」も収録されているしね(あと長沙呉簡関連の論文も執筆されている方のようだ)。まずは『漢代の文物』や『漢代都市機構の研究』と同じく図書館で借りてきて、よく使うようであれば購入という流れになるね。

※追記 『漢代の地方官吏と地域社会』(汲古叢書75 2008年)



 しばらく書籍コーナーでうろちょろしていると、しずかさんと会ったんでしばらくしゃべる。昨年の三国志学会 第二回大会以来。

 というわけで時間が来たので、教室に戻る。


※次記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート3(2008年9月14日)

※追記 魏晉南北朝史研究会 第13回大会(2013年9月14日)

※追記 孫呉政権と国史『呉書』の編纂(2014年3月)

 

「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート2(2008年9月14日)


  • 2008年9月23日(火) 11:32 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,430
研究

※前記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート1(2008年9月14日)

 前記事に引き続き、以下、清岡によるノート。
 会場の前に掲げられていた辟雍碑の拓本がその役目を終えたということで外される。

●中村圭爾氏(大阪市立大学)「晋南朝石刻と公文書」

 10:49スタート。予稿集のタイトルは「両晉南朝墓誌と公文書」。
 予稿集に記した「史料」には二種類ある。取り上げる「墓誌」の該当部分とそれの「関連史料」。それに「西晉南朝墓誌一覧表」。

○はじめに

 南朝において公文書がどういう役割を果たすか考えている。一般的に文献史料に引用される公文書ではなく墓誌に引用される公文書(策、詔、札)。策は一般的には引用されない。
 現実的にどういう意味をもつか考える。文献史料の中では現実的な役割が見えにくく、墓誌に引用されておれば、少しはわかるのではないか、と。
 南朝の墓誌において引用される公文書は策、詔、札しかないため、たくさんある公文書の中のごく一部に限った分析。
 問題の所在。墓誌が公文書を引用する意味、同時に公文書が引用されている墓誌と引用されていない墓誌の違い。引用の仕方(直接引用、文献史料的に)、両者の差。

○1. 両晉南朝墓誌にみえる公文書

 両晉南朝墓誌にみえる公文書は予稿集の23,24ページの「西晉南朝墓誌一覧表」にまとめてある。確認できているのが90件。直接引用しているのはさらに少ない。東晉の墓誌には今のところ、詔などの引用は一切ない。劉宋で詔引用する墓誌が現れ、梁の詔引用の墓誌が再びはっきり出てくる。墓誌の引用のし方の偏りと墓誌の定式等を含めた発展の経過に何か関連がないかが現在の関心。東晉の墓誌は逆の意味でのヒントになるのでは、と考えている。
 内容だけでなく墓誌について形式、文字の書かれ方、文章の完成度など分析し結論を出す必要がある。

○2. 墓誌引用公文書の内容

 まず西晉の墓誌。詔という形で引用されているのは『荀岳墓誌』しかない(※その後、「西晉南朝墓誌一覧表」を見ていく)。
 『荀岳墓誌』の制作時期。「史料」/「墓誌」の該当部分を見ていく。陽と思われる部分に「君以元康五年七月乙丑朔八日丙申、歳在乙卯、疾病卒(中略)其年十月戊午朔廿二日庚辰葬…」とあるが、誌側の部分に別途「永安五年」の文字が見え、いつ制作されたかわからない。
(※清岡の感想。本筋とは関係ないが、『禮記』王制に「大夫士庶人三日而殯.三月而葬」とあって、実際に三ヶ月後に葬った記録が残っていることに感動を覚えた)
 馬衡先生だと、元康五(295)年10月に作られ、九年経って、側面に書かれている奥さんの劉氏が死んで、そのとき附葬したときに加わったのであって、息子が自分で書いたんだろう、としている。福原先生は「墓誌が元康五年に制作され、永安元年に刻み加えられたのか、あるいは永安元年に始めて制作されたのか、よくわからない。」と慎重に述べている。
 墓誌でどちらが陽か陰かわかりにくい。普通、陰と呼ばれるところに「年月日」と「詔」、詔によって任命された官職が書かれている(※予稿集に具体的な記述が列挙されている)。ここで先生が注目しているのは、例えば「二年(281)正月廿日(壬寅)、被戊戌(正月16日)詔書、除中郎」となっているところの16日に詔書を受けて20日に任命されたということ。このことに関し参考資料に、少し時代は下るが、『隋書』巻二十六百官志上 其用官式(※予稿集の「関連史料」に抜粋してある)に、詔の時間的な経緯が数日間の差として出てきている。同じようなに、八月二十五日に詔書があり、二十七日に太子舎人に除するという記載がある。具体的に公文書がどういう風に動いているか知ることができる。他には例のない事例として面白い。中郎や太子舎人に除するときには詔があるが、尚書左中兵郎、山陽令、中書侍郎には詔書の記録がない。府・州郡佐に詔書がないのは説明できるが(辟召されている)、それ以外のものには説明できない。もしかして典拠となる大事な辞令を失った?
 文献中との詔の比較。『晉書』巻三 武帝紀に「武帝泰始三年九月甲申(中略)司空荀顗為司徒」とあり、『晉書』巻三十九 荀顗傳に詔の本文が記されている。同時に『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に引用されており、荀顗へのこの詔は九月甲申詔書であろう。司徒とか司空とかの立場だから『晉起居注』に書かれるのはあるいは当然だけど、荀顗が亡くなった時の官職と同じである中書郎に起家した王濟について、起家したときの詔だと思われるものが『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に引用されている。
 わざわざそういう形で官職名を引用している墓誌の役割はどういったものなのか(※こういうことを考えている最中とのこと)。

 梁王の墓誌。かなり出ているはずだが実物として読めるのは桂陽王の蕭融とその妃の墓誌。それから永陽王蕭敷とその妃の墓誌(但し原物が残っていない)。
(※ここで「文献史料」に抜粋する『梁書』巻二十二太祖五王や巻五十一梁宋室上の話)亡くなった時の記録。梁が出来る前に桂陽王も永陽王も二人とも亡くなっている。しかしそれらの墓誌にはその年号が残っている。しかも永陽王敷の墓誌は亡くなって二十年経って作られた墓誌。桂陽王融の墓誌は実物がある。三年ほど差がある。詳しい詔がある(※「史料」の「墓誌」のところに抜粋)。興味深い点は、『藝文類聚』のところに「追封衡陽王桂陽王詔」があって、それとまったく同じ部分が桂陽王の墓誌に出てくる(※予稿で二重下線と下線で対応させている)。但し『藝文類聚』では衡陽王暢として出てくる。こういうふうに文献と墓誌で同じ言葉が引用されているが、そういう齟齬が起こっている。墓誌の詔と『藝文類聚』の詔の関係、と原作者であるの任昉、それらはどうなんだろうか。公文書というのを手掛かりにして、その当時の著名人の文集、墓誌、『藝文類聚』の関係について、意味があるのではないか、と。

 公文書の長期保存。文書発給日時と墓誌作成された年月日との時間差がかなりある。『荀岳墓誌』の場合、二(281)年から元康五(295)年または永安元(304)年までで実際には十数年、場合によっては二十年以上、公文書が保存されている。こういうことは文献ではなかなか見れない現象。梁王墓誌の場合、天監元(502)年から普通元(520)年まで。約二十年の期間がある。このケースは梁王の家に詔が保存されたのか、任昉の文集に残されたものを墓誌作成時に引用されたのかという問題があるが、ともかく詔が長期にわたって下された家で保管されているということをこれで実感できる。文献ではなかなか見れない。

○3. 各文書の書式等について

 策の書式。蔡邕『獨断』では「起年月日、稱皇帝、曰以命諸侯王三公、」とあり、このまま書式が桂陽王太妃の墓誌にある(※予稿に抜粋してある)。天監二年。他に天監三年の策は書式が省略されている。策の書式について、文献でいうと(※こちらも予稿に抜粋してある)、いくつか見えるが、年月日から起こしたものは残っていない。そういう意味で天監二年の策は『獨断』の書式をそのまま受け入れたいへん興味深い。

 詔の書式。先ほどの荀岳の場合にはそのまま残っているわけではないが、梁王の場合には追悼で出てくる。それについてはすでに大庭先生が書いている。西晉について『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に「(制詔)某官某某、云々、某以某為某官」と出てくる。南齊に下ると「門下、某官某某、云々、可某官、」という形に変わる。これは『文苑英華』巻三百八十沈約「沈文季加」などの文献だけでなく墓誌でもみることができる。

 札の書式。時間の関係で省略。

○おわりに

 詔や策を直接引用する場合にはやはりこれは実物が横にないとそのまま引用することは不可能なので、それを保管し、それをそのまま墓誌の上に書き写すということは一般的に亡くなった後の特権や身分保障をするという要素が大きいと思う。文書保管の時期も含め何か他に意味があるのだろうか。
(今回は省略したが)直接引用ではなくて、詔によってどこそこに遠征を行ったとかいう文言がいくつかでてくる(※予稿の「西晉南朝墓誌一覧表」において「●」でマークされている)。こういうのは命令を出された本人が詔を手元に保管していたのか、そうではなくて一般的な列伝の記載の形によって残していたのか、未だ見極めがつかない。もし直接引用するのではなくその人の事跡の中に「詔によってこういう行動した」と記されている場合、その墓誌は一般的な墓誌とは少し違う。いささか第三者的な叙述の性格を帯びているのではないか。
そういう西晉と梁以降の墓誌と、そういうのが現れない東晉の墓誌との間にそれなりに性格の違いがあるということは大まかな見通しとしては言える。

 11:30終了。


※次記事 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復

※追記 六朝政治社会史研究(2013年2月5日)

※追記 中国都市論への挑動(2016年3月31日)
 

「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート1(2008年9月14日)


  • 2008年9月21日(日) 23:01 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,849
研究

会場の様子※前記事 プチオフ会「諸葛亭へ一顧しよう!」二次会(2008年9月13日)


 2008年9月14日9:20。
 蒲田駅近くのホテルを出て、京浜東北線で品川駅まで行き、乗り換えて山手線で大崎駅まで行く。そこから歩くこと数分で、立正大学大崎キャンパスの山手通り口に着く。

・立正大学
http://www.ris.ac.jp/

 そこから会場となる11号館を探そうと思ったけど、ちょうどその山手通り口に關尾先生が立っておられて道しるべもあって、どうやら山手通り口に面した建物が11号館であってすぐそこのエレベータで5階に上がれば良いらしい。
 5階に上がったらすぐ受付があって、そこで署名し予稿集やレジュメを貰い、1151番教室に入る。スタートの数分前とあって、結構、人が入っている。「長沙呉簡の世界」の時のように向かって右側三分の一のところに先生方が固まっているというわけではないが、みな通路に近い席に陣取っているものだから、通路から遠い真ん中の席が空いている。清岡は真ん中の前の方に座る。その後、席を立ち、会場の様子を写真に納める(※今見ると肖像権保護みたいな感じで良い感じでピンぼけしている・笑)。

 というわけで、ここから以下は国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」についてのノート。但し清岡の興味のあるところしか触れていないし、中国語と韓国語を解しない清岡には書けないってのもあるけど。

※関連記事
 国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」(2008年9月14日)
 2006年3月11日「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」午前レポ

※追記 リンク:『魏晉石刻資料選注』

※追記 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題ノート(2009年9月13日)



●開会の挨拶・趣旨説明:伊藤敏雄氏(大阪教育大学)
 ※上記関連記事(上の方)からさらに引用したプログラム、以下、頭に「●」とあるのは同じ。

 10:00。
 というわけで「開会の挨拶・趣旨説明」が始まる。科研の三年目の報告だそうな。

●福原啓郎氏(京都外国語大学)「西晋の辟雍碑の再検討」

 10:05。
 予稿集では「晉辟雍碑の再検討 ─碑陰題名の分析を中心として─」というタイトル。
右上の写真のように会場には前もって何やら拓本が飾られており、それはどうやらこの発表で扱う晉辟雍碑の碑陽と碑陰とのこと。

 福原先生曰く、今日の話は現在進行形の話とのこと。
 会場で掲げている晉辟雍碑の拓本は去年の三月に洛陽の博物館で先生が購入したものという。「元々、五千元ですけど、四千元にまけて買ったものです」と告げ会場を沸かす。それは乾拓であり、一週間前に辻先生が購入された同じ四千元の拓本は湿拓とのこと。乾拓の方(書家用)が字がくっきりしていて、本当だったら湿拓の方が良いという。
 予稿集とは別に追加資料がいくつかある。そのうちの一つに辟雍碑の碑陽と碑陰の釈文がある。[顧廷龍 1931]をベースにし劉承幹『希古楼金石萃編』(1933)、羅振玉『石交録』(1941)、『魏晉石刻資料選注』(2005)を整理したとのこと。

○はじめに
 ※予稿集から引用したタイトル、以下、頭に「○」とあるのは同じ。

 西晋の碑は漢の時代に比べ非常に少ないため、この辟雍碑が目立つ。
 (※ちなみに辟雍碑は石刻拓本資料(京都大学人文科学研究所所蔵)に収録されている)
 民国二十(1931)年に洛陽近郊で発見された。この拓本は河南省博物院を初めいろんなところに展示されている。出土直後に顧廷龍・余嘉錫により基本的な考証は粗方終わっている。日本では[足立豊 1971][木島史雄 1996]があり、先生自身は「晉辟雍碑に関する一考察」(1998)を著した。この時の再検討が今回の発表。先生自身は二度ほど実物を見たという。初めは子どもにより落書きされるようなところに置いていたのが時代を経る事に碑の周りが整理されてきたそうな。

○1.晉辟雍碑の概要

 高さが3mを超え、大型の漢碑に匹敵する(※以降、碑陽や陽陰に関し部分の説明)。
 書体は隷書の八分で、書家の人もこの技法を参考にするため、拓本を売っていた人も書家には六千元で売ると言っていたそうな。
 まずこの碑が偽刻かどうかという問題があるが、まずそれはない。それは出土の経緯や内容から考えてのこと。しかし謎や問題点は残されている。
 この碑が立てられたのが咸寧四(278)年十二月。孫呉平定(280年3月15日)の一年半前。そのため碑陰に孫呉に関連する人物はいない。
 民国二十(1931)年の出土地は偃師市太学村の漢魏洛陽故城南郊の太学遺址もしくは辟雍遺址。そのため立碑地は太学あるいは辟雍の境内にあったと推定。立碑後は恐らく永嘉五(311)年の洛陽陥落に伴い倒れ地中に埋もれ、発掘されるまで地中にあった。出土後、東大郊村に運ばれ、現在、その南街の路地の奥に立っている。
 碑陽の刻文は題額、序、頌、立碑年月日からなり、題額「大晉龍興/皇帝三臨辟雍/皇太子又再莅之/盛徳隆煕之頌」と序と頌の内容が対応している。
 序の内容は司馬氏(司馬懿、司馬昭、司馬炎)の台頭の賛美で「大晉龍興」に対応。注目しべきは司馬師に言及がない。これは当時の評価?微妙な問題? 次に泰始年間の武帝の三回の辟雍における学礼への親臨の様子が描かれていて「皇帝三臨辟雍」に対応。最後に咸寧年間の皇太子司馬衷(暗愚で有名。のちの恵帝)の二回の辟雍における学礼への親臨の様子が描かれていて「皇太子又再莅之」に対応。この碑が立てられた意味は簡単に言えば皇太子をヨイショする。時代背景として皇太子の資格があるか問題になっていた。序に記された晉王朝の興盛と現皇帝・皇太子それぞれの親臨に対する頌があり、「盛徳隆煕之頌」に対応。

○2.碑陰題名の概要

 碑陰は立碑の関係者。厳密に言うと現皇帝・皇太子それぞれの親臨の行礼へ参列した者だけど、太学によっているのは、皇太子親臨へ参列し立碑した「学徒」。碑陽の序の末尾にある「礼生・守坊・寄学・散生」。400名程度の学生が主体。
 一列目のみ15行で二列目以降44行。構成要素は「礼生安平王沈弘道」のように肩書+本貫+姓名+字。ここでなぜ王沈を出したかというと『晉書』では西晉で有名な王沈は二名居るが、これは西晉で三人目かな、と。
碑陽と違い、碑陰は全体的に摩[シβ力]があり判読できない文字がある。特に両端がひどい。題名の総数は確定できないが計算上は409名。これらは五つのグループに分ける。
 第一グループ。一列目の15名。所管の太常寺の長官・次官を除けば、講義の博士(上級の学官)。注目すべきは、史書に記載のあるのは『晉書』に立伝のある4名を含め11名も居る点。対照的に第二グループ以降は無名。
第二グループ。二列目11名。下級学官で行礼の責任者であろう。
 第三グループ。二列目から六列目。題名の肩書は「都講」「主事」「礼生」の三種。大半が「礼生」(碑陽の「治礼学生」の略称)であり、「行礼」の「学徒」(実際に礼を行っている学生)。さらにこのグループは前半の鄭大射礼関係者と後半の王郷飲酒礼関係者に分けられる。鄭大射礼とは後漢の鄭玄が解釈したのに従ってやったもの。「王」は王粛。前者は咸寧四(278)年二月の大射礼、後者が咸寧三(277)年十一月の郷飲酒礼。
 第四グループ。第六列の13行目から第九列の28行目までの148名。主に「弟子」。微妙な問題だけど、国子学の学官の名前もある。ちょうどこの時期、国子学ができた。
 最後に第五グループがあるが、よくわからない。60名。多くは「弟子」。
 「礼生・守坊・寄学・散生」は「行礼」の「学徒」である「礼生」と「列位」の「学徒」である「守坊・寄学・散生」に二分することができる。五つのグループと対応すると、「礼生」は「礼生」(第三グループ)で、「弟子」は碑陽の「守坊」に対応する。学生が主体ということだけど、学官もあるのでズレを感じる。

○3.後漢の顕彰碑の碑陰題名との対比

 晉辟雍碑のルーツは漢碑、より限定すると後漢の顕彰碑。
 碑陰題名が始まった後漢の顕彰碑だと、上から下に列に分かれ、漢碑は3列が普通。曹全碑は5列。晉辟雍碑は10列。ちなみに一番長いのは南朝の梁の20列。晉辟雍碑は漢碑と比較すると大きい。
 漢安二(143)年の北海相景君碑54名など40~60名が多く、韓勅碑103名、冀州刺史王純碑200名以上であるが、晉辟雍碑は409名。
 漢碑の題名の構成要素。大半は姓名は刻されている。その前には肩書と本貫が記される。肩書は官名・爵名・職名など。(※ここで孔宙碑、張遷碑の具体例)。孔宙碑、北海相景君碑、張遷碑に見られる肩書の頭に「故」「故吏」という碑主との関係を示す語が附される例も多い。
 碑陽の序の末尾に孔宙碑「故吏門人」や衛方碑「海内門生故吏」など立碑関係者が記されていることが多い。また碑陰の篆額に孔宙碑「門生故吏名」、鄭季宣残碑(中平三(186)年)「尉氏故吏処士人」とある。このことから碑主と立碑関係者の関係は、門生故吏関係の端的な現象。
 これらに対し、晉辟雍碑は学官と太学の学生であり、主体の学生の名称が「行礼」と「列位」、「列位」の「学徒」がさらに細分化されているのが特徴。
 本貫の地名に関して。地名が記されている場合、郡県(孔宙碑)、郡のみ(王純碑、曹真碑(太和五(231)年頃)、廬江太守范指揮碑、漢碑にはほぼ無い)、県のみ(北海相景君碑)の三つに分類。晉辟雍碑は郡名のみ。
姓名の後に字、場合によっては醵金額が記される。字に関しては字が記されない場合もある。字の前に「字」と添える場合とそのまま続ける場合がある。張遷碑には数字の前に「銭」の字を加え、この醵金を当時、「義銭」(白石神君碑)や「奉銭」などと称していた。その点、晉辟雍碑には醵金はなく当然、学生が金を出した訳ではない。
碑陰題名、特にその構成要素を対比・検討した結果、晉辟雍碑は形式的には後漢の顕彰碑を踏襲している。門生故吏関係がの典型的な公偉の一つが、門生故吏が醵金して顕彰碑を立て、碑陰に名を刻むこと。碑陰題名に注目すると、晉辟雍碑は後漢の顕彰碑の系譜を引いている。列数と人数の相違は、後漢の顕彰碑が郡レベル(郷里社会)に対し、晉辟雍碑は国家レベル(全国)。
 魏晋の何度もある立碑の禁(偶然か、晉辟雍碑が立った年にも立碑の禁が出ている)を挟んで、後漢の顕彰碑と晉辟雍碑の間に断絶がある。つまり晉辟雍碑は国家による例外的な立碑。立碑の背景に存する門生故吏関係の否定を含意していると推測。ある意味、中央による回収吸い上げという、科挙における殿試の創設を連想せしめる動きは西晉王朝国家の性向を窺わせる。

○4.碑陰題名の本貫に対する分析

 すでに前稿([1998])で検討した問題。当時の敵国である孫呉の版図内の揚・広・交の三州はまったくないが、すでに西晉の版図に繰り込まれて十五年になるにもかかわらず、旧蜀漢の版図に含まれていた梁・益・寧の三州も梁州の一名のみ。旧蜀漢の人士が入洛・出仕していたであろうにもかかわらず、旧蜀漢出身の学生が居ないのはどういう理由か。その他、北方の辺境に近い幽・并の二州も少ない。それとは対照的に同じ辺境に位置する涼・平の二州は特別枠が設けられているようだ。
 涼州において敦煌郡出身の「散生」が6名刻されているがその他の郡は一名も見あたらないのは泰始五(269)年頃に勃発し咸寧五(279)年(立碑の翌年)に終息した禿髪樹機能の反乱の影響であろう(樹機能は咸寧三(277)年に本拠地を武威郡に定めた)。
 これらは当時の西晉王朝を取り巻く国際・国内状況が生々しく迫っている。
 「趙郡」(8名)と「趙国」(7名)が併存している点について。「趙郡」の場合、全員が第三グループに属する礼生で、「趙国」の場合、第三グループに属する礼生は一人もおらず、治礼舎人が1人、残りは弟子(第五グループ)。何を意味するか。ミスや不統一ではなく、碑陰題名の原稿作成の際に基づいたであろう名籍類の段階で異なっていたのだろう。司馬倫が琅邪王から新たに設けられた趙王に転封されたのが咸寧三(277)年八月癸亥(碑が立てられた前の年。『晉書』武帝紀)。礼生の場合、これ以前の名籍、弟子らの場合、これ以後の名籍に基づいていることになる。礼生はよくできる、しかも容貌の優れた人が選ばれたのではないかと言われているが、少なくとも長年、太学に居た人。
 碑陰題名の学生は様々な要因により偏在していた。偏在として連動してさまざまな肩書を有していた。

○5.晉辟雍碑の歴史的意義

 南方の孫呉と対峙していた泰始年間・咸寧年間の都洛陽の城南の辟雍において学礼への皇帝・皇太子自身の臨席、およびそれに対する顕彰のための立碑には、その背後に新たなる権威を創出せんとする強い意志が感じられる(※この記事のこの文はほとんど予稿集の写しになっている)。西晉王朝にとっては、秦漢帝国瓦解後の魏晋国家の課題、曹魏滅亡後の西晉の課題という二重の課題があり、学礼親臨と立碑との二段階の演出はその試み。
 両者の目的は、礼教政策による視覚的な権威の創出であり、同時期の国子学の創設などとともに「礼教国家」建設の一環であった。同時に立碑当時、二十歳の暗愚な皇太子司馬衷の箔付けをも兼ねた。厳密には咸寧年間の皇太子の親臨と晉辟雍碑の立碑、「盛徳隆煕之頌」の直接の対照は皇太子の顕彰にあった。
 立碑の主体に関し武帝、側近の官僚、儒学関係の学官などが想定されるが、建前かもしらないが、碑陽の末尾の表現だと「行礼」「列位」の学生こそが主体と明記。碑陽の末尾に立碑の主体を示し、それに対応し碑陰に具体的な題名を刻すという形式は、後漢の顕彰碑のそれの踏襲。後漢の顕彰碑を支えた門生故吏関係(晉辟雍碑では門生の関係)を何らかの形で生かそうとしたのではないか。碑陰には学生だけでなく学官もふくまれており、ズレがあり、そこには西晉王朝の「下」から自発的に盛り上げという演出が馬脚を現しているのではないか。強いて言うなら門生故吏関係の利用。主体の学生も本貫の点で、当時の西晉の版図全体といえ、さまざまな要因による地域偏在などが見られ、当時のさまざまな地域の状況が如実に反映している。
 『洛陽伽藍記』穀水の条によると、当時、太学には熹平石経、正始石経、『典論』碑、太学賛碑、太学弟子賛碑などに、泰始二(266)年には晉辟廱行礼碑が加わるなど石碑が林立していた。『洛陽伽藍記』に記載はないが、立碑の禁の最中、新たに立てられた巨碑、晉辟雍碑は当時の人々の目にどのように映ったか。

◎1'.郷飲酒礼と大射礼の歴史的展開
 ※予稿集とは別に用意されたプリントのタイトル

(※プリントの表側には文章で書かれており、それと違い口頭では簡単に述べられる)最初、氏族共同体から始まった。儒学の中に取り込まれた。後漢時代に郡レベルでいろいろ学校で行われた。後漢末になると行われなくなり、国家レベルになる。鄭玄や王粛の学説を利用して復活する。
(※さらにプリントの裏側に、【行礼】【親臨】【立碑】【碑陰題名】【内藤湖南】の項目について、後漢と西晉との対応表がある。それについて説明。最後の項目では「地方の名望家」と「〔中央の〕貴族」。現在進行形で考えておられるとのこと)

 10:47終了。


※次記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート2(2008年9月14日)
 

公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」(2008年10月11日12日)


  • 2008年9月 8日(月) 22:21 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,465
研究

・關尾史郎先生のブログ
http://sekio516.exblog.jp/
・2008年公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」
http://sekio516.exblog.jp/8583706/

上記ブログ記事から下記へ引用。
※但し他のソースを参照しつつ日付を一部訂正。

--引用開始---------------------------------------------------------
日 時:2008年10月11日(土),12日(日)
会 場:愛媛大学法文学部,8階大会議室
日 程:
 10月11日:公開講演(愛媛大学法文学部人文学会との共催)―午後3時~6時
  藤田勝久氏(愛媛大学)「中国古代の簡牘と記録簡―日本古代木簡との比較―」
  今津勝紀氏(岡山大学)「古代の荷札木簡について」
ミニシンポジウム
 10月12日:研究発表―午前の部(午前9時~12時)
  王子今氏(中国・中国人民大学)「中国古代交通システムの特徴―秦漢出土資料を中心として―」
  金秉駿氏(韓国・翰林大学校)「古代中国南方地区の水運」
  上野祥史氏(国立歴史民俗博物館)「漢代北方の地域社会と交通―県城遺跡と漢墓の技術から―」
10月12日:研究発表―午後の部(午後1時30分~5時)
  松原弘宣氏(愛媛大学)「古代交通研究の現状」
  佐藤 信氏(東京大学)「日本古代の交通と出土木簡」
  近江俊秀氏(橿原考古学研究所)「考古学よりみた古代道路研究」
  シンポジウム「古代交通と出土文字資料について」
  コメンテーター:角谷常子氏(奈良大学),谷口 満氏(東北学院大学)
入場無料・事前申し込み不要
主 催:愛媛大学「資料学」研究会,愛媛大学研究開発支援経費・特別推進研究プロジェクト,新潟大学超域研究機構プロジェクト,東北学院大学アジア流域文化研究所
共 催:愛媛大学法文学部人文学会 
--引用終了---------------------------------------------------------

・愛媛大学
http://www.ehime-u.ac.jp/

ここが「三国志ニュース」なもんだから、お見苦しいながらもいちいち関連性を説明しないといけないんだけど、シンポジウムの発表の取り扱う範囲に三国時代の前の漢代が含まれており、交通に関し共通することは多いのだろう。
というわけで、私が興味のあるのは12日午前中に集中している。
JRからの正式発表はまだだけど、例年であれば「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」の利用期間なので、今年もあるのだったら、それを利用して行くのもいいかも。土曜日を往路に当てて、日曜日に午前の発表を聴講しおえたら、すぐに復路に着くという方法。私の住居から片道10時間程度。

<9/11追記>
というわけで下記のサイトによると、「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」は1枚3回分で9180円。利用期間は2008年10月4日-19日。

・JR西日本
http://www.westjr.co.jp/

<追記終了>

※関連記事
 国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」(2008年9月14日)
 三国志学会 第三回大会

※追記 「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日)


※追記 資料学の方法を探る(2011年11月26日)  

メモ:三国志ジャンルと消費2


  • 2008年9月 2日(火) 21:00 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,653
研究  「三国志ニュース」を見て下さっている方にはほとんど関係ない内輪な話なんだけど、今回の記事で「三国志ニュース」における記事の通し番号が1000を迎えることになる。但し、欠番は結構あるので、記事が1000報あるというわけではない。
 それを記念して、三周年のときに書いたように、「三国志ニュース」の今までの記事を振り返るみたいな企画も考えたけど、特にピンと来るのが思い付かなかったので、極々、清岡の個人的なことを書いてお茶を濁してしまおう。個人的な話に留めないと角が立つってのもあるけど(笑)

・蒼天三国志blog
http://blog.livedoor.jp/arrow12ds/
・thinking 2008
http://blog.livedoor.jp/arrow12ds/archives/51452120.html

 上記ブログ記事に刺激を受けてあれこれ三国志ジャンルのことを考えていた。中でも「二次創作」というキーワードに反応してしまう。

 「二次創作」とは、ある創作物(作品)からキャラクターや設定などの要素を抜き出して来て、それらを自らの創作物において使用する創作のことを指す。時には複数の創作物から要素を抽出する場合もある。
 こう書くと中には何かまとまった作品を想像される方もおられるだろうが、多くの二次創作物は一次創作がある前提(受け手が一次創作を知っている前提)で成り立っており、そのため、すでに一次創作で出ているキャラクターの性格や設定などの要素を説明する必要はなく、結果的にそれ自体が独立していない断片的なものとなりやすい。
 以上はもちろん三国志ジャンルに限ったことではなく一般的な話である。余談だけど、「二次創作」は「創作」とあるもののファンにとっては消費の一形態のように清岡は最近、思うようになっている。

 上記ブログでは、三国志ファンの間で二次創作が盛り上がっている、と書かれているのかもしれないが、ここは敢えて、流通する最近の三国志関連創作において二次創作的なものが盛り上がっている、と受け止めていこう。

 とは言っても流通している作品において前述した二次創作にありがちな「それ自体が独立していない断片的なもの」はほとんどないように清岡は思える。それは単独で流通し消費される前提のものだから他の創作物に依存する訳がないという先入観が清岡にはあって、正しく認識できてない可能性がある。人によって捉え方は違うだろうし、現に仮装士 義さんの見方だと最近の作品は「三国志を知っている前提」のものが多いとのことだ。

 ここで話は前提条件に立ち戻る。「三国志関連創作(作品)」と言う以上、『三国志』なり『三国演義』なりをベースにするのだから、二次創作的(あるいは多次創作的)になるのは当たり前だ、と言われそうだけど、ここで清岡が着目しているのはそういうことじゃない。と言うのも、最近の三国志関連創作は『三国志』または『三国演義』以外のところからもキャラクターや設定などの要素を取り出していないか、ということであり、そういう意味で二次創作的な作品が盛り上がっているんじゃないか(流通し消費されているんじゃないか)、ということだ。
 『三国志』または『三国演義』以外のところ、というのは何も一つにまとまった特定の作品からとは限らない。それらは他作品に見られるようなナルシストなキャラクター性であったり、異質なデザインであったり、実在するタレントであったり、女性化だったり様々だ。もちろん例えば『BB戦士 三国伝』みたいに、あからさまにまとまった特定の作品(あるいはシリーズ)から抽出するケースもある。

 こういった二次創作的な作品が次々と出る最近の三国志ジャンルに清岡は違和感を覚えているんだけど、どうもそれをうまく言語化できずにいた。
 とりあえず無理からにでも言語化しようとし「データベース消費」という言葉を借用し、以前、ある記事を書いた。無理からに一気に書いたせいか、どうも書いていくうちに「データベース消費」という言葉の意味がズレてきていた。今、読み返すとそのズレっぷりを恥ずかしく感じ、記事を削除するか訂正するかすれば良いんだけど、前者は惜しく思え、後者は時間的余裕がないということで、そのまま放置しておこう。
 とは言え、そのまま三国志ニュース内で「データベース消費」を誤用したままにしておくのも閲覧者に申し訳ないので、下記に定義の書かれた部分を引用しておく。

東浩紀/著『文学環境論集 東浩紀コレクションL』(講談社)P.570より
--引用開始---------------------------------------------------------
「データベース消費」とは、個々の作品やデザインがさまざまな要素に分解されたうえで、作品という単位への顧慮なしに直接に消費され(たとえば原作は読まれないのにキャラクター商品だけは売れ)、ときに消費者の側で再構成されてしまうような消費様式を意味する。
--引用終了---------------------------------------------------------


 話を本筋に戻し、清岡の違和感を感じる根元の一つに、制作側はなぜ『三国志』または『三国演義』以外のところから抽出した要素を創作に使うのだろうか、というものがある。すぐに「それはその要素に商業的に成功した実績があるから」と答えが出るんだけど、どうも清岡は割り切れない。
 また、そういったところからいろんな要素を取り込むことによって、三国志ジャンルやそのファン層の裾野が広がるだろうが、果たして三国志ジャンルにとって他の影響はないんだろうか。こういったことを清岡自身は下記のように2002年あたりから気にかけいろんなところで話していた。

※関連記事
 2006年3月11日 プチオフ会 新宿編
 三国志ファン、コア層こわそう
 自戒! ブロマイド小説 (※個人サイト内ページ。2002年6月27日)

※追記 プレ:三国志ニュースの記事が出来るまで

 それらの記事を読み直し改めて思うのは、結局、『三国志』『三国演義』以外の要素と抱き合わせのように消費されると、ビギナーは『三国志』『三国演義』の表層だけに目が行き、深いところを知らずにいるままになるんじゃないかということ。いくら抱き合わせで盛り上がったとしても三国志ジャンルの表層で消費サイクルを早めるだけで、ビギナーは容易に三国志ジャンルから離れるのではないかという予想が付く。


※実名を出した手前、一応フォローとして参照まで下記に記事を挙げておく。

※参照記事 三国伝年表公開(2007年11月9日)


 そういった風潮において再び制作側に目を向けてみると、『三国志』『三国演義』を深く掘り起こそうとする動きよりは、むしろデータベース消費されやすいような製品を進んで出している動きが目立つ。もはやデータベース消費に抵抗できうるような作品性の高い(まとまりのある)ものは目立たなくなっている。ここらへんが1980年代や1990年代の三国志ブームと違い、「今のブームは「幹」になるような作品がない」とされている所以なのかもしれない。

※参照記事 「ビジネスにおけるキャラクター活用」にて

 清岡はこういった近況について、もはや良い悪いを論じるほど熱くなれずにいて、せいぜい消費サイクルの速さに振り回されないように、身の守りを固くし(というより財布の紐を固くし)醒めた目で静観しつつ、独自にやりたいことをやるぐらいだ。そもそも何かを消費するほど、三国志ジャンル内の製品には、清岡にとって魅力的なものはほとんどないんだけどね。

 三国志ジャンルがどう転ぼうとも、動物的に消費し続けるファン層以外にも、状況を把握しそれを論じるような、ジャンルを支えるファン層があれば安泰なんだけど、果たしてそんなファン層が支えられるほど居るのか、という疑問も湧く。

 ようやく冒頭で書いたように極々、個人的なことに話が戻ってきたんだけど、要はそういった二次創作的な三国志関連創作自体にどうも興味を持てなくなってきているぞ、ということだ。それらが社会や三国志ジャンルにどう影響を与えているかについては未だ興味はあるんだけどね。それは単に表明であって特に非難しているわけではない。

 そういった二次創作的なものを省いた場合でも三国志関連創作についても興味が持てなくなってきている。創作物に制作者の創作部分以外に『三国演義』等の後世の創作が混じるとそれを認めた時点で清岡は拒否反応を起こしてしまう。
 別に懐かしの「正史派」&「演義派」(SNSのコミュニティの噂を聞くとリバイバルしているのかな?)のどちらかを気取っているわけではなく、その創作が『三国志』ベースであろうとも『三国演義』ベースであろうとも作品の本質とは無関係であることは理屈で解っている。しかし、いざそういった『三国演義』等の後世の創作が混じったものを目の当たりにすると、強い違和感を抱き興醒めしてしまう。例えば、源平の時代に電話を出したり、フランス革命前に革命後の軍服を出したりと敢えてやっている分には気にならないが、「歴史」あるいは『三国志』を題材とした創作と銘打ちながら、何らかの考えに裏打ちされず『三国演義』等の後世の創作からも取材した創作物については違和感を抱く。どうも清岡には、制作側発信側が歴史から取材するより一つのまとまった物語である『三国演義』(挿絵も含め)から取材する方が簡単だと捉え、易きに流れているだけに思えてならない。
 『三国演義』は版を重ねるごとに数百年間、改良され続けており、制作側発信側にとって確固たるものかもしれないが、それだけを取材することで『三国志』を取材した創作とは言えない。また、監督が『三国演義』の映画化と言っているのに、配給会社の一つが「『三国志』の完全映画化」と喧伝しているケースもあり、注意する必要がある。その上、『三国志』や『三国演義』を題材にした創作物であるのに、そのまま「三国志」と名付ける、いわゆる自称「三国志」・他称「三国志」にも清岡は注意を向けている。すでにその弊害として、『三国志』が物語であると勘違いしている事例が散見されている。

 『三国演義』を含め後世の創作を交えず、三国創作を行おうとすれば、『三国志』やその注以外にも『後漢書』や『晋書』などの史書を当たることもあるだろうし、出土史料と経書類、小学類、制度史類を照らし合わせることもあるだろうし、工具書にも頼ることもあるだろうし、論文を読んで新たな観点を得ることもあるだろう。こういったように後世の創作を取り込まずとも『三国志』を含む歴史関連には、まだまだ消費財として開拓されていない箇所がたくさんあり、充分、魅力的なものも種々あるだろう。こういったことを差し置いて他の時代の方がはるかに魅力的だと三国志ファンを扇動することは自らの無知を表明しているように思える。


 随分、長々と書いたけど、そういった現状の三国志関連創作物を消費することよりも、史書の記述や既存の歴史研究を消費財に換えることに今、清岡の興味は向いているということを書きたかっただけだったりする。三国志ニュースでは後者より前者に関係する記事が多く、恐らくブログの性質上、前者の方が相性が良いためだろう。後者に関係する記事は最近では「メモ:東漢人多為舉主行喪制服」や「三国創作のための拝メモ」などあることはあるが少数派となる。
 これから先、清岡は後者への活動により多くの時間を割いていきたいため、おそらく三国志ニュースでの清岡による更新はペースダウンすることだろうね。

国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向


  • 2008年7月28日(月) 01:43 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,513
研究

・關尾史郎先生のブログ
http://sekio516.exblog.jp/
・国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」
http://sekio516.exblog.jp/8374955/

上記ブログ記事から下記へ引用。

--引用開始---------------------------------------------------------
日 時:2008年9月14日(日),午前10時~午後5時30分
会 場:立正大学大崎キャンパス,11号館5階1151番教室
主 催:科学研究費補助金(基盤研究(B))「出土史料による魏晋南北朝史像の再構築」(代表:伊藤敏雄大阪教育大学教授)
プログラム:
 午前の部(10時~12時15分)
  開会の挨拶・趣旨説明:伊藤敏雄氏(大阪教育大学)
  福原啓郎氏(京都外国語大学)「西晋の辟雍碑の再検討」
  中村圭爾氏(大阪市立大学)「晋南朝石刻と公文書」
  李 凭氏(中国・華南師範大学)「与北魏平城京畿城邑相関的石刻史料的整理与研究工作」
 午後の部(1時15分~5時30分)
  趙水森氏(洛陽師範学院図書館長)「洛陽魏晋南北朝墓誌的発現収蔵与研究」
  朴漢済氏(ソウル大学校)「魏晋南北朝時代墓葬制度的変化和墓誌銘的流行」
  窪添慶文氏(立正大学)「正史と墓誌」
  パネルディスカッション:司会・葭森健介氏(徳島大学)
  閉会の挨拶:關尾史郎(新潟大学)
入場無料・事前申し込み不要
--引用終了---------------------------------------------------------


三国志学会 第三回大会と日程が被る歴史系シンポジウムがあると前々から人伝えに聞いていたけど、これだったんだね。こちらは「入場無料・事前申し込み不要」とのことで、つまり一般でも行けるってこと?。どちらに行くか迷うところ。

※追記関連記事 公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」(2008年10月11日12日)

※追記 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート1(2008年9月14日)
 

三国志学会 第三回大会プログラム発表


  • 2008年7月19日(土) 15:42 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,013
研究

・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/

 上記「三国志学会」のサイトで、2008年9月14日に開催される「三国志学会 第三回大会」のプログラムが発表されていたので下記へ引用する。

--引用開始---------------------------------------------------------
三国志学会 第三回大会
日時:2008年9月14日(日)10時~17時20分
会場:大東文化大学 板橋校舎 多目的ホール
東武東上線、東武練馬駅 徒歩25分
都営三田線 西台駅 徒歩10分
参加費:500円(入会された方は無料です)

板橋キャンパス周辺地図

※ スクールバスはありません。都営線西台駅より、徒歩が便利です。

三国志学会年会費:2000円
入会をご希望の方は事務局からのお知らせをご覧ください。
当日、入会することもできます。


プログラム

開会の辞 (10:00~10:10)

三国志学会会長 狩野 直禎

研究報告 (10:10~12:00)

10:10~11:00
矢田 博士 (愛知大学経営学部教授)
「魏における五言詩の流行と西晋における四言詩の盛行について」

11:10 ~ 12:00
綿谷 直之 ・ 清水 健史 (超級三国志遺跡紹介HP《三劉》管理人)
「史実と民間伝承からみる三国志遺跡」


お昼休み (12:00~13:00)

講演会 (13:00~17:20)

13:00 ~ 14:20
周文業 (首都師範大学中国伝統文化数字化研究中心常務副主任)
通訳:中川諭 (大東文化大学文学部教授)
「『三国演義』版本と三国歴史地理のデジタル化とその応用」

14:30 ~ 15:50
早田輝洋 (大東文化大学元教授)
「満州語『三国志』について」

16:00 ~ 17:20
沈伯俊 (四川省社会科学院・四川大学文学院教授)
通訳:伊藤晋太郎 (二松学舎大学文学部専任講師)
「諸葛亮をめぐる疑惑を解く」


狩野直禎会長傘寿記念行事 (17:40~17:50)

『狩野直禎先生傘寿記念 三国志論集』贈呈式

狩野先生傘寿記念パーティー(18:00~20:00)

参加費:3,000円
会 場:グリーンスポット
(大東文化大学板橋校舎内)
--引用終了---------------------------------------------------------

 トピックスとしては研究者以外の方の報告が含まれていることかな。件のサイトは下記。

・超級三国志遺跡紹介ホームページ≪三劉≫
http://kankouha.cool.ne.jp/

 あと目に付くことがあって、今回、素人目に見て東洋史分野の発表がないような気がする。


※関連記事
 第3回 三国志学会大会は2008年9月14日日曜日開催
 第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
 2006年7月30日「三国志学会 第一回大会」ノート

※追記関連記事
 公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」(2008年10月11日12日)
 国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」(2008年9月14日)

※追記 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復


※追記 三国志学会&BS熱中夜話(三劉)


※追記 三国志学会 第四回大会(2009年9月5日龍谷大学)

※追記 四川省を満喫しよう!(2014年7月26日)  

メモ:三国志ジャンルにおけるデータベース消費


  • 2008年5月31日(土) 10:38 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
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    3,321
研究 <2012年1月28日追記>
アクセスログを見ると、ネットで「データベース消費」と検索するだけでリンクを辿ろうとしない、あるいは検索語句を調整しない、ネットリテラシーの低い人が多いので、お節介にも出典とそこからの引用を以下に追記しておく。

東浩紀/著『文学環境論集 東浩紀コレクションL』(講談社)P.570より
--引用開始---------------------------------------------------------
「データベース消費」とは、個々の作品やデザインがさまざまな要素に分解されたうえで、作品という単位への顧慮なしに直接に消費され(たとえば原作は読まれないのにキャラクター商品だけは売れ)、ときに消費者の側で再構成されてしまうような消費様式を意味する。
--引用終了---------------------------------------------------------

※追記。アクセスログを見ると、2012年07/27 (金) 00:57:14から不特定多数のIPアドレスから「データベース消費 三国志」とか「データベース消費 漫画」とか検索語句があるが、早稲田あたりでレポートでもでているんだろうか。07/30 (月) 16:50:35に「データベース消費と物語消費 についてのレポート」というそのものズバリの短絡的な、知性のかけらもかんじられない検索語句があったし。そんなリテラシーの低さだと、その結果はきっと評価点も低いことだろう。
<追記終了>

 以前、メモ的な記事を書いたとき、冒頭で、とあるブログの影響を受けたと書いたけど、そのブログでよく引用されていたのが東浩紀さんの著作。そこで同著の『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生 : 動物化するポストモダン2』『網状言論F改』『波状言論S改』を続けざまに読んでいる(※そういや関係ないけど、第7回三顧会で玄鳳さんが持っていた書籍は『三国志』の訳本以外だと東浩紀さんの著作だったね、確か)。
 というわけで以下、その影響を受けつつ三国志ニュースの「公式サイト」の記事を参考にしたメモ。


 よく耳にする言い回しとして「三国志という物語」とか「三国志 あらすじ」とか「三国志、その後」とか「三国志の結末」などがあり、『三国志』が一つの「大きな物語」であると誤認されている証左なのだろう。しかし、そもそも今の三国志ジャンルの大元である史書の陳寿撰『三国志』(成立:紀元280年以降)自体、一つの「大きな物語」なのではなく、王や皇帝など君主ごとに記述された本紀と、臣下ごと(一部、民族ごと)に記述された列伝の集合体であり、いってみればデータベース的側面を持っている。また『三国志』は『三国志』魏書袁紹伝に「語在武紀」(語は武帝紀に在る)、または『三国志』魏書呂布伝に「語在卓傳」(語は董卓伝に在る)とあるように他の列伝の箇所に触れることもあって、あたかもあるデータが別のデータへリンクしている箇所があり、その側面を浮き彫りにしている。
 『三国志』には本紀と列伝のみだが、他の史書、例えば『史記』には、さらに諸侯ごとに記述された成家、制度ごとに記述された書(他の史書、例えば『後漢書』や『晋書』では志)、年ごとに記述された表があり、データベース的側面が強くなっている。
 さらに『三国志』の裴松之の注は言ってみれば関連情報・詳細情報へのリンクなんだろう。また『三国志』と記述されている人物が多く共通する『世説新語』や『捜神記』などの文献はエピソードごとに収録されたデータベースとも言える。

 時代が下るとこういった簡牘や紙をメディアにしたもの以外にも、三国志関連の講談や雑劇など、生身の声や動作(楽器演奏も)をメディアとしたものが出てくる。これらはどちらかというとエピソードごとにまとめられている(※講談に関してはほとんど知らないので、こう言い切れる自信はないが)。

 さらに時代が下ると紙のメディアの『新刊全相平話三国志』(成立:紀元1321-1323年)や羅貫中/作『三国演義』(成立:14世紀)など、三国志関連を一つの「大きな物語」にまとめる動きが出てくる。
 それらの中で『三国演義』は淘汰されず、多くの人によりバージョンが変えられつつ(挿絵も入るようになり)写本あるいは出版し続けられた。

 この「大きな物語」の『三国演義』は日本にも輸入され、『三国演義』を日本語に翻訳(?)した湖南文山の『通俗三国志』(成立:紀元1689-1692年)が刊行された。
 そのため、江戸時代中期の日本では、輸入された『三国演義』を読む層、『通俗三国志』や『三国演義』のダイジェスト本を読む層、三国演義関連の歌舞伎や浄瑠璃や講談などで物語を楽しむ層の三つの消費形態出てくる。三番目の層の物語を楽しむ層は言ってみれば「大きな物語」からエピソードを切り出す消費形態の走りだといえる。

※参考記事 2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感2

 三番目の層の補足として、下記、参考記事によると詩文、川柳、掛け軸などがあったとのこと。エピソード以外にも「大きな物語」からさらに多角的に細分化して切り出し創作を加え消費されている。

※参考記事 第3回三国志シンポジウム 雑感1

 日本では『通俗三国志』が出版され消費され続け(時には挿絵も入るようになる)、それとは別に明治時代に入ると『三国演義』も出版されるようになる(これも上記参考記事の受け売り)。

 1939年8月から1943年まで『中外商業新報』(新聞)において、『三国演義』を元にした吉川英治/著『三国志』(小説、以下、吉川『三国志』と表記)が連載され、後に書籍にまとめられ、それが現在に至っても消費されている。
 日本人の手で、『三国志』を大元として『三国演義』を日本語でリライトした三国志関連の「大きな物語」としては20世紀の日本において代表的な作品となっている。
 これに、三国志関連の小説として1966年から1968年まで『週刊現代』で連載された柴田錬三郎/著『柴錬三国志 英雄ここにあり』(小説)、1974年の陳舜臣/著『秘本三国志』(小説)が続く。
 後者の『秘本三国志』は『三国演義』や『三国志』以外にも『後漢書』を参考にしており、『三国演義』の「大きな物語」とは異なる部分が多い。

 こういった小説としての「大きな物語」の消費形態から新たに漫画としての消費形態が提示された。それが1972年1月から1987年3月まで連載された横山光輝/著『三国志』(漫画)である。これは吉川『三国志』とストーリーが似ている。
 さらには1982年10月2日から1984年3月24日までNHK制作の『人形劇三国志』がTV番組として放送され(人形を使った劇の放送、『三国演義』が原作となる)、三国志関連の消費形態が小説に留まらないことが示された。
 横山光輝/著『三国志』および『人形劇三国志』はこの頃の日本(1980年代?)の三国志ブームを支えていた。

 このブームの中、それ自体が「大きな物語」という枠組みに収まらない消費形態が出てくる。それは1985年12月に発売された光栄(現コーエー)/制作『三國志』(PC88用シミュレーションゲーム)である。
 これはシリーズ化され現在、11作目まで発売されており、そのどれもイベントと呼ばれる断片的なストーリーはあるものの、基本的に幹となるストーリー、つまり「大きな物語」はない。またゲームであるため、登場する人物の特性はパラメータ化されており、その多くは消費者(プレイヤー)に明示されている。その消費形態故に三国志関連の様々な事象をデータベース的に解体する必要があったと言える。
 ここに日本の三国志関連において「大きな物語」に頼らなくとも消費できるという構造の始まりを見て取れる。

 とは言っても、三国志ブームの盛衰に影響を受けるものの、「大きな物語」の枠組みに収め消費する構造は三国志ジャンルにおいて依然、健在であり、1990年代に入ってもなお、様々なメディアでその多くが『三国演義』を基板とした作品が生産され消費された。
 1991年から1992年まで横山光輝/原作『横山光輝三国志』(アニメ)が放送された。
 1994年、中国中央電視台/制作『三国演義』(TVドラマ)が制作された。
 1994年10月から2005年11月10日まで王欣太/著『蒼天航路』(漫画)が『週刊モーニング』(講談社)で連載された。これは『三国演義』以外にも『三国志』等の史書も参考にされている。
 1996年11月から北方謙三/著『三国志』(小説)が発表された。
 1998年7月25日から2007年5月28日まで諏訪緑/著『諸葛孔明 時の地平線』(漫画)が『隔月刊プチフラワー』に続き『月刊flowers』(共に小学館)で連載された。
 これらは何らかの形で1990年代の三国志ブームを支えたと言える。

※参考記事 第8回三顧会午前1 ※リンク先のページの終盤にある


 これとは違う流れとして別ジャンルの要素を三国志ジャンルに合わせる消費形態がある。例えば、1985年7月25日発売の雑誌『小説June』に掲載された『わが天空の龍は淵にひそみて(前編)』、後の江森備/著『私説三国志 天の華・地の風』(小説)はJune系の要素を三国志ジャンルに導入し(もしくはJune系のジャンルに三国志ジャンルの要素を導入し)、結果的にそれまでの三国志ジャンルの外にあった消費層の需要を開拓した。
 もう一例としてスーパー歌舞伎の要素と三国志ジャンルの要素を合わせた作品に1999年4月に初演された松竹/制作『スーパー歌舞伎 新・三国志』を挙げておく。

 さらには1990年代に流行した対戦格闘ゲームの要素を三国志ジャンルに導入した作品が1997年2月28日に発売されたコーエーのオメガフォース/制作『三國無双』(プレイステーション用ゲーム)であり、対戦格闘ゲーム由来と思われるキャラクターを特徴付ける要素が大きく導入されている。さらに言えば、ゲーム上のキャラクター(もちろん歴史上の人物と同名)に『三国志』や『三国演義』等の伝統的な由来の要素(武器に諸葛亮が羽扇や関羽が青竜偃月刀を持つ等)以外にもオリジナルの要素もしくは他のジャンルから影響を受けた要素(降ろした長髪の周瑜や各人の服装等)を組み入れており、あたかもキャラクターごとのデータベースを構築しそれを消費させるという形態をとっている。

※参考記事 「ビジネスにおけるキャラクター活用」にて1

 この『三國無双』は1対1の対戦格闘ゲームの枠内から多人数対多人数のタクティカルアクションゲームに進化し、戦場(ステージ)の概念を取り入れ2000年8月3日に発売されたコーエーのオメガフォース/制作『真・三國無双』(プレイステーション2用ゲーム)になる。これはステージごとのデータベース的側面を有していると言え、やはりゲームの特性上、伝統的な由来の要素以外にもオリジナルな要素が加わっている。これが流行し2000年代前半の三国志ブームの支えとなった。

 かといってデータベース消費がメジャーになったというわけではなく、「大きな物語」という形でも作られており、例えば、従来のように『三国演義』を基板にしたものではなく『後漢書』や『三国志』などの史書を基板とした作品として、2001年4月10日から『文藝春秋』で連載が始まった宮城谷昌光/著『三国志』(小説)が挙げられる。この小説は地の文で(著者視点で)たびたび『後漢書』や『三国志』を引用するといった、まるでデータベースにアクセスしリンクするというような手法がとられている。尤も『三国志』と銘打たれた作品内で、同名の『三国志』から引用することは不可解な現象には違いないが。

 1990年代から流行している分冊百科に三国志ジャンルの要素(主に『三国演義』)を導入したのが、2004年3月25日から2005年3月17日まで週刊で発売された分冊百科『週刊ビジュアル三国志』(全50巻)(世界文化社)である。実質はともかく(雑誌と区別がつきにくい)、分冊百科と銘打っているため、分冊に百科(各コーナー)を入れていくという手法はまさにデータベース消費的な枠組みに入っているだろう。

 漫画においても「大きな物語」という形で作られており、2004年9月10日から『ビッグコミックスペリオール』(小学館)で連載が始まった武論尊/原作・池上遼一/作画『覇-LORD-』(漫画)が挙げられる。これは『三国演義』を基本の流れとし各所で奇抜な設定(例えば、主人公の倭人が劉備に成りすますことや、呂布と趙雲(作中では女性)との子が関平とか出てくる。)を導入している。

※参考記事 第3回三国志シンポジウム 雑感11


 また2005年1月28日から2007年5月28日まで三国志漫画専門誌の隔月刊『コミック三国志マガジン』(全15冊)(メディアファクトリー)が発売される。掲載作品がすべて三国志関連であるため、必然的な結果として各作品は互いに差別化を図り特色を出すため、他のジャンル(対象は主に漫画内ジャンル)から様々な要素を取り入れるようになっていた。時事ギャグ漫画、スタイリッシュなギャグ漫画、学習漫画、劇画、水墨画調漫画、ファンタジー漫画等。「大きな物語」の形を為そうとした漫画は少ないため、全体として様々な他ジャンルから輸入したデータベース消費的側面が強い。

 2005年3月15日からセガ/制作『三国志大戦』(アーケードゲーム、リアルタイムカードアクション)の稼働が始まる。三国志の人物(キャラクター)一人一人がそれぞれカードになっており、筐体上で手持ちのカードを実際に動かし、画面上(ゲーム上、ソフト上)の対応した人物に指示を与える仕組みになっており、ネットワークを通じ全国の誰かと対戦できるようになっている。『三国志大戦』に先んじて同社よりサッカーのトレーディングカード『ワールドクラブ チャンピオンフットボール ヨーロピアンクラブス 2005-2006』が出ているため、三国志ジャンルにこのサッカーゲームのシステム(要素)を導入したともいえる。
 『三国志大戦』において、人物のカードに『三国志』や『三国演義』に由来する人物紹介文以外にゲーム特有のパラメータの他、様々なイラストレータによる人物の肖像画(というよりイラスト)が載せられている。複数のイラストレータの手によるため全体として統一感はないものの、、様々な他のジャンルの要素を各々取り込まれカード一枚一枚(キャラクター一人一人)が特徴付けされているため、もはや『三国志』や『三国演義』由来の特徴(要素)が希薄になっているキャラクターも多い。さらには各キャラクター固有の音質でゲーム上(ソフト上)の動作に応じ内容の異なるセリフが再生され、そのキャラクターのイメージが補足され拡張されている。
 ここで特筆することとして、『三国志大戦』がキャラクターごとでデータベース消費されていること以外にも、従来の三国志関連ゲームではあくまでもソフト上のことだったデータベース的側面が、カードという形でキャラクターごとに顕在化(物質化)したことが挙げられる。これによりソフト(ゲーム。ここでは筐体)を介さない消費が可能となり(例えばカードのトレード)また消費意欲を刺激し、総じて従来のゲームよりデータベース消費を促進させている。
 さらに『三国志大戦』の続編の『三国志大戦2』から既存の三国志関連作品からのキャラクターを導入し、まさに既存作品をデータベースに取り込み、該当する作品の消費層の需要を開拓している。
 こういった商業的成功(大量に消費された)により『三国志大戦』は2000年代後半の三国志ブームを支えていると言える。
 もっとも『三国志大戦』に先んじ、コンピュータを介さないものであれば、やのまんの『三國志 赤壁大戦』『マジック・ザ・ギャザリング』の「ポータル三国志 日本語版」などトレーディングカードゲームは存在していたものの、商業的成功という点では『三国志大戦』ほど有意とは言えない。

 こういった三国志ジャンルにおけるデータベース消費の例として、他には2007年6月15日からキャラクターごとに製品として発売されている『BB戦士 三国伝』(玩具、プラモデル)が挙げられる(キャラクターを複数同包させたセット販売もある)。これはBB戦士(あるいはSDガンダム)という「大きな物語」からデータベース的に取り出した様々な要素と、三国志ジャンルという「大きな物語」からデータベース的に取り出した様々な要素とを各々、合わせ形成されている。具体的にはBB戦士(あるいはSDガンダム)のキャラクターをあたかも役者として扱い、それぞれ三国志ジャンルのキャラクターを役として演じさせる構造となっている。例えば、ZZガンダムが関羽を演じ、サザビーが司馬懿を演じている。『BB戦士 三国伝』の製品としてのキャラクターは、さらに武器、鎧、さらには手足を分離させることができ、さらには他のキャラクターと融合させ新たなキャラクターを自由に創造することもできる。それはあたかもデータベース(データ群)からデータを取り出し新たなデータベース(データ群)を作り出す過程に似ており、それがソフト上のことではなく顕在化(物質化)したものであるため、さらなる消費意欲を刺激するものであろう(※メーカーの狙いはともかく、私は対象となる消費者に聞いたわけではないため実際は不明)。
 またこれらの消費形態のイメージを補佐し拡張する販売戦略としてメディアミックスの手法が用いられている。具体的には雑誌でマンガを連載させたり、インターネットの公式サイトや各種ホビー雑誌で様々な情報を載せたり、店頭で主題歌付きのアニメーションを流したりすることが挙げられる。

※関連記事 三国伝年表公開(2007年11月9日)


※2008年5月31日10時39分、モス大塚駅北口店にて。イベントに一般参加する前なのでお粗末ながら慌てて一通り書き終える。後で書き直しや書き足しをする予定(少なくともリンクは足す)。


※追記 メモ:三国志ジャンルと消費2

佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年)


  • 2008年5月 6日(火) 17:45 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    4,468
研究 ・漢ネット・ヤマダ ~モノから見る三国志(?)~
http://www.techno3594.join-us.jp/

 佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古書院 汲古叢書31 2002年)のことを上記サイトで知って、最寄りの図書館の書庫にあるようなので行って借りてみた。
 一通り読んでから記事にすれば良いんだろうけど、それだと膨大な長さの記事になりそうなので、まずは少ししか読んでいない段階で、良書に出会えた喜びのまま記事にしてみる。

 この書籍の目次はこの記事の末に掲げている(ここでは部と章のみ)。
 図書館で借りた書籍なので、てっとり早くそれを借り続けるべきか否かを判断するため、前から順に読むのではなく、序論を読み、次に目次を見て自分の興味のある部分を読むことにした。序論の次に「第二部 都市の財政と官僚機構」の「第二章 漢代郡県の財政機構」、「第三章 漢代の官衙と属吏」を読んでいった。
 内容は章によって違うんだろうけど、文献資料と出土資料(墓室壁画、簡牘等)の照合が適度に行われており、個人的には心地よい。というわけで継続して借りることに。むしろ買いたいぐらいだけど、書籍の価格が税込みで13650円ということなので、しばらくは図書館通いが続きそうだ。
 以下、これまで読んだところで気になった箇所を少しだけ端的に箇条書き。

・和林格爾漢墓壁画についての説明文で「頭を剃り上げて弁髪を結った烏桓族が」(P203)とあったので、この時代に漢人以外の具体的な髪型が描かれているのか、と思って挿図を見ると不鮮明な絵(スケッチ?)で、よく判らなかった。引用元の書籍ではどうなんだろう?
(※『魏晋南北朝壁画墓の世界』には羌族とされている人の髪型が載っていたが)

・同じ壁画についてP205の本文と注に壁画に見られる服の色について書かれている。本文「灰衣の官吏が上級職員、褐衣が中級、黒衣が下級の職員であることを示すと考えられる」(P205)。その注ではその他の出土資料に見られる服の色が書かれてあった。「宴飲図」 主人と賓客が青袍 侍者が黒褐色の袍 「車騎図」従騎等は赤色の短衣(※注にある官吏と将士の色の違いは以前、書いた記事の再確認ができた。しかし被りものはともかく衣まで適応できるか個人的にまだ疑問の残るところだけど)

・この墓室壁画に関して、下の人物が小さく、上の人物が大きいのは、(別に遠近法の逆をいっているわけでなく・笑)、墓主にとってのヒエラルキーを絵の大小で表している。建物のデフォルメの意味まで記述しているあたり面白かった。

・一般的に官府の長官は具体的にどこで政務を執るか前々から疑問を抱いていたけど、あっさりこの疑問が解ける。例えば、丞相だと丞相府の堂とのこと。

・「後漢代の司徒府の堂は「百官朝会の殿」と言われ、天子の臨席のもとに…」(P.217) 朝会がどこで行われていたことも前々からの疑問だったけど、この記述であっさり解決。というかこの論拠となる注釈をみると、『周礼』地官[高/木]人鄭注から記述をひっぱってきており、そこらへんの手法にも素人目ながら感動した。
(※というと、もしかすると司徒府の延で傅南容は「斬司徒、天下乃安。」と言ったのかな)
※20090724追記。どうもこの時期の清岡は「朝議」と「朝会」を混同している模様。

・「門」と「閤」について。「閤」については認識外だったのでとても勉強になった。これから史書を読むときの楽しみになりそうだ。また宮では「正門」と「掖門」に対応するとのこと。

・「閤」の内と外で「門下」の意味合いが変わってくる。

・○曹って現代的に言えば○○部(あるいは○○課)といったところだったんだね。

・長官の私的空間である、官衙内の正堂の奥にある、後堂を中心とした「便坐」(※現代人から見たら便所の座に見えるが違うぞ・笑)
 →この私的空間に長官の妻子が住むらしく、逆に妻子を入れない羊続は廉潔な行いの代表となる。


※関連記事
 三国創作のための拝メモ
 三国創作のための『儀礼』メモ
 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」
 メモ:武冠のあみあみ

※追記 『漢代の地方官吏と地域社会』(汲古叢書75 2008年)

※追記 株式会社汲古書院のサイトオープン(2009年1月30日)

※追記 メモ:「前漢後期における中朝と尚書」

※追記 リンク:「漢代の扁書・壁書」

※追記 メモ:「魏晋南北朝時代における地方長官の発令「教」について」


目次

序論

第一部 城郭都市の形態
 第一章 春秋戦国時代の城郭について
 第二章 漢長安城の成立
 第三章 都城としての漢長安城
 付論 漢長安城未央宮三号建築遺址について

第二部 都市の財政と官僚機構
 第一章 戦国時代の府・庫
 第二章 漢代郡県の財政機構
 第三章 漢代の官衙と属吏

第三部 市場と商工業
 第一章 漢代の市
 第二章 秦漢陶文考
 第三章 漢代鉄専売制の再検討
 付論1 漢代の製鉄技術について
 付論2 南陽瓦房荘漢代製鉄遺跡の技術史的検討

第四部 貨幣経済
 第一章 居延漢簡月俸考
 第二章 漢代貨幣史再考
 第三章 漢代の貨幣経済と社会

結論