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「長沙呉簡の世界」ノート3


  • 2006年10月15日(日) 13:58 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,767
研究

・「長沙呉簡の世界」ノート2からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/425

○報告III(11:50~12:25):町田隆吉(桜美林大学)「長沙呉簡よりみた戸について-三国呉の家族構成に関する初歩的考察-」

 11時54分スタート。予稿集7ページ、レジュメ12ページ、共にA4サイズ。
 本報告は長沙市文物考古研究所・中国文物研究所・北京大学歴史学系走馬楼簡牘整理組編『長沙走馬楼三国呉簡』竹簡〔壹〕(上、中、下)(文物出版社、2003)から伊藤敏雄先生が中心となってつくったデータベースをもとにした研究について。

1. はじめに
※この数字付きの小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。

 『漢書』食貨志に「五口之家」という記述。中国古代の農民の家族というのは五人家族。では具体的な家族はどうだったか?
 しかしながら、走馬楼の呉簡にはたくさんの名籍(竹簡)が含まれている。竹簡は編綴の紐が腐食してバラバラになっており、それを可能な限り元に戻すことで、三国呉の農民の「戸」が再現できる安部聡一郎さんの研究(「長沙呉簡にみえる名籍の初歩的検討」(『長沙呉簡研究報告』第2集、2004)など)や關尾史郎さんの研究など先行する研究を踏まえ、名籍の表記、竹簡の簡番号(出土時の位置関係)、竹簡の形状(編綴痕の位置)、書体などからより確度の高い復元を試みた。こういう「戸」の復元に基づき、三国呉の農民の家族構成を視覚的に示し、家族構成の特徴を考察。

2. 長沙呉簡名籍の検討

 いくつかの時代が混ざっている。レジュメ1ページ末の胡禮という人物を例に。六年の開きがある。「師佐籍」「烝嚢」の場合、時期が同じという例。

(1)名籍にみえる「戸」と「家」
※この括弧数字付きの小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。

 「戸」や「家」はどういう意味か。「夏隆」という人物を例に。
 民籍では冒頭の「戸人」に「戸」を代表(→「…戸人公乘夏隆…」)。集計簡の「家」の字に「戸人」の名を冠し、その下に家に居住する人数(「口」)と資産評価額(「[此/言]」)を記す(→「右隆家口食九人 [此/言] 一 百」)。つまり「戸」とは「戸人」某に代表される「家」であり、そして「同居」と観念される。
※清岡注。予稿集やレジュメに出ているのは復元後の釈文。例えばこの「夏隆」の例だと一行が一つの竹簡に対応していて、左横に「9090/9165/9213/9217…」など簡番号が打たれている。「口食九人」となっていて、実際、9人の一人一人の竹簡に書かれた個人情報があるが、うち3人は見つからなかったとのこと。
 この名籍に多様な親族姻族が含まれていて、その続柄をこれから紹介。続柄の表記は必ずしも統一されていないとのこと。予稿集に続柄の多くの例が整理され書かれている。ここで気をつけないといけないのは「妻」が名前の場合があるんで単に検索しただけでは駄目。

(2)名籍の書式

 名籍では冒頭に「戸人」の名、そのあとの家族の部分では妻や最初の子どもを除くとそれ以降「戸人」の続柄ではなく直前の記載者の関係を示す書式(※清岡注 例えば先の「夏隆」の例だと「9165 隆子男帛年十一」「9213 帛男弟燥年八歳」「9217 燥男弟得年六歳」 )。これと同じ書式は紙形式(敦煌発見の「西涼建初12年(416年)正月籍」(紙)、楼蘭発見の「晋[4世紀?]楼蘭戸口簿稿」(紙))にも継承されている。池田温先生によると、こうした書式の前提には木簡名籍の存在を想定。簡がバラバラになったり順序が前後しても原型に復しやすいようにするためと推測。長沙呉簡はそういう推測を裏付ける。では言葉の使い方は前後の史料でどうなっているか?→レジュメ2~3ページ
 例えば、前漢景帝2年(BC155)では「戸人」、前漢永光4年(BC40)では「子少女」(子○○)、後漢建寧4年(171)では戸人、子○○。後漢光和6年(183)では「女替、替弟建、建弟顔、顔女弟」。晋[4世紀?]楼蘭戸口簿稿では前の行のを受ける形式で「息男奴□…」「□男弟□得…」「得□□阿罔…」。4ページの「西涼建初12年(416年)正月籍」でも同じだが、西魏大統13年ではそういう書式が消え戸人との続柄になる。プリントでは表にまとめてある。(その表を見ながら)走馬楼までは「戸人」、晋楼蘭と西涼建初は書いてない。西魏大統では「戸主」。子どもに関しては走馬楼までは「子男/子女」等、晋楼蘭からは「息男」等。

(3)名籍にみえる戸人と戸数・口数

 戸人に関して年齢別、男女別に統計をとったものがレジュメの5ページに記されている。表1 長沙呉簡の名籍中の戸人の年齢分布(総数406人) 男子391人、女子15人。最年少の戸人(男)13歳(漢籍番号2951)大女33歳、最年長85歳老女81歳。
 さらに次の表では口数の分布。表2 長沙呉簡名籍にみえる口数と戸(477戸) 中心は口数が5人よりやや少ないところにくるとのこと。ちなみに『太平広記』に基づく唐代庶民層の家族規模3.9人に近い。

3. 戸(同居家内集団)に対する初歩的考察

 復元した戸に基づいた図式化の話。予稿集では3ページに渡り6例、レジュメの方には9例あり、それぞれ釈文(簡番号あり)と家系図のような家族関係を図示したものがある。この図示は戸人簡がなくても残存したものから推測したものを含んでいる。
 まず予稿集。単純家族世帯、拡大家族世帯、拡大家族世帯(戸人簡なし)、多核家族世帯の例について説明していき、それから非家族世帯、兄弟の同居+その他の親族[叔父、従小父、従兄]の同居の例、非家族世帯、兄弟の同居+その他の親族[寡婦と子ども]の同居の例
 他の時代との比較。例えば西涼建初12年(416)籍。レジュメの9ページに記載。そうするととりわけ妻の親族や兄弟の寡婦およびその子を含んでいる世帯の存在などは他の時代の戸籍にはほとんどみられず、呉簡名籍の特徴がわかる。孫呉政権には相互扶助的な機能を有する世帯を前提とした戸口編成をおこなっていたようにみえる。
 ここでレジュメ8ページへ。「三国時代の呉地域や越族特有の女系を含む家族形態が名籍に反映されている可能性」【小林 2005】 後漢時代長沙郡における嬰児殺し(『北堂書鈔』巻75謝承『後漢書』) 長沙太守となった宗慶という人物は民が子を殺すことを禁止し、年間で子を養う人は三千人あまりとなって、その年、男女はみな、宗を名とした。ここで注目するのは、この土地の人口に対する耕地の狭さ(嬰児殺し)→相続における耕地の細分化を回避する必要性(つまりそれが拡大家族世帯、多核家族世帯、非家族世帯の多さに関わる?)。後漢豪族の同族内の相互扶助の例。後漢崔寔『四民月令』9月令。

4. むすびにかえて

 民籍の他に師佐籍がある。レジュメ8ページに師佐籍の例があり、それはみかけは1つの単純家族世帯で実体は2つの単純家族世帯(同居していない)。レジュメで資料をつけたのは、唐西州戸籍・手実 こういった時代の比較も重要。

 12時30分終了。

 時間がおしているので、午後は13時40分スタートとのアナウンス。


○昼食・休憩(12:25~13:30)

 予稿集やレジュメとともに「日曜日に営業している食堂」というB5一枚のプリントも配られていて、それを元にどこか行こうと思ったけど、結局、そこには載っていなかった近くの喫茶店で食事した。



・「長沙呉簡の世界」ノート4へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/448
 

長沙呉簡研究会


  • 2006年10月12日(木) 19:09 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,374
研究  1996年に長沙市の走馬楼から十数万枚も三国時代・呉の簡牘が発見された。あまりにも大量のため十年目の今日でも整理がついていない状況であるし、史書のようにまとまったものでもないが、当時の「生」の情報が得られるということで私のような素人目に見ても当然、その資料的価値は非常に高い。
 と、この簡牘の内容が多岐に渡っていて、全然知らない人向けへの文を書けそうにないので、下記のリンクを参考にされたし。

・睡人亭
http://www.shuiren.org/
・走馬楼呉簡
http://www.shuiren.org/sangoku/chikkan.htm
※「三国志の頁」内にあるんで一般の三国志ファンに分かりやすく書かれていておすすめ

 この簡牘に関する研究会が日本でも1999年9月に発足されており、その研究会のサイトは下記にあるので、詳しくはそちらで。

・長沙呉簡研究会
http://h0402.human.niigata-u.ac.jp/prof/research/chosa.htm

 このサイトには長沙呉簡研究会の過去の発行物および活動の紹介以外に、「長沙走馬楼呉簡一覧・統計表」や「長沙東牌楼漢簡一覧表」がある。
 前者は過去の論稿からの抜粋。PDF形式。今年の6月21日、27日、28日、30日、7月4日と集中的にアップされている。見てみると釈文が書いてあるやつもあって、読んでいて面白い。

・「長沙呉簡一覧・統計表」(關尾史郎先生のブログ内記事)
http://sekio516.exblog.jp/3673459

 後者は長沙市文物考古研究所・中国文物研究所編『長沙東牌楼東漢簡牘』(文物出版社、2006年4月、7-5010-1857-X)と対応が効いて便利。

・「長沙東牌楼漢簡一覧」(關尾史郎先生のブログ内記事)
http://sekio516.exblog.jp/3839252

2006年12月28日「横山光輝・三国志」(ニンテンドーDS)


  • 2006年10月12日(木) 18:01 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,945
ゲーム  最近、やたら「横山光輝 三国志 DS」というキーワードで検索され、何かあったのかな、と思っていて、たまたま「MsH」というブログ12日の記事を見て判明した。
 答えは任天堂ホームページ(下記にリンク)の発売日カレンダーにある。

・任天堂ホームページ
http://www.nintendo.co.jp/
※ここの発売日カレンダー

 発売日カレンダーの12月28日の項目に「DS」アイコン(つまり機種はニンテンドーDS)とともに下記のように書いてあった。

横山光輝・三国志(ASNetworks)

 どうやらASNetworksというところから「横山光輝・三国志」というニンテンドーDS用ゲームがでるってことで。
 下記メーカーのサイトにはまだ情報がないみたい(2006年10月12日現在)

・アークシステムワークス
http://www.arcsy.co.jp/
<追記>
※公式サイト11月28日にオープンです。
「横山光輝・三国志」
http://www.gamics.jp/sangokushi/
<追記終了>

※リンク追記
・ARC SYSTEM WORKS OFFICIAL WEBSITE
http://www.arcsystemworks.jp/

 ジャンルは何? 定番通りシミュレーション? とか気になることが多い。

 しかしこれでニンテンドーDSでは、芸人さんの言葉を借りるなら、koei、SEGA、ASNetworksの三国志状態?!

※参照記事
・2006年9月28日ニンテンドーDS版「雀・三國無双」発売
http://cte.main.jp/newsch/article.php/419
・2006年8月2日 「三国志大戦DS」公式サイトオープン
http://cte.main.jp/newsch/article.php/375

※追記 ARC STYLE: 三国志タワーディフェンス~銅牆鉄壁~(2010年7月28日)

「長沙呉簡の世界」ノート2


  • 2006年10月11日(水) 22:40 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,111
研究

・「長沙呉簡の世界」ノート1からの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/421

○報告II(11:10~11:45):小嶋茂稔(東京学芸大学)「後漢孫呉交替期における臨湘県の統治機構と在地社会-走馬楼簡牘と東牌楼簡牘の記述の比較を通して-」

 11時7分スタート。予稿集4ページとは別にA4の7ページのレジュメ。予稿集を読み上げる形で報告をすすめていくとのこと。主に走馬楼簡牘と東牌楼簡牘の比較の報告。

緒言
※この小タイトルは予稿集の写し

 日本の長沙呉簡研究会の「長沙呉簡研究報告」第1集・第2集や羅新先生がお勤めになっている中国の北京大学の北京呉簡研討班の『呉簡研究』第1輯・第2輯などにより広く学界に共有。
 しかし、走馬楼呉簡は文献史料との接点が極めて少なく、理解の共有化に至るには困難。一例として「丘」の問題。それまでの文献中心の研究から知られなかった「丘」という存在が走馬楼呉簡の研究の一つの軸になった。いまだ論者同士で議論が平行化。
 少ないながらも文献史料と呉簡の接点を探ることで、従来の文献から得られた研究成果を活用するのもあり得る。「丘」について具体的には中国古代の地方行政制度史の研究蓄積を活用。
 これまでの走馬楼呉簡から文献史料を凌駕する知見が得られていないが、見方をかえて孫呉政権下の臨湘において国家の統治統制が及んでいたことは間違いないため、そういった累積的な国家統治機構の延長上で「丘」をどうとらえるかという方法が可能。さらに後漢から孫呉で統治機構がどう変わったかというのも論点となりうる。
 走馬楼近くに東牌楼簡牘(後漢末)が発見される。走馬楼呉簡には「官文書簡牘」と分類されるのが公開されていて、それに対する東牌楼簡牘でも行政機構間の職務上のやりとりの記録がある。二つの文書群と記載された内容を比較で機構の変容があったかどうか探ることができる。
 以上のように、この報告は走馬楼簡牘と東牌楼簡牘の記述を比較検討しながら、従来の研究に依拠し、当時の臨湘県や長沙郡において実現していた国家統治の具体相を論じる。「丘」の問題を全面的にとりあげない。高村武幸先生・侯旭東先生の「郷」に関する研究、羅新先生の督郵に関する研究に学びながら、「郷」の問題を取り上げる。

1. 呉簡から見る孫呉期臨湘侯国下の郷
※この小タイトルは予稿集の写し、以下同じ。

 「郷」に関して、ここにいる人に説明不要だとおもうが、一応、プリント(レジュメ)1ページ目で文献に見られる「郷」をとりあげた。
 孫呉政権期の臨湘侯国治下における「郷」のあり方について、高村武幸先生(「長沙走馬楼呉簡に見える郷」)と侯旭東先生(「長沙走馬楼三国呉簡所見“郷”与“郷吏”」)の「郷」に関する研究に依拠しながら紹介。
 吏民田家[艸/別]の表題簡には「南郷」などの郷名があったが小型竹簡の公表でさらに多くの郷名を確認。代表的なものはレジュメに記載。都郷・北郷・西郷の「方角名+郷」以外にも広成郷・小楽郷などの郷名もあり。ちなみにこれらの郷が臨湘侯国に属するかは議論が分かれている。
 走馬楼呉簡の「官文書簡牘」にも「郷」の字が数点みられる。それらは「勧農掾」と関係する内容がある。例として簡番号J22-2543(『文物』1999-5 彩版参-1 .戸籍)のところ。予稿集に釈文、レジュメにその書き下しが載っている。さらにレジュメに別の二つの記述の釈文とその書き下しが載っている。この勧農掾はどういうものなのか議論の余地あり。県吏? 漢代の郷嗇夫と同じとみるのは難しいが、漢代と孫呉期の郷とにそれほど大きな違いはなさそう。
 レジュメにある二例目の簡番号J22-2546(『文物』1999-5 彩版肆 1 .戸籍)の「一人夜」や「四人真身已逸」となっている釈文は実際、小嶋先生が簡牘をみたら、それぞれ「一人被」、「四人真身已送」という可能性も感じたとのこと。
 プリントの2ページ目に「呉簡に見える郷」という項目でまとめられている。

2. 呉簡から見る臨湘侯国と長沙郡の関係-督郵の存在から-

 督郵の基本的な資料はプリントの3ページ目。漢代では郡吏として県の監察を掌握、監察区域は郡の内部でいくつかに区分。呉簡で督郵あり。羅新先生の研究(「呉簡所見之督郵制度」)がある。
 呉簡に「中部督郵」が見られる。その他「東部」。租税徴収業務に何らかの関与→プリント3ページに抽出。督郵が長沙太守の指揮下にあったことを示すもの等
 木牘(簡牘番号J22-2540 『文物』1999-5、彩版参)の方にも見られる。予稿集にその箇所が引用されている(プリントの4ページには書き下しあり)。郡吏である督郵と録事掾以下(県の属吏)の関係を考察。督郵の告発を受け、取り調べが行われていた。胡平生・李天紅『長沙流域出土簡牘与研究』(湖北教育出版社、2004)の611ページに中賊曹掾の陳曠が調査報告した事例の釈文あり(しかし督郵は出てない)。小嶋先生の考えでは告発までが督郵の仕事でそれから先の取り調べは別。
 藤岡喜久男先生の研究(「督郵研究」)では督郵はまず属県への監察が先行(論拠は漢代でもっとも古い記述、漢書尹翁帰伝)。羅新先生の研究では郵便通信機関に対する監察が先行。
 文献から見られないことで呉簡に見られたことは勧農掾の存在と勧農掾が県の指示で戸籍の照合等を行っていたこと。督郵の存在が明確に見られる。臨湘が中部督郵の監察下にある。
 呉簡は「漢制の枠組みの継承」という点で格好の史料。東牌楼簡牘と比較することで深化した検討が可能。

3. 東牌楼簡牘に見える長沙郡と臨湘県

 「東牌楼簡牘」は走馬楼のすぐ近くの長沙市東牌楼の古井から発見。木簡・木牘・封検・名刺・簽牌など。後漢霊帝期の年号が多く記される。ここでは最近、刊行された長沙市文物考古研究所・中国文物研究所編『長沙東牌楼東漢簡牘』(文物出版社、2006年4月、7-5010-1857-X)の釈読に従う。
 ここで注目するのは次にあげる五つの点。
(1)臨湘県の「東部勧農郵亭掾」の名を記した「封匣」がある。→プリント4ページに記載。勧農掾と県との関係について考えを深化可能
(2)「監臨湘」の李氷と「例督盗賊」の殷何が起草した上行文章(簡牘番号五 1001号)→プリント4ページに記載、以下同じ。この二人が「中部督郵」の掾の檄を受けての文章。
(3)臨湘の県令(簡牘では「守令」)が上言した文章(簡牘番号一二 1105号)
(4)東牌楼簡牘に「丘」の記述あり。呉簡に見えない「度上丘」。呉簡にみれる「桐丘」。「丘」は霊帝期にも存在。小嶋先生個人としてはショックを受けたとのこと。
(5)様々な姓の記述。呉簡に見られる姓と共通のものが多い
 その他、プリントの方に督郵の記述の資料。
 孫呉政権は基本的に後漢からそのまま継承している。

 報告終了

 質問というより補足。プリント2ページの終わりの方。誤「5分の1」→正「7分の1」


・「長沙呉簡の世界」ノート3へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/428

※追記 歴史評論 2014年5月号 3世紀の東アジア――卑弥呼と『三国志』の世紀(2014年5月10日)
 
 

2006年6月29日 みんなで作ろう三国志 @Wiki


  • 2006年10月11日(水) 22:37 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,029
ネット 別件でたまたま見かけたサイト「みんなで作ろう三国志 @Wiki」。タイトルにWikiとあるとおり特定の管理人がコンテンツを築いていくというより有志によりコンテンツを築いていくタイプのサイト。
ちなみにこのサイトでいう「三国志」とは陳寿の「三国志」限定だそうな

・みんなで作ろう三国志 @Wiki
http://www15.atwiki.jp/soutoku/

サイトの創設が2006年6月29日とのこと。
以下、サイト内で見かけたこのサイトを表す特徴的な文を引用。

>ここは「みんなで三国志の総合年表をつくろう!」を合言葉に創設されたサイトです。

検索で引っかかるってことはどこからかリンクが張られていると思うんだけど、見かけないなぁ。

ちなみに三国演義のwikiもある。以下へリンクをはる。

・三国志Wiki
http://wiki.fdiary.net/sangokushi/

しかしこちらは管理が行き届いていないようで掲示板が宣伝書き込みでひどいことになっている。

予定表(今後二ヶ月)