Site Calendar

サイトカレンダをスキップ

2020年 06月
«
»
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

NAVI

ログイン

ログイン

新着情報

記事

-

コメント (2日)

-

トラックバック (2日)

-

リンク (2週)

新しいリンクはありません

QRコード

QR code

アンケート

三国志ニュースのレポート系記事

三国志ニュースで書いて欲しいレポート系記事はどれ?

  •  三国志フェス
  •  三国志学会大会
  •  関プチ5全国ツアー
  •  魏晋南北朝史研究会関連
  •  三國夜話
  •  六間道三国志祭
  •  三国志TERAKOYA4
  •  三国志 義兄弟の宴
  •  東アジアの『三国志演義』/ベトナムの『三国志演義』
  •  zip,torrent(トレント),rar,lha,mediafire,pdf,DL(ダウンロード),nyaa等を含む検索語句(違法なフリーライド・無料閲覧関連)、あるいはBD・DVD自作ラベル、カスタムレーベル等を含む検索語句(著作権・肖像権侵害関連)に関する調査・研究

結果
他のアンケートを見る | 53 投票 | 0 コメント

PR

清岡的見解:ねこまんまさんについて http://tinyurl.com/nekonomanma3
よくわかるねこまんまさんの問題行動 pdf
gif

掲示板 件名 最新投稿

『八卦の空』(ミステリーボニータ10月号、2007年9月6日)


  • 2007年9月 7日(金) 18:24 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,111
マンガ  中国三国時代の魏を舞台とし、紀玄龍や管公明のコンビが神秘的な事件を解決していく漫画、青木朋先生/著『八卦の空』。月刊『ミステリーボニータ』に連載中。
 今回は一話完結で予告通り巻頭カラー。未だに清岡は「巻頭カラー」の定義を掴みかねて居るんだけど、ともかく今号の『ミステリーボニータ』の一番前の漫画が『八卦の空』で、見開きの表紙を含めた4ページがカラーということだ。

※関連リンク
・秋田書店
http://www.akitashoten.co.jp/

・青木朋先生のサイト「青木朋HP++青青」
http://aoki.moo.jp/


・ミステリーボニータ10月号に「八卦の空」(ブログ『青青日記』)
http://blog.aoki.moo.jp/?eid=785096

・青木朋さん(私設)ファンクラブ
http://bluefan.exblog.jp/

<前回>2007年8月6日『八卦の空』(ミステリーボニータ9月号)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/663

<次回>『八卦の空』(ミステリーボニータ11月号、2007年10月6日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/708


 カラー部分の冒頭から玄龍くんが兵卒を率いた捕り物シーン。のっけからテンション高めでストーリーに引き込まれる。赤い鮮やかな衣装を纏った女盗賊の紅月鬼を追い詰めるも、その場から瞬時に姿が消える。逃げられたから、捕り物が終わるんだけど、玄龍くんは消えた現場に鏡を見つける。実はそれは不思議な鏡でそこから話が始まる。姿が同じだけど、中身が違う蘇月娘、それから同じ魯女生の門下の妹弟子、君児などの人物が出てきて、話が進む。今回は劉朱姫ちゃんにスポットが当たったような物語の進み方で鏡にまつわるミステリーがほぐれていく。
 そういや今号の「ミステリーボニータ ホットライン」(つまり読者からのお便りコーナー)に「八卦の空」へのお便りあり。今回は二通もあって、一つが管ちゃんについて、もう一つが玄龍くんについて。編集サイド…じゃなくコーナーのマスコットがコメントを寄せているように是非、イメチェンで管ちゃん仕様の眉毛にして欲しいところ(笑)

第2回三国志学会大会ノート1


  • 2007年9月 6日(木) 20:46 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,941
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679

 右隣でげんりゅうさんとしずかさんが中国史における降雪の表現みたいな話をしている。

 やはり去年と同じく、金銭の授受がある受付で混んでいる模様。そのため、少し遅れ10時4分スタート。
 駒沢大学の石井仁先生が司会。

○会長挨拶 三国志学会会長 狩野 直禎

 三国志学会の方針みたいなことに言及されていた。歴史だけじゃなく文学・思想などなど幅広い分野があり、また一般にも門戸を広げているってことなど。今回、発行された『三国志研究』2号についても。


○報告(午前10時10分~午後1時)

○「長沙走馬楼呉簡にみえる「限米」――孫呉政権初期の財政についての一考察」 谷口 建速(早稲田大学大学院文学研究科)

●長沙走馬楼呉簡について
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ

 1996年に湖南省長沙市で出土した三国呉代の簡牘。公表されている簡牘の紀年は後漢中平二年(185年)-孫呉嘉禾六年(237年)。但し黄龍年間(229-231)、嘉禾年間(232-)に集中。主な内容は長沙郡ないし臨湘県(侯国)の簿籍・文書。総数は14万点以上。その中で図録本として刊行されているのは「嘉禾吏民田家莂」(以下、田家莂)と題される大型木簡2141枚、竹簡19636枚。

●はじめ

 走馬楼呉簡には倉庫関係の簡牘が多く含まれている
  →倉庫や出嚢や物資の流通など、当時の地方財政システムの理解に寄与する
 谷口先生の今までの研究
  穀倉関係簿の整理・分類の初歩的作業(出土した時点ではバラバラなので)
  地方倉における搬出や移送といった穀物財政の仕組み及び簿籍の作成過程等の検討
 伝世文献中に当時の税制に関する資料は乏しいため、これらの検討で新知見が得られる
  →簿籍簡牘に賦税などとして穀倉に入れられる穀物の名目の一つ「限米」について再検討(その性格を位置づける)
   →孫呉政権初期の穀物財政及び支配のあり方の一端を伺う。

●一、穀倉に収蔵される穀物名目の概観

 公表されている簡牘にもられる穀物名目の概観について。
 (1)田家莂とは納税者台帳であり、田地の面積と租税額、納税の確認などの情報が記されている(レジュメにはその一例の釈文と書き下しが掲載)
 (2)賦税総帳木牘とは納入穀物の総帳。ある期間内に納められた総計と内訳が記される(レジュメにはその一例の釈文が掲載。所々、太字下線部になっていてどこが内訳を示しているかわかりやすくなっている)
 (3)穀倉関係簿(竹簡)。穀物納入の証明書(莂)を編綴して簿としたもの(莂簿)、一ヶ月・三ヶ月ごとの出納帳(それぞれ「月旦簿」、「四時簿」)など。
 →レジュメの別紙に上記の簡牘の写真があり、その紹介。

 続いてレジュメに「走馬楼呉簡中に見える穀物収入名目」がリストアップされている。分類としてa「税米」・「租米」(上記の(1)(2)(3)より)、b「限米」( (2)(3)より)、c官有物売却の代価としての米( (3)より)、d貸与返還米( (3)より)、e折咸米( (3)より)
 「○米」の丘に「禾(アワ)」「粢(キビ)」「麦(大麦)」「豆(大豆)」なども見える。そのため「米」はイネのことと思われる。

先行研究に基づき簡単に分類
 上記aは「田家莂」におると「吏民」(※吏と民以外にも卒なども含む総称)の田に課される米。米の他に布・銭も課されていて、それぞれを米で代納したのが「田畝布米」「田畝銭米」
  →一般吏民に課せられた賦税と考えられる。
 cは塩などの官有物を売却し、代価として得た穀物収入。「鹽(賈)米」
 dは穀倉から貸与されていた穀物を民が返還したもの。「民還貸食米」。新規の収入ではない。帳簿上、他と区別。
 eは輸送の過程などで失われた穀物を後日補填したもの。d同様、新規の収入ではない。
 bの諸「限米」は身分呼称が冠されるのが特徴(例「衛士限米」)。
  三説ある。1)国家の「正戸」でない者に課された米。最初に言われた説。「田家莂]」に記載されているのが「正戸」という理解に基づく。
   2)屯田従事者が納入する米(「屯田限米」という記載があるから)。
   3)「屯田限米」は屯田に関わる地租で、その他の身分は王族などの依附民が納めた地租

 この三説に対するポイント
 ・「屯田限米」以外の「限米」も全て屯田に関係すると考えるか否か
 ・“「正戸」でない”、“依附民”などとされる「限米」納入身分者が名籍中にどうみえるか
 →これを再検討(先行研究があるものはレジュメの後で提示)

●二、「限米」の納入状況と田

 『三国志』にも「限米」の記述があるが、まず走馬楼呉簡でどう見えるか。

●a.「限米」の納入状況
・「税米」・「租米」の納入事例(レジュメに釈文の数例)
 ここでレジュメ別紙の写真3)を使って解説。簡の上から三分の一のところに横線が引かれてあって、これは納入された時に付けられる印。二行に渡って付けられる印で片方を穀倉側、もう片方を納入した者が側に渡されるそうな(写真は穀倉側の方。つまり印に納入証明の意味がある)。この印以外にも下から三分の一に著名があってそれも両側に分かれている。
 →元々は納入の証明書として作成されたが、後で帳簿の形に編綴される。
   →編綴の仕方は各郷ごと。
・「限米」の納入事例(レジュメに釈文の数例かある)。
 ・「限米」の簡は「税米」・「租米」と書式が同じ。簡番号も近い。
  ※ここで簡番号の意味の説明。井戸から簡のいくつもの塊として発掘された。その塊ごとに番号を付ける。簡番号が近いということは同じ塊に入っており、同じような帳簿に入っていたと想定される。
  →「税米」「租米」「限米」の簡は同一簿にまとめられたと考えられる。
   →ここから収入としての性格の近さが伺える(逆に「鹽米」の簡は書式が異なる)
    ・「民還貸食米」は簡番号が特定の部分に集中しており独立の簿として編綴
    ・傍証として「税米」「租米」「限米」をまとめた表現(「税租限米」)がある
 ・納入簡のはじめに郷名が記され、簿に編綴される際も郷ごとにまとめられ、
  「税米」「租米」「限米」も郷に関する収入
  →「限米」の納入者が郷に所属or「限米」を課せられた田が郷に所属
  →「限米」納入者と「税米」「租米」納入者が同一区画(郷)内に散居。

●b.「限米」に課される田
 (レジュメに釈文の例とそれらの書き下し)「~郵卒田~畝々収限米二斛~」
  「~衛士田~畝々収限米二斛~」「~佃卒田~畝々収限米二斛~」
→ある領域内に存在する特定の田(郵卒田)の面積と、そこから徴収される穀物の総数の記録
 ・「郵卒田」「佃卒・衛士田」など納入者の身分呼称を関する田に「限米」が課される
  →「郵卒田」から徴収されたのが「郵卒限米」
 ・「限米」は田1畝ごとに2斛が徴収された
  →「田家莂」によると
    「税米」は1畝ごとに1斛2斗、「租米」は1畝ごとに4斗5升6合(嘉禾四年)
      →「限米」の方が高額なので屯田説の根拠の一つとなっている。

※10時47分。ここで司会の石井先生から講演者に紙が渡されたんだけど、時間、おしているのかな?

・「民田」に関して(レジュメに釈文の一例とその書き下し)
 「民田」全他の面積と徴収額を知るし、「民税田」と「民火種田」の内訳を記す構成。
 書式が「限米」の簡と同じで簡番号も近い。簡の性格が似ている。
 ・「民」は「吏」「卒」に対応する語。「郵卒」と同じく身分の表現
  →「限米」を課される「郵卒田」「佃卒田」「衛士田」
    と「税米」等を課される「民田」と対応関係
   ※孫呉政権では身分ごとに田地を把握。

 ・「租税雑限田」の表記について
  「雑限田」は上記の「郵卒田」「佃卒田」などの総称か
  →ここからも「限田」と「税田」「租田」の近さが伺える
   両者の違いは「屯田←→一般の田」という根本的な違いではなく、
   あくまで田に携わる者の身分の違いと考えられる。

・まとめ
 (1)「限米」に関連してみえる身分は「税米」「租米」納入者の身分と概ね重複しない
 (2)「限米」は「税米」「租米」と書式が同じで収入としての性格が近い
 (3)「限米」は郷に関わる収入。
   「限米」納入者は「税米」「租米」納入者と同様、郷に所属
 (4)「限米」を課される「限田」と
   「税米」「租米」を課される「税田」「租田」「民田」は並列的な位置。
 →「限米」は「税米」「租米」と同性格の賦税目であり、
  「郵卒」「子弟」など特殊身分の者に課せられたと推測。
  →「限米」に関する身分は、専門業務に携わる(「郵卒」)、
   新たに戸籍につけられた(「還民」)、など何らかの形で優遇されてい可能性が高い
    但し、1畝当たりの徴収額の高いことが疑問点
  →走馬楼呉簡中に裏付ける資料はないが、田に布・銭が課されない、
   他の税役面で優遇されている可能性がある。

●c.文献資料に見える「限米」。
 『三国志』呉書孫休伝永安元年(258年)条(その書き下し)がレジュメに引用されている
 第三代皇帝孫休が即位直後に発布したもの。
 諸吏の家で5人の男手のうち3人が役に就くケースがあって、「限米」を供出しなければならないという資料内容。
 →諸吏の家に「限米」が課せられていたことが分かる。

※ここらへん時間が押しているとのことでレジュメの記載より端折った解説

・孫呉政権では、一般吏民の家の田に課す「税米」「租米」の他、特殊な業務に従事する者及び吏の家の田に「限米」を課していた」
 →吏や特殊身分に対する特別な課税方法が制度化。
  「限米」の最も古い紀年は「黄武五年(226年)」であり孫呉政権の最初期から。

●三、郷・里の名籍中に見える「限米」納入身分
「限米」を課せられた身分のうち一部は、名籍中にもみえる(例がレジュメに引用)
→「給田帥」「給子弟」「給習射」「給私學」も「民」が当該身分の役目に従事したことを意味するか。これらの各身分も吏民と同様、郷・里の名籍に登録されていることを確認。
→ここから「限米」納入者が正戸の者でないとか王族などの依附民であるとは言えなくなってくる。
 「給子弟佃客」「給習射及限佃客」に見えるように一部の「限田」については「佃客」が耕作している。
・「限佃客」の名籍が見られる。

・最後に「永安元年詔」に関連し、走馬楼呉簡当時の吏の家の実態を伺う。
 「永安元年詔」に関連するような文書木牘(嘉禾四年八月廿六日、州吏三人家族二十三人の調査記録)の釈文とその書き下しがレジュメに引用されている
 1人が「限佃(限田耕作に従事する意か)」とある。
  →全ての“吏の家”に「限米」が課せられている状況を伺わせる「永安元年詔」と
   齟齬するようにも考えられるが、その他の家族の内訳を見ると
    (1)何らかの疾病を有する、(2)幼少、(3)既に吏役に就いている、ことが分かる。
→疾病や幼少であることを理由に「限佃」を免れていた可能性
・「永安元年詔」からは「限米」が“吏の家”にとって重い負担とも読みとれるが、本木牘からも“吏の家”の厳しい状況が伺える

●おわりに
 レジュメに「限米」のまとめが書かれている(報告中では触れるだけで読まれていない)

 10時54分終了。

 司会の石井先生から報告についてと、あと時間が押しているので手短で報告内容に関わる質問を促される。

質問1
「税米」「租米」との違いについて研究はされているのか。
回答
「田家莂」の研究で詳細な研究がある。「税米」「租米」に関わる田について違う(徴収額が違う)。具体的な田の性格についてはいくつか説がある。

質問2 早稲田大学の渡辺さん
(漢代では衛士は毎年派遣される中央政府の宮殿の兵士?※聞き取れず)衛士は兵士と考えられるのか? 「税米」「租米」に衛士は出てくるのか?
回答
「衛士」については研究されているものはない。「衛士」は○○(※聞き取れず)に派遣されたものではないか。

11時3分終了

 ここで事務局からのお願いということで会場を3号館114号室から1号館301号室に移ってくれとのこと。
 というのもよく見ると後の方でパイプ椅子が出されるぐらいなのにそれでも観客が入り切れていないので、さらに大きな会場に移動するということだ。学術系のイベントで観客150名オーバーってのは素晴らしいね。
 というわけでどういう大きさの会場か清岡は知らないので席が取れなかったら大変とばかりに急ぎ移動する。

<次回>第2回三国志学会大会ノート2
http://cte.main.jp/newsch/article.php/683

※追記 メモ:海外中国史研討会関連

※追記 曹操墓の真相(2011年9月)

第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)


  • 2007年9月 5日(水) 12:14 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,317
研究 開演10分前の会場の様子・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/

 上記のリンク先のように今年も三国志学会大会が開催されるということで、泊まりがけで東京入りしていたため、第2回三国志学会大会の2007年7月29日は前日と同じく清岡は大塚駅近くのホテルから、大塚駅-(山手線)→池袋駅-(東武東上線)→東武練馬駅という乗換で、さらに駅近くの大東文化会館から無料のスクールバスで、大東文化大学板橋校舎へ向かう。スーツ姿をまとった状態で朝食は車内でコンビニおにぎりを食す(汗)
 途中、同じく関西から来られている、しずかさんと合流し、いざ三国志学会大会の会場へ。昨日の第3回三国志シンポジウムと同じく大東文化大学板橋校舎の3号館114号室。受付で学会の年会費と懇親会のお金を払って『三国志研究』第2号とできてる分のレジュメを貰い、いざ会場へ。
 昨日と同じく五列目のど真ん中に陣取る。右にしずかさんで、しばらくすると、左にKJさん、一つ後列の右から玄鳳さん、その後輩、げんりゅうさん、おりふさん、USHISUKEさんと居並び、離れたところにはSuさんと三口宗さんがいらっしゃる。

 それで今回の内容を以下に引用。雑感を書いたら、各々にリンクを張る予定。

--引用開始---------------------------------------------------------
プログラム

会長挨拶

  三国志学会会長 狩野 直禎

報告(午前10時10分~午後1時)

 谷口 建速(早稲田大学大学院文学研究科)
 「長沙走馬楼呉簡にみえる「限米」――孫呉政権初期の財政についての一考察」

 伊藤 晋太郎(慶応義塾大学講師)
 「関羽文献の本伝について」

 休憩

 狩野 雄(相模女子大学准教授)
 「建安文学における香りについて」

お昼休み

 松本 浩一(筑波大学教授)
 「台湾における関帝信仰の諸相」

講演(午後2時~午後4時)

 李殷奉(韓国仁川大学国語国文科講師),通訳 金文京(京都大学人文科学研究所所長)
 「韓国における三国志演義の受容と研究」

 林田 愼之助(神戸女子大学名誉教授)
 「私の中の三国志」

懇親会(午後6時~)
 参加費:2000円
 会場:グリーンスポット
(大東文化大学板橋校舎内)
--引用終了---------------------------------------------------------

※関連記事
・2006年7月30日「三国志学会 第一回大会」ノート
http://cte.main.jp/newsch/article.php/395

・三国志学会第二回大会のプログラム発表
http://cte.main.jp/newsch/article.php/636

※追記 三国志学会 第三回大会プログラム発表

※追記 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日)


<前日>便乗プチオフ会(2007年7月28日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/678


<次回>第2回三国志学会大会ノート1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/680

便乗プチオフ会(2007年7月28日)


  • 2007年9月 4日(火) 18:27 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,050
ネット  第3回三国志シンポジウムが開催され、そこにネットの知り合いが集まると言うことで今回も便乗してプチオフ会を開催することになる。今回はみんな顔馴染みとのことで、2007年7月28日15時に第3回三国志シンポジウムが終わるや否や教室の外に集まる。

<前回>第3回三国志シンポジウム 雑感4
http://cte.main.jp/newsch/article.php/677

 集まったメンバーは伊比学さん、おりふさん、清岡KJさん、玄鳳さん、げんりゅうさん、三口宗さん。

・便乗プチオフ会(2007年7月28日土曜日)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2847

 会場は特に決めていなかったので、とりあえず、大東文化大学板橋校舎内にあるカフェテリア Green Spotへ。去年、三国志学会大会の懇親会で来たところだな、と思いつつ。
 Green Spotに入るとどうやら営業していないようで、飲み物の欲しい人は適当に自販機で購入し、一つの六人掛けのテーブルを囲む。あと一人はお誕生日席で。
 去年は校舎の中へ無料配布の研究紀要があったんだけど(下記リンク先参照)、今年は三国志シンポジウムの会場の入り口に設置されていたんで、げんりゅうさんが今回の三国志シンポジウムが始まる前に既に物色していて袋に何冊も詰めて持ち歩いていたのには驚いた。

・2006年7月29日「三国志シンポジウム」便乗オフ会
http://cte.main.jp/newsch/article.php/389

 プチオフ会の場の話では実は去年、貰って帰った分をげんりゅうさんはリストアップしていて、研究紀要が被らない前準備していたとのこと。三口宗さんも去年、見あたらなかったものが手に入ったとおっしゃっていた。
 かくいう清岡は去年、貰った研究紀要にほとんど目を通していなかったんだけど、げんりゅうさんと三口宗さんはバッチリ目を通しているとのこと。げんりゅうさんはキッチリ利用していたようでそこらへん羨ましい限り。
 それからやっぱり話題は今回の三国志シンポジウムについて。過去二回の比較等。やっぱり次の日の三国志学会大会とはうまく棲み分けされており、より一般的になったのかな、という感想が出ていた。それから一つ一つの授業について。一限目のストップ、ザ劉備君の話とか、『覇-LORD-』のストーリーが最近のことまでフォローされていて驚いたとか。中林先生が同人イベントに招待された話とか(小耳に挟んだレベルなんで詳細不明、その場では主催ではなく多分、参加したサークルから招待されたと推定)。
 ここでGreen Spotの営業終了で店を閉じるとかでその場を立ち退かざるを得ない状況になる。我々は会場を探して彷徨う状態になる。しばし板橋校舎内でどこ行こう、アクセスの関係上、巣鴨?とか話になっていたが、やっぱり池袋に決まる。伊比学さんは自転車で来られていたので、池袋の東京芸術劇場前の広場に待ち合わせを設定し、他の六人はスクールバスで東武練馬駅に行き、そこから東武東上線で池袋駅に向かうことに。
 スクールバスはちょうどオープンキャンパス帰りの人で満員になっており「もうAO入試申し込んじゃった」とか女子高生の声が飛び交っており、何か別世界に連れてこられたような心地だった(この場合、我々が異分子なんだけど)。玄鳳さんがスクールバスの降り場から駅まで「結構、歩きますね」なんておしゃっていたので、すかさず清岡は「三国志城を思い出して下さい」と突っ込んでおいた。池袋駅に到着するとやたら浴衣姿や甚平姿の人が歩いていて、何かあるのか、そういや隅田川花火大会があるんだって話をしていた。隅田川花火大会に合わせてtRTKチャットのオフ会があるらしいなんて話もしていた。

※追記 tRTK CHAT閉鎖(2009年6月10日)

 池袋の東京芸術劇場前の広場に着いたらすでに伊比さんが来られていて、どこの店に入ろうかとしばし彷徨う。結局、いつものようにカラオケボックスに入ることとなる。やはり土曜日のこの時間(16時半ぐらい)、混雑しているようで10分程度待つことに。その後、部屋に通される。席順は下記のような感じ(多分)


           <入り口>

伊比学さん げんりゅうさん 玄鳳さん

   テ ー ブ ル  テ ー ブ ル

KJさん 清岡 おりふさん 三口宗さん


 とりあえず飲み物を決め、後は適当に食べ物を頼む。しばし三国志シンポジウムの話。三国志研究会同士の横の繋がりはあるのかな?いや、まだない、って話になっていた。
 飲み物が来たので

清岡「今年もみんな三国志シンポジウムに来れたということで……乾杯!」

ということで乾杯。今回は顔馴染みの人ばかりということで。

清岡「そういや『お久しぶりです、義兄弟』と言おうと思っていたのに忘れてた」

と発言。この発言はおもしろ三国志さんのパクリ。

<参照>赤兎馬Presents「三国志の宴2」第2部
http://cte.main.jp/newsch/article.php/612

 この流れで赤兎馬Presents「三国志の宴2」の話。そのイベントの冒頭でみんなで乾杯し、桃園結義を模して会場に居る人全員が義兄弟になる段取り。そのイベントに参加した人は、この場の席では、おりふさん、清岡、KJさん、玄鳳さんの四名。
 その話から発展し、清岡が某SNS内で「三国志シンポジウム」をキーワードに日記を検索していたら、とある日記が引っかかってよく見たら、げんりゅうさんのコメントが付いていた、って話。日記を書いた人はげんりゅうさんのことを三国志シンポジウムに一度も行ったことがない人と認識されていたようなので、清岡はコメントを書き込み、げんりゅうさんが前回も前々回も参加していたよとバラしたという話。さらには日記を書いた人も「三国志の宴2」に行かれたみたいなので義兄弟ってこと(とここで話が繋がる)。結構、受けた。

 それから「長沙走馬楼呉簡 丘について」の課題についての詳しい話(下記リンク先参照)。清岡は前々から大学でそんな難しいレポートが出ているんだ、と驚いていたんだけど、どうも授業内容をまとめるといった清岡の想像より簡単な課題だったらしい。

http://cte.main.jp/newsch/article.php/646
↑ここの追記部分。

 その流れで去年の9月に、長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界-三国志を超えて-」の後に今日みたいにプチオフ会を開いたって話。

<参考リンク>Re:2006年9月16日17日プチオフ会
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one;no=2508

 ゲームの真・三國無双シリーズの話になって、三口宗さん曰く「無双の影響はでかいですよ」とのこと。ネットなんかでも「張[合β]、おかまだったんですか?」という質問がでるぐらいで(※清岡注。三國無双の張[合β]は実際はおかまではなくナルシスト)
 この後、最近は伊比さんとおりふさんが口をそろえ最近はゲームの『三国志大戦2』の影響が、とおっしゃった後、伊比さんが(三國)無双は下火になったなぁ、って話になっていた。
 その流れで出てきたのがやっぱりアニメの『鋼鉄三国志』の話。KJさん曰く「三国志」で検索を掛けると上位に鋼鉄三国志が来るとのこと。伊比さん曰く「三国志を元ネタにしたというより(三國)無双を元ネタにしたような」という意見が出ていた。清岡は「女性をターゲットにしている」と言ったら、おりふさんがすかさず「そこらへんが『龍狼伝』(※少年漫画)と違うところ」と行って、さらに伊比さんが「ただ『龍狼伝』よりは若干「三国志」しているかな」と畳みかける(ここらへんの会話がオフ会の面白いところだね)。ここで伊比さんからの話。テレビ番組表なんかはタイトルが全部載るわけじゃなく略されて載る場合が多く、深夜放送の『鋼鉄三国志』は単に「三国志」となっていて期待して見たそうな。
 『鋼鉄三国志』が出たんでマンガの『鋼鉄三国志』が連載している『コミック三国志マガジン』の話が出て、本来、発売日である今日はでなかったって話になっていた。

<参照リンク>『コミック三国志マガジン』今回発行されず(2007年7月28日分)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/657

 『コミック三国志マガジン』→「三国志の宴」にライターの大澤さんが出演されていた、って話になっていた(KJさんより)。大澤さんの話から『三国志新聞』の話。それから『ログイン』(パソコンゲーム誌)の話に移行し、何かその話の途中、プチオフ会のメンバーで盛り上がっている人と置いてけぼりくらった人に分かれたんで、一旦、話を止める。どうもこれは世に言う「ジェネレーションギャップ」ってやつらしい…誰が盛り上がった人で誰がそれ以外の人かってのは敢えて書かないが(笑)
 それでもなお『ファミコン通信』(ゲーム誌)や『ファミリーコンピュータMagazine』(ゲーム誌)の「ウソ技(ウソテク)」の話で盛り上がっていたんで、話を止めてプチ説明会が催された。説明のため話を戻していたんだけど、どうも大澤さんの話の時点で着いてこれなかった方が居た。いやぁ「ジェネレーションギャップ」だわ。

 三国志の資料ネタから引っ越しネタへ移行。それから横山『三国志』、『蒼天航路』に続く第三の三国志漫画は何かって話になって、意外と『覇-LORD-』じゃないのか、って話になっていた。ここらへんKJさん曰く「(三国志の)話が判っていて敢えて見たいってなるのは、それこそ今日、中林先生が(討論會で)おっしゃっていたように、『吉川だから』といったそういう要素がないといけない」とのこと。なるほど。
 その流れでしばし吉川三国志トーク。かなり中林先生の中で評価が高かったんだけど、それが多くの人の評価なんだろうな、って納得。そんな中で北方先生が『三国志』を書き上げるのはすごい、と清岡は言っていたら、伊比さん曰く「やっぱりハードボイルドだから、ってなっちゃう」と。北方先生、『水滸伝』書いているって話で、おりふさん曰く「『太平記』も書いているんで吉川英治を踏襲している」と。「今日の(三国志シンポジウム)討論會ではかなり北方三国志プッシュでしたね」と清岡。
 ここで伊比さんの話。吉川三国志は案外、登場人物個人には注目していなくて、逆に北方三国志は登場人物個人に注目している、とのこと。そこらへんが北方三国志の魅力なんだ、なるほど。げんりゅうさんが「あの討論會の場で(志茂田景樹/著)『大三国志』が出なかった」と言ってその場の笑いをとる。
 「でも(陳舜臣/著)『秘本三国志』がでなかったのは意外だった」と清岡。伊比さんが「陳舜臣(の描写は)はあっさりしている」とおっしゃって清岡が「『秘本三国志』は『曹操』や『諸葛孔明』に比べそれほどあっさりしてない」と。玄鳳さんは「(死に際の)関羽がぼろくそに書かれているんでしたっけ?」との質問。そうそう以前のオフ会でそういう話が出ていた。

<参照リンク>三国志ファンのための新年会2007 二次会後半
http://cte.main.jp/newsch/article.php/530

 ここで三国志の世界に引き込むには何を読めば良いって話になる。おりふさんは横山三国志→吉川三国志とのこと。KJさん自身は横山三国志を二回読んで、陳寿『三国志』とのこと。それから作家の年齢の話になり、三口宗さんの話であれは完結するまで大丈夫かって話になっていた(何かは敢えて書かないが)。
 おりふさんの話だと、やはりそういった三国志の世界に入ってくるっていうのは、漫画やゲームなどの人物本位で入ってくる人が多いんで、今回の三国志シンポジウムではそういった要素が少なかったのでは?、とのこと。なるほど、いきなり諸葛亮とか言っていたのが(一限目)、鍾[夕/缶系](二限目)、華佗(三限目)だもんな。おりふさん続けて曰く「真・三國無双だとキャラクター、三国志大戦だとカードになるキャラクタービジネス的側面」てなことを。KJさん曰く「ビジネスセミナーなどは何回も同じ内容のことをするのが当たり前だけど、こういったシンポジウムだと発表する側としてはおそらく今までの発表と被らないようにしようとするため、回数を重ねるごとにマニアックな方向に行きがちなのかもしれない」と。全然、この場に居る人は主催者側と無関係だけど、一個は万人向けするような毎回ほとんど同じな発表にして、なんてアイディアが出ていた。玄鳳さんは「多くの人は新しいことを知りたいんじゃなくて自分の知っていることを確認し、それ+αで新しいことを知るぐらいがちょうど良い」なんておっしゃっていた。そこで清岡はすかさず毎回オフ会で似たようなことを言っていて、その一例として出版の話をしていた(以下のリンク先と同じようなこと)。

<参照リンク>三国志ファン、コア層こわそう
http://cte.main.jp/newsch/article.php/288

 ここからしばし明日の三国志学会大会は誰が来られるんだろう、って話になっていた。
 あと今回の三国志シンポジウムの客層の話(ここらへん前出のレポに記載済みのことを清岡が口にする)。書道層ってあるんだ。あと誰かが詩吟って言葉も出していた。というわけで誰かが「60歳からの三国志」を作るという方向で。
 書道の話で隷書や草書などの書体の話をしていて、KJさんはパソコンのフォントで見たことがある書体名が出ていたという感想を持っていたそうな。それで、KJさんが「鍾[夕/缶系]フォント作れば受けるんじゃないですか?」とおっしゃって、その話でしばし盛り上がる。結構、具体的な話になって、KJさんもおりふさんも「何千字つくらないといけないんだ?!」という結論を出していた。ひらがな、カタカナ、アルファベットぐらいだったらオリジナルフォントとして作っているところたくさんあるんで、できるんじゃないか、って話になっていたんだけど、「鍾[夕/缶系]がひらがな書いているところ想像できない」と清岡が茶々を入れる。この後、結構、具体的な話になってきて、明日までカラオケルームに居れば鍾[夕/缶系]フォントができてそうな勢いだった(笑)
 清岡が「実現度的には鍾[夕/缶系]フォントが完成するより今からこのメンバーで三国志城行く方が実現度は高い」というネタから、しばし三国志城と三顧会トーク。なんせこの中のメンバーだと伊比さん、清岡、KJさん、玄鳳さんが三国志城に行ったことある人と結構、来城者率が高い。

 そんな感じで盛り上がっていたら時間の18時になったんで、「またオフ会を開きましょう」なんて言いつつ解散となった。


・第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679

第3回三国志シンポジウム 雑感4


  • 2007年9月 3日(月) 23:12 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,332
教育機関 <目次>第3回三国志シンポジウム 雑感(2007年7月28日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/661
<前回>第3回三国志シンポジウム 雑感3
http://cte.main.jp/newsch/article.php/675

 昼飯を食べ終え、会場に戻ってくる。時間になっても午前ほどは人が居なかった。前列の高校生がごっそり居なくなっており、本来の目的であるオープンキャンパスに専念したんだろうな、と思った。また後列の中年女性もごっそり居なくなっていて、これはやはり二限目の「「三國志」と書道」目当てだったのかな、と妙に納得していた。


○討論會

 13時40分スタート。
 壇上には司会の渡邉先生と午前の部で授業を行った三人の先生方が並ぶ。前回、前々回と同じく客席の最前列にはコメンテーター席が設けられており、向かって左から大東文化大学三国志研究会(というか○○ゼミ)、東京大学三国志研究会、早稲田大学三国志研究会が並ぶ。

・東京大学三国志研究会
http://sangokushiken.web.fc2.com/
・早稲田大学三国志研究会
http://www.jggj.net/3594

 今回も一般聴講している人たちからも質問できるように予め質問用紙が配られており、昼休みに回収されている。
※以下、かなり端折りつつレポ。もしかすると「ジンジャエール」を「死んじゃえ」と聞き違えるぐらいの聞き間違えがあるかも。

 初めは各大学の三国志研究会から質問。

●早稲田大学三国志研究会から三浦先生への質問。
Q.華佗は儒者指向とのことでしたが、なぜ動物ストレッチングのような道教のようなことをしたのか?

三浦先生「要するに…(マイクが入ってない)もうはじまっているんですかー?」渡邉先生「始まっていますよー」っていうやりとりに和やかな笑いが。

A.儒者だから道教的なことはしない、ってことにはならないと思う。歴代の儒者も五禽戯をやっている。単純には言えないのでは?

●東京大学三国志研究会から中林先生へ
Q.日中戦争時は三国志はどういうふうに利用されていたか?
A.三国志そのものがどうなのか当時の日本人がきっちり考えていたわけではない。そこに諸葛亮が使われるのは日本の文化人に合いやすい…要するに成功しないから(場内笑)。義経と同じ。一般の人はそういうものに頭を回すほど余裕があった時代ではなかったと思う。

●大東文化大学三国志研究会。三浦先生へ。
Q.五禽戯は(六禽や九禽とはあるものの、)五行にどう関係するか
A.五行説とどう関係するかは華佗自身、残していない。しかし、五行と繋げるという議論はできてきている。おそらく、華佗の段階でそういう考え方があって一つの思想として五禽戯を定義していったと思う。ただ五行だけで説明しきれないのがある。例えば亀とか蛇とか。

●ここで会場からの質問コーナー。中川先生へ質問が無かったので、司会の渡邉先生がそちらへの質問を探しあぐねていたら、会場右手から初老の男性から手が挙がり、質問用紙を介さず直接、マイクで質問。
Q.中川先生へ書に関する質問。王羲之の前の書としての鍾[夕/缶系]の書を知らなくて驚いた。まだ隷書の雰囲気が残っているが、これ以外の鍾[夕/缶系]の拓本があれば教えて欲しい。また鍾[夕/缶系]が隷書を書いたのか?
A.いくつかあるが具体的に今、名前が出せない。鍾[夕/缶系]の隷書体は目にしなかった。
A.(渡邉先生から)鍾[夕/缶系]が書いたと伝えられるものに「魏公卿上尊號奏」というのがある。

●早稲田大学三国志研究会から中林先生へ。
Q.なぜ吉川三国志は現在まで影響力があるのか?
A.「端的に申し上げて吉川だから」(場内笑) この後、あれこれ作家名を挙げたあとに「(吉川英治は)文章の出来が違います」。中林先生の世代では文章を声に出したときの耳障りが他の作家に比べて圧倒的に良いし名文だ。

●ここで司会の渡邉先生がこの質疑応答関連で会場の質問用紙から一つ質問を出す。
Q.研究会への質問。吉川三国志以外で北方三国志や宮城谷三国志などがあるが、どの三国志小説が好きか? とここで先ほどの初老の男性から手が挙がり、実はこの質問もこの男性の質問とのこと。

A.(早稲田大学三国志研究会から順に※言った順に番号をふる)1)吉川三国志、2)吉川三国志、北方三国志、蒼天航路、3)どちらかと言えば、北方三国志。
 3人目の人が○○も○○も三国志というツールを使って書いている云々と語りだしたとき、左隣のげんりゅうさんがアイタタという仕草をしていて面白かった。清岡は立場と心中を察して小声で「でも(自分語りは)すぐ終わったじゃないですか」とフォローを入れておいた。

A.4)吉川英治、それ以降は北方三国志、5)北方三国志、6)吉川も北方も読んだけど柴田錬三郎の三国志、7)完訳の三国演義しか読んでいないんでよくわからない、8)北方先生のハードボイルド小説のファンだったのでそのまま北方三国志

A.渡邉先生は吉川三国志、中川先生は原文。立場上、(小説ではなく)訳本を読んで下さいとのこと。あと三国志平話をプッシュしていた。ここで渡邉先生による三国志平話の解説が入る。そう中川先生は三国志平話を訳し、それがコーエーより出版されており、本の宣伝になっていて会場をわかしていた。

<参照記事>2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感2
http://cte.main.jp/newsch/article.php/153

A.ここで会場でカメラを持ってパシャパシャやっていた伊藤晋太郎に話が振られる。出会いは人形劇、その次に三国演義の訳本。日本の小説では通して読んだのが柴田錬三郎? 研究者の立場だと吉川三国志にしろ北方三国志にしろ彼ら自身の考え方、文章、強調したいところ、主観になってしまい、彼ら自身の文学作品になる。研究者としては三国演義の完訳本を読んで欲しい。

●東京大学三国志研究会から中川先生へ。
Q.三国時代の書道について、どの筆とか、どれに書き付けていたとか?
A.「わかりません」(場内爆笑) もう紙があった時代だけど今みたいに普及していないはず。かといって木簡竹簡だけの時代でもないはず。「(渡邉先生へ向けて)呉の地域から何か発掘されたんですよね?」 物が錯綜していた時代。
 渡邉先生から長沙呉簡の解説(明日、長沙呉簡の発表をされる谷口建速先生に話を振ろうとし会場内を見渡すが、見あたらないという流れから)
 ・長沙走馬楼という所から出てきた呉で使っていた竹簡木簡
 ・ビルつくってたら発掘された
 ・役所でつかっていた竹簡木簡を棄てたとか保存していたとか
 ・そこに書いていた文字数が陳寿の『三国志』より多い
 ・ですからいろんなことがわかるのではないか、と期待されている

 ここで客席から去年、サントリー美術館で展示されたという情報(※三年前が正解)。渡邉先生から再び馬王堆の帛書(絹に文字を書く)と共に解説。

<参照リンク>2004年9月7日-10月24日 古代中国の文字と至宝
http://cte.main.jp/newsch/article.php/232

●大東文化大学三国志研究会から中川先生へ。
Q.鍾[夕/缶系]が書の名人だったってことが『三国志』に書いていないのは何故か。
A.「それ陳寿に聞いてみないとわからないですね」(場内笑) 私自身、不思議に思っている。
A.渡邉先生個人の考えでは王羲之以前は書を芸術として捉える価値基準がなかったのでは、とのこと。

●質問用紙からの質問。
Q.各国の敗因はなにか? どこをどうすれば統一できたか?
A.(中林先生)中国の場合、中原を押さえたところが強い(晋が統一したという歴史が示しているように)。魏の人たちは魏以外の国があるのか、といった具合。そうなると蜀も呉も勝てない。もう一つは旗印(正当性)があった方が良い。もう一つは蜀という地方を押さえそこから天下統一した政権は歴代、一つもない。呉も同様。(ここで渡邉先生がホワイトボードに地図を入れたり図解をし始め場内をわかせる)。中原を押さえるか否か、中原を押さえないとダメ。(ここで南北朝の話に戻って行宮が云々)
 但し、何かあれば蜀に逃げ込むと大丈夫。(この後、四川料理や霧深い土地柄の話)

●質問用紙からの質問。三浦先生へ。
Q.華佗は人の首の移植に成功したという伝説があるが、麻沸散でそういうことができたのか(麻薬という説もあった)。
A.医学史とか華佗とか研究しているわけではないのでわかりかねるが、少なくとも『三国志』には無かった。麻沸散というのはいろんな説があり、麻薬であったかどうかもしらない。
Q.(三浦先生から中林先生へ質問)関羽像に関すること。
A.結構、いい加減に祀っているところもある(どれが関羽がわからない状態)。

●質問用紙からの質問。
Q.曹操が詩を作った建安文学に関する質問。それがどんな風に伝わってどんな風に受容されていくか
A.(会場に来ていた東京女子大学の安藤先生に話が振られる)樂府と呼ばれる民謡はそれ以前、民間に感情を抱き、特に個人の思いじゃなかった。そういう意味では文学史上、曹操が中国で最初の私人だった。
(清岡注※授業に関係しない質問なので、とっかかりが掴めず回答を理解できずに居た)

<参照リンク>三国志学会第一回大会ノート3
http://cte.main.jp/newsch/article.php/400

●早稲田大学三国志研究会から中川先生へ。
Q.三国時代の鍾[夕/缶系]以外の書家は居なかったのか? 魏の中では?
A.全く居なかったわけではない。個人名としてはなかなか難しい。
 (渡邉先生から)南朝の時に焼けたので現代に伝わってなかった云々

※ここで清岡は舞台の話をそっちのけで隣のげんりゅうさんに張紘は篆書が巧かったという話をしていた。そのためどういうやりとりが舞台で行われていたか聞かず。げんりゅうさんが中華書局の『三国志』を持っていたので、『三国志』呉書張紘伝の注に引く呉書を指し示していた。

紘既好文學、又善楷篆、與孔融書、自書。融遺紘書曰:「前勞手筆、多篆書。毎舉篇見字、欣然獨笑、如復睹其人也。」

●東京大学三国志研究会から中川先生へ。
Q.岳飛の書いた出師の表はどういう評価がされているのか?
A.僕自身の評価? 去年、拓本を買ってきた。非常に力強い非常に将軍らしい書だった。個人の評価は立派な書だった。

●大東文化大学三国志研究会から三浦先生へ
Q.中国のカンフー映画であれこれ蟷螂拳、蛇拳とか出てくるが、やはり五禽戯を元にしたのか?
A.五禽戯の中に蟷螂はないから適当かと。

●早稲田大学三国志研究会から中川先生へ
Q.鍾[夕/缶系]が七言八句の詩を献上するシーンは嘉靖本のみですか?
A.嘉靖本が最古で明代の版本にはある。毛宗崗本にはない。それは毛宗崗が七言八句の詩が当時、あることはおかしいと判断し削ったのだろう。
Q.他に削られたエピソードは?
A.漢寿亭侯のところ(しばし漢寿亭侯の解説が続く)。曹操が関羽に寿亭侯を送ったが受け取らず、漢を着けたら受け取ったというエピソード。関羽が曹操ではなく漢に下ったという意志表現。実は漢寿という地名なのでこのエピソードはおかしいとし毛宗崗はこれを削った。

●東京大学三国志研究会から三浦先生へ。
Q.五禽戯の他に華佗の業績は何か伝わったか?
A.医学史の専門家ではないんではっきり言えない。外科の麻酔は継承されなかったんじゃないか。

 ここで渡邉先生から三浦先生の専門の紹介。風水?道教?と来てなんでもできるになっていた(笑)。あと大東文化大学の中国学科は一年生のときに合宿があって、そのときに三浦先生から太極拳を教わるとのこと。

●大東文化大学三国志研究会から。特になし。

●会場から。
Q.『三国志』の記述等に見られる烏林・赤壁の位置に関する質問。
(※後で気付いたんだけど、質問していたのは簡俊さんかな)
 渡邉先生は駒沢大学の石井先生に話を振ろうと会場を見渡すも見あたらないため、中川先生に話がいく。
A.実際は烏林を指していると思う。

●会場から。何かよくわからない質問。

 15時終了。

 中林先生からアナウンスで前に飾っているフィギュアを欲しい人は持っていってとのこと。
 欲しいようで多くの人が一気に群がっていた(笑)
 ちなみにフィギュアはおそらく海洋堂NHK人形劇三国志フィギュア。
 あとこのタイミングで石井先生が来場されていた(笑)


 清岡はこの後、ネットの知り合い総勢七人でオフ会に行くこととなる。


・便乗プチオフ会(2007年7月28日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/678

※追記 まとめリンク:北方三国志