・午前の部
http://cte.main.jp/newsch/article.php/305
「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」の午後の部。
まず司会の冨谷先生から座席についてのお願いとアンケート回答のお願い。
○講演「漢から魏へ──上尊号碑」(13:10~14:30)
講師は井波陵一先生(京都大学人文科学研究所付属漢字情報研究センター教授)。講演の前に次回「TOKYO 漢籍 SEMINAR」のお知らせ
そういや午前の部で書き忘れていたけど、貰った資料の中に次回のお知らせがあった。
2007年3月10日土曜日開催予定
「第三回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」
講演テーマ遠い世界へ Part 1 西域への旅
玄奘三蔵『大唐西域記』
などをとりあげるとのこと
それから講演に入る。プリントの資料の2-1に触れ、そこの最初の【延康】から触れている(以下、【】付けはプリントの資料2-1で【】付けにされている項目があるという意味)。延康元年(西暦220年)は曹操がなくなってからの改元だ。延康の前は建安で、建安文学の説明が入る。
プリントの資料に則し次が【禅譲】。禅譲という言葉の走りは後漢書逸民伝に見られるとのこと。そこから禅譲の意味へ。禅譲は武力を伴わないものに対し「放伐」は武力にうったえるもの(例として夏→殷、殷→周)。なるほど、初耳。
【220年当時の情勢】に話が移り、武力は必要ないが、大義名分が必要とのこと。まず周囲の盛り上がりが大事とのこと(曹丕が一方的に圧力をかけたわけではない)。元号の「延康」に漢王朝の抵抗の意味が込められていると説明。
というわけで話は曹丕の【即位へ向けてのプロセス】へ。ここで上尊号碑にまつわる話に触れていく。上尊号碑が今、どういうふうにおかれているか、撮影許可をとるだけでも大変だ、という話など。
それから【上尊号碑】を奉った人物の説明へうつっていく。その奉った人物の一覧表(46人)が別のプリント(2-4 表2)でまとめられている。上尊号碑にはまず肩書きがあって姓がなくて人物の名がくるとかとかいう概説。名しかないので誰のことかわからない人物が何人かいるとのこと。
具体的に上尊号碑に記載のある人物の説明に移る。【三公】から。三公の相國が司徒とも呼ばれ御史大夫が司空とも呼ばれ、それぞれの担当を説明した後、最高責任者であると説明。九卿(元々は九つあったがこの時期は違う)が各省庁の大臣職官にあたると上尊号碑の碑額に「公卿将軍上尊号碑」(公卿→三公九卿)と書かれていて文官武官のトップクラスが並べられていることがわかる。
三公である【華[音欠]・賈[言羽]・王朗】の説明。三国志魏書武帝紀などに見られる着任時期の話。三人が三公になったのは曹丕が魏王だったときで碑文と一致。ただし、三国志魏書賈[言羽]伝との記述とは一致しない。これは即位→即王位とすれば一致する(王昶「金石萃編」の主張)。賈[言羽]の爵位も史書と碑文は一致しない。
【華[音欠]】。三国演義だと曹丕に即位を促した悪人と説明し、史書の説明に移る。三国志魏書華[音欠]伝において、靈帝を廃位しようとしたとき華[音欠]がそれを止めたというエピソードを紹介し(プリントの資料にその言葉が訳して載せられている)、それなのに曹丕に即位を促したというのは相当の覚悟だったと説明。
【賈[言羽]】。資料のプリントには三国志魏書賈[言羽]伝にみえる「[言羽]自以非太祖舊臣、而策謀深長、懼見猜疑、闔門自守、退無私交、男女嫁娶、不結高門、天下之論智計者歸之。」の訳が書かれてあり、それを紹介。他の三公と違って「世説新語」に載せられていない人で面白いと紹介。元々、太祖の臣じゃないところからの心理的な考察等。
【王朗】。経書に注釈を加えたというあたりに触れる。学者。三国演義では当時の学問的な話を取り上げることがなかった。王朗の息子の王粛の話にうつる。ちなみに王粛は鄭玄(じょうげん)の学説に反対の立場をとることが多かった。三国演義だと王朗は諸葛亮と対決する。実際の王朗とは違う云々。
【04曹仁~14臧霸】(数字は上尊号碑においての順番)。碑文にある05劉若は三国志に伝がない。06鮮于輔~09閻柔は異様。「三国職官表」では判で押したように「上尊号碑は九卿の上に在れば、即ち亦た応に三品なるべし」(プリントの資料にあり)というような頼りないコメントであると説明。「通典」での将軍の序列は「大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、前後左右将軍、四征将軍、四鎮将軍、四安将軍、四平将軍、雑号将軍」となっている。これと上尊号碑を対応付け。碑文では……四鎮将軍→九卿→近衛軍→雑号将軍という流れ。「通典」では諱を避けて虎牙将軍(雑号将軍)が武牙将軍になっている。こういった官職の意味で06鮮于輔~09閻柔は序列が異様。さらに三国志には伝がない。曹丕との個人的関係によるもの?
【曹仁・曹洪・曹真・曹休・夏侯尚・臧霸】。臧霸以外、曹丕の親戚。碑文にみえる「使持節・行都督督軍」や「仮節・都督諸軍事」の説明。節のランクが「使持節・持節・仮節」(資料のプリント)。(清岡はここで仮節の意味を取り違えていたことに気付く・汗)。厳密な使い分けは謎(碑文では使持節=仮節?)。臧霸について→川勝義雄先生の本を参照。プリントの資料2-2に引用されている。講演では「六朝貴族制社会の研究」。任侠的な人間関係の話が出てくる。
11曹真の話。曹真残碑(資料のプリント2-6に拓本のコピーあり)について。「蜀賊諸葛亮」の「賊」が後世に削られたって話。清岡はこの話を知っていたけど、これって曹真残碑のことだったんだ。下記URL参照。
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サイト「睡人亭」内曹眞殘碑
http://www.shuiren.org/sangoku/soshin.htm
【前後左右将軍】。「朱霊という人物をよく知っている方がおられたらよっぽどの三国志マニアだと思います」。この四人は元々、他の配下。朱霊は自ら袁紹の元をさって曹操の元にきた。それは西暦194年で他の三人より早い。朱霊は三国志でちゃんとした伝が立てられていない。上尊号碑の順番で朱霊の重要性を改めて確認できる。
【匈奴】。19呼厨泉。異民族、ある意味、お客さんだから高い位置。
その次が【九卿】。九卿で22程昱トップ。24鍾[夕/缶系]は刑罰の分野で有名。肉刑論の話。→参考、冨谷至先生/著「古代中国の刑罰」。前漢の文帝の13年に肉刑廃止とか。鍾[夕/缶系]は肉刑復活論者。
【近衛軍】。それほど有名な人物は出てこない。三国演義での話云々。【雑号将軍】。35焦触。三国演義では赤壁の戦いであっけなく殺される人物なので、上尊号碑に出てくるぐらい「あんた、生きてたの?」と口走ったほど個人的に面白かったとのこと。46許[木者](キョチョ、上尊号碑ではきへんで書かれているそうな)。上尊号碑の位置づけの最後というのは重要な意味を込めているかも。
まとめ。碑文の名前の羅列と文献史料の対比で何かしら面白みを見いだしてくれたら幸い。
それで司会の冨谷先生のコメント(井波先生の専門等、史書と碑文を厳密に比較云々、順番や官位は碑文の書き手が緊張するところだ)から質問タイムへ。時代の区分に関する質問。ここで清岡が興味深かったのが、史記は前漢あたり「経書」に分類されていたが、三国時代以降、「史書」に分類、つまり「史書」が独立されてきたって話。春秋の扱いに絡ませて。
○休憩(14:30~14:45、10分おしぐらい)
ここで隼鶻さんと会う。よもやま話。
○講演「魏から晋へ──王基碑」(14:45~15:55、10分おしぐらい)
司会の冨谷先生の紹介から、藤井律之先生の講演(京都大学人文科学研究所助手)。北京大学へ研修へ行くそうな。
≪1 未完の石刻≫。(以下、同様にプリント内の表題を≪≫でくくる)
≪・王基碑とは≫。王基碑の説明。清・乾隆年間に洛陽より出土。名前がないが碑文のキャリアから王基の碑文とされる。未完の碑文。発見時、下書きの朱字が残っていたそうな。その様子は2002年11月30日の
「石刻が語る三国時代」で発表済み。ということで≪・朱字のミステリー、その後≫。2005年10月に王基碑の実物をみたそうな。そのときの様子を語っていた。そこには歴代の石碑が並べられているそうな。実物を見て前回の結論を確信したとのこと。プリントの資料3-2に写真あり。
で、王基碑の時代背景にうつる。ポイントは王基碑がなぜ未完成に終わったか。≪2 正始政変と故吏≫。正始政変の説明。司馬懿のクーデター。曹爽一族を抹殺。
≪・曹真残碑の碑陰から≫。碑陰(石碑の裏側)に注目。プリントの資料3-2の図3。「州民」+「官職名」+「出身地」+「姓名字」の書式。おそらく彼らは曹真の故吏。
≪・故吏であるということ≫。故吏、つまりかつての部下って意味。かつての上司のために碑をたてることは後漢時代に盛んだった。必要に迫られていてのこと。盛んだったのは選挙制度(登用制度)の停滞が原因。
ここで選挙制度の説明。前漢時代(武帝)に儒教を学問として試験に合格したものを登用する。また地方から孝廉(孝行、清廉潔白)の科目による推挙が制度化。孝廉→郎の流れ。郎(皇帝の親衛隊←清岡は出典が知りたい)は高級官僚へとステップアップする、つまり人材のプール。後漢時代には毎年、郎にするのが制度化されていたんで毎年、ある数の郎ができる。郎に定員はないが、その後のポストに限りがある。郎にはなったがその後が続かない。
郎の制度に風穴をあけたのが辟召。辟召の説明。役所の長官によって登用、掾属になる。それが三公クラスの掾属だと郎と同格になる。→孝廉の選挙制度の変革。郎を拒否し辟召を待つ→碑を立てて、故吏個人がアピールする。そのため、曹操による立碑の禁
≪・正始政変の陰≫。曹爽の故吏たちが一斉に罷免される。ここで羊[示古]の逸話。羊[示古]の先見の明の話。羊[示古]は曹爽の辟召をうけることをすすめられるがそれを拒否。それに対し王基は曹爽の故吏→罷免。その他の西晋の功臣も罷免→うち何名か(賈充とか)は後に、司馬氏への積極的な与党。→福原啓郎先生の「西晋の武帝司馬炎」参照(と実は会場に福原啓郎先生が来られている)。
※追記
メモ:『西晉の武帝 司馬炎』
≪3 「功臣」王基≫。
≪・寿春の鎮将≫。寿春を反司馬氏勢力が拠点にしたそうな。ここは呉との係争地。ここで歴代の例をあげていく。王凌(じっさいはにすいじゃなくさんずい)、カン丘儉、諸葛誕の反乱例。王基は司馬氏側につき活躍。
≪・晋による王基の顕彰≫。王基がなくなった後、晋による顕彰。
≪・司馬昭の心≫。「司馬昭之心、路人所知也」にふれる。漢から魏は進駐型。魏から晋は本領安堵型と定義(←宮崎市定「九品官人法の研究」)
≪・魏の碑か晋の碑か≫。ここで王基碑がどちらの王朝のものか碑文の改行箇所から検証。五行目の大将軍(=司馬懿)で改行されず。司馬懿が皇帝とされていないので魏王朝のもの。碑がたてられなかったのは司馬氏への忠誠心のあらわれ。
というわけで忠誠心がどうなったか。≪4 「忠義」のゆくえ≫。
≪・魏晋交替が生んだ石刻≫。プリントの資料3-2図4「郭夫人之柩銘」。嘉平六年(西暦254年)、反司馬氏の計画がばれて李豊が抹殺される。賈充(曹爽の故吏)はその李豊の娘を妻としていた離縁する。賈充は郭夫人をめとる。その間の娘(賈南風)が後の恵帝の皇后。
正始政変の際、羊[示古]の妻の父、夏侯覇は蜀へと亡命。だけど羊[示古]は離縁せず。つまり王基碑と対照的に王朝交替により郭夫人之柩銘が残った。
≪・八王の乱──両石刻のその後≫。賈南風の専権→司馬倫による帝位簒奪と賈南風の誅殺→八王の乱→西晋滅亡。王基の娘婿の司馬[月三]は司馬倫とともに賈南風を皇后から廃す
≪・元帝の生母≫。司馬睿(元帝)の中興。プリントの資料に書かれている「司馬氏婚威簡図」を元に説明。実は司馬睿の生母は夏侯覇の弟・夏侯威の孫(夏侯淵の曾孫)、つまり晋の命脈をたもったのは曹操の一族であるという皮肉な結果になる。
司会の冨谷先生のコメント(王基碑をなぜそのままにしたか等)から質問タイム。辟召についてとか揚州府と中央政府の関係とか。その後の質問のやりとりをあまり聞かずに荷物整理タイムにあててしまった(汗)。その他、講演全体の質問タイム
○総括・閉会挨拶(15:55~16:10 10分おしぐらい)
森 時彦先生による挨拶。先生は清のご専門で今回のことは門外漢なので、楽しく聴いていたとのこと。それから来年の第三回についてのアナウンス。満場拍手。
司会の冨谷先生からのアナウンス。今回の資料(封筒に入った分)に余分があるので、今日、来れなかった人のために余分に持って帰っても良いとのこと。それから簡単な挨拶でしめ。満場拍手。
そういえば昼休みに青木朋さんが「今日ってサインもらうような会じゃないですよね」って呟いていたんだけど…
すべてのプログラムが終わった後、会場に観衆がほとんど居なくなったぐらいに、左の通路で前からやってくる冨谷先生を青木さんが出待ち…というか迎撃。「先生」と呼びかけた後、青木さんがそのために持ってきておられた
「木簡・竹簡の語る中国古代」へのサインを冨谷先生にお願い。冨谷先生、一瞬、困った様子をみせるも(というかサインを要求されるだなんて思ってもいらっしゃらなかっただろう)、快く承諾。青木朋さんの字をどう書くか、訊かれたあと、さらさらと書いていらっしゃった。書いていらっしゃるとき、「学生さんですか?」「いえ、とっくに卒業してます」とやりとり(そばにいた清岡は思わず笑ってしまった)。
しかし清岡は「木簡・竹簡の語る中国古代」をもっているんだけど、さすがに道中、読まない本を持ち歩いてはいなかったし、サインという発想もなかった。あぁ、持ってくれば良かったなぁ。
というわけで、その後、清岡、呂珪さん、青木さん、隼鶻さんと共に神田神保町へ行くことになる。
・2006年3月11日 プチオフ会 神田編
http://cte.main.jp/newsch/article.php/302