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●三国志講演会 「三国時代の食」
2008年3月23日13時。山口県の三国志城。
特別企画展示場の西側の壁(というより今、常設で神籠石関連の展示しているのでパネルを布で覆ったもの)に向かって右側にスクリーンがあって、そこに写真のようにノートPC+プロジェクターからタイトルが映し出されている。
左側には今回、講師として名乗りを上げた、『人形劇三国志』の諸葛亮に扮する一条さんが立っており、講演会が始まる。
一条さんは左手にノートPCを操るマウスを持ち、右手に巻物を持っており、どうやら巻物に縦書き(ここらへんがちゃんとしてある)の原稿が書かれてあるようだ。
ただ諸葛亮の恰好をしているだけでなく、諸葛亮になりきって発表するという今までの三顧会にはなかった面白い演出をされていた。戦評定をするとし「英雄の食卓~美味天下三分の計~」と題し食の重要性を説くという流れ。右のスクリーンには豊富な図や写真が適時表示されていた。
食を通じて話が多岐に渡っていたので、以下、覚えている分を箇条書き。※記憶があやふやな出典は()付けにしている
・黄巾の乱→董卓専横の流れで民は飢餓状態にあった。
・袁紹や袁術の食に困ることに触れ、さらに曹操が中原を回復し許昌で屯田を行ったことに触れる。
→『三国志』魏書武帝紀の注に引く『魏書』
自遭荒亂、率乏糧穀。諸軍並起、無終歳之計、飢則寇略、飽則棄餘、瓦解流離、無敵自破者不可勝數。袁紹之在河北、軍人仰食桑椹。袁術在江・淮、取給蒲[贏の貝→虫]。民人相食、州里蕭條。公曰:「夫定國之術、在于彊兵足食、秦人以急農兼天下、孝武以屯田定西域、此先代之良式也。」是歳乃募民屯田許下、得穀百萬斛。於是州郡例置田官、所在積穀。征伐四方、無運糧之勞、遂兼滅群賊、克平天下。
・曹操の食に関するエピソードの紹介。曹操が食料の確保を第一に考えていた
→『三国志』魏書武帝紀の注に引く『曹瞞伝』
常出軍、行經麥中、令「士卒無敗麥、犯者死」。騎士皆下馬、付麥以相持、於是太祖馬騰入麥中、敕主簿議罪;主簿對以春秋之義、罰不加於尊。太祖曰:「制法而自犯之、何以帥下?然孤為軍帥、不可自殺、請自刑。」因援劍割髮以置地。
常討賊、廩穀不足、私謂主者曰:「如何?」主者曰:「可以小斛以足之。」太祖曰:「善。」後軍中言太祖欺衆、太祖謂主者曰:「特當借君死以厭衆、不然事不解。」乃斬之、取首題徇曰:「行小斛、盜官穀、斬之軍門。」其酷虐變詐、皆此類也。
※追記。アクセスログを見ると2012年11/21 (水) 10:02:40に「曹瞞伝曰、操在軍庫、穀不足。 和訳」という検索語句の後に同じIPアドレスから10:11:00「三国志演義 曹瞞伝 注釈 訳 穀不足」という検索語句があってその後何度も検索があった。そんなに検索しておいて、基本的な知識である、史書『三国志』と小説『三国演義』の区別の付かない、つまりネット検索に溺れる典型的なネット・リテラシーの足りない残念なお方なのだろうか。
・曹操が袁紹の軍の烏巣の食糧を焼かせたエピソード
→『三国志』魏書武帝紀の注に引く『曹瞞伝』
攸曰:「公孤軍獨守、外無救援而糧穀已盡、此危急之日也。今袁氏輜重有萬餘乘、在故市・烏巣、屯軍無嚴備;今以輕兵襲之、不意而至、燔其積聚、不過三日、袁氏自敗也。」公大喜、乃選精鋭歩騎、皆用袁軍旗幟、銜枚縛馬口、夜從間道出、人抱束薪、所歴道有問者、語之曰:「袁公恐曹操鈔略後軍、遣兵以益備。」聞者信以為然、皆自若。既至、圍屯、大放火、營中驚亂。大破之、盡燔其糧穀寶貨、斬督將[目圭]元進・騎督韓[艸/呂]子・呂威[王黄]・趙叡等首、割得將軍淳于仲簡鼻、未死、殺士卒千餘人、皆取鼻、牛馬割唇舌、以示紹軍。
・曹操周辺の人物の食に関するエピソード。夏侯惇。卞皇后
→『三国志』魏書夏侯惇伝
時大旱、蝗蟲起、惇乃斷太壽水作陂、身自負土、率將士勸種稻、民賴其利。
→『三国志』魏書后妃伝の注に引く『魏書』
太后左右、菜食粟飯、無魚肉。其儉如此。
・兵による屯田の話→満寵が孫権の屯田を攻撃したエピソード
→『三国志』魏書満寵伝
三年春、權遣兵數千家佃於江北。至八月、寵以為田向收熟、男女布野、其屯衛兵去城遠者數百里、可掩撃也。遣長吏督三軍循江東下、摧破諸屯、焚燒穀物而還。詔美之、因以所獲盡為將士賞。
・収穫した穀物を輸送する重要性→橋に空いた穴に馬が足を落とした罪で鍾会が許儀(許[ネ'者]の子)を斬った事例
→『三国志』魏書鍾会伝
先命牙門將許儀在前治道、會在後行、而橋穿、馬足陷、於是斬儀。儀者、許[ネ'者]之子、有功王室、猶不原貸。
・船で運ぶ効率性→運河を開いた鄧艾の事例
→『三国志』魏書鄧艾伝
時欲廣田畜穀、為滅賊資、使艾行陳・項已東至壽春。艾以為「田良水少、不足以盡地利、宜開河渠、可以引水澆[シ既]、大積軍糧、又通運漕之道。」乃著濟河論以喩其指。又以為「昔破黄巾、因為屯田、積穀于許都以制四方。今三隅已定、事在淮南、毎大軍征舉、運兵過半、功費巨億、以為大役。陳・蔡之間、土下田良、可省許昌左右諸稻田、并水東下。令淮北屯二萬人、淮南三萬人、十二分休、常有四萬人、且田且守。水豐常收三倍於西、計除衆費、歳完五百萬斛以為軍資。六七年間、可積三千萬斛於淮上、此則十萬之衆五年食也。以此乘呉、無往而不克矣。」宣王善之、事皆施行。正始二年、乃開廣漕渠、毎東南有事、大軍興衆、汎舟而下、達于江・淮、資食有儲而無水害、艾所建也。
・蜀漢の桟道の話
→李白『蜀道難』
噫吁[口戲]。危乎高哉。蜀道之難。難於上青天。
・流馬と木牛の話→三国志城で展示
・いろんな食材の話→孫策と牛肉の事例
→『三国志』呉書孫破虜討逆伝の注に引く江表伝
策時年少、雖有位號、而士民皆呼為孫郎。百姓聞孫郎至、皆失魂魄;長吏委城郭、竄伏山草。及至、軍士奉令、不敢虜略、鶏犬菜茹、一無所犯、民乃大悅、競以牛酒詣軍。
・晋の貴族の贅沢に走った事例
→『晋書』石崇伝
愷以〓澳釜、崇以蝋代薪。
→『世説新語』汰侈
王君夫以[米台]糒澳釜、石季倫用蝋燭作炊。君夫作紫絲布歩障碧綾裹四十里、石崇作錦歩障五十里以敵之。石以椒為泥、王以赤石脂泥壁。
→『世説新語』汰侈
武帝嘗降王武子家、武子供饌、並用琉璃器。婢子百餘人、皆綾羅[衣庫][衣羅]、以手擎飲食。烝豚肥美、異於常味。帝怪而問之、答曰:「以人乳飲豚。」帝甚不平、食未畢、便去。王・石所未知作。
→『世説新語』紕漏
王敦初尚主、如廁、見漆箱盛乾棗、本以塞鼻、王謂廁上亦下果、食遂至盡。
・→司馬炎の子、衷の贅沢を表す逸話。
→『晋書』恵帝紀
及天下荒亂、百姓餓死、帝曰:「何不食肉糜?」其蒙蔽皆此類也。
・その後の歴史の流れの説明→三国鼎立まで話を戻す
・魏に話題を移し、曹植の詩に見られる豪勢な宮廷料理。スッポン([敝/魚]?)や熊の手(熊[足番]、熊掌)など。
→『文選』第二十七 詩 樂府上 樂府四首 曹子建 名都篇
我歸宴平樂、美酒斗十千。膾鯉[月雋]胎〓、寒[敝/魚]炙熊[足番]。
→『藝文類聚』卷第九十五 獸部下 熊
孟子曰.生魚我所欲.熊掌亦我所欲.我所欲二者不兼.舍魚取熊掌.義者我欲.生亦我欲.二者不得兼、舍生取義.
・果物など。さらに粉食→小麦を粉にして食べる。胡餅の霊帝の事例。
・何進の孫、何晏字平叔の湯餅(ラーメンの原型)の事例
→『世説新語』容止
何平叔美姿儀、面至白;魏明帝疑其傅粉。正夏月、與熱湯餅。既[口敢]、大汗出、以朱衣自拭、色轉皎然。
・牛心炙(牛はつを焼いたもの)はまず主賓が食べる。
( →『晋書』王羲之伝
年十三、嘗謁周顗、顗察而異之。時重牛心炙、坐客未[口敢]、顗先割啗羲之、於是始知名)
・現在に伝わってない料理の事例
・曹操が酪(ヨーグルト?)を貰って飲んでいた事例
( →『世説新語』捷悟
人餉魏武一[木否]酪、魏武[口敢]少許、蓋頭上題「合」字以示衆。衆莫能解。次至楊脩、脩便[口敢]、曰:「公教人[口敢]一口也、復何疑?」)
・呉に移り、左思(晋)の『三都賦』に見られる長江の漁の様子。
→『文選』賦 丙 卷第五 京都下 呉都賦
鉤[金耳]縱橫、網罟接緒。術兼詹公、巧傾任父。筌〓〓、[魚麗][魚嘗][魚少]。罩兩[魚介]、[四/巣][魚高]〓。乘[學の子→魚][元/黽][(口口)/田/一/黽]、同[四/瓜]共羅。沈虎潛鹿、[馬/中][有龍]〓束。[魚(山/一/魚)攵]鯨輩中於群[牛害]、[巉の山→才]搶暴出而相屬。雖復臨河而釣鯉、無異射鮒於井谷。
・現代の中国と違ってこのころは刺身を食べていた→膾(なます)のこと
・華佗と膾のエピソード
( →『三国志』魏書方技伝
廣陵太守陳登得病、胸中煩懣、面赤不食。佗脈之曰:「府君胃中有蟲數升、欲成内疽、食腥物所為也。」即作湯二升、先服一升、斯須盡服之。食頃、吐出三升許蟲、赤頭皆動、半身是生魚膾也、所苦便愈。佗曰:「此病後三期當發、遇良醫乃可濟救。」依期果發動、時佗不在、如言而死。)
・蟹がどれだけ好まれていたかの事例
→『世説新語』任誕
畢茂世云:「一手持蟹螯、一手持酒[木否]、拍浮酒池中、便足了一生。」
・呉に欠かせない甘味の事例→広州から果物(龍眼など。龍眼の味はライチに似ているそうな)が建業に貢がれる
→『三国志』呉書士燮伝
燮毎遣使詣權、致雜香細葛、輒以千數、明珠・大貝・流離・翡翠・玳瑁・犀・象之珍、奇物異果、蕉・邪・龍眼之屬、無歳不至。
・孫亮の甘蔗(さとうきび)や蜜に漬けた梅が出てくる事例
→『三国志』呉書三嗣主伝の注に引く『江表伝』
亮使黄門以銀碗并蓋就中藏吏取交州所獻甘蔗[食昜]。黄門先恨藏吏、以鼠矢投[食昜]中、啓言藏吏不謹。
→『三国志』呉書三嗣主伝の注に引く『呉歴』
亮數出中書視孫權舊事、問左右侍臣:「先帝數有特制、今大將軍問事、但令我書可邪!」亮後出西苑、方食生梅、使黄門至中藏取蜜漬梅、蜜中有鼠矢、召問藏吏、藏吏叩頭。
・魏にも甘蔗が出てくる例
→『藝文類聚』卷第八十七 果部下 甘蔗
魏文帝典論曰.常與平虜將軍劉勳奮威鄧展等共飲.宿聞展有手臂.曉五兵.余與論劍良久.謂余言.將軍法非也.求與余對.酒酣耳熱.方食干蔗.便以為杖.下殿數交.三中其臂.左右大笑.
※後日追記。キャンキャンの「那覇黄門」というネタでこれを思い出した。
・蜀の話題に移る。蜀は霧深く日が出ることは稀で犬は日を見て吠えるという
→柳宗元(唐)「答韋中立論師道書」
僕往聞庸蜀之南、恆雨少日、日出則犬吠。
・雨が多いので米の栽培が行われた。
・蜀のスパイスで有名なもの。椒(山椒、サンショ)。椒を壁に塗り込む事例
( →『藝文類聚』卷第八十九 木部下 椒
應劭漢官儀曰.皇后稱椒房.取其實曼延盈升.以椒塗室.亦取其温煖.)
・→「蜀椒」と呼ばれるほど。
・薑(生姜)と蜀の事例
→『捜神記』
左慈、字元放、廬江人也。少有神通。嘗在曹公座、公笑顧衆賓曰:「今日高會、珍羞略備。所少者、呉松江鱸魚為膾。」放曰:「此易得耳。」因求銅盤貯水、以竹竿餌釣於盤中、須臾、引一鱸魚出。公大拊掌、會者皆驚。公曰:「一魚不周坐客、得兩為佳。」放乃復餌釣之。須臾、引出、皆三尺餘、生鮮可愛。公便自前膾之、周賜座席。公曰:「今既得鱸、恨無蜀中生薑耳。」放曰:「亦可得也。」公恐其近道買、因曰:「吾昔使人至蜀買錦、可敕人告吾使;使增市二端。」人去、須臾還、得生薑。又云:「於錦肆下見公使、已敕增市二端。」後經歳餘、公使還、果增二端。
・孫権の蜀薑(ミョウガ)?のエピソード(前述の曹操と左慈との話に似ている)
→『三国志』呉書劉惇伝の注に引く『葛洪神仙伝』
葛洪神仙傳曰:仙人介象、字元則、會稽人、有諸方術。呉主聞之、徴象到武昌、甚敬貴之、稱為介君、為起宅、以御帳給之、賜遺前後累千金、從象學蔽形之術。試還後宮、及出殿門、莫有見者。又使象作變化、種瓜菜百果、皆立生可食。呉主共論鱠魚何者最美、象曰:「鯔魚為上。」呉主曰:「論近道魚耳、此出海中、安可得邪?」象曰:「可得耳。」乃令人於殿庭中作方[土(ク/臼)]中、汲水滿之、并求鉤。象起餌之、垂綸於[土(ク/臼)]中。須臾、果得鯔魚。呉主驚喜、問象曰:「可食不?」象曰:「故為陛下取以作生鱠、安敢取不可食之物!」乃使廚下切之。呉主曰:「聞蜀使來、得蜀薑作齎甚好、恨爾時無此。」象曰:「蜀薑豈不易得、願差所使者、并付直。」呉主指左右一人、以錢五十付之。象書一符、以著青竹杖中、使行人閉目騎杖、杖止、便買薑訖、復閉目。此人承其言騎杖、須臾止、已至成都、不知是何處、問人、人言是蜀市中、乃買薑。于時呉使張温先在蜀、既於市中相識、甚驚、便作書寄其家。此人買薑畢、捉書負薑、騎杖閉目、須臾已還到呉、廚下切鱠適了。
・その他、胡椒など香辛料
・左思(晋)の『三都賦』に見られる蜀の様子。
→『文選』賦 乙 卷第四 京都中 蜀都賦
百藥灌叢、寒卉冬馥。異類衆夥、于何不育?其中則有青珠黄環、碧[奴/石]芒消。或豐綠[艸/夷]、或蕃丹椒。麋蕪布[シ(艸/隻)]於中阿、風連莚蔓於蘭皋。
・様々な山の幸がある。
・こんにゃく芋
・晋の時代から普及し始めたお茶。はやづみが茶、おそづみを茗と呼ばれる
→『藝文類聚』卷第八十二 草部下 茗およびその注(括弧内)
爾雅曰.[木賈].苦茶.(早採者為茶.晩採者為茗.)
・呉の孫皓の茶が出てくる逸話
→『三国志』呉書韋曜伝
皓毎饗宴、無不竟日、坐席無能否率以七升為限、雖不悉入口、皆澆灌取盡。曜素飲酒不過二升、初見禮異時、常為裁減、或密賜茶[艸/(夕ヰ)]以當酒、至於寵衰、更見[福のネ→イ]彊、輒以為罪。
・最後に、「春雷驚龍」(中華おこげの料理名)の調理の動画を見る。雷のような音が入っている。
・「春雷驚龍」(春の雷が龍を驚かせる)は三国志にゆかりのある名前。その逸話の紹介
→『三国志』蜀書先主伝およびその注(括弧内)
是時曹公從容謂先主曰:「今天下英雄、唯使君與操耳。本初之徒、不足數也。」先主方食、失匕箸(華陽國志云:于時正當雷震、備因謂操曰:「聖人云『迅雷風烈必變』、良有以也。一震之威、乃可至於此也!」)。
13:42終了。
質問コーナー。谷館長が龍眼を食べたことがあるそうで、すごく美味しいとコメント。
谷館長から「蜀ノ会(食の会)」(2008年2月10日)の紹介や
諸葛菜や諸葛亮が使っていた壷の説明などが行われた。
というわけで英傑群像岡本さんから終了をつげられ満場拍手。
それから一条さんから「南蛮王の贈り物」と称してトマトが皆に振る舞われた。食べたけどかなり美味しかった。
また英傑群像岡本さんから次回講演の講師を募集しているとのこと。興味のある方は三国志城へご連絡を。
・石城の里 三国志城
http://www3.ocn.ne.jp/~sangoku/
というわけで次のプログラムまでの休憩時間。
次のプログラムの「三国志壁掛けお面づくり」は本来、外でやる予定だったけど、雨のため、第一展示場と第二展示場の間の屋根のある部分で行うとのこと。
そのため、一度に全員が参加できず十人ずつの参加となり、プログラムを前倒しし、順々に開始するとアナウンスされていた。
<次記事>第8回三顧会午後2
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