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第2回三国志学会大会懇親会


  • 2007年9月15日(土) 14:21 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,891
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート6
http://cte.main.jp/newsch/article.php/690

 17時35分、第2回三国志学会大会終了。

 その後、清岡はピーターラビットの手提げカバンを貰い、早速、ノートPCを入れてみる。そうするとちょうど(というかギリギリ)入ったのでこれから活用するという予感を持った。
 懇親会は18時開始とのことでまだ20分程度余裕があったため、知り合い皆で一階下の書店へ立ち寄る。

 その後、懇親会行く組と行かない組に分かれたので、組同士互いに別れの挨拶をし、地下の懇親会会場へと向かう。
 知り合いで懇親会に行く組は清岡、KJさん、USHISUKEさん、すでに会場に来ていた、しずかさん。今回は前回の懇親会に比べ知り合いが少ない。

<参照>三国志学会第一回大会懇親会
http://cte.main.jp/newsch/article.php/409

 前回、初めのうちは知り合い同士で固まって話をして、場に慣れてきたら、徐々に交流を広げていたが、今回は人数的にそのパターンができそうにないんで、清岡はKJさんの後に着いていく宣言をしていた(笑)
 そうすると何故か清岡、KJさん、USHISUKEさんで作戦会議みたいな感じになる(なぜ?・笑)
 あと去年の小学生は今年は来てないのかな、なんて話していた(後で聞いた話だと今年も来ていたとの話。その持続力は素晴らしい)
 それから三国志学会のサイトで前回の大会の様子が写真で出ていたとか話していた。

・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/
※今、見に行ったら、第2回三国志学会大会の写真もアップされている。初めの発表の会場の写真で150名ぎっしり人が詰まっている様子がわかる。

 18時になると、石井先生から食事の場所へ入るように呼び掛け。あと乾杯のための飲み物の準備に対しても。

 前回の懇親会と同じくバイキング形式+立食パーティー形式。
 清岡たちが着いたテーブルには知り合い以外には、中林先生や福原先生がいらっしゃった。

○懇親会(午後6時~)

 そして懇親会は、狩野直禎先生からの乾杯のご挨拶から始まる。
 一同「乾杯!」、そして満場拍手。

 早速、清岡は料理を取りに向かっていた。
 テーブルに戻るとKJさん、福原先生、しずかさん、USHISUKEさんが話していて、それに耳を傾けていた。KJさんからの地理の話から、福原先生が実際に南陽→新野→襄陽をバスに乗っていったとき、ちょうど新野が中間地点にあったとか、実際に言ってみると土地の実感がわくという話になっていた。さらにしずかさんの大河の意味合い的な話、区切るものか人の流れを促すものかとか。それからKJさんからNPO三国志フォーラムの紹介。
 福原先生から『西晋の武帝 司馬炎』(中国歴史人物選3、白帝社)の執筆話。冗談っぽく「書かされた」って表現をされたんで思わず「書かされたんですか?」とツッコミを入れてしまった。どうも司馬炎の伝記を頼まれたそうなんだけど、それだけでは一冊は書けないと思われたらしく(関西弁で「書けるんかな、と思って…」)、結局、司馬懿から書いて、「ポスト三国志」の流れになった。それから(今の)中国のお酒の話からUSHISUKEさんが中国に旅行した話。

※追記 メモ:『西晉の武帝 司馬炎』

 その後はしばし清岡、KJさん、USHISUKEさんでローカルトーク。ウェブと出版とのコラボレーションで成功している事例があるのかな、って話などをしていた。

 ここで石井先生からアナウンス。折角、韓国から来て下さったということで李先生からのお話を伺う場となる。
 李先生が韓国語がおっしゃって、金先生がそれを日本語に訳すって流れ。

 ローカルトークをしていたら、しずかさんがKJさんに客人を連れてくる。どうも「三国検索」を結構、活用している方で、KJさんのことをネットで一方的に知っている方らしい。

 その後、中林先生からお酒で倒れた時の武勇伝(?)を伺う。面白すぎ。

 『三国志研究入門』を出版している日外アソシエーツ株式会社の小森さんと名刺交換。

 その後、会場行脚から戻ってきた、しずかさんを捕まえ、その報告を伺う。

 USHISUKEさんは昨年と同様、澤先生とマンツーマン状態で話し込んで居るんで、清岡はKJさんとローカルトーク続行。
 そうすると、その二人の元へ石井先生が見知らぬ二人を連れて来る。どうやらサイト「徳本商会」の徳本さんとその知り合いの簡俊さんとのこと。しばしサイト管理の話やネット動向の話、ファン層の興味の移り変わりの話で盛り上がる。サイト管理の話ではサイトの寿命の話をしていたっけ。以前の話題を提供した。
 その流れでKJさんから清岡の紹介があって、「長沙走馬楼呉簡 丘について」の課題ネタを振られた。いやさすがに初対面の人にこのネタは引かれるだろうと思いつつ言ってみるとやっぱり引かれ気味だった(笑)。

 ここで会長の狩野先生がお帰りというアナウンスがあったので拍手。

 サイト管理の話を再開する。簡俊さんから最近の三国志ファン層の興味深い話を伺う。やっぱり三国志大戦がメジャーだよな。
 とりあえずKJさんが「NPO三国志フォーラム」はまだNPO法人化されていないんで、「NPO法人三国志フォーラム」ではないので間違わないように、と徳本さんに主張していたところにはなんか妙に笑ってしまった。その流れで「三国志連環」の話。やはりデッドリンクが多いと感じられていると徳本さん。そうだよな、あれはなかなか。
 話の流れで簡俊さんとUSHISUKEさんを引き合わせる。そうすると、マンツーマン状態でその後も話していた。

※追記 ノート6:三国志学会 第五回大会

 その後、分かれ、再び会場行脚から戻ってきた、しずかさんを捕まえ、その報告を伺っていた。清岡とKJさんからはネットの知り合いに会った話をする。

 てな感じで時計は20時近く。ここで石井先生のアナウンスがあって、最後は福原啓郎先生から締めの挨拶。
 最後は第三回に向けてということで一同乾杯と満場拍手で終える。


 この後、前回と同じくスタッフの案内で分かれてそれぞれの駅やバス停へ向かう。
 清岡はどこから帰ればホテルに近いんだろうと迷っていたら、会場にほとんど人が居なくなっていて、これはどうやら帰るタイミングを逸したんだと思っていたら、何か先生方や学生方で懇親会の二次会が近くのファミレス(昨日のジョナサンの隣)で行われるとかになっていたんで、それに参加することに。一般人は清岡だけだったんで、「誰だ、おまえ?」状態だったんだろな。

 二次会20時終了。
 結局、ファミレスから10分程度徒歩で西台まで行き、そこから都営三田線で巣鴨まで乗り、山手線に乗換え、ホテルの最寄り駅の大塚駅で降りた。


・第3回 三国志学会大会は2008年9月14日日曜日開催
http://cte.main.jp/newsch/article.php/658

※追記 三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日)

第2回三国志学会大会ノート6


  • 2007年9月14日(金) 12:25 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,713
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート5
http://cte.main.jp/newsch/article.php/688

(※清岡注、最後の発表とあって疲れて清岡の気力が殆どなくなっており、またレジュメ等で後日補間できなかったため、以下、かなり端折ったレポート内容となっている)

 16時15分に紹介開始。
 二松学舎大学の竹下先生から林田先生のご紹介がある。略歴や著作等。三国時代の文学がご専門だそうな。

○「私の中の三国志」林田 愼之助(神戸女子大学名誉教授)

 16時20分に開始。
 最近、講談社から『史記・貨殖列伝を読み解く』という本を出した。そこで金文京先生の『三国志の世界』の本を頂いた。その本で林田先生が疑問に思ったところがある。卑弥呼が景初二年に使者を魏の明帝に送ったくだりで、「景初二年」と陳寿が『三国志』魏書東夷伝ではっきり書いており、(その使者が)帶方郡に着いたのは景初二年六月であると書いている。明帝は景初三年正月に亡くなるわけだから、景初二年十二月にすでに重体である(※「十二月乙丑、帝寢疾不豫。」『三国志』魏書明帝紀)。
 そこでなぜ(卑弥呼の使者が来たのは)景初三年になるのか。京都学派では景初三年になっていたり、今の教科書では景初三年になっているものもある。景初三年の理由がいろいろあるが、一つは明帝が亡くなった、一つは景初二年の六月から遼東半島で司馬懿と公孫淵が戦を初め八月には鎮圧した、というのがある。卑弥呼の使者は景初二年六月に帶方郡につき三ヶ月足止めを喰らっていた。そして戦が鎮まった景初二年八月に少し時間をおいて出発したとしても、遼東半島とそして洛陽まで大体、三ヶ月強ぐらいだ。なぜならば、(『三国志』魏書明帝紀の注に引く『干竇晉紀』で)明帝の問いにはっきりと司馬懿が百日と答えている(「往百日、攻百日;還百日、以六十日為休息、如此、一年足矣。」)。

 曹操と荀[或〃]の話、文学の話など(※清岡注、この辺りの下りがほとんど清岡の頭に入らず)。

 漢代の辞賦作品。詩経などだいたい儒教の教理に適っている。また教理に沿いながら詩経などを解釈する。しかし曹丕は違う。「文以氣為主」(「典論論文」)としている。文には個性がある。それまで、政治的なものが入ってきて文学が形成された。例えばヨーロッパでは19世紀の末、ある人物(※清岡注、名前失念)が初めてヨーロッパ文学は(カソリックの教理から)自立したといった。(三世紀の中国の文学で自立性が確立して)それがあったからこそより内在的になった(※清岡注、この後の下りがほとんど清岡の頭に入らず)
 集英社の企画で、「中国の英傑」という伝記のシリーズがあって、林田先生は曹操の伝記を書きたかったとのこと。編集サイドとしては諸葛亮を書いて欲しかったとのこと。諸葛亮を精神的思想的な啓蒙型に位置づけた書き方をしようとおもったとのこと(※→中国の英傑(5)『諸葛孔明 泣いて馬謖を斬る』)。(司馬徳操など荊州での話)
 三国時代というのは三国が争ったが、国境を越えて文学というのがある。
※ここでA4一枚のレジュメにある話にうつる。レジュメには四つの引用があって、まず初めの二つについて。下記。

(1)胡沖呉歴曰、帝以素書所著典論及詩賦餉孫權、又以紙寫一通與張昭。
                       (『三國志』卷二 文帝紀 注引『呉歴』)

(2)呉歴曰、權以使聘魏、具上破備獲印綬及首級、所得土地、並表將吏功勤宜加爵賞之意。文帝報使、致[鼠軍]子裘、明光鎧・[馬非]馬、又以素書所作典論及詩賦與權。
                     (『三國志』卷四十七 呉主傳 注引『呉歴』)

 素書の素は絹の意味。絹に典論や詩賦を書いて孫権に贈った。やはり孫権に知ってもらいためにわざわざこういうものを贈ったんだろう。(「以紙寫一通與張昭」に触れて孫権だけじゃなく張昭にも贈った、とし、張昭の話、陸機の話。血縁関係から陸機は張昭の書を見たんじゃないかとし、張昭が陸機に与えた文学的影響の話)

※レジュメの三番目についての解説に移る。

(3)呉書曰、紘見[木冉]榴枕、愛其文、為作賦。陳琳在北見之、以示人曰、此吾郷里張子綱所作也。後紘見陳琳作武庫賦・應機論、與琳書深歎美之。琳答曰、自僕在河北、與天下隔、此間率少於文章、易為雄伯、故使僕受此過差之譚、非其實也。今景興在此、足下與子布在彼、所謂小巫見大巫、神氣盡矣。紘既好文學、又善楷篆、與孔融書、自書。融遺紘書曰、前勞手筆、多篆書。毎舉篇見字、欣然獨笑、如復睹其人也。
                     (『三國志』卷五十三 張紘傳 注引『呉書』)

 それぞれ観賞したり、自分の書いたものを贈りつけたり褒められたりして、また喜ぶ、またそれが国境を越えていたというのは面白い。

※レジュメの四番目についての解説に移る。

(4)翻與少府孔融書、并示以所著易注。融答書曰、聞延陵之理樂、睹吾子之治易、乃知東南之美者、非徒會稽之竹箭也。又觀象雲物、察應寒温、原其禍福、與神合契、可謂探[頤の頁が責]窮通者也。會稽東部都尉張紘又與融書曰、虞仲翔前頗為論者所侵、美寶為質、彫摩益光、不足以損。
                           (『三國志』卷五十七 虞翻傳)

 17時27分終了

 質問と回答(例の如く頭に入らなかったので略)

 17時29分終了

 事務局長から来年の開催日についてアナウンス。来年の三国志学会大会は9月14日。

<参照>第3回 三国志学会大会は2008年9月14日日曜日開催
http://cte.main.jp/newsch/article.php/658

※追記 三国志と乱世の詩人(2009年9月29日)

※追記 より深く理解するための「三国志」講座(2010年10月15日-12月24日)

※追記 図説 三国志の世界(2011年5月23日)

※追記 三国志学会 第七回大会(2012年9月8日土曜日)

 あと帰路についてのアナウンス。スクールバスは終わっているが普通のバスはあるとのこと。三点目として懇親会のこと。会場は前もったお知らせにあるグリーンスポットであったが、急遽変更し一号館の地下の食堂になったとのこと。四点目は二階で出店しているまだ書店が営業しているとのこと。

 17時35分、第2回三国志学会大会終了。

<次回>第2回三国志学会大会懇親会
http://cte.main.jp/newsch/article.php/691

『邪馬台三国志』


  • 2007年9月13日(木) 18:03 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,754
書籍 ネットでたまたま見かけたのでメモ。
邪馬壹國(邪馬台国)といえば、『三国志』の魏書東夷伝に載っており『三国志』とは切っても切れない関係なんだけど、その邪馬台国関連の書籍が1990年に新人物往来社から出版されているとのこと。それが高田康利/著『ヤマト・出雲・邪馬台国の三国史』。続けて1994年に『新ヤマト・出雲・邪馬台の三国志』が出版されている。
それ関連の『邪馬台三国志』が下記サイトで公開されている。

・『邪馬台三国志』
http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/

※追記 新人物往来社サイトリニューアル(2009年12月24日)

※追記 第30回 春の古書大即売会(京都古書研究会2012年5月1日-5日)

第2回三国志学会大会ノート5


  • 2007年9月12日(水) 07:16 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,441
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート4
http://cte.main.jp/newsch/article.php/687


○「韓国における三国志演義の受容と研究」李殷奉(韓国仁川大学国語国文科講師),通訳 金文京(京都大学人文科学研究所所長)

 14時59分開始。
 壇上には李先生と金先生が立ち、手元のPCでスクリーンに論文(漢字でかけるところは漢字で書かれている)を映し出す。李先生が発表し、それを順次、金先生が訳していくスタイル。

 その前に李先生に登壇して頂いた理由について金先生から説明。
 昨年は中国の研究者からの講演があったので、渡邉先生から三国志を伝統的に愛唱しているところは中国以外に、日本、韓国、ベトナムがあり、韓国が三国志の歴史的状況、現在の状況を考える上で重要だとのことで、韓国で研究されている方がいたら紹介してほしいということになった。そのときは思い付かなかったので去年は中国の学者の方ばかりとなった。

※参照リンク
・三国志学会第一回大会ノート5
http://cte.main.jp/newsch/article.php/405
・2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/374
・2006年7月29日大学院特別講演会「曹操殺呂伯奢」雑感
http://cte.main.jp/newsch/article.php/388

 今年はちょうど李殷奉さんが韓国の三国演義研究で博士論文を書かれて金先生の元へもってきたので、ご講演して頂くこととなった。
 講演開始。

 『三国演義』の重要な版本として嘉靖本、(※清岡注。他二つ聞き取れず)、毛宗崗本などがある。韓国に『三国演義』が入ってきたか正確な年はわからないが、地理的に近いので恐らく中国で出版されほぼ同時期に韓国にもたらされたと考えられる。それを改刻・復刻した形で韓国において刊行され、小説ではあるが歴史小説であるため漢文を理解する読者に人気を博した。民間では壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)のときに援軍として明の軍隊が来る。先の講演でもあったように明代の軍隊が関羽を信仰しており、関羽信仰を韓国へもたらし、そのため関羽信仰と共に三国演義が流行り、『三国演義』の筆写本、印刷されたものが流布することとなる。印刷されたものは経済的に制約で『三国演義』の中身全て出版されることがなかった。これが韓国の特徴で、人気のある面白い部分を取り出しそれを改作するということが流行した。そのため原作にはない内容、『三国演義』とは違う新しい物語が韓国で作られ出版される。近代になると日本からの活版技術が輸入され、それにより活字本でたくさんの『三国演義』の異本(韓国での創作が含むもの)が出現するようになる。こういった異本は大部分、読者が好む人物、興味深い事件を取り出し再構成したものであるために、歴史事実や大義名分が希薄になり興味本位なものとなり、『三国演義』は非常に多様な形態(小説、軍談、詩)で韓国で流布した。
 ここでは韓国の文化全般に多くの影響を与えた『三国演義』がいつ韓国に伝わったか、当時、伝わった版本は何なのか、また韓国で独自に発達した『三国演義』の異本はどういったような影響を受けたのか、を簡単に紹介する。前述したように『三国演義』が入ってきた正確な年代は判らないが、一番、古い記述としては高麗時代に『老乞大』(ろうきつだい)という中国語の教科書の中で『三国志平話』を買う場面がある。これが『三国志平話』について最も早い貴重な記録だ。これ以外は嘉靖本の序文に出てくる。『三国演義』の記述は『朝鮮王朝実録』の1569年6月1日の記事に出てくる。これが『三国演義』が韓国に入った最も古い記述。王様に対して大臣がある事柄についてそれは史書に書いているのではなく『三国演義』に書いていることだと指摘し、小説でそういうものを引いてはいけませんと諫める記述内容とのこと(※清岡注。講演では具体名が挙がってもっと詳細なものだったがメモを取れず)。嘉靖本が出たのが1522年なので、恐らく嘉靖本が朝鮮に入って来たのだろう。但し現在、韓国には嘉靖本はないので、韓国に残っている最も古い『三国演義』は恐らく周曰校本をカイホウした耽羅刊本である(この後、版本に関することについて)
 周曰校本以降、毛宗崗評本が入ってきて流行するが、その入ってきた年もよくわからない。粛宗の時代(1674年-1720年)のころだろうと推測されている。1681年-1768年の人物(※清岡注。名前失念)の一種の随筆に、「『三国演義』は刊行され広く読まれ家ごとに読まれており、過去の試験問題に『三国演義』が出ているがこれは全く恥ずかしい話である」というような記事がある。この時代、『三国演義』が非常に普及していたことがわかる。ある本(※清岡注。名前失念)では毛宗崗評本を全部、写しているのでこの時期には毛宗崗評本が入ってかなり普及していた。
 韓国で出た毛宗崗評本は『貫華堂第一才子書』という題名になっている。中国で出た毛宗崗評本は最初に「シュウゾウ三國志演義」となっているが、韓国の本では「貫華堂第一才子書」になっている。中国の版本では十行二十一字になっているのに対し韓国の本では八行十五字になっている。本文の方は巻一から巻十九まで行数字数、字の形に至るまで中国ででたものは同じ。毛宗崗評本は中国で刊行されるたびに巻数は字面が変わってきてるのに対し、韓国の方の本文の部分は十九巻、十二行二十六字と一致して、中国の十九巻本と一致する。それ以外に韓国で刊行された満州語の教科書に『三国演義』の満州語の翻訳の中から十回分の翻訳を選んで教科書に使っている。これはそれ以前の版本(底本は嘉靖本)を使っている。
 このように遅くとも1560年以前に『三国演義』が韓国に伝わっている。17世紀末には韓国語に翻訳され満州語との対訳になっていた。『三国演義』が韓国に伝わって、国王はもちろん士大夫たち、民間の女性・子供たちに至るまで三国志を興味を持つ階層は多様に渡っている。漢文を読む士大夫たちはそのまま読めたが、民間の女性や子供たちに対してはは(日本の)講釈師のような人が講談をし三国志を伝えた。17世紀の末には一部ではあるが『三国演義』が韓国語に翻訳され読者層拡大に寄与した。翻訳されたものを筆写する人がこの時代には居た。例えば1671年-1759年の人物(※清岡注。名前失念)の記録を見ると、ある人物(※清岡注。名前失念)のお母さんが『三国演義』を自分で筆写したという記録がある。女性は当時、漢字は書けないので、ハングルを筆写したのだろう。1690年-1742年の人物(※清岡注。名前失念)の文集に「娘たちに歴代の演義類の本を通じて歴史を教え見識を高める必要がある」という記述がある。17世紀末にはハングルで翻訳された『三国演義』が女性たちにより筆写されていたことがわかる。このようにハングルで翻訳された『三国演義』は筆写本以外にも旧活字本などいろいろな形態を通じ大衆の中へ多くの人気を得ることになる。
 韓国語で翻訳された『三国演義』は17世紀末にはあったと思われるが、現存するもので一番、古いものは19世紀末から20世紀までのものしか残っていない。毛宗崗評本を翻訳したものが大部分。その中で一つ特徴あるものは「楽善斉」(王室の図書館)に18世紀に翻訳された思われる筆写本がかなり多くある。その「楽善斉」に『三国志通俗演義』三十九冊が残っている。これは諸葛亮が征討するときに軍内に関索が登場しない特徴がある。ここだけをみると嘉靖本を底本として翻訳したものに思われるが、但し、それ以外、周曰校本だけにある内容が見られる。一概に嘉靖本だけとは言えない。さらに嘉靖本と周曰校本両方にない内容が見られる。それはどうも韓国で付け加えたものだ。例えば「梁父吟」の詩は『三国演義』では全然違う内容だが、この楽善斉本では『三国志』蜀書諸葛亮伝の注に引くもの(※清岡注。『藝文類聚』卷第十九 人部三 吟に記載)になっている。中国の『三国演義』で「梁父吟」をこのようにしたものはおそらく無く、おそらく訳者や筆写した人が歴史書を見て書き替えた可能性が大きい。
 商業出版が盛んになった19世紀に入ると、韓国の『三国演義』に新しい傾向が出てくる。それは『三国演義』全体を出版しそれを買うというのは経済的理由で難しいということで、人気のある一部を選んで、さらに新しい話を付け加え、元の『三国演義』とは全然違う話にしてしまう傾向。これは中国ではあまりない傾向で、韓国のこの時期の一番の特徴となる。
 独自に作られた話をもう少し詳しく紹介。ソウルで出版されたもので毛宗崗評本の第四十九回から第七十二回に相当する韓国語に翻訳したもので、前半は毛宗崗評本と同じだが、後半になると内容が『三国演義』と全く違ってくる。趙子龍を主人公とした小説となっていて、戦争で敗れた将軍が劉備に復讐しようとするが趙子龍と諸葛孔明の活躍により撤退するという話。原作にはない全く話。大部分が『三国演義』でモチーフだけ持ってきて趙子龍を中心として加工した話になっている。そういうものとして旧活字本の『趙子龍伝』(1917年)あるいは『山陽大戦』『三国大戦』というものが出版されている。いつ創作されたかはわからないが、ソウルで出版された三巻本の『三国演義』にソウルの地名の記載があり、1859年以前につくられたと考えられる。それが現在、完本(全集のこと)として残っている。
 もう一つの例を紹介すると、韓国語に訳された『三国演義』の下篇に、『孔明先生自筆』(※清岡注、聞き間違いの可能性あり)という諸葛亮に関する話がある。諸葛亮が南陽で弟の均と一緒に暮らしていて、黄承彦の娘と結婚してその奥さんからいろいろな術法を習うといった独特な構成になっている。諸葛亮を中心した話というより黄夫人を中心とした話として展開する。この小説は三顧の礼と最初の戦闘の話と結合し旧活字本の『黄夫人伝』という独自の物語として出版されている。
 もう一つ紹介すると、ソウルで出版されたとされる『桃園結義論』という本がある。毛宗崗評本の第二十回から第三十回を説略したもの。その中に『三国演義』には載ってない関羽が貂蝉を斬るという話が載っている。これは明代の芝居の「関大王月夜斬貂蝉」を少し変えて載せたのだろう。
 このように韓国語で翻訳された『三国演義』は19世紀に商業出版が盛んになると全部ではなくその中の一部分を取り出し、それを改作するというのが流行った。そのために元の『三国演義』の内容形態のものになる。中国では毛宗崗評本が最後の改訂版でこれ以降、話を変えたものは出ないし故意に内容を変えたものはでないが、韓国では全体をばらし一部を取り出しそれを違う話にどんどん作り替えてしまう(再構成してしまう)ということが流行った。これが韓国の当時の『三国演義』の大きな特徴で、そのため、歴史全体の三国志を見渡し、歴史小説としてあるいは教訓(大義名分)を読みとるとかの『三国演義』の柱になるが、当時の韓国ではそういうものよりかは個々の細部の話を興味本位に娯楽とする側面が強調されている。これが韓国での読者層の変化、『三国演義』への認識の変化をもたらしている。

 15時51分終了

質問1
(※清岡注。長いので頭に入らなかった。訳す金先生もたいへんだと思った)
 現在の韓国ではどういったものが伝わったり人気があったりするんでしょうか
回答
 いくつかの漫画が流行っている。日本語版を写したりということ。小説は流行作家が書き直したものがある。この小説がよく読まれている。中国では現代作家が書く三国志ものはないので、これは日本と韓国の共通したところだ。

 15時56分終了。
 15分休憩。
 このころになるとすっかり外は晴れていた。


<次回>第2回三国志学会大会ノート6
http://cte.main.jp/newsch/article.php/690

第2回三国志学会大会ノート4


  • 2007年9月11日(火) 00:02 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,645
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会昼休み
http://cte.main.jp/newsch/article.php/685


○「台湾における関帝信仰の諸相」松本 浩一(筑波大学教授)

 雷を伴う集中豪雨により会場への観客の戻りが遅いため予定を遅らせる。
 ステージの上にスクリーンが用意されて、14時10分スタート。

●1. 関帝(関聖帝君):様々な性格を持った神
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ

 実際、様々な神格を持っている。関羽対する信仰は数種の部面があり、そのうち四つを紹介(増田福太郎『臺灣の宗教』p32の引用がレジュメに記載)。(イ)武神としての関羽。(ロ)仏教の祭神としての関羽。いわゆる伽藍神。お寺の建物の守り神(スクリーンにその関羽像が映し出される。青龍刀を持っている)。(ハ)儒教の祭神としての関羽。「文衡聖帝」として五文昌の一人。家業の神様。入試などで文昌帝君のところに絵馬が並ぶとのこと。(ニ)商業の神としての関羽。華僑の居るところには必ず関帝廟がある。
 それぞれについて由来を辿る。

●2. 国家祭祀の祭神としての関帝
 皇帝から称号を授かる歴史。まず宋元時代の加封。レジュメに『[β亥]餘叢考』巻35關壯繆からの引用がある(以下に出てくる文献に関してもほとんどレジュメに引用と訳あり)
 宋元時代に王を加封。大觀二年に武安王など。現在、正史に見られないが、このころ、多くの称号を授かったことは間違いない。
 ある村民が県尉の李若水に関大王の書を持ってきたエピソード(『古今図書集成』神異典巻37より)。夢の予言でその村民が道士から得たとのこと。これが北宋末の年号。北宋末に王になっていたことは間違いない。
 時代を経るにつれてどんどん加封されていき元文宗天歴(暦)元年には顯靈威勇武安英濟王になった(『[β亥]餘叢考』巻35關壯繆より)。
 最初は御霊神だった。『三国演義』の中でも曹操・呂蒙へ祟りを起こしに行くので。それを鎮めるために神様に祭られた。唐の咸通年間の乱のあとのエピソードでは霊の一つとして捉えられている(『北夢瑣言』巻11より)。関羽が祭られている祠では「僧侶でここに居住する者は、外の戸をしめないで、財産や絹を思うままにしておいても、敢えて盗む者はない」というほど、恐れられていた神様(『雲渓共友議』巻3より)。
 宋元の時代には道教の中にも関羽が神様として出てくる。呪術儀礼の中で、神兵を率いて邪鬼を追い払ったりする元帥神の一人。これは台湾に関係ないため触れない。
 多くの文献が(明朝の)萬暦年間に帝号をうけたとする(『三才図絵』人物巻5關羽、『關聖帝君聖跡圖誌』巻3)。王見川氏の考証では関羽が「協天大帝」の称号を受けたのは朝廷からの正式なものではなく民間の「私封」ではないかとしている。萬暦四十二年には三界伏魔大帝神威遠鎭天尊關聖帝君(いわゆる関聖帝君)になっている(『[β亥]餘叢考』巻35關壯繆より)。この年に帝号を受けたことは様々な資料から裏付けられる。

●2. 仏教の伽藍神としての関帝(※清岡注。レジュメで2.が二回でてくる)
 伊藤先生の発表の中にあった唐代の董[イ廷]という人が書いた関帝の廟の記録(董[イ廷]「荊南節度使江陵尹裴公重修玉泉關廟記」(『全唐文』巻684))に、智顗禅師が玉泉寺にやってきたとき関羽が現れてこの地を僧坊として提供したいと申し出て(守護神となった)、とある。この全唐文では将軍になっているが後の時代になると聖帝になっている。帝号を得てから書き替えられたのであろう。張商英「重建當陽武廟記」(『全宋文』巻2231)の方では関羽が帝になっている。

●3. 商業の神としての関帝
 これはお馴染みのところ。

 ここまでは増田福太郎さんの言っていることと対応がつく。

●4. 扶[占し]の神としての関帝
 扶[占し](ふうち)とは神様が降りてきて字を書くこと。そうやってお告げをしていく。そういった文献がかなりある。先ほどの(伊藤先生の)発表は関羽について書かれた文献だったが、こちらは関羽が自らお告げを下した書物。
 清代には関帝の託した善書が多く出現。大概、良いことをすれは良いことが起こり悪いことをすれば悪いことが起こるといった内容。『関聖帝君明聖経』『救劫新論』『関帝返性図輯要実録』『救生船』『関聖帝君降筆真経』『関聖帝君戒士文』『関聖帝君全書』
などがある。一番有名なのが清朝の初期から中期ごろに成立したといわれる『関聖帝君覚世真経』(レジュメに引用と訳)。大抵は薄い冊子。
 清朝の後期になると関帝が降りてきて作るのが多くなる。場所は四川雲南湖南といった宗教結社で多くなる。時代に合わせ世を救うというテーマが強くなる。
 恩主公信仰。関聖帝君、孚佑帝君、司命真君が「三恩主」としてセットとして祭られている。
 関帝が玉皇大帝(西遊記でお馴染みの玉帝)の譲りを受けて、第十八代目の玉皇大帝に就任。第十七代の玉皇大帝は「玉皇大天尊玄穹高上帝」であり、『西遊記』第一回などにも「高天上聖大慈仁者玉皇大天尊玄穹高上帝」として見えている。第十八代「玉皇大天尊玄霊高上帝」になったという説。王見川氏によると雲南省あたりで発生したとのこと。
 王見川氏によると民国の初年中国で作られた善書の中には三つの異なった説がある。『中外普渡皇経』『玉皇普渡尊経』、『洞冥宝記』巻十のそれぞれに説がある(発表では三つ目の説を紹介)。
 この説は戦後になって台湾に伝わる。民国六十九年に台中の聖賢堂が印刷し各地に広まったという(レジュメに引用と一部訳がある)。
 最後に台湾での信仰を見るということになる。この後、スクリーンへ写真を映し出し順に解説。

 関帝を祭った廟として多いのは扶[占し]の神としての廟と商売の神様としての廟。いろんなところに出てきて最後は玉皇大帝になってしまうのは関羽の人気の高さを示している。

 14時47分終了。
 司会からフォローが入っていたが王見川を発表中「おうみかわ」と読んでいたのは「おうけんせん」だとのこと

質問1
(※清岡注。前置きが長いので略)関羽だけ帝にまでなったのは何故か
回答
 芝居や講談などの関羽人気が大きかった。また悲劇的最期を遂げたのも大きい。御霊神としての信仰がかなり広まる要素となっていると思う。

質問2
 商業神としての関羽は出身地から考えるのが一般的なのでは? 解県というのは代々、塩の名産地として知られている。解県のイメージからお金や商売がでてきた。

回答
 今回は皆さん御存知だと思ってちょっとしか話をしなかった。解州の塩とかかなり関係するとは思うが、山西商人自体、活躍していた。善書が広まるのは山西商人の影響が大きい。
(※清岡注 「解県」には塩池はなく続漢書郡国志によると安邑県にある。そこらへん回答では「解州」と言い換えているあたりさすがだなぁ、と思った。)

※追記 三国志飴(2010年9月16日)

質問3
(※清岡注。聞き取れず)

回答

 最後にこういうことに興味があれば道教学会の方にも足を運んでほしいとアナウンス。
 14時56分終了。

 ここでアナウンス。大学からのスクールバスは17時10分が最終とのこと。他の交通手段について説明があった。


<次回>第2回三国志学会大会ノート5
http://cte.main.jp/newsch/article.php/688