・枕流亭ブログ
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/
・曹操の墓キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!! (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20091227/p1
<追記>曹操の墓キタ━つづき (※上記ブログ記事)
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<追記>曹操の墓キタ━まだつづくんじゃよ (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20091230/p1
<追記>「曹操の墓」に陪葬されたふたりの女性について (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100101/p2
<追記>安陽の「曹操の墓」が冉閔の墓だという説について (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100120/p1
<追記>曹操の墓の石碑に「トイレ」 (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100125/p1
<追記>曹操の墓から出土した石碑が偽作との説 (※上記ブログ記事)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100825/p1
上記ブログ記事で知る。
魏武王高陵(つまり曹操の陵墓)が発見されたという報道が2009年12月27日にあったとのこと。例えば(というより写真入りでの情報源の一つは)下記の「河南文物网」のページとか。
・河南文物网
http://www.haww.gov.cn/
・曹操高陵在河南得到考古确认 (※上記サイト記事)
http://www.haww.gov.cn/html/20091227/153670.html
ここまで明白だと素人考えながら返って疑ってしまう。まずそれだけ銘(石牌)が出ているのに年月日の書かれたものがないこと(加えて、それだけに根拠を集約させていること)、画像石に描かれたモチーフが、後漢の典型すぎて既視感があること。続報が出ないままってことにならなければ良いけど。
ちなみに史書上では次の記述ね。
・『三国志』巻一魏書武帝紀建安二十五年春正月条
庚子、王崩于洛陽、年六十六。遺令曰:「天下尚未安定、未得遵古也。葬畢、皆除服。其將兵屯戍者、皆不得離屯部。有司各率乃職。斂以時服、無藏金玉珍寶。」諡曰武王。二月丁卯、葬高陵。
※追記<訳>庚子(紀元220年1月23日)、王は洛陽で崩御し、年六十六だった。遺令に言う。「天下はなお未だ安定せず、未だ古にしたがい得ない。葬が終われば、皆、服喪を止めろ。その将兵屯戍者は皆、屯部を離れるな。有司は各々、汝の職を修めろ。季節の衣服を(柩に)収め、金玉珍宝を(陵墓)に収めるな」 諡(おくりな)は武王と言う。二月丁卯(紀元220年2月20日)、高陵に葬る。(※清岡コメント。今さらだけど、『禮記』王制に「天子七日而殯.七月而葬.諸侯五日而殯.五月而葬. 大夫士庶人三日而殯.三月而葬」とあって、天子であれば七ヶ月後、諸侯で五ヶ月後、大夫、士、庶人でも三ヶ月後に葬るんだけど、戦時とあってか一ヶ月未満と早いね)
ちなみに下記関連記事にあるように1977年3月に陳思王墓(曹植墓)と遺骨が発見されているので、曹操のものと期待されている亡骸とDNA照合できないかな、とひそかに期待している。
※関連記事
メモ:『魏晋南北朝壁画墓の世界』
それと伝世文献史料では、下記の『資治通鑑』の胡三省注にあるように、今回の記事にある河南省安陽県と違って、河北の鄴城の西に曹操高陵があることになっている。「西門豹祠」がどこにあるかがネックだそうな。
(※訂正。違ってない。
Googleマップで確認すると今回の安陽縣安豐郷西高穴村は鄴城の西、さらには西門豹祠の西の位置にある)
・『資治通鑑』巻第六十九魏紀一黄初元年二月条(胡三省注)
丁卯、葬武王于高陵。(高陵、在鄴城西。操遺令曰:汝等時時登銅雀臺、望吾西陵墓田。魏紀載操令曰:規西門豹祠西原上為陵。)
※追記<訳>丁卯(紀元220年2月20日)、高陵において武王を葬った。(高陵は鄴城の西にある。曹操の遺令に言う。「汝らはおりおりに銅雀台に登り、吾の西陵墓の連なりを望め」 魏紀に載る曹操の令に言う。「西門豹祠の西の原の上を則り陵となせ」)
<追記>
それで中国情報局(サーチナ)で早速、日本語記事が出ているね。さすが仕事が早い。下記サイトで「曹操」で検索すれば、「三国時代「曹操の墓」発見か、カギとなる石牌を確認―河南省」という「2009/12/27(日) 19:23」付けの記事が出てくる。
・アジアへの扉、サーチナ。
http://searchina.ne.jp/