『後漢書』傅燮伝を読んでいると
再舉孝廉。聞所舉郡將喪、乃棄官行服。
という記述があって、傅燮は二回、孝廉に挙げられ、挙げた郡将(=郡太守)の喪を聞き、すなわち官を棄て喪に服したと言う。
これを読んだとき、どれぐらいの期間、喪に服していたのかな、と疑問を持っていた。
私自身、こういった礼に詳しくないんだけど、例えば『儀礼』喪服に当たり(
池田末利/訳註『儀礼』(東海大学古典叢書)を参考にした)、三年の喪に該当する相手(亡くなった人の立場)や実際に行う人を挙げると、まず斬衰三年(斬衰を着用して三年の喪に服する礼)については
父 (父のためにする)
諸侯為天子 (天子のために諸侯がする)
君 (君のためにする)
父為長子 (長子のために父がする)
為人後者 (人の跡継ぎとなった者がする)
妻為夫 (夫のために妻がする)
女子子在室為父 (父のために女子子で室に在る者がする)
子嫁反在父之室為父三年 (子が嫁し、反って父の室は父のために三年する)
となり、つぎに齊衰三年(齊衰を着用して三年の喪に服する礼)については
父卒則為母 (父が卒しておれば、母のためにする)
慈母如母 ((父が卒しておれば)慈母のためにすることは母の如くにする)
母為長子 (長子のために母がする)
となっており、少なくともここでは、孝廉を挙げた太守のために喪に服する場合で該当するものがないので、三年ではないのだろうな、と漠然と思っていた。
ところが今、『後漢書集解』の傅燮伝を見ると冒頭で掲げた傅燮伝の箇所に、『後漢書集解』による注が以下のように付けられてあった。
[集解]蘇輿曰此為舉主行服之始桓鸞傳太守向苗舉鸞
孝廉苗卒鸞去膠東令職奔喪終三年乃歸荀爽傳袁逢
舉爽有道不應及逢卒爽制服三年並其事也此外屬吏之於其
長如郡吏樂恢為太守行服功曹李恂為太守李鴻服喪三年弟
子之於師如馮冑之於李[合β]制服心喪三年封丘令王元賞之門
生斬杖三年當時風氣之厚如此但與親喪無別則昧
等差耳
※さらに細かい字で注があったが私の持っている本だと潰れて読めない部分もあるので省略。
いちいち訳すのは面倒なので略すけど、要は孝廉に挙げた太守の向苗のために三年の喪に服した桓鸞や、孝廉に挙げた袁逢のために三年の喪に服した荀爽のことが例として載せられている(さらに言えば荀爽は孝廉に応じていないのにも関わらず三年の喪に服している)。
それに続き、属吏がその長のために三年の喪に服している例や、弟子が師のために三年の喪に服している例が挙げられる。
上記の漢文をタイプするのが面倒なので、コピー&ペーストで済まそうと手元の電子文献で似たような文を探しているときに見かけたんだけど、『風俗通義』十反第五の注に
案東漢人多為舉主行喪制服
とあって、それに続き上記の傅燮伝、桓鸞伝、荀爽伝の記述が書かれてあった。
どれぐらいの割合でこういったことが行われたか見当がつかないけど、挙主に対して三年の喪に服す事例はあるのだということはわかった。
ちなみに三年の喪に関しては下記のURL参照。
・素朴な質問(「
三国志ファンのためのサポート掲示板」内ツリー)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2489
※というか関係ないが、「三国志ファンのためのサポート掲示板」の書き込みでも「夏」を感じられるようになってしまったんだね(滝汗)
※追記
メモ:『後漢書』傅燮伝
※新規関連記事
リンク:新解釈・三國志 その1その2その3(竹内真彦|note 2020年12月15-16日)
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