Site Calendar

サイトカレンダをスキップ

2024年 10月
«
»
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

NAVI

ログイン

ログイン

新着情報

記事

新着記事 2件(24時間)

コメント (2日)

-

トラックバック (2日)

-

リンク (2週)

新しいリンクはありません

QRコード

QR code

アンケート

三国志ニュースのレポート系記事

三国志ニュースで書いて欲しいレポート系記事はどれ?

  •  三国志フェス
  •  三国志学会大会
  •  関プチ5全国ツアー
  •  魏晋南北朝史研究会関連
  •  三國夜話
  •  六間道三国志祭
  •  三国志TERAKOYA4
  •  三国志 義兄弟の宴
  •  東アジアの『三国志演義』/ベトナムの『三国志演義』
  •  zip,torrent(トレント),rar,lha,mediafire,pdf,DL(ダウンロード),nyaa等を含む検索語句(違法なフリーライド・無料閲覧関連)、あるいはBD・DVD自作ラベル、カスタムレーベル等を含む検索語句(著作権・肖像権侵害関連)に関する調査・研究

結果
他のアンケートを見る | 79 投票 | 0 コメント

大三国志展(出土品でたどる三国志)


  • 2008年6月10日(火) 18:48 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    5,578
展覧会 ※目次 三サポ板五周年記念オフ会

※前記事 大三国志展(物語でたどる三国志)

・東京富士美術館
http://www.fujibi.or.jp/
・大三国志展
http://www.fujibi.or.jp/exhibition/sangokushi.html
・大三国志展ブログ
http://www.fujibi.or.jp/3594blog/

※関連記事
 大三国志展(2008年5月3日-7月13日)関連情報
 「大三国志展」の日程 via 「大三国志展ブログ」


 2008年6月1日14時過ぎ、暗がりの部屋を抜けるとそこには騎士俑がテーブルの高さのショーケースにたくさん並んでいた。


■パート1 戦う -軍雄の足跡-

 ここからが後半の「出土品でたどる三国志」エリアのようで、出品番号もリセットされている。
 作品リストを見ると、ショーケースの中に馬や馬車を合わせると8体、並んでいる。例えば、国家一級文物の漢代の「銅車馬儀仗隊:銅主騎/車馬儀仗俑群:主力の馬」(1969年甘粛省武威市雷台漢墓 出土)(※No.10)。この種類の俑は2005年10月に「よみがえる中国歴代王朝展」、「中国 美の十字路展」と立て続けに見ていたので思わず「懐かしい」と声に出してしまう。そして後者の展覧会で展示場入り口近くあった俑の隊列を中年男性が写メを撮るという禁止行為をしていたことを思い出していた。デフォルメされているといっても人と長柄の武器の比率(人の高さぐらい?)や馬車の上では正座して乗っている、皆、[巾責]を被っている、が表現されていない等、参考になる点は多い。いささんから質問され、引っかける武器の戈(か)との突く武器の矛の二つの要素を合わせた戟(げき)がこれ、というような説明をする。あと伊比さんが馬上での戈や戟を使うとき馬首によって妨げられるのでは、とコメントしたのに対し、馬上で片側しか攻撃しない無双馬超とボケる清岡(※前日のさくら剛さんからのパクリ)。その直後、清岡は画像石で戟を両手で持って馬上から正面の馬上の者を引っかけ攻撃しているところが描かれているとフォローを入れておいた(※『漢代の文物』挿図10-24)。あと、いささんが馬の頭の上に乗っている角のような飾りが何か疑問を持っていた。後ほど別の展示の解説に飾りであると説明があった(※今、『漢代の文物』を見てもしっくり該当するものが見あたらないな)。
(※ちなみに林巳奈夫/著『中国古代の生活史』の100ページにこの種の騎士俑のスケッチが載っている)
 同じショーケースにある二台の馬車。パラソルのある「銅車馬儀仗隊:銅[車召]車/車馬儀仗俑群:官吏用の軽馬車」(※No.10)と何も覆いがない「銅車馬儀仗隊:銅輦車/車馬儀仗俑群:遠征時に官吏の家族が乗る馬車」(※No.10)。後者を指して伊比さんが実際は覆いがあるんでしょうね、と言ってて、実際、馬車の両側には引っかけるような穴が三対あった(※今、『漢代の文物』P.348を見ると「輦車」は『釋名』で「人の引くもの」となっている。元のネーミングが間違っているのか、日本語訳が間違っているのかどっちだろ。まぁ当時の言葉と昔の言葉の違いってのもあるが)

※追記 TDSで騎士俑

 次は一旦、「■パート2」のところを見ていて、注目していたのは国家一級文物の三国代の「陶猪圏/豚小屋の模型」(※No.10)。小屋の下に豚が居る明器だ。清岡は同じモチーフの明器を2006年4月に「中国古代の暮らしと夢」で見たことある[口+豕]だけど、つまり小屋が便所でその排泄物を豚が処理する構造…というようなことを、いささんに説明していた。どの階層までこういったものを使っていたのだろう、と清岡は疑問を口にしていた。
 三国・蜀の「「太平百銭」銅範/太平百銭の銅鋳型」(※No.48)。鋳型なんだけどここに流し込むのか逆に押し込むのか、イマイチ使い方が判らず、四人の意見が一致しなかった。銭に書いている太平は線対称であるためそこからネガなのかポジなのか糸口を掴めずに居た。
 その次が銅銭の数々。例えば三国・呉の「銅銭「大泉当千」/呉の貨幣」(※No.47)。貨幣で魏(漢)、蜀漢、呉が揃っている。どれも円盤に四角い穴が空いていて、その周りには文字が書かれている。魏からの展示は「五銖」、呉からの展示は「大泉五百」「大泉当千」、蜀からの展示は「直百五銖」「直百」「五銖」「太平百銭」「定平一百」となっている。後漢の貨幣は五銖銭であり魏の貨幣はそれを受け継いだ五銖銭だけが展示されおり、蜀にも五銖銭があった。これを見て伊比さんは蜀の制度について細かく残っていないのは、蜀自身は漢であり(漢の制度を受け継ぎ)蜀独自の制度を記録に残さなかったという話がありましたねとおっしゃっていた。この時、清岡は三国志シンポジウムの討論会での鼓吹曲に関することを思い出していた。

 「■パート1」のところに戻ってきて、国家一級文物の三国・呉の「環首鉄刀/鉄製の刀」(※No.1)。やはり鉄なのでさびさび。
 1980年に漢中の定軍山から出土した三国・蜀の「銅扎馬釘/馬用のまきびし」(※No.5)。解説文では「まきびしを発明した」とあって清岡は伊比さんと出典不明と言い合ってた。諸葛亮と関係あるんだろうか。それに単に定軍山から出たというだけで用途不明のような気がしていた。
 共に国家一級品の三国・呉の「鉄戟/鉄製の戟」(※No.2)、「鉄矛/鉄製の矛」(※No.3)。固定する部分があるため大きさはどんなものだろうと語っていた。赤壁山、南屏山、金鸞山出土の三国の「四[稜のきへん」形鉄箭鏃/赤壁古戦場より出土した鏃」(※No.4)。三国時代のものと、どう同定したのか気になった。
 国家一級文物の三国・呉・黄武元年(222)の銅製の「「黄武元年」銅弩[臂部複製]/黄武元年の銘が入った石弓」(※No.6)。清岡が「木の部分が残っているなんて珍しいですね」と言ったらすぐ伊比さんから「いや、複製です」と指摘された(笑)
 南京市博物館の「連弩[複製品]/諸葛亮が発明したと伝えられる連射可能な石弓」(※No.8)。これも何に基づいて複製したのか気になるところ。「開運なんでも鑑定団」で撃っているところを思い出し清岡は「おもちゃみたいに機械的に矢が飛びだすんですよね」と言っていた。
 国家一級文物の後漢の「銅馬、牽馬俑/馬と馬を引く人物の像」(※No.9)。解説文によると馬はリアルだが人はデフォルメされているそうな。確かにそんな感じ。

 いささんから「虎戦車の元になったのは何なんでしょうね?」と聞かれ、清岡は「『三国演義』じゃないんですかね」と素っ気なく答えてしまった(※今、『三国演義』を見ると「第九十回:驅巨獸六破蠻兵、燒藤甲七擒孟獲」に出てくる「仮獣」ってやつだね)。いささんからさらに「じゃあれは何ですかね、『虎彪騎』ってのは?」と聞かれ、清岡はうろ覚えながら「三国志シンポジウム」を思い出しつつ自信なさげに「馬に鎧をつけたものという説がありましたね」と話していた。あと伊比さんは「親衛隊ですかね?」とコメント。ここで三口宗さんに話を投げた。

 三国・呉の「青磁跪姿持盾俑/跪いて盾を構える兵士の像」(※No.13)。解説文には帽子とあるが兜のような気がする。
 よくムックで見かける「転射」があった。漢代の「木転射/砦の石弓射撃用枠」(※No.15)。41cm×41cmという大きさ。複製ではなく出土したもの。
 漢代の「「[各隹]城」磚、「[各隹]官城塹」磚/[各隹]城の名が刻まれた煉瓦」。伊比さんは「[各隹]城から『[各隹]城』と書かれたものが出たら本物だと思いますね。わかりやすいけど逆に疑いますね」とコメントし清岡は「たまに偽刻ってあるようですよ」と返す。
 三国・魏、石刻建立の「「袞雪」拓片/曹操の筆と伝えられる石刻文字の拓本」(※No.22)。魏王という書名入り。石刻は1970年に出土したとのこと。ご丁寧に漢中市博物館でこの石刻が飾られている様子の写真もあって反射的に「本当か?」と笑いながら言ってしまった。
 「「三台」模型/曹操が建造した金虎台・銅雀台、冰井台の模型」(※No.21)。何を元にした模型か気になるところ。
 国家一級文物の後漢の「四神柱石台座/受禅台の柱の礎石」(※No.23)。玄武の蛇の巻かれ具合を見ていた。


■パート2 治める -政治・経済-

 後漢の明器「五層連閣式彩絵陶倉楼/5階建ての連結した楼閣」(※No.24)。楼の中にいる人形と高さ的に目があってしまう、と伊比さん(笑) 説明で清岡「(人形を指し)あそこから見張っていて……つまりこの展示物から見て我々が敵!」と言う。
 そして清岡のお目当ての三国・呉の「木刺/呉の将軍・朱然の名刺」。三つあるものの、「問起居」と書かれたやつ(いわゆる「刺」)。「持節右軍師左大司馬当陽侯朱然再拜」と書かれた「謁」は今回、ないようだ。清岡が気になったのは大きさ。作品リストにばっちり書いていることに気付かず、ショーケースの前でずっと「大きさどれぐらいでしょうね」と言っていた。作品リストによると長24.8cm、幅3.4cm、厚0.6cm。やはり長さは一尺ぐらいなんだね。三つとも「字義封」の文字が少し左寄りになっているところが気になった。こういうフォーマットなのかな(※今、『漢代の文物』挿図11-39を見ると一例、「南昌字子遠」の文字が左寄りになっているように見えなくもない)。後は始まりの文字と終わりの文字がかなり木簡のギリギリに書かれている。

※参考記事 三国時代あたりの名刺(謁、刺)

※追記 京都で哲舟さんを囲む会(2013年2月5日)

 ここらへんの一角はどうやら「■パート1」とかの区分に無関係で朱然墓特集の様相を呈しているようだ。
 朱然墓の「漆盤[複製品]」/季札と徐王の故事が描かれた漆塗の大皿」(※No.26)。伊比さんと清岡は複製品であることに気付かず「新し過ぎ」と疑ってしまう(清岡はおまけに「漆器だから劣化しにくい?」とコメントしていた)。描かれてる人物の服装は馬王堆の導引図に似ているので納得するが確かに新しい(笑)。あとその漆盤や朱然墓の「木履[複製品]」/漆塗の下駄」(※No.71)の横にあった「木履横にあった朱然墓の「漆砂硯[複製品]/漆塗の硯箱」(※No.41)はかなり古ぼけた感じだったので、清岡は「あれは本物ですよね?」なんて言っていたら同じく複製品だった。伊比さん曰く「古ぼけ具合を複製しているんですよ」
 それと気になったのが朱然墓の「漆匕[複製品]/漆塗のさじ」(※No.60)。匕(さじ)と銘打たれているものの、見ると長12.4cm、幅4.1cm、厚0.75cmで立体的な湾曲があまりない板状に近いもの。一端が四角く、もう一端が円い。これでは少なくとも現代のレンゲやスプーンみたいな使い方は出来そうになく、どういった物に対し使っていたんだろう、と疑問を持つ(※この後のオフ会でその旨を話したら、冷静に考えればアイスクリームを食べるときに使うスプーンも板状と言われる)。ここらへんは『礼記』あたりと照合すれば良いかな。
 それから三国・呉の「木牘/呉の名籍、身分関連文書」(※No.37)。いわゆる長沙走馬楼呉簡。肉眼で見るのは初めてだった。
 次が国家一級文物の後漢~西晋代の六つの印(※No.31-36)。印面の大きさは、2cm強四方。西晋の記の「晋帰義羌侯」の文字を見て、体制に逆らえば「叛羌」、従えば「義羌」かということで妙に納得していた。あと印の頭にある動物はそれぞれ駱駝([氏/一]族の印)やら蛇やらと表現されていて、解説文も西方には駱駝、南方には蛇となっていた。何か方位に意味があるのかな?、と伊比さん。
 その次が国家一級文物の三国・魏・正始年間(240-249)の「魏 正始三体石経/魏の正始年間に3種類の書体で彫られた書の石刻」(※No.38)。有鄰館で見た正始三体石経は結構、小さかったがこれは38×32cmというかなりの大きさ。それと合わせ壁の上の方に「清拓魏正始石経軸/正始三体石経の拓本」(※No.39)が展示されていて判りやすかった。解説文を見ると三体は古篆体、小篆体、隸体。当時の字典みたいなものかな、と言っていた。

 部屋の中央のガラスケースに行列ができている後漢の「銀縷玉衣(附玉枕)/曹操一族の墓から出土した玉片を銀糸で綴った葬衣と玉製枕」(※No.18)へ意を決して皆で見に行く。他の展示物にも気になっていたんだけど、これにも貼ってある分類シールが目立つ。清岡は「よみがえる中国歴代王朝展」で見て以来かな、銀縷玉衣は。

※追記 関野貞資料と墳墓の世界(2011年3月2日)


■パート3 生きる -生活・文化-

 画像石磚を見ながら、男女とも右衽(えりが右)であることを確認する。画像磚は画像石と違って色が付いていて服の色が判って良い、なんて口走っていた(画像磚でも拓本だと色はわからないが)。
 それと国家一級文物の三国・魏・黄初2年(221)「「黄初2年」銅鏡/黄初2年の銘が刻まれた神獣鏡」(※No.66)。銅鏡の右側の縁に沿って文字が「黄初二年十一月二十七日癸巳揚州會稽山陰」と書かれてあって、日付と十干十二支が並んで表記される事例もあるのかと感心していた(※清岡自身の趣味の小説書きで、分かりやすさと時代性を表現するため日付と十干十二支を並べて表記することがあって、前々から正しい表記なのか疑問に思っていた)。左隣に伊比さんが居て、文字について話していたら、右隣の知らない人から「文字が書いてあるのか」というような旨を聞かれ、どこに何が書いてあるのか説明したら、親子共々感心された。
 墓から出た黄金シリーズ。清岡は、埋葬品だから必ずしも金ピカそのままで使われていたわけではないのでは、とコメント。
 次に朱然墓の「漆案[複製品]/宮廷の宴会の様子を書いた漆塗のテーブル」(※No.77)。高3.8cm、56.5×82.0cm。まず席に膝をついたままお尻をあげている描写に目が行き、こういう恰好もありなんだと感心していた。また描かれている人物に(複製元の段階で)それぞれに「夫人」とか細かく文字が書かれてあって、解説文によると左上の一段高いところに座る人が皇帝・皇后のようで「あの奥に居る偉い人は何なんですかね…もしかして孫権ですか?!」なんて言っていた。
(※この時、うっすらと記憶にあって、今、確認してみると、下記のサイト「睡人亭」の「三国志のページ」の「朱然墓」のページの「これは孫權?」の項目で、この漆案について触れられているね。陸遜も居たんだ・笑)

・睡人亭
http://www.shuiren.org/
・朱然墓
http://www.shuiren.org/sangoku/syuzen.htm

 その左に判りやすく山田卓司/作「三国志の風景「酒宴の宴」/出品No.77≪漆案≫の図柄を元に制作したジオラマ」(※No.78)。清岡は「ちゃんと(敷物の)『席』が再現されている」なんて言っていたら、他の三人に説明する流れになって、以前、三サポ板で出てきた「同席」の話(下記リンク先参照)を伊比さんから振られたのでそれも説明していた。

・座るときの敷物の呼称
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2959

 次に共に国家一級文物で後漢の「彩絵陶説唱俑/物語を歌い語る芸人の像」(※No.74)と「彩絵陶説唱俑/物語を歌い語る芸人の像」(※No.75)。伊比さんが両方とも腕輪みたいなのが表現されていると言い、服の袖を表現しているかもしれないと清岡は返答。モンゴル相撲の服みたいなのをイメージしたんだけどどうだろ。それと清岡は解説文の見たまんまの表現を面白がっていた。最後に「滑稽みあふれる」と著者の感想も述べられているし(まぁ西洋美術の解説でも見たまんまなものも多いが)。
 次に国家一級文物の漢代の「彩絵六博木俑/六博[中国古代の囲碁]で遊ぶ人の像」(※No.82)。ここで清岡は「六博(りくはく)で『中国古代の囲碁』とするのはおかしいやろ!」と日本語タイトルにツッコミを入れていた。
 国家一級文物の後漢の「銅羽人/羽人像」(※No.88)。伊比さん曰く「西洋の妖怪みたい」。確かにそんな感じ。
 国家一級文物の三国・呉の「青磁羽人文仏飾盤口壺/羽人や仏像が描かれた青磁の壺」(※No.88)を見て伊比さんから仏教が伝わった形跡は呉ばかりあるのは何故だろうと疑問を呈していた。
 国家一級文物の後漢の「緑釉陶座銅揺銭樹/墓に副葬する銭のなる木」(※No.88)。ちゃんと銭一つ一つに「五銖」と描かれてある芸の細かさに感心した。
 どの展示か忘れたが、最後にようやく武冠発見。


■トピックス 魏志倭人伝の世界

 1976年、安徽省亳州市元玉坑1号墓から出土した後漢の「「有倭人」銘文磚/倭人と記す銘文が刻まれた煉瓦」(※No.94)。「有倭人以時盟不」と書かれているところが見える。素人目にさっぱり背景がわからないな。

<2010年3月31日追記>
アクセス集計作業中、ひょんなことから教えて貰ったんだけど、『中国の歴史【上】-古代・中世』(昭和堂2005年)での愛宕 元 先生の「総論」で、安徽省亳県で曹操の宗族墓から出土した磚の一つの説明として、P.23に下記に引用することが書かれていた。

━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
また「倭人」と書かれたものが見つかり、170年頃に倭人が中国に渡来していたとして日本では大騒ぎとなったが、「壁人」の誤読であることが判明して沙汰止みとなった。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
<追記終了>

※追記 愛宕 元 先生、死去(2012年1月2日)


 企画展示室を出ると、どこかでみた木製のものが置いてあった。三国志城博物館所蔵の「木牛[復元品]」(※前半のNo.90)。思わず驚き「どこかで見たことあるな」と含みながら言ってしまう。その右隣には南京市博物館所蔵の「木戦車[複製品]/機械仕掛けで常に一定の方角を指す指南車」(※後半のNo.17)。「磁石を使わず、機械的に南を指すようにできているんですよね」なんて言っていた。

 そしてある意味、今回の目的の一つである「BB戦士三国伝/三国志をモチーフとした、BB戦士生誕20周年記念作品」(※前半のNo.128)が建物の出口の右隣に展示されていた(※むしろ「『三国演義』をモチーフ」とした方が近いのかな)。ひたすら中国語版も含む数種類のPVをながすモニターの前には機駕、轟、翔の三軍が入り乱れて戦うジオラマがある(何の戦いがさっぱりわからないが・笑)。各軍の部隊兵がちゃんとどころか、大量に居て、呂布トールギスも曹操ガンダムも孔明リ・ガズィも各主要キャラがバッチリ居る。
 清岡は初見の『BB戦士三国伝 英雄激突編』第2弾PV機駕の章を食い入るように見ていた。第1弾と同じく『三璃紗伝説 - The Brave Legend -』(「Ko-saku」氏による歌)が流れていて、キャラクターのセリフは字幕で表現されている。そこで曹操ガンダムが劉備ガンダムに向けて「君だ」と言っている。これは『三国志』蜀書先主伝にある、

是時曹公從容謂先主曰:「今天下英雄、唯使君與操耳。本初之徒、不足數也。」

ってやつをモチーフにしているんだね。それと第1弾にあった「夏候惇ギロス」という誤字は第2弾では正しく「夏侯惇ギロス」となっていた。

※参考記事
 三国伝キャラクター人気投票2008(2008年1月25日-3月25日)
 『BB戦士三国伝 英雄激突編』第2弾PV機駕の章(2008年2月)
 BB戦士三国伝 PVを公開(2007年12月20日)
 三国伝年表公開(2007年11月9日)

 清岡の手元のアクセスログだと「大三国志展 三国伝」という検索ワードがちょくちょくあって日頃から『BB戦士三国伝』への関心の高さを実感していた(※ここ三国志ニュースでは現在、最新トラックバックのリストに「大三国志展」「三国伝」も両方あるので、原理的にはあらゆる三国志ニュースの記事が検索で引っかかる)。
 ちなみによく「BB戦士」と「SDガンダム」が混同された上に、「BB三国伝」とか「SD三国伝」とか誤った検索ワードをよく見かけるので認識に注意が必要。あと「BB戦士三国伝」であって「BB戦士三国志」や「SDガンダム三国志」ではなく、ましてや「三国志ガンダム」でもないことに注意。
 
 それで四人はシアターに向かう。
 かなり混んでいて座って見られるのかな、と思っていたが、一区切りついたらほとんどの人が退席したので、前の席4名分を確保する。
 初めはテレビアニメ『三国演義』の予告VTR。日中合作。デザインはタイトル通り「三国演義」で、遠近感の出た描写など結構、クオリティが高い。

※追記 アニメ『三国演義』2009年10月NHKで放送

※追記 最強武将伝・三国演義(2010年4月4日)

 まず魏・曹操の紹介VTR(約6分)。やはり今回のイメージキャラクター以外は中国中央電視台制作『三国演義』の映像が大量に使われていた。終わりの「制作 NHKエンタープライズ」の文字を見て納得。NHKは昔、BSで中国中央電視台制作『三国演義』を放送したこともあるので。蜀・劉備(約6分)、呉・孫権(約6分)と続く。何か孫権のところだけが冒頭で現在の古戦場を訪れたり、孫権の独白があったりと違った構成になっていたのが面白かった。あと孫権のVTRなのに呉の紹介になっておらず、何故か劉備・諸葛亮中心ってあたりが妙に可笑しい。孫権の紹介なのに諸葛亮の死にクローズアップしたり「民衆のための政治を志す」とか言っているあたり、さすが『その時歴史が動いた 第64回三国志英雄伝』を世に送り出したNHKクオリティ。
 次が映画『レッドクリフ』の予告編。公式サイトにあるやつと同じ。ここで伊比さんが「ここから40分あるんですね」と言い出し、そんなわけないんじゃないですか、と言い返したら、どうやらシアター入り口に書いてあった「40秒」を「40分」と勘違いしていたようだ(笑)
 シアターのすぐ外にはアニメ『三国演義』のポスターがあって、人物が十数人描かれていた。それを囲んで四人で「これは張遼かな?」なんて言い合っていた。

 『BB戦士三国伝』のジオラマを展示しているフロアはいろんなお店が多数あった(『BB戦士三国伝』も売られている)。伊比さんと三口宗さんは「大三国志展」の図録を購入していた。展示にあった解説文もバッチリ収録されているため、ツッコミを入れたりできるとおっしゃっていた。まぁ冗談はともかく金文京先生、立間祥介先生、満田剛先生が寄稿されているのでお買い得。清岡は残念ながら金欠のため購入できず。
※追記。あと横山光輝/著『三国志』(漫画)の絵入りの人物伝がある。

 皆がショッピングに興じている間、清岡は二次会参加表明されているUSHISUKEさんにメールを送る。送信時間は16:24。何故か清岡は一時間勘違いして現時刻を15:20ぐらいと思っており、素っ頓狂なメールを送った上でしばし「16時ぐらいに立川に着きますよね」とのたまっていた(※それじゃタイムスリップしている)。
 ともかくロッカーから荷物を回収し、USHISUKEさんと合流する立川駅に向かう。
 振り返ると四時間も展示品を見ていたんだ、と四人とも驚いていた。

 ずっと立ちっぱなし見続けで肉体的に疲れたんだけど、精神的にはすっきりしていた。どうも前日が良くも悪くも関係なくインプットしつづけていたので、精神的にアウトプットを欲していたようで、この日はしゃべりながらの閲覧だったんでそれが満たされていたようだった。

 バス停で先に乗車券を買ってバスを待っていると、いささんの問い掛けで、ようやく清岡は一時間ほど勘違いしていることに気付き、あわててノートPCを取り出し17時ぐらいに立川駅に到着しそうだと、その場でUSHISUKEさんにメールを送信する。送信時間は16:40。また伊比さんに立ちながらのノートPC操作を見せてしまった(笑)

 帰りのバスはバラバラながら全員座れることができる。
 JR八王子駅前にて、いささんとはここでお別れ。皆で挨拶する。いささんから三サポ板では次はいつ集まるか、って聞かれたので、第三回三国志学会大会あたりか、開催されるのであれば三国志シンポジウムでしょうね、って言っていた。この話の流れでしばしmixiのコミュニティの話をしていた。清岡はコミュニティ「総合三国志同盟」の話を出していた。やはりオフ会だと参加してみないと実際のノリやテンションがわからないな、という話題になり、いささんにとってはどうやら今回のオフ会はちょうど良かったようだね。どうやら、いささんはオフ会自体、初めての参加のようで、清岡は「初回からいきなりハードでしたね、数時間にもわたって」とコメント。

 というわけで残り三人は中央本線で再び立川駅に向かうこととなる。


※次記事 三サポ板五周年記念オフ会二次会

※追記 メモ1:三国志フェス2013(2013年9月28日)

※追記 メモ:第20回三顧会 前夜祭(2014年5月3日)

※追記 メモ:三国志・君主と軍師・謀臣たち(川本喜八郎人形ギャラリー 2016年7月30日)

※新規関連記事 漢三國西晉鏡銘集成(横浜ユーラシア文化館2015年3月-)

※新規関連記事 リンク:宮闈宴楽図漆案についての考察と画像(2017年12月1日)

※新規関連記事 特別展 三国志(東京2019年7月9日-9月16日、福岡2019年10月1日-2020年1月5日)

※新規関連記事 図録 三国志(2019年6月19日)

※新規関連記事 東京富士美術館『大三国志展』の思い出(中国史史料研究会会報第3号2019年11月1日)

トラックバック

このエントリのトラックバックURL:
http://cte.main.jp/newsch/trackback.php/928
表示形式
コメント投稿

サイト管理者はコメントに関する責任を負いません。