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メモ:虎牢関って


  • 2008年2月22日(金) 23:18 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    6,489
歴史 『中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期』を参考とした地図。 手元のサイトのアクセスログを見ると、ちょくちょく検索されるワードに「虎牢関 場所」というものがある。それほど、虎牢関の場所を知りたがっている三国志ファンが居るのだろうな、と実感していた。というわけで迷える三国志ファンのために少しでもお役に立てれば良いなとおもいつつ、「虎牢関」について私が知っていることをメモしておこう。

 白話小説である『三国演義』には「第五回:發矯詔諸鎮應曹公、破關兵三英戰呂布」に董卓の軍勢と袁紹の軍勢が戦う場として「汜水関」や「虎牢関」が出てくる。『三国演義』において、前者では関羽が華雄を一刀のもとに斬り捨てたシーンで有名な場所で、後者は劉備・関羽・張飛が呂布と戦ったシーンで有名な場所。そのため三国志ファンの間では特に「虎牢関」が良く知られている
(↑一応、記事の前提条件を読者に確かめてもらう文)

 「虎牢」という地名自体はすでに『史記』や『漢書』にも見られ(例えば『史記』三代世表、『漢書』五行志)、さらに『史記』の注に

正義括地志云:「洛州氾水縣古(之)〔東〕[(埒虎)の土を抜いた字]國、亦鄭之制邑、又名虎牢、漢之成皋。」

<清岡による頼りない訳>
正義括地志に言う。「洛州の氾水県は古の東[(埒虎)の土を抜いた字]国であり、また鄭の制邑であり、またの名を虎牢であり、漢の成皋だ」

とあり、「虎牢」は漢代では「成皋」と呼ばれている。

 それで本題の『三国志』では「成皋」という地名は出てきており、『三国志』魏書武帝紀ではズバリ、董卓の勢力との戦いのところで出ている。長いが以下に標点がついた文を引用し、頼りない訳をつけておく。あと解りやすいように譚其驤(主編)『中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期』(中國地圖出版社出版)を元とした関連地図をこの記事につけておく。「成皋」という地名に注目。

初平元年春正月、後將軍袁術・冀州牧韓馥・豫州刺史孔[イ由]・[六/兄]州刺史劉岱・河内太守王匡・勃海太守袁紹・陳留太守張[しんにょうに貌]・東郡太守橋瑁・山陽太守袁遺・濟北相鮑信同時倶起兵、衆各數萬、推紹為盟主。太祖行奮武將軍。

二月、卓聞兵起、乃徙天子都長安。卓留屯洛陽、遂焚宮室。是時紹屯河内、[しんにょうに貌]・岱・瑁・遺屯酸棗、術屯南陽、[イ由]屯潁川、馥在[業β]。卓兵彊、紹等莫敢先進。太祖曰:「舉義兵以誅暴亂、大衆已合、諸君何疑?向使董卓聞山東兵起、倚王室之重、據二周之險、東向以臨天下;雖以無道行之、猶足為患。今焚燒宮室、劫遷天子、海内震動、不知所歸、此天亡之時也。一戰而天下定矣、不可失也。」遂引兵西、將據成皋。[しんにょうに貌]遣將衛茲分兵隨太祖。到[(螢)の虫が水]陽[シ卞]水、遇卓將徐榮、與戰不利、士卒死傷甚多。太祖為流矢所中、所乘馬被創、從弟洪以馬與太祖、得夜遁去。榮見太祖所將兵少、力戰盡日、謂酸棗未易攻也、亦引兵還。

太祖到酸棗、諸軍兵十餘萬、日置酒高會、不圖進取。太祖責讓之、因為謀曰:「諸君聽吾計、使勃海引河内之衆臨孟津、酸棗諸將守成皋、據敖倉、塞[(車環)の王ぬき]轅・太谷、全制其險;使袁將軍率南陽之軍軍丹・析、入武關、以震三輔:皆高壘深壁、勿與戰、益為疑兵、示天下形勢、以順誅逆、可立定也。今兵以義動、持疑而不進、失天下之望、竊為諸君恥之!」[しんにょうに貌]等不能用。

<清岡による頼りない訳>
初平元年(紀元190年)の春正月に後将軍の袁術、冀州牧の韓馥、豫州刺史の孔[イ由]、[六/兄]州刺史の劉岱、河内太守の王匡、勃海太守の袁紹、陳留太守の張[しんにょうに貌]、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、濟北相の鮑信が同時に共に兵を起こし、衆はそれぞれ数万であり、袁紹を盟主に推した。太祖(曹操)は奮武将軍を兼行した。

二月、董卓は(山東で)兵が起こったと聞き、すなわち天子の都を長安に遷した。董卓は洛陽に留まり駐屯し、ついに宮室を焼いた。この時、袁紹は河内に駐屯し、張[しんにょうに貌]、劉岱、橋瑁、袁遺は酸棗に駐屯し、袁術は南陽に駐屯し、孔[イ由]は潁川に駐屯し、韓馥は[業β]に在った。董卓の兵は強く、袁紹らは敢えて先に進もうとはしなかった。太祖(曹操)は言う。「義兵を挙げ暴乱を誅しようと、大衆は既に集合し、諸君は何を疑いましょうか? 仮に董卓が山東の兵起を聞いているのであれば、王室の重に依り、二周の険(要害)に拠り、東へ向かい天下を望むでしょう。道が無くこれを行うといえども、なお満ちて患いとなります。今、宮室を焼き、天子を脅し遷し、海内(天下)は震え動き、帰す所を知らず、この天の亡ぶ時です。一戦で天下が定まり、失敗することはできません」 遂に(曹操は)兵を西へ引き、まさに成皋をよりどころとしようとした。張[しんにょうに貌]は将の衛茲を遣り、兵を分け太祖(曹操)に随行させた。[(螢)の虫が水]陽の[シ卞]水に至り、董卓の将、徐栄に遭遇し、戦い利を失い、士卒の死傷がはなはだ多かった。太祖(曹操)は流れる矢により当たるところとなり、馬に乗るところで傷を被り、従弟の曹洪は馬をもって太祖と共に、夜に逃れ去ることができた。徐栄は太祖が率いる兵が少ないところを見て、一日中、力戦し、酸棗は未だ攻めやすくないと思い、また兵を引き帰った。

太祖(曹操)は酸棗に至り、諸軍の兵十万余りで、日々、酒を置き盛宴を張り、積極的な行動を図らないでいた。太祖(曹操)はこれを責め、謀ることに因りて言う。
「諸君は吾の計を承け、勃海(袁紹)には河内の衆を率い孟津に臨んでいただきき、酸棗の諸将には成皋を守っていただき、敖倉に拠り、[(車環)の王ぬき]轅(関)、太谷(関)を塞ぎ、それら険(要害)すべてを制していただきます。袁将軍(袁術)には南陽の軍を率い丹(水)、析に陣取り、武関に入ることで、三輔を驚かせていただきます。皆、土塁で深い壁で、戦うことなく、疑兵を増やし、天下に形勢を示し、順をもって反逆者を誅殺し、定めを起こしてください。今、義の動きによる兵は、疑いを持ち進まず、天下の望みを失い、密かに諸君のためにこれを恥じています!」 張[しんにょうに貌]らは用いることができなかった。

※[(車環)の王ぬき]轅と太谷を「関」としている理由は後述。

 ここで注目ししばし覚えてほしいことは「成皋」という地名が出てくるものの実際に戦いはない。また「[(車環)の王ぬき]轅(関)」、「太谷(関)」、「武関」と「関」が出てくるもののこの時期、実際、山東勢と董卓による戦いが行われなかったことだ。
 『三国志』において「虎牢」という言葉はなく(但し、『三国志』魏書文帝紀の注に引く『魏書』の詩に「虎牢」という言葉が載っている)、反董卓時期に「関」での戦いも載っていないので、従って

 『三国志』に「虎牢関」は載っていない

ということになる(「汜水関」も載っていない)。

※「関」が何かは下記のURL先参照。

・関所の役割(「三国志ファンのためのサポート掲示板」、通称、サポ板内ツリー)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2880

 もっと掘り下げると当時、「成皋」辺りに「関」があったのかどうかということになる。「[(車環)の王ぬき]轅(関)」、「太谷(関)」、「武関」は洛陽から見てそれぞれ南東、南東、南西にあり、東にある「成皋」からほど遠い位置にある。この時期あたりで、この三つの関以外に出てくる関は『三国志』魏書武帝紀において董卓秉政時期に曹操が洛陽から密かに東へ帰る下りで出てくる。

太祖乃變易姓名、間行東歸。出關、過中牟、為亭長所疑

<清岡による頼りない訳>
太祖(曹操)はすなわち姓名を変え、密かに東へ帰った。関を出て、中牟を過ぎ、亭長に疑われるところとなる。


 また、この部分の直前の注に引かれる『魏書』には


從數騎過故人成皋呂伯奢。

<清岡による頼りない訳>
数騎を従え、昔馴染みの成皋出身の呂伯奢のところを訪れた。


とある。但し「成皋呂伯奢」が成皋出身の呂伯奢という意味で現住所かどうかわからないが。

<関連記事>2006年7月29日大学院特別講演会「曹操殺呂伯奢」雑感
http://cte.main.jp/newsch/article.php/388

 それでこの関は何かというと、『三国志』からは見出せず、対象となる時代が近い『後漢書』から見出せる。
 『後漢書』皇甫嵩伝で黄巾から洛陽を守る準備をするという下りで、


詔敕州郡修理攻守、簡練器械、自函谷・大谷・廣城・伊闕・[(車環)の王ぬき]轅・旋門・孟津・小平津諸關、並置都尉。
※大谷・[(車環)の王ぬき]轅在洛陽東南、旋門在汜水之西。

<清岡による頼りない訳>
詔敕により州郡に攻守の修理をさせ、函谷、大谷、廣城、伊闕、[(車環)の王ぬき]轅、旋門、孟津、小平津の諸関より器械を選び出し、並びに都尉を置く
※注。大谷・[(車環)の王ぬき]轅は洛陽の東南に在り、旋門は汜水の西に在る。


というのあり(これを見ると前述の「孟津」も関のことかも)、さらに『続漢書』郡国志によると

成[四/幸](皋)有旃然水。有瓶丘聚。有漫水。有汜水。

ということで、成皋に汜水がある。
 まとめると曹操は東へ帰るときに通った関は「成皋」近くにある「旋門関」の可能性が高い。

 話を戻し、対象となる時代を順に『三国志』から正史類を見ていくと、『宋書』小帝紀で


(景平元年正月)虜將達奚(斤)破金[土庸]、進圍虎牢。

<清岡による頼りない訳>
(紀元423年1月)虜(北魏)の将の達奚斤は金[土庸](地名)を破り、虎牢に進み包囲した。

(※2009年12月追記。よく考えたら唐の李淵の祖父は李虎なんで、避諱されて「武牢」になるんだよね。後もそうなんだけど、「武牢」や「武牢関」で調べ直す必要がある。)


というふうにようやく「虎牢」という地名が出てくる。さらに蛇足だけど『宋書』文帝紀では


(元嘉七年)十一月癸未、虎牢城復為索虜所陷。

<清岡による頼りない訳>
(紀元430年)十一月癸未、虎牢城はふたたび索虜(北魏)に落とされた。


というふうに「虎牢城」という表現が見られるようになる(もっとも仮に県の名前が「AAA」だとするとその県城を「AAA城」という表現をするが)。
 さらに正史類において時代を下っていくと、『新唐書』武宗紀で


(會昌五年)十月、作昭武廟于虎牢關。

<清岡による頼りない訳>
(紀元845年)十月に昭武廟を虎牢関に作った。


というふうにようやく「虎牢関」の表現が出てくる(この「虎牢関」が前述の「旋門関」と同じあるいは同じ場所にあるのか、私は調べ切れていない)

 ここからは史書から離れて、なぜ『三国志』に載っていない「虎牢関」が三国志ファンによく知られるようになったかについてメモを書く。
 唐代からかなりの空白ができてしまうんだけど、元代の雑劇で董卓の軍勢と袁紹の軍勢が戦うものに、そのものズバリのタイトルで鄭光祖『虎牢關三戰呂布』(最近、サポ板でも書いたとおり私自身、ちゃんと確認していない)というようにタイトルに「虎牢関」があり、さらには冒頭でも書いたように『三国演義』(ここでは最も普及している毛宗崗本)でも「第五回:發矯詔諸鎮應曹公、破關兵三英戰呂布」とタイトルに「虎牢関」がある。後漢末や三国時代と違い、ここまで時代が下ると「虎牢関」は馴染みのあるものとなっていたんだろう。
 また宋代の『朱子語類』卷第五十七 孟子七によると


 鄭之虎牢、即漢之成皋也。虎牢之下、即[シ秦][シ有]之水、後又名為汜水關

<清岡による頼りない訳>
 鄭の虎牢はすなわち漢の成皋だ。虎牢の下は、[シ秦]水と[シ有]水につき、後にまたの名を汜水関とする


ということで虎牢と「汜水関」が同じと認識されている。

 また、サイト「超級三国志遺跡紹介ホームページ≪三劉≫」を見ると現在でも虎牢関があったとされる場所を示す碑もあるらしい。

・超級三国志遺跡紹介ホームページ≪三劉≫
http://kankouha.cool.ne.jp/

 また、私からは未確認ながらサポ板の書き込み記事143828821512によると『歴史群像【中国戦史】シリーズ 真三國志』(学研)には虎牢関の場所を示す地図、『歴史群像シリーズ17 三国志 上巻 曹操・劉備・孫権天下への大計』(学研)には虎牢関のイラスト、『三国志の大地』(竹内書店新社)では「汜水関と虎牢関は同じ物で、三国時代では汜水関と言われていた」という記述が見られるとのこと。これらは歴史を元にしているのか創作を元にしているのか確認していないが。


 ということで三国志関連の作品で「虎牢関」という記述を見かけると、その作品は歴史以外にも何か別に参考にしているのだな、と判断するように、私は「後漢は木徳」と同じように「虎牢関」があるかどうかを作品のチェック項目としている。


<2008年7月24日追記>
知り合いが、塩沢裕仁「洛陽八関とその内包空間-漢魏洛陽盆地の空間的理解に触れて-」(『法政考古学』第30集記念論文集)のコピーを持っていたんだけど、それによると成皋関(前漢)→旋門関(後漢)となっていた。
機会が在れば貸して貰ってちゃんと読んでみよう。

※追記 メモ:「洛陽八関とその内包空間」

※追記 メモ:鎧 and リンク:東アジアにおける武器・武具の比較研究

※新規関連記事 三国志 合戦読本(2017年2月13日)

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