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第2回三国志学会大会ノート3


  • 2007年9月 9日(日) 00:06 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    4,507
研究 <目次>第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/679
<前回>第2回三国志学会大会ノート2
http://cte.main.jp/newsch/article.php/683


○「建安文学における香りについて──迷迭の賦をめぐって」狩野 雄(相模女子大学准教授)

 12時17分スタート。

●一 はじめに──曹操の薫香嫌いと時代背景
 ※小タイトルはレジュメ通り。以下、同じ
  また、レジュメでは[資料]として様々な文献からの引用が載せられている。

 建安文学の創造者とされる曹操だが、曹操は薫香を嫌い続けた人物。[資料一─1](太平御覧巻九百八十一 香部一 香に引かれる魏武令)に明確に「吾不好焼香」と書かれていて、焼香を許したのは実用面のみであった。曹操の薫香に対する姿勢は[資料一─2](三国志巻一 魏書一 武帝紀の注に引く魏書)で「雅性節儉、不好華麗」とみえるように華美を好まないためかもしれない。こうしたことを反映してか現存する曹操の詩歌作品中に薫香表現を見出すことは難しく、[資料一─3](宋書 楽志三 曹操「陌上桑」)で「柱杖桂枝佩秋蘭」と見えるだけ。曹操は詩人としても一個人としても薫香に関しては遠い存在といわざるを得ない。
 曹操のこうした姿勢は建安の時代において薫香がすべてに渡って疎んじられたという意味ではない。むしろ禁止しなければならないほど薫香が人々の好みに適っていたと雄弁に物語っていた。例えば曹操の息子、曹丕に関して[資料一─4](三国志 魏書 巻二十九 方技伝 朱建平)で「帝將乘馬、馬惡衣香、驚囓文帝膝」とあり馬が香りを嫌って衣に噛みつく程。
 こうした関心の強さはその当時まで蓄積された薫香の状況と些か関わりがある。[資料一─5]に示した陳連慶「漢晋之際輸入中国的香料」(『史学集刊』1986年第二期)では武帝紀に中国にもたらされた品々を細かに挙げながらかつ[資料一─5─(1)](漢書巻九十六下 西域伝)の「殊方異物、四面而至。」と述べながら、そこに香料が含まれないことと、香料の名が見える文献の清書が南北朝期であることを指摘した上で、当時、漢代、すでに陶製の薫炉が行われたことが出土文物からは認められるものの、香料の輸入が本格的に行われていたことを示すものでは必ずしもないと論じられている。信用できる文献として[資料一─5─(2)](芸文類聚巻八十五 布帛部 素、太平御覧巻九百八十二 香部二 蘇合)の班固が班超に宛てた手紙がある。後漢の章帝期で大月氏の蘇合香が中国に入ってきたことが確認できる。月氏の視線の先には大秦国(※清岡注、ローマ帝国のこと)が意識されていたかもしれない。[資料一─5─(3)](後漢書巻八十八 西域伝 大秦)では大秦国の様子に触れられているが蘇合香にも触れられている。「凡外國諸珍異皆出焉」の記述は[資料一─5─(1)]の記述にも通じる。「珍異」なるものとして香料が挙げられている。香料の名が魏略西戎伝に記される。[資料一─5─(4)](三国志巻三十 魏書 烏丸鮮卑東夷伝の注に引く)のところ。「一微木・二蘇合・狄提・迷迷」。「迷迷」は「迷迭(めいてつ)」の誤りだと思われる。こういった香料は使節にももたらされたが商人にももたらされた。いつの頃かはわからないが[資料一─5─(5)](楽府詩集巻七十七 雑曲歌辞十七 楽府 古辞)に「五木香」や「迷迭」など香料やその原料となる植物が挙げられる。陳連慶氏は中国に香料がもたらされる時期を三つに分ける。前漢武帝期からを薫醸段階、後漢期を○○段階、魏晋期を○○段階、つまり建安時代は外国の香料が大量に中国へもたらされる段階に当たっている。こういったことを背景にしながら、建安文学の香りについて見ていく必要がある。香料の名前としてあるいは香料の原料として「迷迭」というものあった。[資料一─5─(6)](法苑珠林巻四十九)では「迷迭香 魏略曰、大秦出迷迭。廣志曰、迷迭出西海中。」となっている。「迷迭」は元々、植物の名称で建安の舞台にあって詩人たちによって愛でられた。

●二 迷迭の賦をめぐって──異国の植物はどう香るのか

 『芸文類聚』巻八十一は薬香草部上にあたっていて迷迭が一項目として立てられ、五名の辞賦作品がある。また[資料二─0](太平御覧巻九百八十二 香部二 迷送(迭))、曹丕の賦と思わしきものが収められている(「魏文帝迷送(迭)賦曰~」)。この制作年代は不明だが、先行研究の中では仮にとされながら「建安二十一年」としている。曹丕は迷迭の種を中庭に植えその様子と香りについて迷迭の賦を作っている。おそらく他の四名の作というのもこの時に盛んに行われたと言われている即興的競作的作品、つまり同時に作られたと思われる。
 今、詩人の個性と共に香りに対する感覚の世代間の差異が認められるか否かについて考えるために、試みに世代順に見ていく。まず曹操と同年代の陳琳(156-217)について[資料二─1](芸文類聚 巻八十一 薬香草部上 迷迭 陳琳「迷迭賦」、韻補巻二 下平声・十陽・鍾「終」字 陳琳「迷迭香賦」、韻補巻五 入声・五質・歇「歇」字 陳琳「迷迭香賦」の三つ)で見る。芸文類聚に作品の全て掲載されていないことは韻補に収録されていることから知られている。残されている部分からいくつかの特徴がいえる。香りについて芸文類聚の引用の最後の部分「動容飾而微發、穆斐斐以承顔。」の表現を踏まえつつ、感じる顔の気配を詠じている。「斐斐」という表現が嗅覚と共に視覚をも意味する面白さを含みつつも余り迷迭の香りを中心に据えてはいないように感じられる。韻補の引用についても香りは久しく留まらないことを詠じられていたり、同様の傾向が伺える。
 こういう傾向は次の王粲(177-217)にも伺える。[資料二─2](芸文類聚 巻八十一 薬香草部上 迷迭 王粲「迷迭賦」)。王粲の「迷迭賦」の芳香表現は「揚豐馨於西裔兮」に見られこれが「去原野之側陋兮、植高宇之外庭」の前、すなわち中国にもたらされ目の前に植えられる前の段階の香りを詠んでいる。眼前にある迷迭を詠じた部分ではもっぱらその姿の美しさが視覚的に捉えられており、迷迭の香りを中心に据えているようには思えない。 陳琳「迷迭賦」では迷迭は「來儀」するものと詠じられていたが、「來儀」とは[資料二─2─(1)](尚書 虞書 益稷)に見える「鳳皇來儀」という風に本来、鳳凰の鳳来を意味するものだった。[資料二─2─(2)](芸文類聚 巻九十二 鳥部下 雀)では大雀を詠じたものであり、霊物はしばしば鳥の姿で描かれる。おそらくはそうであるからこそ王粲の「迷迭賦」の最後で「以孔翠之揚精」とあり「孔翠」、辞書によってはクジャクだったり孔鳥と翠鳥の二種類の鳥だったりするが、いずれも美しい鳥である。こうした視点から異国の植物である迷迭を描いたとするならば、そこには可視的に到来することが期待されるのかもしれない。こうした陳琳や王粲の営みというのはそれが作られた場にはっきり影響を受けている。これらは曹丕を主人とする主客的空間であることを示すことで理解できる。
 目の前で迷迭が香りを放っている表現は無いかというと、應[王昜](?-217)の迷迭賦がそのような視点からの描写が見える。[資料二─3](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 迷迭 應[王昜]「迷迭賦」)。應[王昜]は「舒芳香之酷烈、乘清風以徘徊」と詠じている。「舒芳香之酷烈」という表現は[資料二─3─(1)](楚辞 王褒 九懐「蓄英」、漢書巻五十七上 司馬相如伝上 司馬相如「子虚賦」、文選巻十六 司馬相如「長門賦」の三つ)に挙げている前漢の作家に見られる表現を踏まえたもの。
 続いて曹丕(187-226)の迷迭賦に見られる香りの表現は應[王昜]の香りの表現にとても良く似ている。[資料二─4](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 迷迭 曹丕「迷迭賦」)。曹丕の迷迭賦に見られる香りの表現は「隨迴風以搖動兮、吐芳氣之穆清」、この部分に現れている。風に順い迷迭が揺れ、その際に清々しい香りを吐き出す、と表現されているので、應[王昜]の表現と大きく変わるものではない。ただ一点、「芳草之樹」が詠み込まれていることだけが差異と言える。この表現の差異はそれほど小さいものではないと考えている。「芳草之樹」が詠み込まれていることがどういうことかというと、漢代の辞賦作品を例に挙げると、[資料二─4─(1)](漢書巻五十七上 司馬相如伝上 司馬相如「子虚賦」)で「吐芳揚烈」とあってそれを顔師古は「烈、酷烈之氣成」と注をし、「郁郁菲菲、衆香發越」については郭璞は「香氣射散也」と注を付けている。何れも芳香の氣だと注釈にある。あくまでも注釈の段階で「氣」と表現されている。時代が下ると表現が一般化される。司馬相如の段階では表現の目が現れてない。
 「氣」の字が香りとして用いられるのはどれが一番古いのか。曹丕「迷迭賦」に先駆けては一つしか見いだせない。[資料二─4─(2)](芸文類聚巻八十七 菓部下 [艸/劦]支 王逸「[艸/劦]支賦」)での「口含甘液、心受芳氣。」。味覚と嗅覚で感じられる「芳氣」。「氣」を香りとして表現した曹丕の例がもう一例、曹植には二例ある。[資料二─4─(3)](楽府詩集巻三十六 瑟調曲一 曹丕「善哉行」)での「清氣含芳」、(玉台新詠巻二 曹植「美女編」)の「長嘯氣若蘭」、(文選巻十九 曹植「洛神賦」)の「氣若幽蘭」。同時代の用例はこの二人にだけ見られるということから、曹丕兄弟は芳香の氣を意識的に用いられると考えられる。現存する辞賦作品から見るならば、王逸によって試みられた芳香の氣の表現を曹丕曹植が受託的積極的に採用したといえるかもしれない。
 「氣」の字を織り込むことによって曹丕曹植兄弟は何を表現しようとした、あるいは結果的に何が表現されたのか。[資料二─4─(4)](説文解字一篇上、説文解字十一篇下)では「气、雲气也。」とされ、さらに「雲、山川气也。」とされる。こうしたものも合わせて考えると氣とは自然界に存在する雲気、水蒸気の立ち上る様子を表していた。可視的ではないことはないが可視的でもある。言い換えると名詞的でもあり形容詞的でもある。身体でも感じるものである。香りは充分に視覚では捉えられないものだが、決して実態のないものではない。王逸はまずそれを「芳氣」と表現し、曹丕曹植はその表現を継承する形で、いわば再発見してみせたといえる。芳香が「氣」の字と結びつくことにより、視覚だけではなく嗅覚や皮膚感覚でも捉えられるものとして強く意識されるようになったのではないか。曹丕兄弟は「芳氣」の詩語としての魅力に気が付いたことになる。視覚的に偏って表現されてきた香りは曹丕兄弟の手によって香りそのものに対する認識によって表現された。
 迷迭について曹植(192-232)のもう一つの辞賦作品がある。[資料二─5](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 迷迭 曹植「迷迭香賦」)。残念ながら「氣」の字が見られない。ただそれでも「氣」の字を詠み込むことをどこかで通じるような感覚が詠み込まれている。最後の句に「順微風而舒光」とある。微風に順うの香りであるはずなのに曹植は光と表現している。実際、「舒光」という表現は漢代を通して視覚的になされているし、曹植自身も視覚として表現している。[資料二─5─(1)](楚辞 王褒 九懐「陶壅」、続漢書天文志上 注引 張衡「霊憲」、芸文類聚巻五十九 武部 戦伐 應[王昜]「撰征賦」、芸文類聚巻三十四 人部十八 哀傷 曹植「慰子賦」)。おそらくは[資料二─5─(2)](傅亜庶訳注『三曹詩文全集訳注』(1997年、吉林文史出版社)760頁)にみえる「舒光…謂迷迭香発出淡淡的幽香」という解釈だろう。つまり曹植は「舒光」という表現を香りの表現と寄り合わせるように詠じている。こうした表現がそれ以前になかったというわけではない。例えば「斐斐」という表現など。嗅覚と視覚にまたがった言葉の感覚がそれ以前にもあったことを示す。眼前の香りをどう捉えどう表現するかに曹植が研究したもの、そういったものを作り上げたい。曹丕兄弟の作品に見られる芳香の表現には香りそのものの性質として彼らが捉えたものとして、嗅覚に視覚や触覚が意識されて詠み込まれていることになる。

●三 おわりに──曹操の遺言とその後の香気

 [資料三─1](楽府詩集巻三十一 相和歌辞 平調曲 銅雀台題解)の「[業β]都故事」に曹操の遺言がある。「餘香可分諸夫人、不命祭」(余った香は夫人たちに分けてもよいが、(自分を)祭るのに用いさせない)とある。ある意味、徹底した曹操の態度。しかしこういった態度は息子の曹丕に受け継がれることはなかった。
 曹丕は帝位についた翌年には[資料三─2](三国志 呉書巻四十七 呉主権 「立登為王太子」の注に引く江表伝)に示した物品の要求を孫権にした。そこに「雀頭香」が見える。おそらくそれは[資料三─2─(1)](三国志巻四十九 呉書 劉[夕/缶系]太史慈士燮伝 士燮)に挙げられたような士燮から孫権へ届けられたものを見据えたものだといえる。その中に種々の香料があり、「雑香」という字が見える。
 最後に香気がどう伝えられたかについて。陳琳、王粲、應[王昜]が疫病に倒れこの世を去った年、217年に生まれた傅玄(217-278)は香りの表現を見ていく上で重要な詩人であると考えられる。曹丕兄弟の芳香の氣の表現が継承されている。[資料三─3](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 鬱金 傅玄「鬱金賦」)と、その比較として[資料三─3─(1)](芸文類聚巻八十一 薬香草部上 鬱金 後漢・朱穆「鬱金賦」)。朱穆(100-163)の「鬱金賦」が傅玄の「鬱金賦」のほぼ三倍あまりの字数を用いながら、芳香の氣やそれと相通じる表現が含まれていないことを考えると、建安年間を通じてこうした表現が立ち上がってきてそれが次の時代の詩人に受け継がれたことがよくわかる。これ以降、芳香の氣が意識し織り込まれることが示唆されている。

 12時54分終了。

質問1
 迷迭という植物は今で言う何ということは判明しているのか。
回答
 結論からいうと、私自身ははっきりわからないが、「迷迭香」という植物は現代中国では「ローズマリー」とされることがある。「ローズマリー」とすると一応、理屈はあう。ローズマリーは南ヨーロッパの原産で、当時のローマ帝国(大秦国)の支配下にある。なんせ1800年前のことだから今の「ローズマリー」とするのは控えたい。

(※清岡の個人的な話。この時、何故か曹丕がローズマリーをくわえているイメージが脳内を駆けめぐり笑い出しそうになっていた)

質問2
(※清岡注、長くて頭に入らなかった)
回答
香料は漢代から熱心に使われていたと考えられる。もう一つの質問に関して。現存しているものからは蜀より魏の方が多い傾向にあっただろう。例えば鼓吹曲は魏や呉に残っているが蜀にはない。ただこれが実際になかったかどうかはわからない。それに関しては金先生の著作に詳しい。

<参照リンク>2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/152

13時1分終了。

<次回>第2回三国志学会大会昼休み
http://cte.main.jp/newsch/article.php/685

※2012年9月12日追記。姓名の間にスペースを入れているので、実はサイト内検索では「狩野雄」先生では引っかからなかった。

※追記 レポ2:九州三国志忘年会(2013年12月29日)

※追記 メモ:三国志―赤壁大戦(2015年5月16日)

※追記 三国志学会 第十一回大会(2016年9月3日10日土曜日)

※新規関連記事 香りの詩学(2021年1月30日)

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