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メモ:『魏晋南北朝壁画墓の世界』


  • 2007年7月21日(土) 17:42 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,307
研究  書店で見かけたら買おうと思っていた書籍に、蘇哲/著『魏晋南北朝壁画墓の世界 絵に描かれた群雄割拠と民族移動の時代』(白帝社アジア史選書008、2007年2月1日発行)ってのがあるんだけど、よくよく調べてみると近くの図書館に置いていたので借りてくることに。
 とは言ってもタイトルから連想されるように「三国志ニュース」的なことはそれほどないんだろうな、と思っていて、それを証明するかのように七章あるうち、三国志と関係ありそうなのは「第一章 三国西晋の壁画墓」だけだった。第二章は「五胡十六国時代の壁画墓」ということで三国関係はあまり期待できないな、と思いつつ読み進める。
 「一、中原壁画墓の衰微」。魏はやはり曹操が厚葬を禁止したので、それほど面白いものが出ていないようだね。

※『三国志』魏書武帝紀
(建安)十年春正月、攻譚、破之、斬譚、誅其妻子、冀州平。下令曰:「其與袁氏同惡者、與之更始。」令民不得復私讎、禁厚葬、皆一之于法。

 その中で紹介されていたのが「壁画のない陳思王墓」という小タイトルで曹植の墓が紹介されている。発掘調査は1951年6月、二度目は1977年3月と結構、古い。タイトル通り壁画はなかったものの、私的には「棺の右側には炊事道具、左側には井戸・車・家畜・家禽類の模型と俑などの陶質明器が並んでいた」という箇所に興味あり(本には写真はなかった)。それから墓の銘文から墓を造営した人に二〓日の休みを賜った(各賜休二〓日)という制度とかも興味あり(一文字だけ消えてるとしたら二十日とか二百日とかどれだろ)。あと三国志ファンとしてはその墓に遺骨が安置されていたってところが気になるんじゃないかな。
 この章だとあと「二、河西回廊の壁画墓の繁栄」。ここでは漢民族と異民族の関わり合いが大きく取りあげられている。私が興味あったのは「河西地域の羌と胡」という小タイトルのところ。「嘉峪関市新城6号墓農耕図」、「嘉峪関市新城5号墓牧畜図」、「嘉峪関市新城3号墓穹窿図」の三枚の白黒写真が出てくる。6号墓に描かれている人物を「髪の毛が二股であり、羌族とされている」と書かれている。5号墓に描かれている人物を「鼻が高く、顎が大きくて、中央アジア人種の特徴を持っている」とし後の記述で「月氏族である可能性が高い」と書かれている。3号墓に関しては「ご飯をつくっている人物の服には鳥の尾羽がついている」と書かれている。どうも画像の絵が単純すぎてそれだけだと判りづらいが、こう説明されると理解や想像の手助けにはなる。
※ちなみにこの本、「夏侯淵」(正)が「夏候淵」(誤)となっている。
 それで他の章には三国関係はないかというと、そうではなく時たま過去の事例を引っぱり出すときに不意にでてきたりする。第二章の始めは墓での西王母と東王父の壁画に関し、後漢の事例を引っぱり出している。後は出行図に関してあれこれ。そこの挿図(図32 進賢冠の構造図)に孫機/著『漢代物質文化資料図説』で載っている進賢冠の説明図と同じものがでてくる。「図版出典一覧」の図32の出典を見ると、「図32 進賢冠の構造図(『中国古輿服論叢』文物出版社 2001年)」となっていて、この章の注で「〔15〕武冠・進賢冠・平上[巾責]の形式について、孫機「進賢冠与武弁大冠」(『中国歴史博物館館刊』総13・14期)1989年、のちに『中国古輿服論叢』文物出版社 2001所収)参照」となっているんで、おそらく同じ作者によるものなんだろうな。ここでの個人的チェックポイントは「『晋書』輿服志・『宋書』礼志の記録により、介[巾責]は文吏、平上[巾責]は武官のかぶりものだとわかる」ってあたり。時代にもよるだろうけど、介[巾責]は進賢冠の一部だし、平上[巾責]は武冠の一部だから納得できる。他のチェックポイントは「被葬者冠は武冠(籠冠ともいう)といい、西晋・東晋時代では、将軍クラスの武人がかぶっているものである」というところ。後漢の俑などをみると、音楽を引いたり踊ったりしている人が武冠かぶっていることが多いんで、ここらへんの時代変遷が新鮮。この章ではあと牛車の流行り廃れについて書いている。
 もう三国関係はないかと思いきや第六章に「魏晋南北朝の具装騎兵」というのがあって後漢~三国の文献に見られる「鎧馬」、「鉄騎」、「鉄騎都尉」(馬超の弟)などについて書かれている。文献には曹操の『軍策令』からのもある。ここらへん第一回三国志シンポジウムで石井仁先生の報告「三国時代の軍事制度」でも触れられていたことを思い出した。

・2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1
http://cte.main.jp/newsch/article.php/152

※追記 リンク:曹操高陵在河南得到考古確認(2009年12月27日)

※追記 関野貞資料と墳墓の世界(2011年3月2日)

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