今年も16日は休日ということで、行ってきた(
藤井斉成会有鄰館オフの後ね)。
・7月16日 祇園祭宵山に孟宗山(昨年)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/147
※追記
京都祇園祭山鉾巡行に孟宗山(7月17日)
昨年と同じく「祇園祭 宵山・巡行ガイド2006」とタイトルがうたれたチラシをもらう。それを読んでいるとまたまた三国志関連をみかける。以下に引用。
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17 菊水鉾
室町通四条通上ル菊水鉾町
町内にあった「菊水井戸」
にちなんで名付けられ、
鉾頭には金色の菊花を
つける。稚児人形は、魏
の文帝の勅使が薬水を
求めて山に入った時に
出会った、菊の露を飲ん
で700年生き続けた少年
をあらわしている。唐破
風造りの屋根が特徴。
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ほうほう、魏の文帝に関係あるのか、と何番目かに行ってみる。
真っ先に行かなかったのは、知っている人は知っていると思うけど、ただでさえ人が多く動きづらい状況だったのに、宵山の日の夕方、雨が降ったりやんだりしていて、雨を避けようとアーケードに逃げ込もうとする人や傘をさそうとする人でかなり動きづらかったから。特に菊水鉾は宵山の中心地、四条烏丸近くだったので。ちなみに山鉾巡行に行こうと思っていたけど雨がひどかったのでKBS京都の中継で済ませた。
そのため晩ご飯をすまし、雨がやんでから菊水鉾へ向かった。
菊水鉾前の立て看板には「菊水井戸」の話ばかりで特に魏の文帝の逸話については何もかかれてなかった。ちなみにデジカメの電源関連がいかれたみたいで今回は写真はなし(汗)
手元の電子文献で軽く検索かけたけど、このエピソードが見つからない(といっても志怪小説は
捜神記(搜神記)ぐらいしか私の手元にないけど)。この出典って何?
※追記。2011年初、たまたま出典を見かける。『荊楚歳時記』の訳本(平凡社、東洋文庫324)のP.207「九月 (四一)九日、宴会と登高・菊酒」のP.209訳注(6)「菊花の酒」のところに日本の書籍、天文年間刊の『塵添壒囊鈔』にこの話が載っており、まさに三国魏の文帝とのこと。訳注者は『藝文類聚』卷四 歳時中 九月九日の条にある「魏文帝與鍾繇書」の「思食秋菊之落英.輔體延年.莫斯之貴.謹奉一束.以助彭祖之術.」から来ていると想像している。P.212で「要するに右の伝承は、慈童─彭祖・周穆王・魏文帝・南陽の菊水・神仙説等の諸要素を更に仏教思想にもとづいて組み立てた、かなり手の込んだ作品である。」としている。
※追記
7月16日 京都祇園祭宵山に菊水鉾
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講談社選書メチエの『「清潔」の近代―「衛生唱歌」から「抗菌グッズ」へ』に載ってるのを見かけました。
菊の露を飲んで700年になるという少年は、太平記によると周の穆王のときの人で、周の穆王は前940年に薨去していますから(年代は平勢説、異説あり)、周の穆王の薨去年を100年下げてもせいぜい前漢の武帝の建元元年(前140年)にしかならないですね(笑)
戦国魏の文侯の誤字だとしても、年代が合うかどうか・・・
しかも周の穆王は史記によると、100年以上生きていたとか、そんな世界の人なので(笑)、ただ周の穆王が100年生きたというのは、西晋時代に出土した竹書紀年の周紀によって、史記の年代は誤伝承であることが明らかになっています。
太平記の作者はどこまで中国史書に通じていたんでしょうね♪
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062580985/250-0080613-4176234?v=glance&n=465392
おぉ、貴重な情報、ありがとうございます!
まさか太平記が出典だなんて思ってもみなかったです。
私にとっては変化球どころか、魔球な感じがします(笑)
太平記は三国志の影響が見られる記述があるそうなので(うろ覚え)、何かと奥が深いですね。