リュウビ十五歳

 自サイトで小説を書くためのメモ書きみたいな「孫氏からみた三国志」というコンテンツをつくっていて、そこに劉備(字、玄徳)のことを書くことになった。そのコンテンツで書く書かないは別として、劉備についてあれこれ調べていた。
 そこで気になったのが三国志蜀書先主伝の記述。

年十五、母使行學、與同宗劉徳然・遼西公孫[王賛]倶事故九江太守同郡盧植。徳然父元起常資給先主、與徳然等。

というところの、(劉備が)15歳のとき、劉備の母は(劉備を)同じ一族の劉徳然と遼西出身の公孫[王賛]とともに遊学させ、元、九江太守の同郡([シ豕]郡)出身の盧植につかえさせた。徳然の父、元起はいつも先主(劉備)と徳然たちへ資金援助していた。というところが気になった。

 そういえばこのとき盧植(字、子幹)は何をしていたんだっけ? 黄巾の乱で中郎将になるのは後年のことだし。

 まず年代だけど、幸運なことに劉備の没年と亡くなった歳がわかるので、そこから劉備が15歳のとき、何年だったがわかる。同じく三国志蜀書先主伝によると、

(章武三年)夏四月癸巳、先主[歹且]于永安宮、時年六十三。

というふうに章武三年(西暦223年)の夏四月癸巳(四月に癸巳の日はないので命日は3月5日?、これに続く文の諸葛亮の上言によると命日は4月24日)に先主(劉備)は永安宮において63歳のとき亡くなった、とあるので、そこから逆算し、当時は数え年なので、劉備は西暦161年生まれということになる。
 それで劉備が15歳のときは熹平四年(西暦175年)だ。

 一方、盧植はというと、後漢書盧植伝によると、

建寧中、徴為博士、乃始起焉。熹平四年、九江蠻反、四府選植才兼文武、拜九江太守、蠻寇賓服。以疾去官。作尚書章句・三禮解詁。時始立太學石經、以正五經文字

というふうに、建寧年間(西暦168年-172年)、(盧植は)博士になり、そこから起き始めた(それまで無官)。熹平四年(西暦175年)に九江郡の蠻(蛮)が反乱し、四府は文武を兼ねた才能のある盧植を選び、九江太守にし、蠻は屈服した。病気のため官を去った。尚書章句と三禮解詁(三禮は儀礼、周礼、礼記のこと)を作った。当時、初めて太學石經が立ち、それにより五經(易・書・詩・礼・春秋)の文字を正した、となっている。

 先の三国志蜀書先主伝をみると、「故九江太守同郡盧植」(元、九江太守の同郡出身の盧植)となっているので、九江太守をやめた後、盧植の元へいったと単純に思っても良いけど、経験上、官職の記述はあまりあてにならないと思うので、もうちょっと調べる。

 後漢紀によると

熹平四年 春三月、五經文字刻石立于太學之前。

 後漢書本紀によると

(熹平)四年春三月、詔諸儒正五經文字、刻石立于太學門外。

というふうに共に熹平四年春三月に後漢書盧植伝に記載のある太學石經が立ったことになっており、史書の記述を見比べてみると、九江郡の蠻の乱は熹平四年の上四半期のうちにおさまったんだろう(残念ながら他のところから乱に関する記述を見つけだせなかった)。
 ということは劉備たちは官職についていないときの盧植の元へ行っていたのかな(病をわずらっていないときと思うが・汗)。劉備たちが習ったことは当時、盧植が執筆した尚書章句と三禮解詁の内容を色濃く影響をうけたものだったんだろうか、とあれこれ想像してしまう。

・「リュウビ二十七歳」に続く
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