※前記事
メモ:「漢代明經考」
下記関連記事で触れたように、尹湾漢墓簡牘に記載される長吏からも、察挙による就官の事例より功次による昇進の事例の方が多いと確認されたという。
※関連記事
リンク:「尹湾漢墓簡牘の基礎的研究」
前者の察挙はさらに常科と制科があり、それぞれ孝廉科、賢良・方正科が例として挙げられる。それについては前記事で触れた論文について書かれていた。しかしそれ以外の大半と言われる功次による昇進について私はあまり把握していないので、一度、目を通した論文を再び読んでメモを残す。
論文は一昨年の「2008年度 東洋史研究会大会」で各100円で購入した『東洋史研究』の中にあった分で、ちょうど下記の関連記事(2番目)で触れた論文の次に来る論文だ。
※関連記事
「魏晋南北朝時代における冠服制度と礼制の変容」ノート
メモ:「秦漢時代の爵と刑罰」
※追記
リンク:張家山漢簡「史律」に見える任用規定について
その論文は下記のもの。CiNii(国立情報学研究所提供サービス)内のページへのリンクも続けて記す。リンク先で読めるという訳ではないが。
佐藤 達郎「功次による昇進制度の形成」(『東洋史研究』Vol.58 No.4 (200003) pp.673-696 東洋史研究会 )
http://ci.nii.ac.jp/naid/40002660407
この論文が掲載されている『東洋史研究』Vol.54 No.4は下記の東洋史研究会のサイトによると、1500円で購入できるようだ。
・東洋史研究会
http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/
まずはページ数付きで目次から示す。二字の語で同系列で大小の違う文字を組み合わせる語がある。例えば、漢代あたりだと「州郡」「部曲」などが挙げられる。実は「功労」もそういった由来に近いとこの論文より知る。
※追記
メモ:「魏晉南北朝の客と部曲」
673 はじめに
674 一 功と勞、特に前者の性質について
681 二 先秦期における軍功の評價
686 三 前漢における變化──爵より官位へ、軍功より勤務日數へ──
691 結びに代えて
692 註
「はじめに」ではこの記事の冒頭でも触れたような尹湾漢墓簡牘のことについて書かれており、「東海郡下轄長吏名籍」では六割の長吏が「功〔次〕を以て」昇進したことが示されている。
「一」のタイトルにもある「功」と「勞」は勤務成績の評定単位であり、例として居延旧簡の「十一月五日 長信少府丞王渉勞一歲九月七日」(41.22)と「九日 信都相長史□尊功一勞三歳六日」(53.7)が挙げられている(※文物圖象研究資料庫 全文檢索で参照できる)。
※参照記事
文物圖象研究資料庫 全文檢索
「勞」は日数で数えられるが「功」は個数で数えられ、それについて大庭氏は「特別なてがら」、朱紹侯氏は軍功としたという。ところが、内地の文官、辺境の軍吏共に平時にはそういった機会がないと論点が挙げられた上で、胡平生氏の「勞四年が功一つに換算」という新しい説が記述される。その論拠は居延新簡の「為吏五歳三月十五日」と「中功一勞二歳」(共にE.P.T50:10)との不一致からの換算(※仮にこの換算だと後者が六歳、うち「秋射賜勞」が含まれるとする)と、「勞」が三年台を上限とし、四年以上の例が見られないからだという。この後、この二点について検討され、後者については詳細に検討されている。在任期間を検討している李均明・劉軍「居延漢簡居延都尉與甲渠候」を元に居延都尉徳の在任期間が三年に亘ることを示し、さらに甲渠候(鄣候)の三人の期間がそれぞれ確認できる範囲で、少なくとも六年十ヶ月、六年、七年四ヶ月だということを示し、四年未満だとは考えられないとする。論文ではこれを補強する例として敦煌漢簡の「玉門千秋隧長敦煌武安里公乘呂安漢年卅歳長七尺六寸神爵四年六月辛酉除功一勞三歳九月二日其卅日」(D1186A)に続く「父不幸死憲定功一勞三歳八月二日訖九月晦庚戌故不史今史」(D1186B)を挙げ(これらも文物圖象研究資料庫 全文檢索で参照できる)、就任七年二ヶ月+(秋射賜勞)と功一勞→4年+三歳八月二日とで一致するとする。
それを踏まえ、続いてそれ以外の功の得られる手段が検討されている。居延漢簡の所謂「表彰状」簡となる「候官窮虜[隊/灬]長簪褭單立中功五勞 三月能書會計治官民頗知律令文年卅歳長七尺五寸應令居延中宿里家去官七十五里 屬居延部」(89.24)から年三十で功五は年十から二十年余り勤務する必要があり、一回の最高値が90日の「秋射賜勞」を入れても四年当たり一年分になるため、勞から換算された以外の功があると示唆されている。
こういった勤務評価を功と勞という単位に言い換える必要性を、唐代のと比べ論じ、「功」は単なる勤務日数「勞」や「三載考績、三考黜陟」のような数年に一度の考課とも違うという。『韓非子』定法編に功勞評価制度の源流と思われる「商君の法」にうちて「斬首の功」に応じ爵位・官位を与える規定が見えるということ(※法曰:「斬一首者爵一級、欲為官者為五十石之官;斬二首者爵二級、欲為官者為百石之官。」官爵之遷與斬首之功相稱也。~)、また未公表ながら江陵張家山漢簡に「功令」が含まれており、そこに軍人での殺敵の功に応じた官位昇進の規定があるらしいとすることから、漢簡上の「功」と殺敵の功との関係を推測させるとしている。さらに「勞」についても雲夢秦簡の「敢深益其勞歳數者・貲一甲、棄勞。‧中勞律。」(秦律雜抄15-16簡)では「勞」が「歳數」(従軍期間)として用いられていることが示される。次に「上功」について論じており、居延漢簡「功勞墨將名籍」のような名籍によって功勞を上申することを「上功」としている。これを受けて、戦闘における斬首や捕虜の数を「上功」している事例として『史記』巻一百二馮唐伝の「且雲中守魏尚坐上功首虜差六級、陛下下之吏、削其爵、罰作之」が挙げられてる。
「二」ではタイトル通り先秦期について論じられている。西周から春秋にかけて、戦陣での功績を簡冊に記し宗廟に報告する策勳の儀礼があったといい、明確な史料が示され、「勳」「賞」の記録が盟府に蔵され後代まで伝えられたとする。それらの記録は「国の典」、賞賜における一つの基準になったらしいという。こういった流れを承け劃期となったのが商鞅の軍功賜爵の制度であり、『韓非子』定法編では多分に模式化されているという。従軍者は戦闘での首級に応じ段階的に爵を与えられ、また爵の代わりに官位が与えられたことが前漢の勤務評価制度の原型をなすという。それは出土史料にも雲夢秦簡「秦律十八種」の「從軍當以勞論及賜、未拜而死、有罪法耐遷其後;及法耐遷者、皆不得受其爵及賜。其已拜、賜未受而死及法耐遷者、予賜。 軍爵律」(153-154)にも見られ、従軍中の「勞」が「論」、審査・認定された上で爵及賜の賜與がなされる決まりがあったという。「勞」は雲夢秦簡「中勞律」の「敢深益其勞歳數者・貲一甲、棄勞。‧中勞律。」(秦律雜抄15-16簡)より漢代と同じく日数であると示される。そのため、数年の勤務を斬首の功に読み替えることがすでに統一秦以前、秦国の軍功褒賞制度においても行われたと結論付けられる。
「三」では先秦から漢代への過程がどうだったか検討される。『史記』巻九十五樊噲伝に「卻敵、斬首十五級、賜爵國大夫。……」とあるように軍功に応じ爵を与えられる先秦の制度が引き継がれていることが示される。また先の『史記』巻一百二馮唐伝の事例より文帝の時期にも軍功に爵を授けていたこと、さらに青海上孫家寨漢簡より前漢末も軍功賜爵の制度があることが指摘される。先の樊噲伝では爵以外にも官位も与えられたことが示され、秦昭襄王十四年の出来事とする『史記』巻七十三白起伝の「其明年、白起為左更、攻韓、魏於伊闕、斬首二十四萬、又虜其將公孫喜、拔五城。起遷為國尉。渉河取韓安邑以東、到乾河。明年、白起為大良造。」にある「國尉」を爵号でなく官号としている。漢初以降、爵の機能低下と身分標識としての官位の優越が関連するという。遅くとも戦国末より統一秦にかけての頃、軍功賜爵の制度を原型に軍功に応じ段階的に官位が与えられる制度が成立したという。後漢最初期まで降り居廷漢簡「捕斬匈奴擒反羌購賞科別」の
「●其生捕得酋豪王侯君長將率者一人■吏增秩二等從奴與購如比」(E.P.F22:223)、「其斬匈奴將率者將百人以上一人購錢十萬吏增秩二等不欲為■」(E.P.F22:224)、「有能生捕得匈奴閒候一人吏增秩二等民與購錢十■ ■人命者除其罪」(E.P.F22:225)、「●有能生捕得反羌從儌外來為閒候動靜中國兵欲寇盜殺略人民吏增秩二等民與購錢五萬從奴它與購如比」(E.P.F22:233)、特に「吏增秩二等」の記述により、軍功に応じ段階的に官位を昇進させる規定が見られるという。
「結びに代えて」では後漢の初めには軍功による昇進を卑賤視することを『後漢書』伝十九の「七年、俊還京師、而上論之。惲恥以軍功取位、遂辭歸郷里。」の記述を事例として挙げられている。
※追記
『東洋史研究』電子版公開開始(2011年3月10日-)
※次記事
メモ:「魏晋南北朝時代における地方長官の発令「教」について」
※新規関連記事
リンク:漢代察挙制度の研究(東洋文化研究所紀要1983年11月)
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