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三国志学会 第四回大会ノート(2009年9月5日)
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三国志学会 第四回大会ノート4
15:31。総合司会の石井先生から再開のアナウンスがされる。講演の司会は二松学舎大学の牧角(竹下)悦子先生とのこと。
牧角先生より川合康三先生の経歴の紹介が入る。川合先生は中唐文学研究会(現、中唐文学会)を立ち上げたという。文献史料や作家の歴史をおさえた上で、最終的に文学性を追求する立場にあるのがその特長だという。「三国志学会へは昨日入会した」そうな。
拍手の中、川合先生が登壇される。
レジュメはA4の2枚で2ページ。
○「曹植の公と私」
●(1)建安文学 余冠英 魯迅
※以下、行の冒頭に「●」とある場合はレジュメからの引用。○の中に数字がある文字は機種依存性文字なので、ここでは表示できるよう()付きの数字にしている。
余冠英は中国の古典文学研究者。その人によると中国の文学には二つのピークがあるという。一つは唐の白居易の時代(中唐)、もう一つは建安文学。何故かは説明していないが、集団的なものから個人的なものへ変化していく過程だから。集団から個人への過程はいくつかの節目がある。その大きな節目が二つのピークに当たる。例えば、五言詩に作者の名前が付くこと。
魯迅は魏晋を「文学 自覚の時代」とし、言い換えれば文学が後の文学の概念に近くなった。集団から個人への変化を別の言葉で言っている。
違う作者を持つようになっただけでなく、建安文学は新しく起こったことがいろいろある。(レジュメに書いたように)ジャンルの多様化、五言詩の定着(楽府→古詩十九首→建安五言詩、重なりながら少しずつずれて展開するように見える)、文学論の展開(曹丕『典論』論文篇が代表的)、文学集団の形成(文民たちが集まる。古くは戦国・斉宣王の稷下、漢・梁孝王の兔園など、そういったところに全国から集められる。それらは寄せ集めであって、一体感はなかっただろう。建安七子は文人としてお互いに連帯感・一体感があり、人間的な交友関係が成立していた。先ほどと反対の意味に思えるが、そうではなく個が成立したからこそ個と個が集まって一つの文学集団ができうる。建安文士の間で高揚された気分、彼らの中の友愛的な雰囲気。これが後の南朝の文学集団になる。レジュメの矢印は移行ではなく区別されるべきの意。違いの一つは建安文士は皆、戦争に行っていて武の集団でもあった。後は皇族の下で貴族の文学集団が形成される。南朝は政治的階層的にすでに成熟した貴族集団の中での文学サークルだった。建安は新しく形成された人間の集まり。一体感は自然発生的ではなく意志的な連帯感。差異はあるものの後の文学集団のコアになる。南朝の場合、政治的な立場が前提にあったが、それが消えて個人としての文人の集まりになった。これが中国の伝統として形成されていく。17世紀の初め頃、明の使者が朝鮮に行き、最高の文人を以て迎えさせる。彼らは政治的な任務を越えて文人同士の交流を活発に行う。中国の文化的な伝統がずっと生きている。文化の力がそういうふうに思わぬ所で出てくる)
今までは新しく出てきたものに触れたが、逆に昔のもの、未分化なものが混淆している、残っているところもある。その良い例が公讌詩、宴会の詩。宴会といった非日常的な晴れの場、色彩的空間を共有。古代的な呪術性が残っている。その一方で招かれた客人はどういった経緯で集まったか、個人的な経歴や主人への恩というのを具体的に述べていく。つまり集団的な呪術性や個人的なものとがうまく混ざり合っている。
建安文学の一つの意義として、後の文学にとって模範となる、回帰すべき文学の、あるべき文学の姿を実現していたと認識されていた。端的に表したのが唐・陳子昂「漢魏風骨、晉宋莫傳」。基本的に文学は衰退していくと捉えられ、本来の状態に戻るべき対象として建安文学は唐代から意識されていた。
建安文学の中でも今日は曹植を取り上げる。曹植は、世界中の才能の八割は彼一人が占めている、とそういったという話がある。唐以前には最高の文学者と一般に見なされていた。大きな存在とはいろんな問題を含み、いろんなことが言える。昨年、『三国志論集』に、大上正美先生が書かれた「曹植の対自性 ──〈黄初四年の上表文〉を読む──」があって、今、扱おうとしているまったく同じ題材だが、もう一つここで話そうと思うものがあって、純文学の場合、一つの題材を対象としても様々なやり方が可能だ。純文学、文学の場合、どちらもあり得るということが言え、これから話すことは正しいというつもりはなく、大上先生の研究を否定するものではない。別の見方もあり得るというもの。曹植を個別に取り上げるだけでなく、併せて文学研究の方法論的問題も取り上げていきたい。
●(2)「毛詩大序」
「毛詩大序」は中国で大変有名で、詩の発生の原理を説いたもの。『禮記』樂記が音楽の発生について説明している、それを使って詩の発生を説いたもの。簡単にまとめるとレジュメのようになる。
(外)物→(心)情・志→(外)言→詩
外界から何か物が人の心に刺激を与える。そうすると人の心の中には情・志等、情動が生じる。それを外に言葉によって表したのが詩となる。もちろん単純なものではないが、この説明は読む行為とはどのようなものかという捉え方としても通用している。読む行為は矢印が逆になる。読む行為の一つはそうなるが、それだけではない。作者の心理を探るのが読む行為とするならば、臨床心理学者が患者の言動を通しその人の心情を探るのと同じになる。書くということは思いを書くだけではなく、従って読むということは思いを読み取るだけではない。一般には読むというのは相手の心を知ることと考えが未だにある。こういう考え方はもう一つ誤解がある。言葉や詩は人の内面がそのまま外へ表れるという誤解がある。実際にはくわしく検討する必要がある。
外界の刺激により情動がどのようなメカニズムで生じるか。反射的なものを考えると、それでも人が属する文化圏によって違いがあるだろう。もっと複雑な外界の刺激に対しどのように人は反応するのか情動が生じるのか。俗な例えで、災害をうけた映像がテレビで流れると、ニコニコした表情でそれを見る、それは日本人独特の感情表現ではないか。もちろん嬉しくも楽しくもない。アメリカでは大泣きする。日本人は人前で露骨に表さない文化がある。文化がそれを補償する。
それをどのように外に出すか。「毛詩大序」では一方方向だが、実際にはそれを外に出したとき、どういう効果か、反応を生ずるか、外界の反応を顧慮しながらという反対のことが加味されている。
なぜ人を心の情動を表出するのか、を考える。一つは伝達の意味がある。相手に伝えることによって現実の場においてある変化を期待する。例えば、好きな人が居る、その人にラブレターを書く、自分があなたを好きですよ、ということを伝えることによってその人の気持ちを動かす(※「動かせない場合が多いと思いますが」とおっしゃり笑いをとられていた)、反応を期待する。効果を目的とした伝達。もう一つはカタルシス。例をとると、あの人が好きだ、言えない、自分の気持ちが届かない、だけどそれを言うことによりほっとするということがあるのでは。そもそも情動は表出せざるを得ない。そうすることで自分の心の中で浄化を得る。これはアリストテレスが「感情のカタルシス」といっているものと合致する。感情とは発散することを自ずから欲しているものである。それよりもっと大事なものに、表現という営み自体が人にとって意義を持つことがある。今までは「表出」と言ったが、表現というのはそれに先鞭を加えたものとして区別する。
表現というのは、変化を期待するものでも内部を浄化するのとも違う。表現というのが自律的に一つの価値になりうる。これこそまさに人間的な文化的な営みだ。表現は喜びを伴う。喜びも簡単に二つある。一つは様式が伴う。もう一つはそれとは反対に創造する喜びがある。
伝達とカタルシスの場合はまだ文学と言えない。三番目に言った、表現自体が人間にとって意義を持つ、そこに至って初めて文学になる。文学の定義はそここそ対象にしないといけない。
●(3)「上責躬應詔詩表」「責躬詩」「應詔詩」(『三国志』巻十九、陳思王植伝、『文選』巻二十)
なぜ曹植をとりあげるか。曹植の作品の中には伝達(第一)があって、かつ内面の浄化(第二)が明確にある。だからこそ文学の技術的価値(第三)を探る格好の題材になるのではないか。
主に取り上げるのは「上責躬應詔詩表」「責躬詩」「應詔詩」。「責躬詩」「應詔詩」は曹丕から都へ来るよう詔が来て、それに応じて上京するという詩、この二つの詩を曹丕に捧げる「上責躬應詔詩表」を取り上げる。これは『三国志』陳思王植伝、文選の詩のところに載っている。
『三国志』(陳思王植伝)の記述によると、黄初四年に曹植が都に朝してこれを奉ったとあり、文選もそのまま引いている。三篇を読み、そこからわかることは、曹植が何らかの罪を得て、洛陽へ召還されたが、都に行くと曹丕にお目通りがかなわない、それでそのまま都で待機し、そういった不安定な中での作品。どのような罰が下されるのかそれを恐れながらせめて会見を許して欲しいという懇願がされる。作品から読みとれるのはそこまでだが、それを史実と付き合わせると、ぴたっといかないところがある。
史実をおさらいすると、
●(4)黄初二年(221)
曹植は監國謁者灌均が弾劾、安郷侯に落とされる。さらに鄄城侯に改封される。三年に鄄城王になるが王機、倉輯らが曹植を誣告する。曹植は鄄城から都へ上り釈明する。曹丕はそれを許し国へ帰らせる。
監國謁者灌均から弾劾され曹植は何をしたかというと、酒に酔っ払って使者を威嚇した。そういう対応を審議される。曹丕は太后をおもんばかって、罰せず、安郷侯に落とすのみに留めた。黄初三年に誣告を受け、都で釈明し許されることが起こっている。
問題は黄初四年であり、五月に曹丕は白馬王彪、任城王彰とともに都に朝して、釈明し、曹丕は許した。六月に曹彰は卒し、七月に曹丕は白馬王彪と一緒に返ろうとするが同行することが許されず、そのまま綴ったのが「贈白馬王彪」詩になる。鄄城に帰ると、雍丘王に移り、その後、監官に誣告される。
つまり判らないのは黄初四年の上京の原因になったのは何かということ。黄初四年以前、二回罪を犯し都に召還されていて、いずれも許されている。黄初四年の上京はそれらとは別の罪状があったのか。
●(5)曹植「贈白馬王彪」(『文撰』巻二十四)李善注
問題の二番目として黄初四年の上京は罪を削減するためで裁きをうけるためではなかったように思える。
・(『文撰』巻二十四)李善注
集曰、……、又曰:黄初四年五月、白馬王・任城王與余倶朝京師、會節氣、到洛陽、任城王薨。
※レジュメに載る文。
つまり黄初四年五月に上京したのは節句の儀礼に参加するため。立春、立夏、立秋、立冬は都にあつまって迎気の礼がある。この年の立秋は六月二十四日であり、規定では十八日前に迎気の礼が行われた。六月六日あたりが迎気の礼の日であり五月に上京したというのは納得できる。他の記録では罪を受けたわけではない。
黄初四年の『三国志』巻十九陳思王植伝の注に引く『魏略』では、曹植は関所に入る前、自分で過ちを曹丕に謝罪するべきだと考え、侍従たちを関所の東側に留め、二、三人だけでお忍びで洛陽に行く。清河長公主に会って謝罪の仲立ちを頼む。ところが関所の役人が曹植の従者が止まっていることを都に報告し、曹丕は迎えさせるが曹植がいない。太后の方は曹植が自殺したんじゃないかと泣き出す。そこに曹植は斧と台を持って、死罪につく準備をして、裸足で宮廷へ出頭した。太后はまず喜んで、対面するが曹植は口をきかない。冠や履き物をつけることもせず、曹植は地面に頭を擦り付け泣き出す。太后がいることもあって曹丕は許した。こういう感じで『魏略』は曹植に危険な状態にあったと書いている。曹丕と曹植の危険な関係は『魏略』によく伝えられている。六月の任城王彰の突然死は、『世説新語』では曹丕が毒殺したと書かれている。レジュメ(3)で書いた三つの作品と事実関係がどのように結びついているか、はっきりわからないが、ただ最小限わかることは曹丕の威圧の元で曹植がたいへん危険な状態に陥れられていた。それは黄初四年でなくてもそうだ。
作品そのもののについて。「上責躬應詔詩表」では、自分は罪を犯し国元と自責の日々を送っており、自分から命を断つこともできず、天子のお迎えを受けてここまでやってきて、都に来たのに会うことができない、お目にかかって欲しいものだ、という気持ちを通した二つの詩を捧げると言っている。「責躬詩」では、自分は罪を犯したがこの度、許されたという経緯が書かれ、呉の討伐に尽力したいと結ぶ。「應詔詩」では、曹丕から召還の詔を受け、それに応じ如何に馳せ参じてきたかという旅の過程が書いてあり、最後に、まだ会見のお許しがでないことを悩んでいると結んでいる。
「責躬詩」は九十六句、「應詔詩」は四十八句、会わせて百四十四句にのぼるが、結局、二つのことにまとめあげられる。一つは曹丕が如何に立派な皇帝か、その徳を讃えている。もう一つは自分は罪を認め自分を責めている咎めていること。その二つのことを言うのに膨大な言葉を費やしている。結局、簡単にいうと(助命の)嘆願の詩だ。あらゆるエクリチュールの中でこれほど切実に実用的なものはない。
その結果、『三国志』巻十九陳思王植伝には「帝嘉其辞義、優詔答勉之」とあり、曹植の文辞を褒め称える詔によって答え、曹植をはげましたとある。これは非常に儀礼的な、形の上での処置であったと思われる。実際にこういったことがあり得なかったことは、裴松之の注が先ほどの『魏略』に続き『魏氏春秋』を引いていることからもわかる。任城王彰は危険な状態にあり、突然死ぬという事件が起こり、曹植は白馬王彪と帰ろうとするが許されず、そのことをうたう「贈白馬王彪」詩を作っている。注は曹丕が許したことは単に儀礼的な行為であることを語ろうとしている。曹丕が許したのは曹植の詩に感動したわけではなく、太后の関係など様々な現実的政治的な判断の結果であったはず。曹植の作品は最大の伝達機能(助命嘆願)を持っていたはずだが、まったく役に立たなかったというわけだ。曹植の作品の中の、曹丕への讃美、曹植の自責の念はいずれも本心から出たことでないことは明らかだ。現実の場で必要だった(求められた)から書いていて、曹植の内面と全く関わるものではなかった。曹植が讃美と自責を綴れば綴る程、過剰な言葉が空疎なものとなっている。曹丕の方もそれを充分、承知している。つまり発信者も受信者もそれが空疎な儀礼であることを知った上で、文学とは関わり合いがないところで、現実の場の力学に従って謝礼が行われた。そうだとすると、曹植のこの作品は文学としてはまったく無効だった。文学は現実の場で何の力も発揮していない。だとするとこれは無意味か、というとそうではなく、そこにこそ文学が現実とは別の次元で持つ存在の意義がある。それこそが文学の自律的な価値であって、文学研究はそれを明らかにしなければならないと考える。
この作品を文学として捉えるにはどのような読み方が可能か。一つは空疎と知りつつ綴らなければならない曹植の高い苦悩を読むという方法。言葉は内面を隠すものと機能する。面に表れた言葉が如何に表層的かを知ることになる。本当の言葉は面に表れた言葉の向こう側にある。曹植の言葉の裏に隠された心情に感動する、共鳴するならば、文学として成立する。文学の重要な働きの一つは、時空を越えたところで言葉を通して共感する、共鳴する、感動すること。問題は手段関心は、曹植が囲まれている現実の過酷さ、現実の中で苦しむ曹植等、当時の状況、人間に向けられており、文学、作品は道具に過ぎないことになってしまう。
言葉そのもの作品そのものに注目する読み方の一つは、言語表現のあり方に注目することであり、レジュメ(6)に相当する。
●(6)劉勰『文心雕龍』章表篇
陳思之表、獨冠群才。觀其體贍而律調、辭清而志顯、應物掣巧、隨變生趣、執轡有餘、故能緩急應節矣
※レジュメに載る文
劉勰は曹植の表現の代表的な「求自試表」というのを念頭においているだろうが、どの表にしても伝達を最も主要な働きとする物体であるはず。劉勰は伝達を主たる問題であるのに関わらず、その現実における効果について触れていない。それについての作者の心理についてもまったく言及していない。曹植の詩についてはレジュメ(7)がたいへん詳しい論評がある。
●(7)鍾嶸『詩品』上品
魏陳思王植詩、其原出於國風、骨氣奇高、詞采華茂、情兼雅怨、體被文質、粲溢今古、卓爾不群、嗟乎、陳思之於文章也、譬人倫之有周孔、……。
※レジュメに載る文
これは曹植の詩の価値を述べているが内容について述べない。道徳的な政治的な価値にも触れない。作者の心境にも触れない。『文心雕龍』『詩品』を見ると、作者の心理にべったりくっついて読むのは近代的な読み方ではないかと思われる。『文心雕龍』『詩品』は概念的であまり具体的でないので、ぴたっと判らないところがあるが、こういうような言い方でしか言えないことを言おうとしていることは確か。表現の全体から感じられるのを言葉に置き換えようとしている。漠然とした感じを批評の対象としている。作品から感じ取れる感じは文学として成立するのに最も重要な要素と思われる。浅い印象批評や単なる感想になってしまうが、それらを越えた批評に高めるには非常に難しく、難しいため避けられる。
『文心雕龍』『詩品』が曹植の作品を高く評価している。『文心雕龍』は豊穣でゆとりのある感じ、『詩品』はいろんな要素を取り入れているところを評価している。(登壇者が見る)曹植の文学の特質は、力強さ、雄壮さ、凛とした強靱さ。鍾嶸の言う「骨氣奇高」はこれに繋がるのだろう。
これらが先ほどの上表と二詩にどのようにでているのか。それらは助命嘆願書であるから、凡庸な作者が作ればひ弱な脆弱なものとなっていただろう。あるいは伝達に終始し、文学作品として自立できないだろう。
どこに強靱さが感じられるか。緊密で緊張した素地、修辞を駆使しながら緻密に配置された言葉、それらが全体を力強くしている。これでは『文心雕龍』の批評を越えることができないので、もっと具体的なところを言わなければならない。
その具体的なところとして自分の身を犠牲にしても国のためにつくしたいという立場(レジュメ(8))。讃美や自責とは別。
●(8)曹植「責躬詩」
願蒙矢石、建旗東嶽、庶立豪氂、微功自贖。危軀授命、知足免戾、甘赴江湘、奮戈呉越
※レジュメに載る文
これは贖罪のためのもの。ここで考慮すべきことは、曹植は曹丕によって参戦することを許されない状況であった。曹丕が帝位になった時期、曹植は参戦した形跡がない。後の「求自試評」にも参戦の嘆願があるがかなえられていない。戦争が無かったかといえばそうではなく、黄初三年五月、孫権は魏に使者を送り、その時、曹丕は和解の動きがあったが、十月にも戦闘状態にある。黄初四年、呉と蜀が結託し魏に対決する。黄初五年七月、曹丕は呉を討ちに行き九月まで戦う。黄初六年の暮れにも出兵し戦う。呉と度々戦うが、曹植が加わったという記録はないのは、参戦が許されなかったからだろう。自分の身を棄ててでも国のためにつくしたいという意志は他の作品でも述べている。
●(9)曹植「白馬篇」(『文選』巻二十七)
……名編壯士籍、不得中顧私。捐軀赴國難、視死忽如歸。
※レジュメに載る文
直接作者の表現ではなく、北方の異民族と戦う勇敢な若者たちを歌った詩。
●(10)曹植「雑詩」(『文選』巻二十九)
僕夫早嚴駕、吾將遠行遊。遠遊欲何之、呉國為我仇。將騁萬里塗、東路安足由。江介多悲風、淮泗馳急流。願欲一輕濟、惜哉無方舟。閑居非吾志、甘心赴國憂。
※レジュメに載る文
戦に自分も参加したいと書かれている。
●(11)曹植「求自試表」(『文選』巻三十七)
……昔漢武為霍去病治第、辭曰、匈奴未滅、臣無以家為。固夫憂國忘家、捐軀濟難、忠臣之志也。
※レジュメに載る文
公のために私を犠牲をする、これはおそらく早い段階から忠義の臣の美徳として確立していたもので、与論として通行していた。上表としてそれを使っているのはそのイデオロギーを免責のために利用している。しかし曹植の場合、流通している価値観を利用しただけに留まらない。曹植の場合は、さらに自滅を欲する衝動が渦巻いていたのではないか。それを伺わせるのがレジュメ(12)にある。
●(12)曹植「吁嗟篇」(『樂府詩集』巻三十三)
……願為中林草、秋隨野火燔。靡滅豈不痛、願與株荄連。
※レジュメに載る文
樂府なので一つの物語であり、作者は直接には登場しない。主人公は轉蓬という草。轉蓬に自分の思いを託していた。あちこちを放浪するのを綴った後に、最後にレジュメ(12)の四句が綴られている。一人さすらう身でも身を焼かれても根と繋がっていたい、そういった思いは親族から切り離されたくないという切実な思いを綴っていると解釈されている箇所だ。ここで着目すべきは「野火燔」というような自滅を欲する言葉。非常に衝撃的なところだ。
●(13)曹植「蟬賦」(『藝文類聚』巻九十七)
……委厥體於膳夫、歸炎炭而就燔。……
※レジュメに載る文
蝉は露しか飲まない清廉な生き物とされ、清廉であるために次々と苦難に見舞われ、物語的に展開していく。逃げ出したと思ったら、最後は火にかけ料理人(膳夫)に焼かれてしまう(昔は食べていた、と補則)。レジュメ(13)はその部分。ここでも身を焼かれるということが出てくる。自滅を求める自体、強烈だが、観念的なレベルに留まる。曹植は自死を求めるのではなく、身を焼く、感覚に直に迫ってくる死に方を表現している。炎で我が身を焼かれる苦しさ恐ろしさ、それが生々しい感覚を伴って創作されている。焼かれるで思い出されるのが、レジュメ(14)の「七歩詩」。
●(14)曹植?「七歩詩」(『世説新語』文學篇)
煮豆持作羹、漉菽以為汁。萁在釜下然、豆在釜中泣。本自同根生、相煎何太急。
※レジュメに載る文
これは普通、偽作とされるもの。ここで熱湯の中に煮られる豆に自分を喩えており、如何にも曹植らしい。例え偽作だったとしても曹植の本質を巧く言い当てているため、この詩が流通したのかもしれない。
このように曹植の根底には自滅への願い、しかもそれは火で焼かれたいという感覚的な生々しい想像力の伴った願いがあるのではないか。滅私奉公的なものを越えた個人的な本質的な性質が曹植の詩の核になっているのかもしれない。曹植自身すら気付かなかったことかもしれない。自滅の欲求という恐ろしい緊張を含むことが彼の作品を凡庸な原理とは別の、非常に強靱な緊張感の張り詰めたものにしているものと考える。
曹植の詩に自滅の欲求を探ることは、結局、作者の心情を探るのと同じではないかと受け止められるかもしれない。しかし、それは全く違うことだ。作者の心情は現実の中で外部との関係で生じるものだが、自滅の欲求はもっと深い人の根源に潜んでいる情動だと思う。フロイトが人は死の欲動をもっていると言っていてそれにも似ている。人間誰しも潜んでいるが、曹植の場合、それが顕在化している。なぜ顕在化するかというと、彼の置かれた状況の中で、フロイトの言う「他者の攻撃性」が曹丕という絶対的な存在で行き場を失い、自分に返ってきて自分自身の死への欲動へ転嫁したと言えるかもしれない。張り詰めた力強い感じがもたらされた一つの説明として、曹植には自滅の欲求があったのではないか、というのを論じた。
16:55終了。
牧角先生の司会に移る。まず講演前に言い忘れたこととして、集英社の「中国の英傑」シリーズの四番目に川合先生が『曹操 -予を横たえて詩を賦す-』を1986年に書かれていて、そのため、ご講演してくれるよう今回、お呼びしたという。この度、文庫化されたことも挙げられていた。
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曹操 矛を横たえて詩を賦す(2009年7月8日)
16:57。講演の終了が告げられ、満場拍手。
総合司会の石井先生から再度、講演の終了が告げられ満場拍手。
16:59。総合司会の石井先生から閉会の辞が述べられ、満場拍手。
竹内先生から17:30開始の懇親会の案内がされていた。あと東黌の敷地の出入り口付近へ場所移動した英傑群像さんが販売を行っているとアナウンスされていた。
※次記事
三国志学会 第四回大会懇親会
※追記
三国志学会 第七回大会(2012年9月8日土曜日)
※追記
大学入試センター試験で三国志関連2014
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メモ:第9回 Cha-ngokushiで『三国志メシ』を作ろう(2019年3月24日)
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