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「魏晋南北朝時代における冠服制度と礼制の変容」ノート


  • 2009年1月18日(日) 17:10 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    6,968
研究 会場の様子※前記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート4


※関連記事
 「魏晋南北朝時代における冠服制度と礼制の変容―出土文物中の服飾資料を題材として―」(2008年度 東洋史研究会大会)
 メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」

※追記 メモ:三国創作のための扶助会

※追記 メモ:「晋南朝における冠服制度の変遷と官爵体系」

※追記 メモ:「東洋史研究会大会」出店状況

※追記 メモ:「功次による昇進制度の形成」

 2008年11月3日祝日。上記記事のように京都大学で「東洋史研究会大会」が開催されると知り、その中で、「魏晋南北朝時代における冠服制度と礼制の変容―出土文物中の服飾資料を題材として―」という発表が気になったので、観に行くことに。どうやら普段着だと会場で浮く恐れがあるようだとの情報を掴んだので、スーツを着て行く。

・東洋史研究会
http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/
・東洋史研究会大会
http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/contents/taikai2008.html

※追記 赤壁地名考―孫呉政権と江南の在地勢力(2011年11月3日)

 9時開始の三番目の発表なので、10時前に会場に着く。京都大学文学部新館の一階が受付と書店の販売の場になっており、まずは大会参加費の500円を支払い、封筒に入った発表資料を受け取り、二階の会場へと向かう。
 会場は階段教室で、二番目の発表の途中であり、写真のように席がある程度、埋まっていたので、会場の後で待機していた。
 二番目の発表が終わると、それ目当てに来ていた人が退席したので、空いた席に滑り込む。真ん中の前の方。
 発表のレジュメはA3用紙4枚、計8ページのもの。印刷は荒いものの、写真がふんだんに使われている。

 10:29、「午前第二部」とアナウンスがあり、進行、司会、発表者が交替し、進行→司会と発言があり、発表が始まる。

●小林  聡「魏晋南北朝時代における冠服制度と礼制の変容―出土文物中の服飾資料を題材として―」
 ※頭に「●」をつけた一行はプログラムからの写し

 前半は文献史料に基づいたもの、後半は文物の史料に基づいたものの二部構成

○はじめに
 ※以下、頭に「○」をつけた一行はレジュメからの写し

 最近やっていることは礼制のことで、魏晋南北朝を中心として官僚組織というものが礼制世界の中で行政組織とは別の世界としてどのようなものであったか。最近、官僚なり爵位の秩序を画期的に表現する服飾を手かがりにして礼制を考えている。
 今回は文献史料に加え出土史料を使いながら、服飾史を再構成。特に魏晋南北朝、晋滅亡以降には様々な民族が台頭し、服飾史にどういった影響を与えているかを考える。あとそうやって変容した制度が東アジア諸国にどう影響を与えたかということもあるが、今回は特に中国内部でどのような変容があったかを中心に見ていく。今回は頭部へのかぶり物中心。まず後漢王朝。

○I・「泰始礼制」と朝服制度
○1・西晋成立と礼制秩序の再編

 レジュメに「後漢時代の官職・爵位とそれに相当する礼制秩序」という一覧表が書かれている。漢代においても官爵・秩石を元に朝服・祭服の制度が整えられていたことがこの表に示されている。
 今度は後漢王朝の制度が漢末の動乱で様々な礼制上の知識が失われていき、あるいは漢末以来の社会変動を承け、西晋王朝が三世紀の後半に成立すると、賈充・荀顗らによる律令・儀注が編纂される中で服飾制度ももう一度作り直される。擬制的ではあるが改めて周の制度に基づいた官僚制度、五等爵制が作られていく。
 レジュメにあるような「西晋王朝における想定された礼制世界の官爵序列」(※ピラミッド型の概念図)が形成された。ここで注意しなければならないのは、漢末~魏晋に掛けてできあがってきた九品官制というものがあるが、これとは別に、後漢以来、官秩(秩石)の制度がこの時期、ほとんど名目化しているが、礼制世界では爵位が新しく加わった五等諸侯の制度とリンクしながら比較的整然として官と爵の制度が出来ていた。こういうことが西晋王朝の制度の特色と思われる。こういった制度を可視的に表現したのが服飾制度ということになる。

○2・西晋~南朝における朝服制度の概要

 輿服制度に車服、衣服があって、衣服の制度は大きく分けて祭服、朝服、戎服、凶服がある。それぞれ西晋の時期に編纂された五礼の儀(※吉礼、嘉礼(+賓礼?)、軍礼、凶礼)に対応するのではないか、と考える。
 その中で特に今回、取り上げるのは朝服の制度だが、それと共に祭服も歴代正史の礼儀志等に書かれていて、朝服と祭服が公的な場で着けられる服飾の二大体系となっていると思われる。レジュメに「西晋時代と南朝梁時代の「祭服」制度」として一覧表にまとめている。この祭服制度はまさに周制の擬制的復原であって、実際の官僚制度とはあまり関係ない形で編制されている。これが魏晋から南朝、梁のあたりまで制度としてある。これはかなり固定的なもので、若干、梁の時代、天監律令の際に改良されるが、官僚制度とは関係ない制度としてずっと続くのが特色となる。
 それに対し朝服の制度は、実際、これは朝廷で着用されるものだから、変容している官僚制度と密接に関わってくるので、祭服ほど固定的な制度ではないようだ。レジュメに概略を記載している。
 様々な物品に分かれている。冠幘と呼ばれるかぶりものの系統について、レジュメのようにたくさんの複雑な経路になっており、官爵なり官品なりで簡単に割り切れず、それぞれの官爵についてこの冠を被る、この衣服を着る、この印綬を帯びるといった複雑な服制が作られていく。これは漢から魏晋、南朝についての官僚制の関わりの中で少しずつ変わっていく。

○3・北朝における朝服制度の概要

 北朝の方は、祭服制度については若干、よく解らないところがあって省略。
 朝服制度について、特に冠について考える。北魏孝文帝の改革あたりでかなり南朝の制度を取り入れた形で作られてはいくが、なかなか礼制として確立していかず、六世紀の後半、北斉時代に比較的整った形でレジュメの一覧表(※「北斉時代の朝服体系の概略」)に書かれているような形として作られていく。主に物品に関しては冠幘、進賢冠、白筆、印、綬等、魏晋南朝のものを踏襲しているが、官品に基づいて編制され、魏晋南朝的な、かなり無理をして周の制度を擬制的に復原することはしていない。五品がかなり大きな切れ目で、これが隋唐制度につながっていくだろうが、まだ形成途上の印象が拭えない。
 北斉時代に一応のところ、朝服制度が整ったと考えることができるが、北魏に関して、北魏末期にどの程度、整っていたのか若干、判りにくいところがある。もしかすると北魏の末期あたりにすでにかなり整ったものになって、それを東魏・北斉が踏襲したという可能性もあるように思える。ところが隋文帝時代の朝服制度を(レジュメに)載せたが、朝服の用途というのが、陪祭、朝饗、拝表と比較的限定されており、魏晋南朝時代にはかなり広範囲に朝服が着用されていたということが史料から伺える。

○II・魏晋~北朝時代における朝服制度の転変 ─進賢冠と武冠を中心に─
○1・文献史料から見る朝服のあり方

 これ以降、進賢冠と武冠という二つの冠について絞って考えていきたい。
 朝服というのは様々な史料で出てくるが、朝服を着用する意味をいろいろ考えているところだが、まだこの辺りは考え始めたところで、まだ決定的なことは言える段階ではない。
 一つの例として、南北朝時代に朝服を朝廷より賜与される場合を考える。朝服を着用するということは、官人となる、あるいは爵位を持つといった意味だから、その意味を考えていきたい。
 亡くなった時、埋葬の際に、(レジュメに引用する)『南斉書』にあるように、遺言として自分が埋葬される際には朝服だけは着用してくれ、あとの物は要らないといった史料から、あるいは官人として働きが不充分であったため、朝服もないほうが良いという遺言の史料から様々なものがあって、こういった例から朝服を着て埋葬されるか否かという違いが出てくると考えられる。
 この辺りは考え中ということもあって結論的なことは言えないが、一つ言えることは、印綬というのが官吏としての象徴としてあるわけだが、(魏晋南朝において)印綬というものが必ず全ての官吏に与えられるものではなかった。隋唐になると印そのものが官府に保管されるようになり意味が変わってくるので、それ以前、魏晋南朝を考えると、印綬というものが官吏の一つの象徴であるが、官品が高くとも印綬がない官吏というのがかなり存在し、全ての官吏が印綬を帯びているわけではない。ところが朝服は全ての官吏が着用するものであり、官吏の象徴としては印綬よりさらに広い範囲で朝服というものが考えられることは注目すべきだと考えられる。

○2・文献史料から見る進賢冠の制度

 朝服の中で多くの官吏が着用するものとして進賢冠と武冠がある。その中で進賢冠について。
 進賢冠というのはどのようなかぶり物かというと(レジュメの)右側に図1として「洛陽朱村後漢壁画墓 墓首像」で示している(※「梁=進賢冠」と矢印で指定し書かれている。他には「介幘」「耳」「顔題」と矢印で指定し書かれている)。

※参考記事 一梁?メモ

 レジュメに進賢冠の史料が書かれているが省略。

○3・文献史料から見る武冠(武弁・籠冠・大冠・恵文冠)の制度

 武冠についてもレジュメに史料を書いている(※「図2;洛神賦図(局部・左は模写)」が載っており、二つ矢印で指示しそれぞれ「平巾幘(平上幘)」と「武冠」と書かれている)。
 ただ隋時代、唐時代に至るまで進賢冠、武冠の制度は制度としては非常に唯一のものとして存在している。

※参考記事 メモ:武冠のあみあみ

○III・出土文物における後漢~魏晋期の進賢冠と朝服
○1・漢代の出土文物における進賢冠の位置づけ
○2・魏晋時代における進賢冠のあり方

 ところが出土史料の中でどのように進賢冠、武冠が登場するかというのを考えた場合、漢代においては様々なものが存在するが、魏晋時代になるとかなり減少していく。
 ただ後期になり遼東地方、河西地区にもこのようなものが存在することは確かだが、若干、減っていく。

○3・高句麗への進賢冠の伝播?─五世紀の事例から─
(※時間が押していることもあってか、特に触れられていない)

○IV・北朝における武冠のあり方 ─後漢から魏晋的な価値観の変容─
○1・後漢魏晋時代の武冠
○2・武冠の台頭と変容 ─北朝とその周辺─

 北朝の方に入る。武冠がかなり優越してきて、武冠は漢代から存在するが、むしろ事例が多くなるのは北朝時代。(レジュメに見られるように)様々な武冠の例が存在しこれ以外にも様々あり、形も後漢時代のものとはかなり変わっきて、南朝の影響もあるが、このような武冠の形が見られ、しかも出土例が武冠について多くなってくる。高句麗等にもよく似たようなものが見られ、形もかなり変容していく。北朝というのは武冠の全盛時代だと考えることができる。

○V・北朝におけるかぶりものの多様化 ─幘・鮮卑帽・折上巾など─
○1・「幘」着用の一般化と「幘」の変化

 それ以外にも、元々は進賢冠・武冠の一部として使われていた「幘」という簡易なかぶりものが北朝時代にはかなり増えてくる。簡易な服装が出土史料にかなり見られるようになり、しかも袴褶というズボン形式のものとセットになって生まれてくる、非常に運動しやすい服として現れてくる。

○2・「北族的」服装の浸透

 さらに「鮮卑帽」の北族的なかぶりものな出土史料中に非常にたくさん現れる。
 鮮卑帽とか様々な簡易なかぶりものが墓主像においても見られる。墓主像はフォーマルな形であるはずが、かなり簡易なかぶりものが見られる。こういったものが増えてきて、北族的あるいは簡易な服装というのが北朝時代には例が増えてきて、これが隋唐時代に「常服」というふうに制度化していく。ただ北朝時代は隋唐時代のように制度化はされていないようだが、このようなものが増えていき、朝服制度の完備とは裏腹にこういったものが、北族的簡易な服装が増えていくと言える。

 魏晋時代、南朝時代とは違う服飾の体系が次第に形式化されないままだが、北朝時代に増えていき、それが隋唐時代、いわゆる常服の制としてまとめ上げてこれが礼制の中、さらに据え付けられるようになる。
 現在、文献史料についてまとめ上げたので、出土史料については多いので、そういうことを考えながら、隋唐時代まで繋げ服飾史を考えていきたいと思う。

 10:51終了

 司会による解説が入り、質疑応答が始まる。

 東北大の川合先生からの質問。レジュメ7ページの出土史料のところ。北朝で進賢冠がほとんどなくなって、替わって武冠が現れるということだが、その理由で何か考えがあれば教えて欲しい。
 回答。考古学について素人で判らないところがあるが、北朝において考古学の方で言われていることで六世紀になると孝文帝の漢化政策に対する反動から非常に北族的なものあるいは軍事的なものがもう一回復活してくる。そういった中で、レジュメには書いてませんが甲冑に身を固めた武人像等が増える、武冠といった武人を象徴する冠がたくさん増えてくるのはそういった背景から来ているのではないか。つまり北族的軍事的なものが見直される過程から来ているのではないか。ただ五世紀の段階で武冠の例もあることはあるので、そういった北族的なものの優越というのは孝文帝以前から存在していた感もある。文献史料から武冠の優越というものを結びつけて考えられるかどうかは難しいところがあると思われる。

 徳島大学の葭森先生からの質問。川合先生の質問と関係するが、恐らくこうした衣冠というものは礼と関係するから、着る場、特に描かれる場と関係すると思うが、つまりどういう場においてどういうような衣冠を着るか。進賢冠というのは朝廷での儀式とかに着用されるものと思われるが、では、北朝のところで簡易な服装が出てくるということは、描かれる場、朝廷以外なのか、朝廷の場でもそういう(簡易な)のをするのか、もう少し日常的な生活の場でそういった服装が流行していくのか、そのあたりについて描かれる場について関係するのか。
 回答。墓の中に壁画、人物画がたくさんあって様々な服装をしているが、それらが何を示しているのか、何を意味しているのか、まだ整理がされていない感じがする。一つ文献史料から言えることは、南朝の史料で、朝服制度というのは、かなり公的な場では着られていたが、特に東晋以降、単衣であるとか朝服より簡便ななもの、冠も進賢冠ではなくただ幘を被る、武冠も武冠をとってしまって中の幘を被る、それだけに幘と単衣というものだけに、簡易なものに切り替わっていく。全ての官職とは言えないが官品がやや下のほうではそれでも良いというふうになっていく。それが梁の天監律令の段階で、公的な朝服に優するものとして制度化されていく。北朝に関してもこのような動きがあったと思うが、文献史料的にはっきりと出てこない。だんだんとこういった簡便なものが制度化されていくようではある。

 國學院大学の金子先生からの質問。見通しを聞かせて欲しい。言葉、文字、表現が漢代と同じようであっても中身が変わっていく可能性があるのでは。それから隋になると、朝服制度がまとめられ、そこの場合に官儒の制度があらためて優勢になる。そこらへんがまとまったときにどこが有意になるか。あと外国で見ていくと、言われてみると冠に比べ服の方はあまり重要でなく、そう考えると冠の記録自体活きてくる。それはどういう理由によるのか。
 回答。一つ目に関しまさに出土史料から形状の変化をこれから考えていきたいと思う。二番目に関し、どちらかというと隋唐を考える場合、西魏・北周の流れから隋唐が生まれると考えるから、文化的なものもそれを考えてしまう訳だが、どうも北斉時代の制度というのは服飾史的に大きなものを占めており、隋の開皇年間の時に大幅に取り入れられる。北斉の制度というのはどういったところから取り入れられるかというと、孝文帝あたりから南朝の制度をかなり意欲的に取り入れている。三番目について、冠について史料的によく残っているが、視覚的に人間はまず顔に視点が行くと思う。そういった本能的なものとして冠が重要視されていく部分がある。ただ今回、衣服、首から下のものを考えていないが、これも人物俑に関しては史料が残っていて、注目しているのは袴、ズボン形式というのは、これは実は漢代からあるので北族的なものと言うのは難しい。ブーツに関してはそれがどのようにして隋唐時代に制度化されていったかを考えていきたいと思う。隋唐時代との繋がりについてはまた別の機会に発表したいと思う。

 終了で会場拍手。

※追記 第17回三顧会 午前(2012年8月14日)

※追記 魏晉南北朝史研究会 第13回大会(2013年9月14日)

※追記 メモ:三国志フェス2011が始まるまで(2011年9月9日)

※追記 メモ:三国志フェス2011 昼まで(2011年9月10日)

※追記 メモ:第20回三顧会 前夜祭(2014年5月3日)

※追記 正史「三国志を読む」~諸葛孔明の実像~(NHK文化センター徳島教室2016年10月20日-2017年3月16日)

※新規関連記事 中国古代化学(2017年9月)

※新規関連記事 メモ:深衣の復原(京都2019年12月14日)

※新規関連記事 リンク:漢唐間の礼制と公的服飾制度に関する研究序説(埼玉大学紀要 教育学部2009年)

※新規関連記事 リンク:漢唐間における楽制体系と冠服体系(埼玉大学紀要. 教育学部2020年)

※新規関連記事 メモ:河西出土文物から見た朝服制度の受容と変容(2019年9月26日発行)

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