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「東アジアの出土資料と交通論」ノート3


  • 2008年11月 9日(日) 14:16 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    2,754
研究

※前記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート2

 ノートPCの入れ替え中、司会による次の発表の紹介が入る。
 10:17。次の発表が始まる。予め配られたレジュメはA3の3枚、6ページ分。


●上野祥史氏(国立歴史民俗博物館)「漢代北方の地域社会と交通―県城遺跡と漢墓の技術から―」

 科研の採択を受けて2005年から7年までの三年間、中国の北方地域を対象に地理学、政治史、環境史、考古学の四者で共同研究をおこなったとのことで、その成果が今回の発表だという。


○はじめに

 出土資料から交通論のアプローチが今回のシンポジウムのテーマ。この発表では交通路が結びつけるものは何かという視点で入る。人・情報ではなくハードウェアである地域を結ぶと考え見ていく。交通路に結びつけられる地域と地域がどのような関係にあるのか、すなわち地域と地域の関係から交通路をあぶり出していく。対象となるのは前漢代の北方地域。


○1. 漢代の北方地域とは

 まず前提部分(※スクリーンに現在の地図が映し出される)。現在の山西省北部、内蒙古中南部、河北省北部を対象とする(※スクリーンの地図上、赤で示される)。この地域は歴代王朝が北方の諸民族と抗争した場であり、漢代も例にもれず、匈奴・鮮卑との抗争の場であった。
 他の視点から北方地域がどう見えるか紹介。考古学をやっているが、昨年の中国考古学会で発表したのは、お墓の構築技術によって地域と地域がどのような関係にあるか、どう地域区分ができるか、というもの。前漢代(の華北)にはこのように八つの地域に分けることができる(※スクリーンに航空写真で映し出さ示される。またレジュメにはより単純な地図がある)。今回対象となるのはE地域、このような北方地域になる(※八つの地域の地図上最北地域)。造墓技術と漢代の地域区分を結論だけ示したが、プロセスを少し説明。前漢の後半期にどのような墓がどこで作られたかがこの図(※スクリーンに地図と共に説明が入る)。木築墓、木材が主な構築材料。磚築墓、煉瓦が主な構築材料。木築墓は今回対象にする北方地域、東シナ海沿岸の山東省東部、江蘇省に分布している。平たく言えば当時の周緑地域、辺境。磚築墓は中央地域、いわゆる王朝の中央地域に広がったのに対し、伝統的な木築墓は周辺地域に残ったと通常、解釈される。
 今日の発表で二つの視点を提唱したい。一つはマクロな視点。県城と県城との関係を検討し、王朝の地域経営の戦略を復元する、あるいはそれを接近していこうというもの。もう一つはミクロな視点。お墓を対象として県城を中心とする一つの地域社会、その中における集団関係がどうであるか、これを検討していくもの。入れ物同士の関係がマクロな視点、そして入れ物の中に入っている人の構成がミクロな視点となる。


○2. 地域社会のマクロな視点:県城遺跡

○(1)北方領域の二つの姿

 城郭とは、一つは地域社会の結節点となる。先ほどの金先生の発表にもあったように、漢代の行政区分として県の下には里、亭、郷といった下部組織、構造があり、一つの地域の結節点として県、県城がある。王朝の側からするとこの県城を掌握することにより、地域経営を進めていく、その拠点となる。科研の方で実際、その遺跡を見てきた(※スクリーンにだだっ広い草原の中に盛り上がっている写真などが映し出されており、それらが広武県故城や雲中県故城の写真。それをあれこれ説明)。広武県故城について。現状に残っているものでも10メートルを越えるだろうという城壁を確認。雲中県故城について。写真の内側が400メートルの城壁、外側に1.2キロメートルの城壁が回っている。
 現在出ている遺跡地図集、考古学の報告書などからお城の情報を集めた。衛星写真を使って地理学の先生に依頼して地形利用というのを合わせた。地形利用図と考古等高を重ねるとどのように北方地域を復元できるか(※スクリーンに図が映し出される)。緑の部分が氾濫原、川の流域。川の流れを示すために青い線を入れるようお願いしたが、無理と言われた。つまり川の流れは常に動くものだということ。これが農耕が出来る可耕地、肥沃な土壌になる。その周辺にある黄色い部分、これが扇状地になる。山から川が流れてきて平原に降りてくる、その出口に扇状地が形成される。そこではやや水の利用が難しいと聞く。黒い部分が山塊になる。
 ちなみにこの地形図からどのような交通路が復元できるか線を引くと(※スクリーンの地図に線が足される)、たくさんの線ができる。というのも河川の流れによる渓谷(※地図中、白い線)が重要な交通路になるだろう、ということで地理学の先生に線を引いて貰うとこのような図が返ってきた。
 図において、中塗りの四角が県との対応がつく城郭になる。そういった城郭は交通路の結節点に当たる。
 今回は二つの地域について。一つは河套平原。黄河が東に向かって流れる部分から南に流れを変える部分、まさにそこで形成された巨大な平原。南側に大同盆地と(※スクリーンの地図に)書いたが、こちらも地形図を見る限り、やや広域に広がる氾濫原を持つ盆地ということで、この二つの関係を見ていく。
 まず城の立地環境。ここでは三つあげている。レジュメにあるように平地型、盆地型、谷筋型。平地型というのは扇状地も含めた平原のふちにお城を築く。それに対し非常に狭い谷筋に、やや可耕地、氾濫原が見える、一部分に城を築くのが盆地型。氾濫原を持たない谷筋に拠点を築くものを谷筋型とする。
 次に城と城との関係。分布状況は二つの類型がある。一つは相互の関係が非常に密に、ある地域に密集すると、これを拠点密集型と呼ぶ。もう一つを等距離分散型と呼ぶ。大同盆地では城郭と城郭の距離が比較的等距離と見て取れる。
 これらの三つの立地環境の分類、二つの分布状況の分類、これら二つの次元をよりどころにして河套平原と大同盆地の関係を整理していく。
 大同盆地では平地型で等距離分散型。この状況は、王朝の視点からすると、広域ネットワークを構築し面的に地域を掌握することを意図した地域経営戦略。一方、河套平原は同じ平地型だが拠点密集型。これは王朝の視点からすると局地的に地域開発をする、あるいは拠点防衛を目的とした地域経営戦略。これが小タイトルにある「二つの姿」となる。

○(2)雲中郡と定襄郡

 縮尺を上げて、河套平原の内実を詳しく取り上げる。(※スクリーン上の地図において、またレジュメの図3において)中塗りの四角が県城との対応がついている城郭、白抜きの四角が城郭は確認されるが県城との対比が現状では難しいあるいは対比がなされていない城郭。
 雲中郡の属県、定襄郡の属県それぞれがどのようなものかがこの図。雲中郡の属県が実線の黒で結んでいる。黒の点線が定襄郡の属県を示している。雲中郡の場合、その郡治(雲中県)に対し、東北側と東南側に城郭が密集する区域がある。それらを結びつけるのが郡治。それに対し郡治(成楽県)を中心とした定襄郡のネットワークは南の谷筋沿いに広がっていくネットワーク、あるいは北側に谷筋沿いに広がっていくネットワークを見ることができる。
 先ほど、拠点開発・拠点防衛を目的とした河套平原と言ったんですが、その中にも県城のネットワークとして二つの要素が見える。雲中郡の場合は、郡治を河套平原の氾濫原のど真ん中に置いており、その郡治は拠点に必要な城郭群の結節点として機能している。それに対し定襄郡は、河套平原に出てくる出口、山麓・扇状地縁辺に郡治を置く。その郡治を中心に結びつけられる県城は谷筋を利用する線上に伸びるネットワーク。
 それらを王朝の地域経営という視点で再整理すると、雲中郡はフロンティアを開発することを目的とした開発型のシステムと言える。拠点を開発していこうということで密集型に城郭を置いたのではないかと考えられる。それに対し定襄郡は開発すべきフロンティア(河套平原)の後背地にある交通要衝を掌握することを目的としたシステムである。裏を返せば軍事型、または交通路型といったネットワークだったのではないかと考えられる。

○(3)「安陶丞印」封泥

 この中にある一つの城郭で封泥が数多く出ている。文字を記したものが約100件、文字を持たないものが370件余り。安陶県の県城と考えられる城郭の二十家子城址から出てきた。
 断片的に情報が報告されているため、総合的に復元することは難しいが、[内蒙古自治区文物工作隊 1961]をベースにして再整理をする(※まずスクリーンに二十家子城址の平面図が映し出される)。穀物を貯蔵するための貯蔵穴で穀物と封泥とが一緒に出てきている。
 封泥は具体的にはこのようなものがある(※スクリーンやレジュメに写真が出てくる。それぞれ説明が入る)。

 (※以下、レジュメより釈文)
  安陶丞印 定襄丞印 武進丞印 平城丞印 駱□□□ □□太□章
  都武□印 安□左□ 武□右□ 東郷 西郷 倉 □□庫□

 「□□太□章」は「定襄太守章」となり太守の章とのこと。「倉」や「庫」は軍事関連で「左□」「右□」はそれぞれ「左尉」「右尉」という軍事的官職か。
 『漢書』地理志との対照する(※スクリーンに図がいくつか出てくる)。出ている地名と件数を対応させる(※表が出てくる)。先ほどのお城の結びつき地形との関係によって復元した地域間のネットワークを傍証するような封泥がある。
 「左尉」「右尉」等、武官の関係を示す封泥があったが、実はこの二十家子城址は別の点でも重要な城になっている(※スクリーンに二十家子城址出土の鎧のスケッチが出てくる。林 巳奈夫/編『漢代の文物』挿図10-74でスケッチされるのと同じ鎧)。前漢の武帝紀の甲冑の構造を知ることができる史料はほとんどないが、考古学で武装の話をするときに必ず引かれる史料。


○3. 地域社会へのミクロな視点:漢墓葬

 墓を使って地域社会の階層構造、構成を見ていく。まず史料の着目点と何が明らかになるかという点を整理。
 一つ目は、墓の構造や規模、副葬品や葬制に格差が存在。入れ物の墓、入れる物に格差を見出すことができる。格差を元にして被葬者の関係性ということで地域社会の集団関係あるいは階層構造を検討することが可能。地域社会の状況を現地の写真で説明(※スクリーンに漢墓やそれら群の写真が出てくる)。現地へ同行した仏教大学の杉本先生に「じゃ漢代というのはお城から外を見ると墓山だらけだったんですかね?」と言うと「んー、多分、そうに違いない」とのこと。県城の周りにはその被葬者を葬るべきお墓が周辺に相当数存在したと言える(※さらにスクリーンに漢墓やそれら群の写真が出てくる)。
 被葬者を葬って副葬品を添える空間があり、その構造がどうであるか整理。北方領域では上位階層が木築墓。格差を示す副葬品としては青銅器、漆器等。お墓の大きさで上位と決めた。規模が大きな墓は木築墓。これは河套平原でも大同盆地でも同じ現象。ところが両地域で違ってくるのは磚築墓の存在。現状では磚築墓が出てくるのは北方地域では河套平原に限られる。
 あと、お墓がいつごろから作られるのか? 我々の共通認識では、この点で河套平原と大同盆地とで差がある(※スクリーンでそれをまとめた図表が出てくる)。大同盆地では前漢を通じて造墓が増加している。前漢期の磚築墓はなし。一方、河套平原では前漢の後半期に造墓が盛んになる。造墓が始まった頃から磚築墓がある。
 その背景を史書を見ながら考える。大同盆地では在地系の集団が地域社会を運営していた。だから伝統的な木築墓を使い続けた。上位階層もそういった墓葬を選択し続けた。一方、河套平原では上位階層が在地の伝統(価値)を引く集団。磚築墓の下位階層は外来系の集団の反映と考える。磚築墓とは長安、洛陽などの黄河流域、その辺りで出現し前漢の後半期には普及する。北方領域では磚築墓は自発的に現れる形式ではないので外来系の集団を想定。史書の開発の記事と対応すると、例えば王朝による徙民政策を反映すると考えられる。


○4. まとめ

 (※このノートでは繰り返しになるので大幅に省略)伝統的な在地系の集団がユニットとしてあってそれを繋ぐ広域なネットワークを構築したのが大同盆地。河套平原は、拠点開発・拠点防衛するためのフロンティアとして、地域社会を支える集団に徙民・外来系集団の反映を考えられる、中央の影響を受けた地域だったと考えられる。

 平城と馬邑について。劉邦が建国当初、匈奴と戦争して負けたその場所が平城。武帝期になると前漢が北へ匈奴を押し上げていくがその端緒を開いたのが馬邑の役。この二つの城をこの地図(大同盆地)に示す(※スクリーンに地図が表示される)。史書をそのまま読むと平城・馬邑はフロンティアではないかとされがちだが、今回の発表のように物証から地域社会の関係を考えると、大同というのはむしろ中国的な伝統的な世界観、あるいは王朝支配、地域社会というあり方とうのが存在していたと言えるのではないか。

 情報と交通路ということでまとめると、城郭や墓葬といった漢代のハードウェアに関する新たな指摘を行ってきたが、その指摘とは人あるいは物資の移動といったような情報伝達、ソフトウェアの研究に対しても少なからず刺激を与えるもの、相互関係を築けるものと考える。

 発表終了。


 ここで質問が来て、地図のスケールを教えて、とのこと。レジュメでも地図にマス目があって、その1マスは緯度経度の一度分になるとの回答。
 さらに他方から木材に関する質問。木材が採れる豊かな森林はあったのか? 二点で回答。この地域は豊かな森林はなく乾燥地帯。木材を現地調達することは難しい。一つは木築墓が無くなるのは後漢からで、その理由に材質の枯渇が言われている。ところがそうではなかっただろうと考えている。選択的に木材を使うんだという意識があったのだろうと考えている。もう一つは材に何を使うのか?という点。そこらへんの木を使っていたのかというとそうではない。やはり選択的に選ぶとなると、植生の問題と材との関係をきちんと整理しないといけない。

 5分休憩。

※次記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート4  



※追記 メモ:鎧 and リンク:東アジアにおける武器・武具の比較研究

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