|
▼こ・さんさん:
>いつもお世話になっております。
>関平については、「正史三国志」の方では、“子の関平”というふうに
>所々出て来ていて実の息子であるように思われますが、「三国演義」では
>劉備が関定の次男である関平を関羽の養子に進めたとあります。
>「三国演義」の作者はよく「三国志」を熟読しているように思われますが
>この関平の取り扱われ方には、何か思惑があるのでしょうか?
こんにちは、清岡です。
さらに話を混乱させるかもしれないのですが(汗)、
「三国演義」の創作部分を考えるのに、「三国演義」より成立時期が早いと言われている、元の至治年間(1321〜1323年)に発行された「新刊全相平話三国志」(三国志平話)と比べるって一手段があるようです。
「新刊全相平話三国志」の方でも張飛の字(あざな)が「翼徳」だったりとか。
[#T1762]
↑「三国志平話」について。
それで関平のことを「三国志平話」でざっと調べると、関定のシーンはなく、関平は関羽の最期あたりから登場します。
さらに関羽と共に死ななかったみたいで、「諸葛七擒孟獲」のところで出ています(笑)。
それと話をがらっと変えるんですが、「三国演義」で関平は劉封と並んで、記載されることが多いんで、もしかすると、劉備・関羽の養子コンビとしてイメージ付けしたかったのかもしれませんね。次世代の象徴というか。
|
|