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こういった所に書き込みするのははじめてなので,どう話せばよいのかわからないのですが,一応私の見解を示しておきます。
質問1 その典拠は?
につきまして,『後漢書』袁紹伝では『献帝春秋』から
紹為人政寛,百姓徳之。河北士女莫不傷怨,市巷揮涙,如或喪親。
と引いています。一般的な読み方だと,「袁紹の人となり(全人格),政は寛く,百姓は之を徳としていた。河北の士女で怨んだりする者はおらず,市巷(街中)では涙を揮い,ある者にいたっては親が死んだかのように悲しんだ」ということになります。
『献帝春秋』は袁イの撰ですが,袁紹とは同族ではありません。(戦国時代にまで遡るなら同族の可能性はありますが。)裴松之は『三国志』袁紹伝の董卓と袁紹の対立の記述,審配が曹操に捕えられたときの記述で『献帝春秋』をひいて批判しています。史料の信頼性で言うと,裴松之の言葉を信じるならば「低い」と評価しなければならないかもしれませんが,現存している記述や,裴松之が批判している記述を見てもらえればわかりますが,他の史料と異なった事を言っているわけではありません。寧ろ事柄を詳細に記しているほどです。信頼性については少なくとも,裴松之の言葉を信じて「低い」と判断せずに,よく検討を加える必要があるでしょう。
袁紹の評価は時代によって違っています。それは『三國志』の注で引かれている多くの史料の,現存する部分を検討すればわかることですが,例えば王サンの撰の『漢末英雄記』の場合,これはまだ漢魏の交替が行われる以前の史料ですから,同時代史料ということになります。この時点では,袁紹に対する批判,例えば袁逢の庶子であるとか,漢に代わる意志があったとか,こういったものはありません。袁紹に対する批判的記事が見えるようになるのは魏末の『魏書』以降のことです。ちなみに『後漢書』では袁紹に対して肯定的な記事を多く採用しています。(また袁紹の死の表現については曹操と同じく「コウ」を用いています。憂死の書き損じと見ることもできますが,『三国志』や裴松之の注にもとりあげられていない袁紹の弁明の手紙も記載されており,『三国志』に比べるとかなり肯定的な記事ばかりです。)
また『晋書』には
袁紹猶豫後機,挫衄三分之勢。
とあります。一般的な読み方だと「袁紹はなおも,(官渡敗戦)後の機会があり,(病にならなければ,)三分への流れを挫くことができた」という記事があり,また『隋書』にも「袁紹らは一時(一時代)の雄傑」との評価があります。
少なくとも,現存する史料を注意深く読み取った場合,批判的な記事はそれほど見当たりません。逆に,高く評価する記事が残っています。これら,例えば「一時の雄傑」といった表現の背景には,「為人政寛,百姓徳之」という状況があったと想起させるように思います。
長くなりましたので,具体的な政策については,また必要があるようでしたら書き込みます。
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