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> 『明帝紀』には、龍の出現は、青龍元年の記事しかないようです。
これは私の間違いで、もう一つありました。
景初元年(237)春正月壬辰、山荏縣言黄龍見。
ここに景初元年正月とあるのは青龍五年正月のことですが、魏では、この龍の出現を契機に改暦の論議が起こり、青龍五年三月を景初元年四月とする改元が行われたため、遡って景初元年と記載されたものです。
この青龍五年三月を景初元年四月とするとはどういうことかについて、簡単に書いておきます。
当時、王朝は天地人の三統によって暦を循環させるという思想がありました。中国古代の夏王朝は天統なので、夏暦は太陽暦の二月が正月、殷王朝は地統なので、殷暦は一月が正月、周王朝は人統なので、周暦は十二月が正月とされてきました。
そして、漢は天統を得ているので夏暦によっていました。ところが、魏は地統を得ているにもかかわらず、漢から禅譲を受けた後、そのまま夏暦を使っていたので、景初の改元と同時に、月を一ヶ月ずらして殷暦にしたというわけです。
ところが、明帝は、景初三年一月一日に崩御しました。そのため、これ以降、殷暦だと毎年正月元日が明帝の命日ということになって非常に都合が悪いことになります。そこで、景初三年十二月に詔勅を出して、十二月の次に後十二月を置き、その翌月を正始元年正月し、殷暦を夏暦に戻す変更を行いました。
つまり、景初年間だけは、暦の月が現在の太陽暦とほとんど同じだったということになります。
ちなみに、この夏暦、殷暦、周暦というのは、正月をどの月に置くかという問題であって、暦法ではありません。暦法というのは、暦日を計算する公式のようなものですが、ややっこしいことに、魏はこの改元のときに、暦法も、それまでの太和暦から景初暦に変更しています。この景初暦は、晋の時代にも泰和暦と名前をかえただけで引き続き使われました。
委面如墨
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