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どうも。ジョージ真壁です。疑問その1です。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
なお、記述内容は、ほぼ筑摩和訳に頼っています。
189年、董卓の牛耳る洛陽から逃亡する曹操の身に、
「関所を出て中牟を通過するとき、亭長に疑惑を抱かれ、
県まで連行された(「武帝紀」本伝)」
「中牟では、曹操を県に拘束した。功曹だけが、県令に進言して
彼を釈放させた(「武帝紀」裴松之注『世語』)」
という事件がありました。
で、「任峻伝」を見ると、上の話とおそらくほぼ同時期と思われる
のですが、中牟の令・楊原なる者が登場して、屯田制の功労者の一人、
任峻と色々とやっています。
何が言いたいのかと言うと、曹操が拘束されて連行された先の
県令は、楊原だったのかどうか?、その可能性はあるのか?ということ
です。
「きょうび、君は何を馬鹿なことを言っているんだ」と思われる方も
いらっしゃるかもしれませんし、私が何かとんでもない勘違いをしている
可能性もありますが、この点について是非、御教授頂ければ幸いです。
なぜこの点にこだわるのかと言うと、曹操が捕まった先の県令が楊原
なら、色々な想像ができ、三国志の小説を書きたい人にとってみれば、
美味しい素材のひとつになるのではないかと考えるからです。
県令が楊原なら、そこには任峻もいた可能性もあるわけで、任峻が曹操の
配下になる前から、二人は知り合いになっていたという想像もできます。
さらに想像を加えて、曹操を救った功曹というのが、任峻や張奮の仲間
(あるいは、彼ら本人)なら、任峻が死んだ際に曹操が大泣きした理由も、
より納得ができるのです。
御存知の方、見解をお持ちの方がいらっしゃいましたら、御教授を
賜れれば幸いです。
ジョージ真壁
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