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とは言っても、真壁さんのおっしゃる通り、歴史に関する本・放送などであるならば、歴史に対して正しい認識を持つべきだという事には同感です。私がNHKの【その時歴史は動いた】を見て失望したというのは、まさにその点です。魏の政治は悪だったなんて、歴史を扱う人間がまともな思考ではじき出した物とは到底思えません。
ただし、これは私が、分類する所でいう、正史派(笑)だから感じる憤怒であって、三国志の世界観全体を考えれば、NHKは良い事をしてくれたのか?という感覚すら最近は持っているんですよね(汗)。あれがディープな三国志ファン向けに作られた物ではなく、夏休みに子ども向けに作られた物だったと考えるなら。
これから三国志に興味を持とうかな?という子どもの立場で考えれば、演義から入るのが正しい姿であろうと思うのです。史学として三国志を捉えると、三国志は他国の一時代の歴史に過ぎず、三国志というジャンルは衰退せざるを得ません。正しい認識の元、歴史学のジャンルとして存在させようとすると、そうなってしまいます。
三国志に人気があるのは、根底部分は演義であり、光栄三国志であり、吉川三国志であり、横山三国志です。最近であれば無双かなw?要するに、三国志というジャンルそのものの事を考えれば、特に三国志初心者は【史実とフィクションがごっちゃになっていた方が良い】のではないか?と思う事があるんですね。つまり
>史実とフィクションを同じ場所で語ることにどんな意味があるというのか?三国志初心者の方は特に、これを読んだら、何がなんだかわからなくなってしまうのではないかと危惧します。
という危惧自体が、もしかしたら私を含めて先達の余計なお節介なのかもしれないなと。何がなんだか分からなくなった方が良いのではないかと。
一例を挙げると、日本史での宮本武蔵像というのは、三国志の世界観に似ている部分があって、史実上の宮本武蔵と吉川氏のフィクションとしての宮本武蔵像がごっちゃになっています。これは史学として宮本武蔵の実像を広めたいと思っている人には憂うべき事態かもしれませんが、実はこうした虚構の存在自体が、歴史への興味への糸口であり、その糸口を無理に整理整頓する必要はないのではないか?と思っているのです。
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