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【3700】「右脅」は「左鎖骨」? 中彎 2011/10/10(月) 13:56 教えて
┗ 【3701】Re:「右脅」は「左鎖骨」? 清岡美津夫 2011/10/10(月) 18:09 多分…
┗ 【3702】矢傷が死因となった可能性 中彎 2011/10/14(金) 6:58 感謝♪
┗ 【3704】Re:矢傷が死因となった可能性 清岡美津夫 2011/10/15(土) 0:19 雑談
┗ 【3707】深謝 中彎 2011/10/22(土) 8:56 感謝♪

【3700】「右脅」は「左鎖骨」?
教えて  中彎  - 2011/10/10(月) 13:56 -

引用なし
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   はじめまして。こちらでは中彎と名乗ることに致します。
中年の三國志ファンです。

正史とちくま訳との間の違いで気になったことがあり、
詳しい方にお教えいただきたく、思い切って投稿致します。

『三國志』周瑜伝で、「赤壁」のあとの対曹仁江陵攻防戦の場面、
周瑜は負傷しますが、その様子について、

中央研究院 漢籍電子文獻 によれば、

會流矢中右脅

となっており、対してちくま学芸文庫の訳では、

流れ矢が左の鎖骨に命中し、

とされています。

左右が逆のように思うのですが、これで正しいのでしょうか。
それとも「左右」について、今と違う用法があったのでしょうか。

【3701】Re:「右脅」は「左鎖骨」?
多分…  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/10/10(月) 18:09 -

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   初めまして、清岡です。

それは初耳でしたので、何刷等を考えず、一応、手元にあるハードカバーの『世界古典文学全集24 三国志』(筑摩書房)、文庫の『正史 三国志』(筑摩書房)で確認すると、おっしゃるとおり、「左の鎖骨」となっていますね。

それに対して原文の『三国志』(中華書局)、『三国志集解』(藝文印書館)で確認すると、おっしゃるとおり、「右脅」となっていますね。
念のため、『太平御覧』で確認すると、卷三百七十一 人事部十二 脅の項目に件の箇所が引用されており、やはり「右脅」となっていました。

左右の違いはともかく、「脅」を『CD-ROM版 字通』で引いてみると、訓義の「1」が「わき、わきばら、あばら、かたわら」となっており、さらに『説文』の「両膀なり」を引き「両脇の意とする」と書かれてあり、特に「肩」という意味はありませんでした。

まさかと思い、『三国演義』(毛本、電子文献)を見ると、「第五十一回:曹仁大戰東呉兵、孔明一氣周公瑾」に「周瑜急勒馬回時、被一弩箭、正射中左肋、翻身落馬。」とあり、左右の違いはありますが、「左肋」とあばらを意味する言葉が出ています。

もしかして版によっては「左の鎖骨」を意味する言葉になっているかもしれませんが、通行する『三国志』では「右脅」で良いと思います。訳す人の所へ渡った文が違ったものになっていたか、渡った時に情報損失(原文の字が潰れていた等)があったんでしょうかね。『三国志』の訳は他にも徳間書店のものがあるそうですので、念のためにそれで確認するとよいかもしれません。但し私はそれに『三国志』巻五十四呉書周瑜伝の訳が載っているかどうか未確認です、すみません。


あと当時と今ではおっしゃるとおり左右の概念が違うという可能性がありますね。例えば、主体視点の左右か、主体と向かい合った客体視点の左右かと言うことですね。
時代の近い『礼記』(とは言っても成立が数百年遡りますが)を読む限り、左右の概念は今と同じだと存じます。そこには前後左右以外にも東西南北が記されていて、矛盾無く読めますので。

▼中彎さん:
>はじめまして。こちらでは中彎と名乗ることに致します。
>中年の三國志ファンです。
>
>正史とちくま訳との間の違いで気になったことがあり、
>詳しい方にお教えいただきたく、思い切って投稿致します。
>
>『三國志』周瑜伝で、「赤壁」のあとの対曹仁江陵攻防戦の場面、
>周瑜は負傷しますが、その様子について、
>
>中央研究院 漢籍電子文獻 によれば、
>
>會流矢中右脅
>
>となっており、対してちくま学芸文庫の訳では、
>
>流れ矢が左の鎖骨に命中し、
>
>とされています。
>
>左右が逆のように思うのですが、これで正しいのでしょうか。
>それとも「左右」について、今と違う用法があったのでしょうか。

【3702】矢傷が死因となった可能性
感謝♪  中彎  - 2011/10/14(金) 6:58 -

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   清岡様

質問者の中彎です。

お礼が遅れました。書き込んですぐに、とても詳しいご回答をいただき、
感激しております。ありがとうございました。

「脅」は、脇と同じように、体側部を指すと考えればよいのでしょうね。
右脇に矢をくらうとは、脇が空いていた、
つまり右腕を挙げていたと想像されます。
右手で掲げていたのは、剣でしょうか。
矢が飛んできたとき、運悪く左方を注視していたのかもしれません。
筒袖鎧は装着していなかったものと見えます。
当時呉にはなかったのでしょうか。

周瑜の受傷部位などと言う、些末なことに関心を持った理由は、
もしかしたらこれが彼の死因になったかもしれない、と想像したからです。

『三国志』周瑜伝には、孫策と同じ年と書かれており、
だとすれば生年は、西暦175年でしょう。
同じく周瑜伝には、死亡時36歳、とありますので、
西暦210年に死去したことになります。

『赤壁』の決着が『三国志』武帝紀をみると陰暦で西暦208年12月のようで、
その後江陵攻防に移るのですが、
呉主伝ではこれが1年あまり続いたように書かれています。

はじめは夷陵の攻防があったりして、そのあとのことですから、
周瑜受傷の時期は、江陵戦の終結近くでしょう。

すると、受傷から死去まで、長く見ても1年程度と見積もられるのではないでしょうか。
その間周瑜は「劉備に宮室」の謀略を提案したりはしますが、たぶん陣頭には立たず、
久しぶりに戦場へ出ようとして、ほどなく病死したように見えます。

矢傷自体からは生き延びたが、体の奥に化膿巣が残り、
後にそこから全身に波及して、というようなストーリーを考えてしまいます。
正面から矢を受けるよりも体側部の方が、即死を免れるチャンスが高い気がします。

言いたい放題の長文、失礼致しました。▼清岡美津夫さん:

【3704】Re:矢傷が死因となった可能性
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/10/15(土) 0:19 -

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   こんばんわ。

さすがに周瑜の死因まではすぐに考えが及びませんが、それ以外ではあれば、お役に立てそうな分は返信致しますね。


▼中彎さん:
>「脅」は、脇と同じように、体側部を指すと考えればよいのでしょうね。
>右脇に矢をくらうとは、脇が空いていた、
>つまり右腕を挙げていたと想像されます。
>右手で掲げていたのは、剣でしょうか。

周瑜は将士ですので、指麾に使う旄を持っていたかもしれませんね。
あと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にあるこの「瑜親跨馬擽陳」に似た表現を含むのに、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「身跨馬櫟陳、手撃急鼓」という表現がありますので、鼓を持っていたかもしれません。

それと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にある「會流矢中右脅」の「流矢」についてですが、何年か前に個人サイトのコンテンツかコミュニティかで、「流矢」の意味を日本語のそれと同じ意味ではないのではないかといった話が出ていました。
つまり、「流矢」を「流れ矢」、つまり目標から「逸れた矢」としての意味ではないという話です。
当時は単になるほどな、と思ったぐらいで特に論拠等に当たりませんでした。
今、『三国志』およびその注に当たると、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「弓弩並發、流矢雨集、」(弓と弩が並び発し、流矢が多く集まり、)という表現があって、少なくともここでは少量の「逸れた矢」といった意味でなく大量の「流れる矢」の意味として出ていますね。

>矢が飛んできたとき、運悪く左方を注視していたのかもしれません。
>筒袖鎧は装着していなかったものと見えます。
>当時呉にはなかったのでしょうか。

鎧に関しては下記の「奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ」にある小林謙一「東アジアにおける武器・武具の比較研究」(平成16年度〜平成19年度科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告書(課題番号16520478)、2008年7月)のP.14からの「IV 中国の甲冑」が参考になるかと思います。それを読むと筒袖鎧には程遠いように思えますね。

・XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
http://repository.nabunken.go.jp/

・東アジアにおける武器・武具の比較研究 - XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
http://repository.nabunken.go.jp/modules/xoonips/detail.php?item_id=1199

【3707】深謝
感謝♪  中彎  - 2011/10/22(土) 8:56 -

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   お礼が遅れましたことをお詫び致します。
先の独り言みたいな書き込みにまで、ご丁寧なご返事をいただき、痛み入ります。
清岡さまの博識と親切に、あらためて感服致しました。
あるいは偶然に武装が、現在清岡さまのご関心分野でしたでしょうか。
とても勉強になりました。ありがとうございました。

『流矢』については、以前読んだことがあったのをご指摘で思い出しました。
高島俊男氏著『三国志 きらめく群像』(ちくま文庫)の、龐統の箇所です。
その後どこだか失念しましたが、ネット上の議論で、「必ずしも大量の矢の群れだけでなく、目標を逸れた矢の用途もある」という発言をみた気もします。
ともかくそうなると、周瑜は一本だけでなく、複数の矢を受けたのかも知れませんね。

鎧についても、とても勉強になりました。当時の鎧が多数の札を綴じたものだとは、
篠田耕一氏の『三国志軍事ガイド』(新紀元社)などで知りましたが、
何となくこれまでもっと自由に折りたためるものと考えていましたので、胴部の大半が上下方向に固定されていたとは意外でした。

また機会がありましたらぜひご教示お願い致します。

▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ。
>
>さすがに周瑜の死因まではすぐに考えが及びませんが、それ以外ではあれば、お役に立てそうな分は返信致しますね。
>
>
>▼中彎さん:
>>「脅」は、脇と同じように、体側部を指すと考えればよいのでしょうね。
>>右脇に矢をくらうとは、脇が空いていた、
>>つまり右腕を挙げていたと想像されます。
>>右手で掲げていたのは、剣でしょうか。
>
>周瑜は将士ですので、指麾に使う旄を持っていたかもしれませんね。
>あと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にあるこの「瑜親跨馬擽陳」に似た表現を含むのに、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「身跨馬櫟陳、手撃急鼓」という表現がありますので、鼓を持っていたかもしれません。
>
>それと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にある「會流矢中右脅」の「流矢」についてですが、何年か前に個人サイトのコンテンツかコミュニティかで、「流矢」の意味を日本語のそれと同じ意味ではないのではないかといった話が出ていました。
>つまり、「流矢」を「流れ矢」、つまり目標から「逸れた矢」としての意味ではないという話です。
>当時は単になるほどな、と思ったぐらいで特に論拠等に当たりませんでした。
>今、『三国志』およびその注に当たると、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「弓弩並發、流矢雨集、」(弓と弩が並び発し、流矢が多く集まり、)という表現があって、少なくともここでは少量の「逸れた矢」といった意味でなく大量の「流れる矢」の意味として出ていますね。
>
>>矢が飛んできたとき、運悪く左方を注視していたのかもしれません。
>>筒袖鎧は装着していなかったものと見えます。
>>当時呉にはなかったのでしょうか。
>
>鎧に関しては下記の「奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ」にある小林謙一「東アジアにおける武器・武具の比較研究」(平成16年度〜平成19年度科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告書(課題番号16520478)、2008年7月)のP.14からの「IV 中国の甲冑」が参考になるかと思います。それを読むと筒袖鎧には程遠いように思えますね。
>
>・XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
>http://repository.nabunken.go.jp/
>
>・東アジアにおける武器・武具の比較研究 - XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
>http://repository.nabunken.go.jp/modules/xoonips/detail.php?item_id=1199

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