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赤壁の戦いは、戦いに言及する史料が限られています。
史料が少ないことから赤壁の戦いは低い評価を与えられることがあり、「無かった」と言うことで納得しようとする人もいます。
三国志の戦史は幾つかの史料、主に陳寿『三国志』から再構成されています。
ということは、三国志の戦史を確認することができるのは主に漢籍史料だけであるということです。(考古学など、文献に依らない例外あり。)
ですから、私たちは史料を読んで判断するのですが、当然のことながら読む人によって判断は異なります。
赤壁の戦いについて否定的な説の多くは、『三国志』の記述をあやしんで、という理由に由っています。
あやしく思えば幾らでも「本当はこうだったんじゃないの?」と言える訳ですが、「本当はこうだったんじゃないの?」と言われた内容があやしく思えたりするので、赤壁の戦いについては言及を避ける人も多いです。
そして、私からひとつ。
将が戦死した記録は無かったとしても、あまり不自然ではないと思います。
『三国志』の記述方式は、触れないことには触れない、ですから。
そして赤壁の戦いは知名度が高いものですから、てっきり三国志版の関が原の戦いみたいに思われているかもしれません。
さて、ここで考えてください。関が原の戦いで死んだ人の数は戦国時代のすべての戦いの中で死んだ人の何%くらいになると思いますか?
ここで5%か10%くらいはいるんじゃない?と思った人は通俗小説的な歴史観に捕らわれているんじゃないでしょうか。
天下分け目の戦い史観、そうしたものが赤壁の戦いを評価しようとすれば、史料も少ないので拍子抜けしてしまうことは当然です。
赤壁の戦いがどんな戦いであったか見てはいないので知りません。
しかし、魏呉の戦いは赤壁の戦いだけではなく、主要な戦いだけでも何十回とあります。
何万という兵士が動員されることは珍しいことではなく、また大敗を喫するということも稀ではありません。
魏呉の戦いの犠牲者の大半は赤壁の戦い以外で戦没しただろうことも想像ができます。
そうした戦いのひとつである赤壁の戦いは価値が無いのか?
私は価値のおき方に問題があると思っています。
赤壁の戦いに戦術的な詳細は記録されていません。
すべては読者が想像しているだけです。
とすれば、どうして読者は記録されてもいない戦いにあれこれと関心を寄せるのか?
答えは明瞭です。
『三国志』を通読して、赤壁の戦いの結果あたりの期間に、三国鼎立のきっかけになる戦略的動向があったからです。
戦いがどうあれ、曹操の勢力が長江より南から退けられたことで、三国鼎立が成立する地歩が得られたのです。
これが赤壁の戦いの戦略的な評価です。何万人死のうが、あるいは大規模な交戦は回避されたと解釈しても、曹操が撤退したことの価値は動きません。
「赤壁の戦い」はあったのです。
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