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【2880】関所の役割 馬秉 2007/8/11(土) 15:08

【2886】Re:関所の役割 馬秉 2007/8/14(火) 2:08
┗ 【2887】Re:関所の役割 如墨委面 2007/8/14(火) 10:05

【2886】Re:関所の役割
 馬秉  - 2007/8/14(火) 2:08 -

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   ▼清岡美津夫さん:
>魏書に載る庚戌(延康元年、西暦220年2月4日)の令にいう「関と津(渡し場)は商旅を通す所以があり、池と苑(庭園)は災荒を防ぐ所以があり、禁を設け税を重くするのは民に便する所以ではない。そのため、池[竹/禦](養魚場?)の禁を除き関津の税を軽くし皆、十に一へ戻せ」
>
> つまり関税10%かかるようですね。庚戌令が出るまではそれ以上とっていたことになりますね(汗)
> 個人的に関や津には役人や民衆の移動を統制する目的があるのかな、と思ってます。

なるほど。やはり当時から関税はとっていたのですね。津でもとられる事には盲点を突かれた感じです。勉強になりました。
それにしても、曹操の生前には10%以上も関税がとられるとは驚きです。
文帝紀ということは曹丕の政策になりますね。やはり曹丕は優秀な政治家だったのかな〜と思わせてくれます。


▼黒耀竜さん:
> 関所の役割については、清岡美津夫さんが書いておられること以外に思い当たりません。軍事的なものを除けば、人・物資・通信(情報)の管理と統制が役目だったのでしょう。
> 税の徴収のほか、禁制品などの密輸を取り締まる・他の地域に犯罪者が逃れるのを阻止する、といった業務をこなしていたのではないかと考えます。

密輸や民の統制ですか。戦乱の多い時代なら納得がいきます。
やはり関所や津は大きな役割を担っているのですね。今まではこのようなことは考えずにただを防ぐ要塞だとしか思っていなかった自分が恥ずかしいです。^^;


> あまり専門的な資料は持っておりませんが、調べた限りでは大きさ・形はまちまちのようです。
> webサイト『古代世界の午後』さんで漢代の遺跡一覧から引用させていただきますと、
>  函谷関  漢代関所址 高さ9m幅25mが残存
>  玉門関 東西24m、南北26m 高さ9.7m
>  嘉谷関 要塞の高さはおよそ20m。付属の砦は、ほぼ正方形で各編300m程
>
> となっているようです。
> また、学研の『三国志 上巻』P.6に虎牢関のイラストが載っており、幅200mの隘路を城壁(一重)で完全に仕切っています。後方(関内)はガラ空きです。
> 付属の設備は、吏員の宿舎・武器庫・厩舎・客舎などが描かれ、戦争の際に派遣された軍隊は、テントを張って生活したようです。ゲームと違い、普段から大軍が常駐するわけではないので、あまり多くの人間(軍・民問わず)が生活できるようにはなっていないようです。
> もちろん、大きさは周囲の地形や街道の規模によりますので、大きいもの・小さいものがあります。蜀の剣閣などは、写真を見ると「どこに人がいるの? 」と思うくらい小さい施設です。
>
> あまり大したことは書けませんでしたが、ご参考になりましたら幸いです。

ほとんど城のような関所と、よくゲームなどで見かける一辺のみの関所、共にあるのですか。でも、民があまり住めなく、戦闘のための施設が充実し、さらに要害の地にあるというまさに戦争に特化した城ということですね。
しかも東西南北数十キロメートルだなんて、半端ではない規模なんですね。さすが中国。と感嘆してしまいそうです。

でもあの剣閣がそんなに小さいとは思いませんでした。本当に意外な事実がざっくざっく出てきて楽しいです。


▼如墨委面さん:
>建物は、大きく分けて、関城(全体をとり囲む城壁、長城)、塢(居住区)、烽火台の三つの部分から成っている。
>
>北側が関城で、関門が開いている。
> 門の両側には楼櫓が向かい合って建っている。
>  楼櫓の基底部は左右とも、六・五メートル×五メートル、
>  間を通る道の幅は五メートル、
> 楼櫓上には門楼があったものと推定されている。
>
>関門を入った西南に塢がある。
>塢内の西南の一角に烽火台がそびえている。
>
>塢壁の規模は
> 北側で三十六・五メートル
> 東側は残長二十五メートル
>東南のかどに入口があり、壁の内外に小部屋が並ぶ。その一部は厩だった。
>
>烽火台は、全体の大きさ十三メートル×十二・五メートル。
>望楼と塢からなる。
>出土遺物から推定すると、内部は倉庫や執務室だったようである。
>
>P76 に「符」(通行証)の写真があります。
>
>あと、同書 P171 に玉門関の「致」(短距離旅行者用のパスポート)の記事があります。

辺境では城門の周りにさらに長城があるのですね。2重の守りということですか。さらに烽火台。2重3重の守りから、国を守る必死さが見受けられます。
居住地もあるということで前述とは異なっていて驚きましたが、辺境ともなると土地の関係により居住地域が限られ、結果立地の良い関所に住む事になったのでしょうか?
パスポートの存在に非常に驚いたのですが、これは通行証とほぼ同じ意味をなすという見かたでとってもいいのでしょうか?亡命者のチェックのためにこういった類の物を作ったのでしょうかね?


今回もとても楽しめて、勉強になり、もっと深く「三国志」を見ていこうという気持ちになりました。
清岡さま、黒耀竜さま、如墨委面さま。とても貴重なご意見、本当に有り難うございました。

【2887】Re:関所の役割
 如墨委面  - 2007/8/14(火) 10:05 -

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   ▼馬秉さん:
>辺境では城門の周りにさらに長城があるのですね。2重の守りということですか。さらに烽火台。2重3重の守りから、国を守る必死さが見受けられます。
>居住地もあるということで前述とは異なっていて驚きましたが、辺境ともなると土地の関係により居住地域が限られ、結果立地の良い関所に住む事になったのでしょうか?
>パスポートの存在に非常に驚いたのですが、これは通行証とほぼ同じ意味をなすという見かたでとってもいいのでしょうか?亡命者のチェックのためにこういった類の物を作ったのでしょうかね?

ちょっと私の説明が悪かったですね。

エチナ河流域というのは、ゴビ砂漠の中のオアシス地帯で、農耕が可能ですが、この地域は、匈奴が中国へ侵入する通路に使われました。そこで、匈奴の侵入を防ぐために、漢は、ここを長城で囲い、居延県という県を置きました。
居延懸索関と肩水金関は、その居延県へ入るための関所です。砂漠地帯ですから平地にあり、長城(関城)を通り抜ける門になっています。これは、疏勒河流域の玉門関や陽関も同じです。

その城門を入ると、右側に塢があります。塢とは土壁で囲まれた区域で、役人や守備兵の居住区になっています。実際の居延県の住民が住んでいる地域は、このずっと奥にあります。
塢の一隅に烽火台があります。烽火台は望楼と小さな塢で構成されています。この中に執務室や倉庫があったのではないかと推定されているのは前述の通りです。

長城は、日干し煉瓦を土台にして、その上に砂礫とそだを積み重ねて作られた壁ですが、現在は風化して残存常態は良好とはいえません。甘粛省の考古学者の調査によると、幅が2メートルの壁と1.7メートルの壁が6メートルくらい離れて二重に設置されていたようです。高さはわかりません。ここに1〜3キロメートルごとに望楼が設けられ、匈奴の侵入を監視していました。肩水金関の望楼も、その一部をなしていたことになります。

居延県は漢代には張掖郡に属していましたが、献帝の興平二年に一郡一県の西海郡居延県になりました。
そのあと、居延県や肩水金関がどの位存続したかはわかりませんが、『晋書』地理志上に西海郡は戸二千五百として載っていますから『三国志』の時代に存続していたことは確かでしょう。

「符」(通行証)は無記名の割符になっています。「致」(短距離旅行者用のパスポート)は出関しようとする人の申請書に許可が与えられる形式になっています。形式の違いだけだろうと思います。どちらも出土した木簡です。
この目的ですが、これは亡命者のチェック用ではないでしょう。それより、漢や魏の国内では、住民が勝手に移動することを禁止していたのではないかと思います。そのために、関所を通るには、このようなものが必要だったのではないでしょうか。もちろん、結果として亡命者のチェックにもなるわけですが・・・

                   委面如墨

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