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『明帝紀』には、龍の出現は、青龍元年の記事しかないようです。そこで、これより後の龍の出現を『三少帝紀』で追ってみました。
司馬懿の後を継いだ司馬師(司馬景王)は、正元元年(254)九月に魏帝の斉王(曹芳)を廃しています。そして高貴郷公(曹髦)が魏帝になりました。この後、龍の出現報告が頻出します。
正元元年(254)十月戊戌、黄龍見于[業β]井中。
甘露元年(256)正月辛丑、青龍見[車只]縣井中。
甘露元年(256)六月乙丑,青龍見元城縣界井中。
甘露二年(257)二月、青龍見温縣井中。
甘露三年(258)是歳、青龍・黄龍仍見頓丘・冠軍・陽夏縣界井中。
甘露四年(259)正月、黄龍二見寧陵縣界井中。※
景元元年(260)十二月甲申、黄龍見華陰縣井中。
景元三年(262)二月、青龍見于[車只]縣井中。
甘露四年正月の記事(※)の後には、斐松之の次の注があります。
漢晉春秋曰、是時龍仍見、咸以為吉祥。帝曰、龍者、君徳也。上不在天、下不在田、而數屈於井、非嘉兆也。仍作潛龍之詩以自諷、司馬文王見而惡之。
漢晉春秋はいう。このとき、しきりに龍が現れるのを、みな吉祥となしたが、帝(高貴郷公)は「龍は君主の徳をあらわすものである。それが上は天にいず、下は田にいないで、しばしば井戸の中に屈しているのは、めでたいきざしではない」と言って、潜龍之詩を作って自分の皇帝としての徳を風刺した。司馬文王(司馬昭)は見てこれを憎んだ。
この後、甘露五年(260=景元元年)五月に高貴郷公は司馬昭に対してクーデターを起こして殺されました。年二十でした。次の皇帝は陳留王(常道郷公曹奐)がなりました。
司馬昭は景元五年(264=咸熙元年)に晋王になりましたが、翌咸熙二年(265)八月に逝去しました。そして、その跡を継いで晋王になった息子の司馬炎は、その年の十二月に皇帝の陳留王曹奐から禅譲を受けて皇帝(晋の武帝)になりました。
こうしてみると、『三少帝紀』の時期の龍の出現は、司馬氏の帝位簒奪の雰囲気作りのために仕組まれたもののように見えます。こんな報告は司馬氏の息がかかった官吏にさせれば、いくらでもできます。
高貴郷公が潜龍之詩を作り、司馬昭がこれを憎んだというのも、龍の出現の報告が司馬昭によって仕組まれたものだとすれば、納得がいきます。
ですから『明帝紀』の、明帝がわざわざ行幸して龍を見た上で改元したという記事が、非常に気になるわけです。それとも、これは明帝が一枚かんでいた芝居だったのでしょうかね。
つまり、潜龍之詩は、皇帝とは名ばかりで何の権限もなかった高貴郷公の鬱屈した気持の現れだったのでしょうが、明帝の場合は立場が違いまから、龍の出現が皇帝の徳をあらわすと考えて、一芝居打ったと考えられなくもないという気がします。
委面如墨
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