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三国志学会の会報『三国志研究』第二号が届いたので、ちょっとだけ読んでみました。
この中の、前川貫治氏の雑纂『三国志迷いの旅』の「梅先生との会話」の章に、武侯祠博物館の研究者梅錚錚氏と前川氏の懇談の内容が記載されています。
ここで前川氏は次のような質問をしています。(P126)
――劉備の東征についてですが、章武元年(西暦二二一年)、彼が孫権を討ったときに従えた部下は、呉班・馬良・黄権を除き『三国志』に伝記がなく、この東征以外で活躍した記載がありません。この陣容はあまりにも貧弱だと思うのですが……。
この文章からは『三国志』に呉班の伝があるように見えます。しかし、ここに名前が挙がっている三人のうち、馬良と黄権は伝がありますが、呉班は名前が『三国志』の数ヶ所に出てくるだけで、伝はありません。これはおそらく前川氏の勘違いと思われます。
前川氏の『三国志迷いの旅』はなかなか面白いのですが、呉班についての記載はこれだけなので、内容については省略します。
ところで、呉班についての補足です。
>>まず一つ目は呉班が諸葛亮の何回目の北伐で死亡したか、
>
>呉班の名は、『蜀志』に4ヶ所、『呉志』に1ヶ所見えますが、死亡記事はありません。従って、いつ死んだか、何で死んだか等、一切不明です。北伐で死んだのかどうかもわかりません。
『蜀志』に四ヶ所と書きましたが、実際は五ヶ所でした。
ここで『三国志』にある呉班の記事の内容を簡単に書いておきます。
『蜀志』先主伝:
章武元年(221)七月、將軍の呉班、馮習は、巫に駐屯していた呉将の李異らを攻めて破りました。
『蜀志』先主伝:
章武二年(222)正月、将軍呉班、陳式の水軍は、夷陵で長江を挟んで東西の岸に駐屯しました。
『呉志』陸遜伝:
黄武元年(222)、劉備が大軍を率いて西の境まで攻めてきたので、孫権は陸遜を大都督、仮節として五万人で防がせました。劉備は最初に、呉班の数千人をもって平地に陣を敷かせました。呉の諸将はこれを攻撃したがりましたが、陸遜は、これは必ず何か企みがあるから、様子を見ようといって、攻撃させませんでした。劉備は、計略がうまくいかないことを知って、伏兵八千人を引き上げました。
『蜀志』諸葛亮伝:
章武九年(229)、亮はまた祁山に出ました。
斐松之注に『漢晉春秋』曰くとして、五月、司馬宣王(司馬懿)は中道を諸葛亮の陣に向かったが、諸葛亮は、魏延、高翔、呉班を派遣して防がせ、大いにこれを破った、とあります。
『蜀志』李厳伝:
章武九年(229)、諸葛亮の軍は兵糧が続かず引き揚げました。そのあと、兵糧輸送の責任者の李平(李厳が改名)を解任して梓潼郡へ流しました。
斐松之注に、このとき諸葛亮が尚書に提出した李平を弾劾する文書があり、李平の処分について協議した人の名が列挙されています。この中に「督後部、後将軍、安楽亭侯の臣呉班」の名があります。
『蜀志』楊戲伝:
末尾に楊戲の著した「季漢輔臣賛」が収録されており、車騎将軍呉壱が取り上げられていますが、その後に、呉班についての陳寿の説明があります。
そこには、呉班は呉壱の族弟で字を元雄という。後漢の大將軍何進の属官呉匡の子で、豪侠をもって知られた。官位は常に呉壱に次ぎ、先主の時は領軍となり、後主のときは次第に昇進して驃騎將軍、仮節にまでなり、緜竹侯に封じられた、とあります。
李厳伝の記事から、呉班は章武九年の北征の後も健在だったことは明らかです。次の諸葛亮の北征は章武十二年(232)ですが、諸葛亮はこの陣中で没し、最後の北征になりました。しかし、このときは、魏の司馬懿は守りに徹したため、大きな戦闘はありませんでしたから、呉班が死ぬことも、ちょっと考えられません。
従って、私は前のレスで「北伐で死んだのかどうかもわかりません」と書きましたが、状況から見て、北伐で死んだのではないことは、ほとんど確実だと思います。
委面如墨
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