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【2344】張魯についてですが 2006/6/1(木) 7:33 教えて

【2357】Re:張魯についてですが むじん 2006/6/20(火) 17:17
┗ 【2358】Re:張魯についてですが 2006/6/20(火) 20:31
┣ 【2360】Re:張魯についてですが 巫俊(ふしゅん) 2006/6/20(火) 21:32 お答え
┃┗ 【2372】Re:張魯についてですが 2006/7/6(木) 18:17
┗ 【2361】Re:張魯についてですが むじん 2006/6/21(水) 0:10
┗ 【2373】Re:張魯についてですが 2006/7/6(木) 18:30

【2357】Re:張魯についてですが
 むじん E-MAILWEB  - 2006/6/20(火) 17:17 -

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   こんにちは。

> 「張魯の勢力に楊姓の人(楊任や楊昴)が多いのには理由がある」とのことを以前知ったのですが、恥ずかしながら情報源がどこだったか覚えておらず、疑問となっています。

楊氏については分かりませんが、張角や張魯が張氏だったことから、黄老道を奉ずる者が彼らにならって張氏を称したというのは聞いたことがあります。張魯配下には楊氏が多いようですが、私は楊白・楊昂を楊帛と同一人物だと思っています。字形や音が似ているからです。どう思われますか?

【2358】Re:張魯についてですが
   - 2006/6/20(火) 20:31 -

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   ▼むじんさん:
 
 わざわざご返事ありがとうございます。

>楊氏については分かりませんが、張角や張魯が張氏だったことから、黄老道を奉ずる者が彼らにならって張氏を称したというのは聞いたことがあります。

それは初耳です。確か張燕伝に「張雷公」「張飛燕」「張白騎」といった人物の記述がありましたが、彼らが張姓を名乗ったのはそのことからなのでしょうか。

>張魯配下には楊氏が多いようですが、私は楊白・楊昂を楊帛と同一人物だと思っています。字形や音が似ているからです。どう思われますか?

 字形は、「昴」は素直に頷けます。「白」は下の部分を書き忘れたとすれば納得できます。
 音ですが、私が調べたところ
 白…bai
 帛…bo
 昴…ang
 のようです。「昴」は他とは違う気もします。私の結論ですが、楊白と楊帛は同一と思えますが、楊昴は少し引っかかります。

 蛇足ですが、彼らの事跡を徳間書店の「三国志全人名辞典」で調べたところ、三人違いはしますが、一人にまとめるのも無理ではなさそうです。

【2360】Re:張魯についてですが
お答え  巫俊(ふしゅん) WEB  - 2006/6/20(火) 21:32 -

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   >>楊氏については分かりませんが、張角や張魯が張氏だったことから、黄老道を奉ずる者が彼らにならって張氏を称したというのは聞いたことがあります。
>
> それは初耳です。確か張燕伝に「張雷公」「張飛燕」「張白騎」といった人物の記述がありましたが、彼らが張姓を名乗ったのはそのことからなのでしょうか。

黄巾(賊)でしたっけ?
その人たちって。
黄巾って、キ州の都市部や河南江北地方に多いって印象ありますけど、
太行山以西の山間にも布教の手は及んでいたとも考えられるんでしょうか?
あと彼らって都市部にもなだれこんできたり、群雄と共闘したりもしますしね。
曹操以外の群雄が、黄巾という「宗教性民族集団」にどう対処・支配・共闘したか、、、

黒山、匈奴、太行山沿いの諸郡の太守たちは、隙あれば黄河の向こうまで蚕食しようという旺盛さが、ときにうかがえますしね。
一番簡単に考えられるのが、黄巾の教義の受容に積極的でないばかりか自領の黄巾を弾圧してきた群雄が、他領の黄巾は支援するという構図ですね。

ついでにこのとき河北で戦略的に重要な地位を占めたのが、匈奴ですね。
この匈奴が漢人の宗教を信仰するようになる過程や、後年に匈奴の枝葉のケツ族を率いて太行山沿いの諸郡から山東地方までを自領とした群雄「後趙の石勒」(4世紀の前半の皇帝)も注目しています。

で、張姓の人ってのがこの時代多いので、一元的に黄巾起源というわけではなさそうですし。
あとヘイ州出身の張遼も、最初はジョウという姓だったのが、張に変わった人ですね。

【2361】Re:張魯についてですが
 むじん E-MAILWEB  - 2006/6/21(水) 0:10 -

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   こんにちは。

>>楊氏については分かりませんが、張角や張魯が張氏だったことから、黄老道を奉ずる者が彼らにならって張氏を称したというのは聞いたことがあります。
>
> それは初耳です。確か張燕伝に「張雷公」「張飛燕」「張白騎」といった人物の記述がありましたが、彼らが張姓を名乗ったのはそのことからなのでしょうか。

張雷公は分かりませんが、張飛燕は張牛角からもらった姓なので直接は関係なさそうです。張白騎は本名を張晟といったらしく、これも最初から張姓だったような感じがします。張氏が増えるのはこれより少しあとの時代になるようですね。

さきほど検索した結果です。
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200604/daodu/zhuanwen60.htm
http://lovelovedog.cool.ne.jp/umaatama/947859257bull-kakei.html

> 字形は、「昴」は素直に頷けます。「白」は下の部分を書き忘れたとすれば納得できます。
> 音ですが、私が調べたところ
> 白…bai
> 帛…bo
> 昴…ang
> のようです。「昴」は他とは違う気もします。私の結論ですが、楊白と楊帛は同一と思えますが、楊昴は少し引っかかります。

古代はどうだったか分かりませんが、『康煕字典』によると帛は白と同音であると『集韻』『韻会』に書かれているそうです。彼(ら)の名がどのような史書に記載されているかを調べてみると次の通りでした。

楊昂:魏志武帝紀 同楊阜伝
楊帛:蜀志霍峻伝
楊白:典略(蜀志馬超伝注)

霍峻伝は楊帛が活躍した蜀で書かれた史書なのでまずまず信頼性が高く、『典略』は魏で書かれた史書でやや信頼性が落ちます。それに『典略』の著者(魚豢)はほかでも当事者から聞きだした証言を著作に盛り込んでいることが伺われるので(隗禧・鮑出)、証言者が楊帛と言ったのを耳で聞いて楊白と書いた可能性も考えられます。しかし楊帛表記を是とした場合、武帝紀と楊阜伝がそろって誤写したという少し考えにくいことになってしまいます。やはりそう簡単には解決できないようです。

【2372】Re:張魯についてですが
   - 2006/7/6(木) 18:17 -

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   ▼巫俊(ふしゅん)さん、ありがとうございます。

>黄巾(賊)でしたっけ?
>その人たちって。
>黄巾って、キ州の都市部や河南江北地方に多いって印象ありますけど、
>太行山以西の山間にも布教の手は及んでいたとも考えられるんでしょうか?
>あと彼らって都市部にもなだれこんできたり、群雄と共闘したりもしますしね。
>曹操以外の群雄が、黄巾という「宗教性民族集団」にどう対処・支配・共闘したか、、、
>
>黒山、匈奴、太行山沿いの諸郡の太守たちは、隙あれば黄河の向こうまで蚕食しようという旺盛さが、ときにうかがえますしね。
>一番簡単に考えられるのが、黄巾の教義の受容に積極的でないばかりか自領の黄巾を弾圧してきた群雄が、他領の黄巾は支援するという構図ですね。

 曹操以外の人たちがどう彼らを対処、支配、共闘したのかはちょっと気になりました。早速調べてみます。

>ついでにこのとき河北で戦略的に重要な地位を占めたのが、匈奴ですね。
>この匈奴が漢人の宗教を信仰するようになる過程や、後年に匈奴の枝葉のケツ族を率いて太行山沿いの諸郡から山東地方までを自領とした群雄「後趙の石勒」(4世紀の前半の皇帝)も注目しています。

 後の時代との繋がり、ということでしょうか。様々な民族が漢文化をどう吸収して、そしてどう勢力を拡大していくか…。そのなかに黄巾が入ってくるとは考えも及びませんでした。

>で、張姓の人ってのがこの時代多いので、一元的に黄巾起源というわけではなさそうですし。

 言われてみれば確かに。黄巾だけに結びつけるのはちょっと短慮でした。
<sage>

【2373】Re:張魯についてですが
   - 2006/7/6(木) 18:30 -

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   ▼むじんさん、ありがとうございました。

>張雷公は分かりませんが、張飛燕は張牛角からもらった姓なので直接は関係なさそうです。張白騎は本名を張晟といったらしく、これも最初から張姓だったような感じがします。張氏が増えるのはこれより少しあとの時代になるようですね。

 色々ご指摘ありがとうございます。ちょっと的外れな意見を申し上げてしまいました。黄老への信仰が元で改姓した具体的な人物名を探してみます。

>古代はどうだったか分かりませんが、『康煕字典』によると帛は白と同音であると『集韻』『韻会』に書かれているそうです。彼(ら)の名がどのような史書に記載されているかを調べてみると次の通りでした。
>
>楊昂:魏志武帝紀 同楊阜伝
>楊帛:蜀志霍峻伝
>楊白:典略(蜀志馬超伝注)
>
>霍峻伝は楊帛が活躍した蜀で書かれた史書なのでまずまず信頼性が高く、『典略』は魏で書かれた史書でやや信頼性が落ちます。それに『典略』の著者(魚豢)はほかでも当事者から聞きだした証言を著作に盛り込んでいることが伺われるので(隗禧・鮑出)、証言者が楊帛と言ったのを耳で聞いて楊白と書いた可能性も考えられます。しかし楊帛表記を是とした場合、武帝紀と楊阜伝がそろって誤写したという少し考えにくいことになってしまいます。やはりそう簡単には解決できないようです。

 三人を纏めて一人とするのか、大胆なところでは二人を一人にしてもう一人は別とするのか…。やっぱり難しいです。
<sage>

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