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ペテン師さん
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>ところでスズキさんは筑摩文庫の三国志はお持ちでしょうか?
持ってないです。
一度は目を通してはいますが、うる覚えです。
また、今回、こういったスレッドを立てさせてもらったあとに、
関連箇所については、補足的な意味で少し拝見しました。
当初は買おうかと思っていたのですが、
近所の図書館に常備されているので、買いませんでした。
おっしゃるとおり、于禁伝など他伝で関連箇所を探す時間が省けそうですし、
今更ながら購入を真剣に検討しています(汗)。
>>○武帝紀本文より(本文に載っている順)
>>本初四年
>>「秋、陶謙征討、十余城陥落」
>>
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>多分打ち間違いでしょうけど本初の年号は146年の本初元年しかあらず、約50年も前の暦です
あちゃー、これはまずいですね…。初平ですね。間違え方が最悪ですね、実際ある年号と間違えるなんて…(汗)。
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>>興平二年
>>「春、定陶襲撃」、「夏、李封・薛蘭撃破」、「定陶陥落」、「八月、雍丘包囲」
>>
>><荀イクの諫言>
>>「李封・薛蘭撃破」、「呂布・陳宮がまだ健在」、「陶謙の死」、
>
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>これらの記事は194年の記事です。
>尚『李封・薛蘭撃破』の記事は195年だけではありません。
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>>「陶謙の先の敗北」、「前の討伐で厳格な処罰をした」と諫言に記載がある。
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>これらの記事は193年の記事です。
>荀イクは『陶謙の死』『李封・薛蘭撃破』『呂布の健在』という記事の後に『往年の敗』『前討の徐州』という記事になっており、前の文章からの繋がりからいっても此処だけずれると言うことはないです。
>それと、『李封・薛蘭撃破』も194年の記事です。興平2年の記事とは別物ですので困惑しないでくださいね。(これらの事も史書を読めば書かれています)
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>荀イクの記事にも見落としがなければ行き着いたはずです。
>また、『李封・薛蘭撃破』の記事も195年だけでない事にも行き着いてたはずです。
>
そうですかー。
「陶謙死,太祖欲遂取徐州,還乃定布.斯ゥ:」という並びで、荀イクの諫言が始まるので、荀イクの諫言は194年かもしれませんね…。「前討徐州, 威罰實行」が、1年前をさせば、尚更完璧ですね。
私が、195年と判断してしまったのは、諫言の一つ前の文章である「太祖自徐州還擊布濮陽,布東走.二年夏,太祖軍乘氏,大饑,人相食」、の「二年夏」が目に入ったのと、諫言後の「太祖乃止.大收麥,復與布戰,分兵平諸縣.布敗走,兗州遂平」という、兗州を平定した文章があったためです。
文脈的には、194年の可能性の方が高そうなのは確かですね。何か立証できれば別ですが、現段階で195年と言い張るのは妄信ですね…。
むじんさんのおっしゃっていた、改元や西暦と資料の関係と、
ペテン師さんのご指摘の点、了解いたしました。
もう少し、自分で詰めてみます。
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